第一章第九話
「ただいま〜」十八時の間際になって、進次が帰ってきた。
やっと依頼人が来たのかと思った愛実は、少し拍子抜けする。
「どう?仕事慣れそう?」進次が笑顔で訊ねる。
「むしろ、暇すぎて心配になるよ。」
「本業との両立はできそう?」
「たぶんね。この先依頼人が来て、仕事ができたら、どうなるかわからないけど。」
愛実がそう言うと、進次は励ましの言葉をかけ、所長机に座った。芽亜里はコーフィメイカで新たにもう一杯のコーフィを用意し、進次に渡す。
「あ、昌克から新しい捜査情報が来てるよ。」メイルを確認していた進次が言った。「ああ、ダークウェブで何をしていたのか、多少だけど、判明したんだって。」
愛実は飲み終えたコーフィのカップを受け皿に戻した。「へえ、どうだったの?」
パソコンのディスプレイを見ていた進次は、突然目を見開いた。「な!?」
「どうしたの?」
「……ダークウェブでは、『サタンの母』のかなりの量を購入していたらしい。その購入した時間が、院長が最後に部屋に入ったとされる時間より少しあとだったそうだから、おそらく、購入したのは院長を殺害した犯人だろうということらしい。」
「……その、『サタンの母』ってなに?とても嫌な感じがする名前なんだけど。」
「アセトン・パーオキサイド――過酸化アセトンの通称名。アセトンや過酸化水素といった日常的なものから作成でき、高性能爆薬として殺傷能力の高い物質。」
「爆薬……!」芽亜里が驚く。
「ああ、確か、二〇〇五年のロンドン同時多発テロや二〇一五年のパリ同時多発テロで使われてたはず……。」
「どのくらいの量が買われたの?」愛実は訊ねた。
「多分、結構大きな建物をいくつか破壊できるほどみたいだ。」
「え、それ、やばくない!?」
「ああ。爆薬以外の用途がほとんどないから、この量での使用目的は爆破しか考えられない。」
「それが、大量ってことは、なにか大きなもの、それこそ、国会議事堂とか都庁とかを爆破するつもりか、はたまた、鉄道を大量に攻撃するつもりなのか……、ってところか。」
愛実は自分の言葉に戦慄を覚えた。
「……いづれにしても、大被害が出る……。」
「それと、もう一つ気になる情報がある。その購入者のハンドル・ネイムなんだが、『真実か理想の復讐者』ってなっている。」
「それってどこかで……?」芽亜里が呟く。
愛実もそのHNにデジャヴュを覚えた。記憶を辿り、その要因を探った。
辿り着いたのは、ある新聞の一面、その日の前後のニュース、後にそのことに関して書かれた専門家の書籍、SNSに飛び交った人々の考察と憶測。
「『真実か理想の覇者』……。」
「そう。九年前、二〇一〇年に起きたあの誤認逮捕の事件。あの首謀者が名乗っていたのが『真実か理想の覇者』。それと酷似したハンドル・ネイムが使われていた。果たしてこれは無関係なのか?」
「そういや、あの犯人って、当時未成年だったよね?」愛実は言った。
「ああ、十三歳……かな?」
「だから、あのとき、――」
そのとき、愛実の発言を妨げるように、携帯電話の着信音が鳴り響いた。Jabber loopの『シロクマ』だった。
「あ、僕のだ。メイル?」
コンコン。軽快なノック音が聞こえた。進次は芽亜里に目で合図した。
「はーい。」
芽亜里がドアを開くと、二人の男性がずかずかと入ってきた。
二人の男は、どちらも鋭い目つきをしていて、しっかりとした体格であり、そこにいるだけで威圧感を与えるような感じだった。
「ここの責任者はいるか?」より険しい目つきをした男の方が、高圧的に訊ねた。
「僕ですけど。」スマフォに届いたメイルを読み終えた進次はそれに物怖じせずに対応に出た。
「あなたが、和田探偵事務所の所長の和田進次ですか?」
「ええ。去年結婚して、漏田姓に変わってますが。あなた方は?」
「失礼しました、漏田進次さん。私は警視庁公安部の明智といいます。」
そう言って、チョコレイト色の警察手帳を提示した。明智莉麒というらしい。もう一方の方も倣って提示した。こちらは灰山哲夫だそうだ。
「実は逮捕状が出ているので同行願いたい。」
「た、逮捕状!?」愛実と芽亜里は同時に声を上げた。
「なんの容疑ですか?」進次はあくまでも冷静に訊ねる。
「警視庁に対する爆破予告だ。強要罪及び威力業務妨害罪の容疑がかかっている。」
「爆破予告?どんな内容だったんですか?」
「その辺りの話は署にてゆっくりと伺おう。令状が出ている以上、あなたにこれを拒否する権限はないはずだ。」
「拒否はしていない。ただ、事情がうまく飲み込めていないから、ある程度の説明を求めているだけだよ。事情さえ分かっていれば、僕は取り調べ室で要点に絞って応答できる。無駄に論点がズレた話をしたくないだろう?」
「ふん。時間稼ぎか?」
「時間を稼いだって何になるんだ?」
「まあ、いいだろう。」
芽亜里が不安な顔を浮かべながら、テーブルに促したが、公安の刑事たちは「立ったままで結構」と言って辞退した。
「二日前に警視庁に爆破予告が届いた。内容は三日後――つまり明日だな――のパレイドを中止しろ。さもないと仕掛けた爆弾を爆発させるというものだった。」
二日前、それは愛実が退院した日だった。
「パレイドなんてあった?」芽亜里が訊ねた。
「確か、ラグビィ・ワールドカップの開催パレイドがあったよ。」
莉麒の目が鋭くなった。「よくご存知で。」
「患者さんがよく話してくれるんですよ。」進次はその目に気付かない様子だ。
「患者?」
「ああ、知らないんでしたね。僕、本業は医師なんですよ。こちらの探偵事務所はヴォランティアとして開いているので。」
「あ、そうなんですね。」
「それで、どうして僕が逮捕されるんでしょう?その脅迫状の出されたのがここだったとか?」
「いえ、届いたのはメイル。スマフォからではなく、パソコンからの送信だった。」
「パソコン……、ああ、なるほど。ということは、IPアドレスっていうんですか?それが、ここのものだったと。」
「ええ、まあ。」
「だとすれば、九年前の事件の二の舞ですね。」
進次は莉麒たちに対抗するかのように睨みを利かせて言った。
「九年前と言うと……?」
「忘れたなんてことはないはずです。九年前の猪尾真理央誤認逮捕事件だけはね。」
進次の豪語の最中、莉麒は不敵な微笑を浮かべた。まるで勝利を確信したかのような、そんな笑みを。
「あなたの方からその事件が出されるとは思いませんでしたよ。」莉麒は嬉しそうに言った。哲夫の方も笑みを浮かべている。「我々が切り札として使おうと思っていた情報を、あなたの方から出してきてくれるんですから。」
「それは、どういう……?」進次たちは雲行きが怪しくなってきたことを悟った。
「犯行予告の宛名ですよ。実はですね、その猪尾真理央誤認逮捕事件の真犯人が使っていた団体名、覚えてますか?」
「……『真実か理想の覇者』?」
「ええ。今回、使われていた氏名は、『真実か理想の復讐者』百千万億真理。明らかに、その九年前の事件を意識している。」
「『真実か理想の復讐者』!?」
「その様子だと、何かご存知のようですね。反応を見る限り、首犯とは思えないが、共犯である可能性は高そうだ。」
「九年前みたいに、コンピュータ・ヴァイラスによるものの可能性もあるんでしょ!?ワトスンが犯人とは限らないじゃない!」愛実はたまらず言った。
「我々もその可能性を考えました。だから、ここを突き止めるまでに二日掛かったんです。」
「え?」
「ここのコンピュータから直接本庁に予告が届いたのではなく、ここのコンピュータから発信されたコンピュータ・ヴァイラスによって遠隔操作されたパソコンから予告が発信されたんです。そう、まるで九年前と同じように。」
「そんなの、進次のパソコンだって感染しているかも知れないじゃない。」芽亜里も反論する。
「それはこれから調べます。それにどうやら、彼はあのときの被害者と知り合いだったようですからね。最大の容疑者ですよ。」
「上司の息子だから仕方ないでしょ?それに、そこまで調べてるなら、初めに苗字を間違えないで欲しいな。」
「そこから先の話は後にしてもらおうか。」
莉麒は進次の手を掴もうとした。すると、進次はそれをスルリとかわした。
「ちょっと、すみません。あとの話は警視庁捜査一課の五十嵐昌克によろしく。」




