プロローグ
最も重要なことは、個人の特質によって事件の正しい判断を誤らないことだ。依頼者もまた、問題に対する材料の一つだと思っている。感情の上の好悪というものは、明快なる推理とは相容れないのだよ。(『四つの署名』1890年)
この物語はフィクションです。実際の人物・地名・団体とは一切関わりがないので、ご了承ください。また、この物語のジャンルがサスペンス・ミステリィである特性上、犯罪描写・暴力描写・残酷描写があります。犯罪を助長するものではございませんので、決して真似のすることのないようにしてください。
まとめるべき書類をまとめ終え、漏田芽亜里は一息をついた。彼女は安楽椅子から立ち上がり、コーフィメイカに向かった。ほんのり香るコーフィのほろ苦さが心地よい。ずっと肩がこるような事務作業をこなしてきたので、目もだいぶ疲れていた。
こんなときこそ、音楽を聴きたい。
芽亜里は、机の引き出しからヘッドフォンを取り出し、耳に当てる。スマートフォンに接続し、音楽を流した。芽亜里がよく聴くのは、自然の音楽だった。小鳥の鳴き声や流れる水の音、木の葉の風に揺られる音や、寄せては引く波の音など。それを聴いているだけで、心がとてもリラックスできる。
本棚にあった榊原真実の小説を取り出し、栞を挟んでいたペイジを開く。
彼女の小説の特徴は、大体の小説に叙述トリックが使われていることだ。それでも、叙述トリックが使われていると分かっていても、新作が出るたび、ファンを飽きさせないヴァリエイションがある。
彼女の小説は、ペンネイムからも窺える通り、全てが推理小説だ。そして、その探偵役は全員、異様に真実を得ることに固執しているきらいがある。真実を知るためならば違法捜査を行うという警察官や、真実を追い求めるあまり命を落とす探偵まで、登場する。これは、彼女の作品中では、「真実主義」と呼ばんでいた。
芽亜里もまた、彼女のデヴュ当初からのファンの一人だった。いや、デヴュ以前から彼女を知っていた人物の一人であった。
突然、事務所のドアが叩かれた。今日は来客が来る予定はないが、予定外の客が来ることはこの事務所では毎度のことだ。正直、もう少し人手が欲しい。
芽亜里は慌てて小説を閉じ、本棚に素早く戻す。それから、「どうぞ。」と、声をかけた。
開かれた扉から顔を出したのは、芽亜里の知らない男性だった。おそらく、この町の人ではないなと、芽亜里は推測した。
「どうぞ、そちらのソファへお掛けになってください。」芽亜里はいつもの営業スマイルで男性を招き入れた。
ようこそ、和田探偵事務所へ。
いつもの決まり文句を、芽亜里は口にした。そう、彼女はこの探偵事務所の事務・接客係なのだ。
所長は和田進次。本業は医師で、大体この時間帯は留守にしている。この事務所の創設者であり、芽亜里からすれば、「理想主義」の思想の持ち主だ。
男性は、その名を樫谷拓海と名乗った。
「妻を探してください。」
その一言から全てが始まった。真実主義者と理想主義者が共闘した、あの事件が、ここから始まったのだ。