第5話 抗議 堕した黄を前に青は
喝采は津波のごとく押しよせた。
誰も彼もが手をたたき、誰も彼もが足を踏みならす。
人々は手を伸ばし、首を伸ばし、時を延ばした。
称賛が霰のごとくふり落ちた。
誰も彼もが目をしばたき、誰も彼もが舌をならす。
人々は頭をたれ、涙をたれ、彼を誑した。
――《贄とされたもの》一章47Pより――
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教会の前に止まった一台の馬車から降りてきたのは、ふわふわとした白髭をたくわえたた恰幅のいい老爺だった。
エトウォール広場の鐘が鳴り、馬車は走り去る。
「ん? 今日の鐘はやけに短いな――っと、さぶいさぶい」
歓迎する冬風がそより。ネズミ色のコートの下で大きな身体がいやいやとゆすられた。
突如とだえた鐘の音に不審をおぼえつつも足早に進む。教会の重い鉄扉を押しひらき中へすべりこむと、寒風を外へ閉じこめてほっと一息。
頭頂部がヘルメットのようにふくらみ、六つにわかれた帽子キャスケット。その前びさしをつかみ豊かな白髪をさらしたところで、奥から人が出てきた。
「まあ、神父様。いつお戻りに?」
「たった今だよ。思ったより早く終わってね、会議が」
六人がけの木の椅子と長机。縦に20組並べられたそれが、中央の身廊をはさんで両脇に二列ずつびっしりそろった見事な教会内は、祭壇の両脇と前後にともされた六本のろうそくの明かりとステンドグラスから差し込む天上の標があるばかりで、信者の気配はなく閑散としている。
薄墨色の地に藍墨茶の小さな丸をまぶした帽子を手近な机におく。
脱いだコートは歩み寄ってきた若い女性が受けとった。
教会で且つ透きとおるような白のローブを身につけていることからシスターであろう。
炭をこすりつけたような色のミディアムソバージュ。
胸元と腹回り、袖や裾を薄青で縁どられたローブは着用者のサイズに合わせられていて、ぴったりとはりつき、身体のラインを浮き立たせている。
そのせいで、彼女が少し病的なほどスリムであることが強調されているようにも見えた。
「留守のあいだはどうだったかな? なにか変わったことはあったかね? ネルヴァくん」
「いえ、とくに変わりはございません。ああそうそう、院長がお待ちでしたよ、お話があるとかで」
「そうか。いまは部屋に?」
「たぶん。もうすぐお昼ですからね。お腹をすかせて待っているんじゃないかしら」
「ハハ、おおいに目に浮かぶよ。あれで結構な食いしん坊なんだからなぁ」
コートを受けとり、机の上の帽子もひろい上げたネルヴァは、子供たちに絵具でいたずらされたような立派な隈の目元をゆるめて道をあけた。
隈さえなければ子供たちにも人気が出るのに、と残念に思われていることも知らずに陰のある笑みを浮かべる彼女の脇を通る。
「食事の前に用件を片してしまうか」司祭はふところからいく枚かの紙を取り出しながら身廊を奥へと向かう。「――ああ、ちなみに今日のお昼はなにかな?」
「レンズマメのスープですよ」ぶかぶかな司祭の帽子をかぶったネルヴァはともに歩きながら答えた。「今日はマッシュルームとヤギのチーズをわけていただいたので、いつもよりちょっぴり豪勢に」
「おお、あれか! すばらしい。ちょうどなつかしんでいたところだったんだ。思い出すだけでよだれが出てくるね。
とろとろになったタマネギとニンジンの甘みも捨てがたいが、トマトのさわやかさがいいんだ、あれは。
もちろん、パンもついているんだろう? ――うんうん。さすがだねぇ、よくわかってる。かために焼いたガーリックトーストにつけたら、ああ、たまらん! すきっ腹になんてやつだ。腹も身の内とは言えども、仕方あるまい。マッシュルームもあれば最高なんだがな。
しかし、運よく帰ってこられたからいいものの、あんまりじゃないか。私がいないときに作るだなんて」
「私に言われても。苦情はシーラへどうぞ。今日の当番は彼女なんですから」
「シーラ君か……彼女にはあんまり言いにくいんだよなぁ。あの体格に、あの腕の太さだろ? 下手な文句は言えやしない。ノックアウトされそうだ」
「ふふふ。それはいけませんね。ええ、いけません。神父様に逆らうシスターなんてもってのほか。わかりました。お任せください。シーラには、神父様が憂慮されていたと伝えておきましょう」
「おいおい、ネルヴァくん」
「それでは、私も繕いものが途中ですので」
「あ、ネルヴァくん! 冗談だよ、冗談! ……大丈夫かなぁ、もう」
孤児院へとつづく通路に消えた彼女の背に半ば真剣な声を投げた司祭は、内心ハラハラとしながらも、しかたなく自室へと足を進めた。
聖堂の左手奥の扉口の先にある折り返し階段を上がり、小塔の区画を過ぎて角を曲がった先にあるのが司祭室。
こぢんまりとした長方形の室内。
机一式と鏡と本棚とベッド。あとは祈りをささげるための神棚と端に寄せられた客人用の椅子が一つさびしくぽつんと。
質素な装いの部屋に足を踏みいれて呼吸を一服。
埃っぽさやかび臭さはない。どうやら留守のあいだもちゃんと掃除をしていてくれたようだ。慣れ親しんだ木の香りに心が安らぎを覚える。
とくに感じてはいなかったが、それなりに疲れがたまっていたのかもしれない。どちらかといえば、それは精神的な疲弊によるものだろうが、司祭という立場柄、気楽に愚痴を言える相手は多くないのだから、なるべく自己消化するべきだろう。
王都でしみついた穢れを落とそうとするかのように一二度服をはらうと、神棚に向かって手を合わせて目をつむる。
しじまに眠る時間。顔をあげるとぐっと穏やかな顔つきになっていた。
「本日もありがとうございます」
鍵のついた一番下の引き出しに書類をしまうと、旅の疲れをいやす間もなくそのまま外へ出る。
先ほど来た通路をもどり、今度は聖堂の右奥の扉口の向こうへ。
折り返し階段は使わずに孤児院につながる小扉をくぐり、渡り廊下を過ぎて裏口から孤児院内部に移る。院長室はその裏口から一番近いところにあった。
ノックもなくいきなりひらかれる扉。
部屋の大きさも内装も司祭室とあまり差異はない。ただ一つ、机の脇に立てかけられた杖を除いては。
「残念。シスターの誰かだったら説教をしようと思ったのに」
なにか書きものをしていたらしい院長は筆を止め、入口をふりかえって肩をすくめた。
「作業中かな? だったら待っているから先にすませるといい」
ずかずかと入りこんだ司祭は隅っこから椅子を引っぱりだして断りもなく座ってしまう。
院長は苦笑していたが、とがめる気配はなかった。
「いいえ、お気遣いなく。今戻られたので?」
「ああ。外はえらく寒いね。どこもかしこも風が吹く。
隙間風というのは、なんとも、品が悪いというか憎らしいというか。襟をたぐり寄せていてもどこからか入りこんでくる。油断がならない。そういうときにこそ、良くないものというのはすべり込んでくるのだからね」
「あまり表情が優れませんね」
「うん。やはり、どこも厳しいようだよ。
道中立ち寄ったウヤソロ村じゃあ、柄を切りつめた鍬が使われていた。――そう、鍬が短いんだ。持ち手が壊れても新しいものを買うお金がないらしい。あれじゃあ、腰を痛めてしまうよ。刃も錆びて使いづらそうでね、見ていて気の毒だった。野菜クズすら惜しいというのだから、どれほどかわかるだろう? 堆肥用すらままならん。まだまだ立ち直るには時間がかかりそうだ。
……苦しいなぁ、シスターマターナ。苦しみも所与の条件ではあるが、前時代の豊かさへのうねりが失われたぶん、民には酷だろう。例外は王都くらいさ。
ただまあ、ここは活気があるだけ救いと言えようか。
それで、私に用があると聞いたが?」
「ええ、用はあるのですが」と院長のマターナはちらりと扉に目をやる。「それでノックもなしにですか……。はぁ、それはいかがなものかと。私がお昼寝中だったらどうしていたんですか?」
「そのときは私も隣に寝かせてもらおうかな――おっと、待った。落ち着いてくれ。
せっかくお呼びの声にこたえて参上したんだ。空谷に司祭の跫音が快く迎えられないなんて理不尽きわまりない。それくらいのつつましさは許容してくれないと。そうだろ? マターナ。
それに、添い寝があるほうが睡眠の質も良くなるだろうさ、ハッハッハ」
「まったく……調子がいいんですから。そういうところだけ変わりませんね、昔から。どうしようもありませんよ。古なじみとはいえね、最低限のマナーは守ってくださらないと」
「わかったわかった。悪かったよ。以後気をつけよう」
両手をあげて降参の意をしめす司祭。
その頬は熱にとけたように穏やかで、他愛もないこうしたやりとりも、身体の毒気をぬくには適したやり方なのかもしれない。付き合わされる者の身は忖度していないようであったが。
「まあいいでしょう。
先日、トラナヴィ様がいらしてね。――そう、今年の孤児院への援助の件で――はい、つつがなく。その際に、今年のマウント神父の巡察に関する予定をまだうかがっていないということで……。
はぁ、年末にあれほど確認しましたのに。もうすっかりお年なんですかね、うちの神父様は。ボケるには少しばかり早い気がしますが。月日には関守なんていないんですから、しっかりしてください」
「そういうことなら」と司祭は両膝に手をおいて、立ち上がろうとぐっと力をこめる。「早めに顔を見せに行ったほうがよさそうだな。お腹の虫もそわそわしだしたようだし――ふぅ、休まる暇もない」
おどけたような口調だったが表情にはどこか陰があったのを、長年の付き合いがある院長だからこそ読みとることができた。
両手に力をこめていたのも、そうしなければすんなり立ち上がるのも億劫だったからなのではないか。
「そのご様子にさきほどのお話しぶりでは……王都は――」
立ち上がりかけた司祭はなんとも言えぬ顔をした。
奇妙なものを口にして味の批評に困ったときのような、突かれたくない部分に踏みこまれてどう返したものかとうろたえたときのような、言葉では言いあらわしがたいものを含んだ顔だ。
若干ためらった後、あきらめたように腰をおろした。
彼女相手に隠し事がうまくいったためしがないことを思い出したのかもしれない。
つづく声は低く、ややしかめられた顔から察するに、今回の旅路はこころよいものではなかったことは明らかだろう。
「かんばしくないな。ああ、よろしくない。虚しいものさ」
つづきをうながす院長の視線に、司祭はうなだれるように一つ首肯した。
「信者の数は日に日に増えているようだ。コオガコート大聖堂の盛況っぷりったらない。あふれていたよ、参拝者で。それも連日ね。君も目にしたらきっと驚く。こことは大違いさ。毎日が日曜日のようだった。
布教にも熱心で、町のいたるところに読師が立ち、講釈をたれていた。人だかりがすごくてね。何度馬車の中で待たされたか。往来は麻痺しかけていたよ。
司教様はたいそうお喜びになられていたようだが……」
「そうですか……」
「理解はできる。できるんだ。
司教様ほどの立場になれば、国の政にも深く関わってくることになる。
政だよ、マターナ。人擦れした連中だ。枕を並べて何にいそしんでいるのかと思えば蝸牛の角争いさ!
たやすく牛馬の売り買いをするような輩が面をつきあわせているのだから、司教様のご苦労は察してあまりある。人民をお救いになるためには、時として我を通す必要に迫られることもあるだろう。
そのためには数としての力が政治の場では不可欠。
信者の声は民の声。信者の祈りは民の願い。街頭の集団は潜在的な脅威であり、集う祈願は敵対者への圧となり、高まる信仰はそのまま司教様への声援となろう。
けれども……違うのだ」
「違う?」
「信心だよ」
司祭は立ち上がって、握った拳を左胸にあてた。
「信仰とはなんだ、マターナ。
他者から与えられるものか? 誰かから引きつぐものか? 周りをマネたものか?
違う。そうじゃないはずだ。
我々が信ずるこの心はどこからやってきた? 我々が選んだ道は誰かから与えられたものなのか?
おろかな!
信仰とは、信心とは――この胸! この胸の内から! 自然に芽生えるものではないか。けっして外から与えられるものではない!
布教とはあくまでも内からの芽生えを手助けしてやるだけのことであって、我々の手で植えつけるものではないはずだ。
人間誰しもが抱えている心の種、それに光を投げかける。穏やかな輝きで照らし、凍えないように温める。それが我々の役目であって、成長させるために無理やり水と肥料を与えてなんとする。祈りを培養するとはなんと浅はかか。
即席栽培の信心ほど滑稽なものはない。根張りを怠った信仰に未来などない!
そう教えてくださったのは他ならぬ司教様であったはずなのに……今は狭き門より入ることを忘れてしまわれたようだ」
がっくりと膝をおり、椅子に尻をつける司祭。
毎年この季節が来るたびに腰が重くなったのはいつからだったろうか。
王都での教区会議に出席するたびに、うつつを抜かす司教を見かけるのが苦痛になったのは。
元来のんびりとしていて穏やかな気性は誰からも好まれる反面、他者の意見を無視できるような冷徹さには欠けるところがあった。あたたかな人ではあったが、善意悪意を問わず耳を傾けすぎるきらいがあるのを不安視されていたのは事実である。
それでもこの苦難の時代に人心に安らぎをもたらせるのはこの人しかいないと、この国の司教に押しいただいた十年前の判断に誤りがあったとは思えない。……思いたくない。
近年はどこか浮かれたようで、視線を下へは向けなくなったように感じるのは悲観しすぎなのだろうか。
年々存在を遠く感じるようになっていくのは思い過ごしなのだろうか。
そのうちフッと「なんとバカなことを。そんなふうに思っていたのか、おまえは」と笑いとばしてくれるのではないかと願う浅ましき心が憎い。
意気消沈した司祭の背は丸く、放物線を描くようにあとは落ちるのみだった。
痛ましそうに見ていた院長は、六芒星がきざまれた愛用の黒檀の杖をひき寄せ、重い腰をあげた。
「……司教様には司教様のお考えがあるのでしょう。あまり思いつめてはいけませんよ。お身体にさわります。もう少しいたわってやらないと。すべてが司教様お一人の肩にかかっているわけではないのですから。
布教の結果とはいえ、信者の増減は時代の趨勢と深く関わりがあるというのは歴史的事実。
世の乱れは気の乱れ。動乱や貧困が人心に惑いを呼びこむのです。先行きへの不安がなければ、いくら布教をしたところでついてくるいわれがない。
大事なのはそこに目を向けることでは?」
「……これも世に不幸が満ちているゆえと?」
「すべてとは申しませんが。
『あるがままに。自然であれ』。教義にもそうあるように、この時代、この状態の中で生きていくということは困惑を糧とせざるをえないという一面があります。
人民が背負う困苦は神の与えし試練。神の御心によりそい、道標となるが私たちの使命。
それに基づいて考えれば、司教様の導きは流れに沿った真っ当なことであると言えるのではありませんか?」
「そうなの、だろうか……」
混迷から立ち直れていない世の中にあって、惑う民が救いをもとめて集っているのであれば、非難の矛先は苦難を生んだ社会、もしくは時代へと向けられるのが妥当である。司教ただ一人に向けられるべきではない。
それはたしかに一理あるように思われた。
実際、世は混然としているし、王都では貧富の差が著しくなっているのは知られたこと。
民の支えとして手を貸す、それが布教という手段であったということなら、むしろ司教の行いこそ正道であると言えよう。
若いころは精悍だったと思われる眼差しを受けて、院長は頬の皺を深めた。
「そうですよ。まったく、いつまでそんな顔をしているんですか、情けない。シスターに見られたら一週間は笑いの種にされますよ。
きっとお腹がすいているんでしょう。水のない水車は動かない。胃がからっぽだから体も動かないし、気も滅入っちゃっているんだわ」
「はは……かもしれないな――っと昼食ができたようだな。タイミングのいいことだ」
ちょうどそのときノックがあって、ひらかれた扉からシスターネルヴァが陰気な顔を見せた。
昼食の準備ができたと告げる彼女は室内をぐるりと見回して首をかしげる。
「どうしたのかしら? きょろきょろとまあ、みっともない。人の部屋で。あまりよろしくないですよ」
「あ、いえ」とネルヴァは少し無礼であったかもと背筋をただした。「失礼しました。ちょっとナディネスの姿が見えなくて。こちらで、もしかしたら、お説教でもされているのかしらと思っていたんですけど……来てない、ですよね?」
司祭は院長を見て、ベッドの下をのぞきこんだ。
院長は呆れたように首をふる。
「ええ、来ていませんよ。裏のマロニエにでも登っているのではなくて?」
「それがいなくて……。井戸にも落ちていませんでしたし、聖壇の中にも屋根裏にも」
「外にでも出かけたのかしら」
「院内には姿がありませんでしたので、かもしれません。でも、ナディネスがお昼の時間にいないなんて、なにかあったんでしょうか」
「それもそうね……」
誰よりもまっさきに食卓についているような少年だ。
呼ばれなくてもいるくらいなのだから、これはただごとではない。しかも今日の昼食はレンズマメのスープ。ごちそうである。院内でも人気は高く、おかわりはかたいと少し多めに用意しておいたほど。それに目もくれないとはどんな大事が起こったのか。
考えこむように口元に拳をあてる女二人。
司祭はのっそりと立ち上がった。
「では領主様のところへ行ってくるついでに探してこよう。そう心配することもあるまいが」
「あ、マウント様。お昼は?」
「結構だよ。せっかくのごちそうだ。みんなで仲良くわけるといい」
そう言って颯爽と部屋から出て行った司祭を見送る二人。
さっきはあんなに楽しみにしていたのに、とぼやくネルヴァに院長が一言添えた。
「レンズマメのスープよりももっと豪華なごちそうにありつくつもりなのでしょうよ」
「あっ」
コートと帽子をとった司祭は聖堂の表扉を押しあけながらぐふふとにやつき、領主館でふるまわれるであろう昼食によだれを飲みこむのであった。
◇◆◇
正午を告げるエトウォール広場の鐘が鳴っている。
「あーつまらん」
男のぼやきに合わせ、白い息がこぼれた。
襟をたてたコート、やや土濡れた白ヤクの毛でできたフードは下ろされ、前面のローウサギをあしらった黒のボタンは五つ全部とめられている。裾の広がった黒ずんだベルボトムは膝のところがすれて穴があいていて、のぞいた膝頭だけが冷たくなっていた。
鐘塔のまさに鐘のある空間にて、北側の縁の上に寝そべり、軽く横向きになって片肘をつき、手で頭を支え、大きくあくびをしたその男は見事なほどにやる気がなかった。
「退屈でしょうがないぞ、おい」
寝そべりながらフードを払いのけ、左手でぼりぼりと頭をかく。
一度坊主にしてから数ヶ月ほうっておいたような頭は酸化した血液のように赤黒い。
ぽつぽつと顎鬚がうかがえるが、肌の張りや皺の有無からかんがみるにまだそれほど歳はいっていない。十分若者と言える範疇だろう。
鋭いまなじりからしてキリリと引きしまった男臭そうな顔つきは一見誠実そうだが、どことなく胡散臭い匂いがただよっているのを感じとる者もいそうだ。
男の訴えるような呼びかけに答えているのか、鐘の音は鳴りひびく。
ガラガラちりちりゴンゴンと。
鐘楼にある鐘は全部で六つ。北側の縁の上部、横向きにうたれた鉄杭にぶら下げられたスイカほどの大きさの鐘が三つに、大人の男の上半身くらいの大きさの鐘が東西に一つずつ。そして、鐘塔の中央に置かれているのが人がまるまる入れるほど大きな鐘。
それらの鐘の舌につながっている縄の端を両手と片足で巧みにあやつることで、複雑で味わいのある鐘の音がひびく。
ガラちりゴンガラちりゴン。
ベルリンガと呼ばれるその仕事についている男は、先ほどから自身にかけられる声を気にもとめず仕事に没頭していた。
上記のように、この作業はせわしない。
左右の手の動きも違えば、腕の引きや指へのかかり具合によっても鐘の音はがらりと変わってしまう。そこに片足も加わり、長いときは10分ちかくも一定の動きをつづけなければならないのだから、困難は想像にかたくないだろう。
この奏法に型というものはない。
あえて言うならば、すべての鐘を生かしきるという一事のみか。ほぼすべてが各々の裁量にゆだねられているのが現状だ。
それがためにベルリンガ一人一人で奏でる音は異なる。町の者たちもそれを理解し、差異は個性として受け入れられており、鐘楼はさながら各人の芸術性を披露する舞台でもあった。
躍動的でありながら調和的なひびき。
高い専門性を求められる作業によけいな気をさいている余裕はない。
「おうい! オード! きいてんのか!」
無視されることに苛立ったのか、意地にでもなったように腹から声を出す男に、ようやく鐘を鳴らしている男のほうも気がついたようだった。
「あん!? なんだって!? フィーシャン」
朴訥そうな顔のややぽっちゃりした男が叫びかえす。
「退屈なんだよ。どうにかしてくれよ」
「タイツがはきたいからどうにかしてくれ? なにを言ってるんだ。もっと大きな声でしゃべってくれ! ちっとも聞こえやしない!」
「たーいーくーつーだー! って言ってんの!」
「あーあー! 退屈って言ってたんだな! やっとわかったよ!」
鐘の音に負けぬよう大きな声で会話をする二人。
その間も、オードと呼ばれたベルリンガは手足の動きを一定に保っている。
がらごんがらごんちりちりちり。
これといった特徴がないのが特徴というある意味変わった男だ。
日にやけて赤らんだ頬と素朴な瞳のせいで実年齢よりも幼く見えてしまうのが悩みの種で、しばしば仕事終わりの酒の席にて、「フィーシャン、ぼくを男にしてくれ!」と周囲をざわつかせるようなことを口にしては、友から飛び蹴りなどの熱いツッコミをもらっている。
「酒さえいれなきゃ人畜無害なんだが」という友の評のとおり、いまはとても真剣に集中していた。
少し間があいて、また寝そべった男――フィーシャンが叫ぶ。
「おい! 聞いてたか!? 退屈だって言ってんだろうが!」
「あー!? あー! もちろん聞こえてるっての! 退屈なんだろ!? ばっちりだよ!」
「いや、だから! ばっちりとかじゃなくて! なにかないのか!?」
「なにかって!? なんのことだ!?」
「なにかおもしろいことだよ! わくわくするような、なんかそういうの!
……ってこいつにあるわきゃないか。こんなどこにでもいそうな、平凡を絵に描いたような男にはな。
はぁ。退屈すぎて脳みそが居眠りを始めちまってやがらぁ。最高だな、こりゃ。起きながら眠ることができるなんてなあ。ははっ、一石二鳥とはこのことだぜ。飛ばず鳴かずも三年過ぎればそれが常になっちまう。すっかり頭も回らなくなっちまった。音高い空き樽になるにはまだはえーってのによ。
あーバカバカ、くっだらね。オードみたいな白餅におもしろさを求めるなんてどうにかしてるぜ」
言いたい放題なフィーシャンだったが、幸いなことに途中からはほとんどつぶやきみたいなものだったので、「おもしろいこと……おもしろいこと?」と考えているオードには聞こえていなかった。
「おもしろいこと……あっ! あるぞ!」
「おいおいマジかよ。なんだ、言ってみろ!」
「この仕事だ! ベルリンガは最高だぞ!」
楽しそうに笑う友に、フィーシャンはげんなりして寝返りをうった。
縁の幅は一メートルもない。反対側を向いた身体は少しはみだしていたが、当人に気にするそぶりは見られなかった。高さは60メートルにも及ぶというのにのんきにあくびをしているのは、豪胆と呼ぶべきなのかどうか。
「はぁ。なんか面白いことねぇかなぁ……」
子供のつくった積み木細工のように立ち並ぶ建物群は町の端までつづいている。
遠く森や川、平原まで見通せるこの眺めこそ悪くはないが、それも毎日つづけば居なれた花園同様、景色を眺めているだけでは退屈を紛らわせることはできなくなってくるというもの。
退屈な街並みに、退屈な世界に、退屈な仕事に、退屈な自分。
嫌なことは考えるだけで気がめいる。気がめいって、なにもしたくなくなる。なにも動きたくなくなる。そうして、どこにも行けなくなる。
ふたたびため息がおちた。
一転して視界をふところにうつすと、眼下に広がる広場ではいくつものテントがひしめき、市場として大いににぎわいを見せている。
非常に活気のある豊かな光景であるが、この男にとってはなんら魅力的なものではなかった。
「せこせこと生きてなにが楽しいんだか……」
群がるアリのような群衆を見ていると、さらに嫌気がさしてくる。ともすると、自分もあの一部に過ぎないという現実をつきつけられているようで。
そうしてぼうっとしているフィーシャンに、今度はオードのほうが叫んだ。
「おうい! ちゃんと仕事してくれよ! 真面目に、仕事! キミが音を飛ばしてくれなきゃ、ぼくの意義も薄れるってもんだ!」
「やってるよ。――やってるって! 心配すんな!」
うるさそうに肩越しに手をふる。
オードは鐘をあやつる手を気持ちゆるめた。
「どうだかなあ。さぼっててもわからないからって手を抜いてないだろうなあ。
怪しいものだよ、こういっちゃ悪いけどね! だって、キミも悪いんだぜ。だらしなく寝そべってばかりで、ぐうたら三昧。ちっともやる気を見せないんだから。
満腹の猫でももうすこし周囲に気を配るものだよ。草をはんでる牛だって、キミに比べれば働きものだろうね。
不思議でならないな。せっかく素晴らしいサウンリファーとしての才能を天から授かったのに、もっとこう、喜びをもって事にあたったらどうだい! 何事も楽しんだほうが得さ。嫌々やるよりもね。
ましてや、キミのように音に魔物除けの効果を付与してより遠くに運べる魔法を使える人は希少なんだからさ」
「はいはい、すごいねすごいね。あーうらやましいことで」
「お世辞じゃないぞ、お世辞じゃ。キミの力のおかげで、どれだけの人が平安に暮らせているか。見なよ、下をさ! ほうら、とんでもない数だ。
魔物におびえず暮らせる日々! この町の人みんなをキミは救っているんだよ!」
「あーもう、わーったわーった!」
小言の波を片手で受け流して、フィーシャンは外に目を向ける。こういう熱さが人をうんざりさせるのだ。
すると、下の広場へ北からやってくる一人の女性が目についた。
白と灰桜の二色を基調としたシンプルな装いのメイド服。背筋はしっかりと伸び、歩く姿は凛として異彩をはなっている。
上から見ていると一目瞭然だ。一人だけ身にまとう空気が違う。いくら凡人にまぎれようと、身に備えた輝きを消せるわけではない。
あれほどしっかりしたなり形は、この町の領主、セアリアス家の者か。
顔の子細までは見えないが、きっと容姿も優れているのだろう。
「はぁ……やっぱ貴族のメイドともなると、質が違うんだねぇ。きっと毎日が楽しくてしかたないんだろうな」
もれる感嘆が彼の心情を的確に示していた。
自分とは異なる世界の住人。凡庸とは程遠い人間達の集まり。
それは憧れといえば憧れなのだが、彼の場合、上流階級へのものではない。
彼が純粋にうらやましく感じているのは、その他大多数の人間とは異なる生活を送っているという一事につきる。平凡で退屈であることをなによりも嫌うがゆえに。
「きっと俺とは見えてるもんも違うんだろうねぇ。あーあ、俺も身の回りの世話をしてくれるメイドの一人や二人欲しいもんだっ――おわっ!」
身を乗り出すようにして眺めていたのが災いした。
この縁に落下防止の柵などはないのだから。
視界から消え去ろうとしているオードがこちらに向かってなにかを叫んでいるのが聞こえた気がした。
◇◆◇
セアリアス家の食事をつくるのは住み込みで働く専属の料理人である。
当然トワイルの食事も彼らがつくるのだが、トワイルに限っては食事の献立を考えるのは料理人と専属メイドであるマリッサの共同作業となっている。
身体が弱いゆえ、他の家族の者達とは食事が異なるのが常であり、現在の状態とその日の気分をよくよく考慮した上で組まれる献立には、彼女の鋭い観察眼と仕える主に特化した高い感受性が必要不可欠なのだ。
その時々で変わる献立であるから、時には材料が足りないといったこともでてくる。そういうときは大抵マリッサ自ら町へ買い出しに出かけるようにしていた。
この日もお昼に足りない材料を仕入れに市場へ来たところだった。
すずしい面差しに軽やかな足取り。
雑然とした人だかりの中でも知らず人が道をあけていく。そしてそれを当然とでも思っているかのような彼女の振る舞いだったが、そこには傲慢さよりもむしろどこか侵しがたい気高さが感じられた。歩みを止めることが大変な罪であるかのように錯覚させるのだ。
当の本人はまったく気にした様子もなく、簡易テントを張った店々の前を目当てのものが売っていないか悠然と視線をくれながら歩く。
今日の献立はトマトベースのグヤーシュというスープ。
パスタを入れ香辛料をきかせたものはトマトの酸味も相まって、病み上がりの弱った胃腸にも食べやすく、体もあたたまる。
きっとトワイルもほふほふと頬をほころばせながら食してくれるだろう。それを思うと、フフと口元がゆるむ。
お目当ての一つであるトマトを並べた店が目にはいり、そちらへ足を向けたそのときだった。絶叫とともに上空から落ちてきたなにかによって、その店が散々に破壊されたのは。
「なんだってんだ、いったい!?」
店主の嘆きも当然のことである。
ひどい有り様だった。
鐘塔の下あたりに布陣していたテントの一つに落ちた男によって、あるものはぐちゃぐちゃにつぶれ、あるものは地面に転がった。無事に難を逃れたものは一つとしてない。
周囲の人々はざわざわと騒ぎ、野次馬が集まりはじめ、無残に壊れたテントに人だかりができる。
幸いなことは店主の中年男には怪我一つなかったことだ。
今も胸をおさえたり頭を抱えたりして顔を青くはしているが、命が助かったことへの気の緩みと先行きへの不安を考えるだけの余裕はあった。店が粉々になろうと、人生はこれからもつづくのだから。
落ちてきた男のほうはと言えば、これがあまりよくわからない。
というのも、先ほどからぴくりとも動かないし、安否を問う呼びかけにも返事はないし、なにしろ潰れたトマトのせいで辺り一面が真っ赤になっているので、当人が出血しているのかどうかも不明なのだ。
ただ、大方は上空を見上げ、鐘塔から落ちてきたのだろうことを察して、漠然とあきらめをいだくばかりだった。
そんな有り様だから、小さな影が人ごみをぬって通りすぎ、そのあとには散らばったトマトが一つ二つ無くなっていても、誰も目にはとめていなかった。
「フィーシャン!?」
急いで塔を駆けおりてきたオードは人ごみに割ってはいり、テントの幕の上で仰向けに倒れている友の肩をゆすった。
「おい! しっかりしろ! キミが死んだら、誰が音を遠くに飛ばすんだ!? みんな待っているんだよ、ぼくの音を! おい! おい!」
がくがくと揺さぶられるままだったフィーシャンがカッと目を見開く。
視界に飛び込んできたのは白くかすむ青空と友の顔。
どうやら生きているらしい。身体にはしる震え。ずきりと全身が痛むが、咄嗟の魔力展開にテントの幕、下敷きとなった野菜類の数々が命をすくったようだ。
「フィーシャン!? 無事か、よかった。さあ、はやくもど――」
「くくっ……はっはっは!」
「?」
突然笑い出した友にオードは首をかしげる。
「なあ、キミ。どんな楽しいことがあったのか知らないけど、仕事中には遠慮するべきだよ。笑うのなんていつでもできるんだ。けど、今日という日の正午の鐘は今しか鳴らせないんだよ。だろ? そうときまれば、すぐに――」
と、ひっ立たせようとしたオードの腕をがしっとフィーシャンがつかんだ。
「はっはっは! これだよ、これ! そうだ。これだったんだ!
――っち、いてえ。いてえんだよ、オードのクソッタレが。ほんとなにもかもクソッタレだぜ、まったく。最高だ! 人生最良の日だぜ、おまえよぅ!」
「最高なのはキミの頭の中だけにしておいてくれよ、フィーシャン。鐘の音が止まった日を最高だなんてね。悪い冗談だ」
「鐘の音なんてクソの役にもたたねえもんはほっぽっちまえ。退屈なんてゴミクズだ。んなもんは唾はいて蹴り飛ばすんだよ、オード! 日常なんかとはおさらばさ。新しい世界の幕開けなんだからな!」
「とうとうイカレてしまったようだね。世界なんていつも新しいものさ。夜明けは毎日やってくるんだ、キミが気がついていないだけでね。
キミはもう少しぼくを見習うべきだよ。真面目に働くのだって、案外いいもんなんだぜ」
なおも言い募ろうとした二人の間に、店主の男が割り込む。
「ゴタクはそのへんにしておいてもらおうか。これ、全部、きっかり弁償してもらえるんだろうな? あん?」
三人が話をつけている間に、事態がこれ以上広がらないのを知った野次馬連中はつまらない見世物だったと散り散りになっていく。入れかわりに鐘楼横の行政館から何人か役人が出てきたようだ。
マリッサはそこらへんに転がっていたトマトをいくつか拾い上げると、壊れた店の端っこで立ちつくす。いつになったら買えるようになるだろうかと。
その置物のような肩を、一人の老爺がぽんと叩いた。
※紹介
マウント司祭・・・聖ジョージ教の司祭。口頭では神父。ふとっちょ。意外と純真。ごちそうだごちそうだ!
ネルヴァ・・・ミディアムソバージュのシスター。やせ型で隈がすごい。夜中廊下で出会うとやばい。
院長・・・マウントの古なじみ。バランスを重視するタイプのようだ。手間のかかる子ばかりで困るねぇ。
司教・・・聖ジョージ教の司教の一人。オーガムノ王国教区を管轄。人はいいが、流されやすいそう。
フィーシャン・・・サウンリファーの人。音を操るのに長けている。退屈とスリルが口癖。楽しいことみーっけ!
オード・・・ベルリンガの人。平凡と評される人柄。真面目だが仕事バカ。さあ、みんなで社畜になろう!
マリッサ・・・能面をはりつけたようなメイド。美人だがこわそう。なんでみんなわたしを避けていくのかしら・・・?