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追憶は涙に濡れて  作者: タロ
1章
5/12

第2話 家族のあり方 願うものは遠く

 目の前に突然落とし穴があらわれたら、あなたならどういう反応をするだろうか。

 その穴を避けて先に進む?

 それもいいだろう。避けられる危険なら避けるにこしたことはない。

 危険をかえりみず穴をのぞき込む?

 それもいいだろう。無知が人をおびえさせる。知れば恐怖はやわらぐのだ。

 それとも、穴を無視して来た道を引きかえす?

 それもいいだろう。臆病者とののしられるならその者を落とし穴に突きおとしてやればいい。

 

 では、落とし穴がまさにあなたの真下にあらわれたら?

 


 それは突如として彼をいざなった。見たこともない、おぞましき深淵の底に。

 

                  ――《贄とされたもの》一章三Pより――




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



――王国歴2013年・2月初旬――



 年があけて、はや一ヶ月。

 トワイルは順調にルークスの教えを身につけていた。

 ルークスの授業は魔法のみではない。語学、歴史、地理、算術、帝王学など多岐におよぶ。

 八歳の子供が学ぶ内容ではないものも多く、(さと)いトワイルであっても中々につらい日々であったが、そのつらさは心地よさももたらしてくれていた。


 学ぶということは前に進むということ。

 明日の自分はまちがいなく今日の自分よりも成長している。

 そう思うと沸々(ふつふつ)と力がわいてくるような気がした。


 背を折ろうとするどうしようもない無力感も、前に進めているという実感が遠ざけてくれる。今は力なき幼子にすぎなくとも、継続していけば必ずや血肉となって自分を支えてくれる、そう信じて。


「――というわけで、サウンリファーの誕生によってベルリンガの効果はより高まり、都市部の平穏はぐっと引き寄せられることになりました。

 さて、我が国オーガムノ王国は、ここ、大陸の東部に位置しているわけですが――」


 ルークスが壁にかけた大きな大陸地図を指ししめす。

 トワイルは一言ももらさぬようにと、一挙手一投足に食いいるように地図を見つめている。


「周辺にはどんな国があるのでしたかな?」

「はい、北部にはタシマックイを盟主とする自治都市群、東部にはジーン平原が広がり、そのさきは未開拓になっています。

 西部にはイジマシ、ワークパンダといった小規模な諸国家が密集し、南部は広大な森林に囲まれています。

 あと、南西部にちょっと進むと、亜人国家連合があるのでしたよね?」

「その通り。他にはなにかありますか?」

「我が国は中規模程度の力を有しており、国境が接している国はいずれも小規模なので東部では敵になる国家はないです。

 それと、周辺諸国とも関係は悪くはありませんので紛争の心配はいまのところありません。

 西部諸国の向こうには、ミティシネ公国、エーユ共和国などに加えて、大陸一のジャイン帝国が存在します」


 言いきったのか、したり顔の少年にルークスは苦笑する。

 前回までの授業内容を何度も復習してきたのだろう。単語の選びかたも文章のつくりかたも前に自分が述べたものとそっくりだった。その姿を想像すると、頬が緩むのを抑えられない。


「北部のタシマックイ自治都市群のさらに北はどうなっておりますかな?」

「えーっと、たしか国家のテイを成していない小さな町がいくつかあったと思います。

 それよりさらに北は……廃墟となっているのでしたでしょうか?」


 トワイルは左上の方を見ながら記憶をさぐる。頭の中で大陸地図がぼんやりと水面を漂うようにゆがんでいる。


「うむ。大陸北部はかつてはイニーク王国という巨大な国家があったのですが、約13年前、大賢者によって滅ぼされ、いまは死の国と呼ばれております。

 大賢者が討たれてから九年が経ちますが、現在も人の手は入っていません」

「なぜでしょうか?」

「当時、多くの人間があの地にて亡くなりました。遺体は収拾されず野ざらしのまま捨て置かれています。建物はくずれ落ち、町々は文字通り廃墟と化しました。疫病(えきびょう)の発生もあるやもしれません。

 それになんといっても――、怖いのですよ」

「怖い?」

「ええ、誰もが大賢者の、死神の恐怖を覚えています。

 踏みいればかの怨念(おんねん)におそわれ、廃人と化すという噂すらあります。

 死神の恐ろしさを知る者ほど足がすくむのでしょう。国家としましても、そのような場所を浄化しようなどという余裕はどこにもありませんからな」


 生前の出来事であるためか、そう嘆くルークスの言葉を聞いても、トワイルにはいまいち実感がわきづらかった。

 広場を埋めつくす遺体の山、市道をふさぐ瓦礫の雪崩(なだれ)、鼻をつぶす立ち込める悪臭、北部特有の陰鬱(いんうつ)な空模様。それらは、八歳の想像力の限界をはるかに超えていた。

 

「先生はイニーク王国や大賢者ーー死神のことは、なにか御存じなのですか?」

「無論、人並み程度には知っております」


 ルークスは地図から目を離すと、遠い記憶をたぐり寄せるように虚空(こくう)をながめやった。


「イニーク王国はおよそ2000年以上も前からある、国力も歴史も国土面積も、大陸で随一の化け物国家でした。

 私も何度も訪れたことがありますけれど、あれほど豊かで平和な国は見たことがありませんでした」

「この国やジャイン帝国よりも?」

「比べ物になりませんな。大人と子供ほどの違いです。

 国家というものは栄枯盛衰(えいこせいすい)隆盛(りゅうせい)を極めた国であっても、いずれは必ず滅びるものです。しかし、あの国からは永続性を感じました。

 いつまでもこの大陸に君臨しつづけるような、圧倒的な存在感を」

「そんなに……」

「ええ、本当に見事な国でした。

 千古不易(せんこふえき)にして揺らぎなく、軽裘肥馬(けいきゅうひば)にしてくすみなし。()を彩るは万古の光なり、と評した思想家もおりましたな。

 ……ですが、残念なことに、かの国も例外ではなかったようです。本当に、残念なことです」

 

 ルークスは首を左右に振る。失望がその面を飾っていた。


「なぜイニーク王国は滅びたのですか? 大賢者とはどんな関係が?」

「大賢者……、タロー・ヤマダが歴史に登場したのは、およそ110年ほど前のことです。

 『その日、天より幸い降れり』と時の教皇ディグニート六世が言葉を残したように、彼は王国史に突如としてその名をあらわします。

 その頃、イニーク王国は様々な問題を抱えておりました。

 賢王と評判だったノブル王が壮年の真っ盛りという時期に急逝(きゅうせい)し、ゲネーロ王太子が若くして玉座についたのですが、おり悪く大寒波が王国をおそいました。

 大陸北部に位置するイニーク王国の冬は元々とても厳しいものではありましたが、大寒波の襲来によって王国北部の町村は機能停止状態におちいります。

 ゲネーロ王は国庫をひらき北部の民の救済にいそしみました。が、これまた時悪く、イニーク王国南部、大陸中央を十字につらぬくデスカ=ギーワ=タロ山脈にて魔物の大量発生が確認されます。

 平和を長いあいだ享受(きょうじゅ)していたイニーク王国の兵士は魔物の対応に存外苦しみ、後手後手に回りました。

 そのつたなさを見たジャイン帝国が望外の好機と見て動き出します。『血の日曜日事件』です。――これは後に判明したことですが、帝国の策謀によってそそのかされた一部の勢力がゲネーロ王の末弟を担ぎあげ権力奪取をもくろんでいました。

 この反乱は大事にいたる前に鎮圧されますが、王宮内部は帝国の思惑通りガタガタになりました。

 そして、満を持して、ジャイン帝国は北部侵攻を開始します」


 イニーク王国の西端部へ、ですな、と地図に羽ペンで矢印を書きこむ。


「戦況は明らかにイニーク王国の劣勢でした。

 北部救済には民間からつのった自警団が回されることになりましたが、南部の魔物相手は冒険者達だけでは手にあまりました。

 すべてを任せきれるほどの信用もなかったのでしょう。一部の兵力をさき、魔物の殲滅(せんめつ)はあきらめ、食い止めることを第一に防御線を引きました。

 各地の諸侯も北部と南部の状況を見て自領の保全を優先する家が多数にのぼり、そのぶん手薄になった西部方面はかなり苦しい状況だったようです。

 慢心が招いた王国最大の危機でした。そこに救世主として現れたのが――」

「――大賢者タロー・ヤマダ」


 ルークスは大きく首肯する。


「彼はその巨大な魔力によって帝国兵を大きく後退させることに成功します。『ナダエマッケの奇跡』ですね。

 これにより、事実上、帝国の北部侵攻はとだえることとなります。

 このとき、彼はまだ20歳前後だったと言われております」

「20歳でそんなに……」


 トワイルは身震いする。

 あと十年かそこらで、はたして自分は国の窮地を救えるような人間になれるのか、と自問してみても、答えはただ一つ、いや無理だ、というもの。

 自家の窮地を救う人材になることすら叶うかわからないというのに一国など、と思ってしまうのは当然の反応だった。

 国難を排除するまでの人物、大賢者という人は一体どれほどのものだったのか、想像もつかない。


「彼がいつ、どこから来たのかは定かではありません。イニーク王国は彼の出自に関しては徹底的に隠しましたから。

 ただその容貌(ようぼう)から、イニーク王国出身とは思われませんでした。

 そのため、一部ではなにか後ろぐらいことがあるのではないかと勘ぐる者達もおりましたな。――その後、彼は数え切れぬほどの功績を王国に、世界に残します。

 数多の魔法や魔法具、魔法理論を開発するだけに飽きたらず、馬車の改良、精巧な石畳の開発、魔導列車の製造に獣油を使わぬ安価なランプの発明、ガラス製の鏡や照明器具の大量生産、大規模な耕地開拓に新種の開発、植物の新たな利用方法の発見などなど、彼がのこした功績と逸話は一日で話しきれる量ではありません。

 王国だけでなく世界の食糧事情は大幅に改善され、王国は一気に最盛期を迎えます。

 彼なくして王国の再生はなかったでしょう」

「本当に、すごい人だったんですね……」


 物語られる当時の有様に、トワイルは面食らったように感慨(かんがい)深げに口からこぼした。

 自身が考えられる限度を超えた人物にただただ(ほう)けることしかできない。

 それはまるで物語に登場する英雄のようで。


 トワイルの様子を見て、自分が褒められているわけではないのに、ルークスも光る頭をどこか自慢げに撫でた。


「はい、それほどの事を成しとげていながら、彼は決して自らの功績を誇らない謙虚な方でした」

「? 先生は、大賢者とお会いされたことが?」

「一度だけ。

 30年ほど前でしょうか。私がまだミティシネ公国にいた頃、一度仕事でイニーク王国を訪ねたことがありましてな。そのときにお目にかからせていただきました。

 ――当時、タロー・ヤマダ殿は伝説的な人物でしたから、なんとも緊張した覚えがあります。若輩(じゃくはい)者の私にも丁寧に接してくださる、物腰の柔らかい、とてもお優しいお方でした。

 王家や家臣団からの信望はあつく、民からもずいぶん慕われており人気のようでしたよ。文句なく素晴らしい御仁(ごじん)でした」


 ルークスは郷愁(きょうしゅう)の念に駆られたように、うれしくも寂しそうな笑みを浮かべる。

 彼をはじめすべての魔法士にとって、大賢者タロー・ヤマダはあこがれの人物だった。

 今もなお、その結末には後悔を筆頭としたじくじたる思いが付きまとってしまうほどに。

 なればこそ、トワイルは大賢者に対して興味がわくのを抑えることができない。


「そのような人が、なぜあんな酷いことを? 彼になにがあったのですか?」

「それは私にはわかりません。おそらく、誰にもわからないでしょう。

 わかっていることは……彼が突如豹変(ひょうへん)し、大量虐殺を始めたという事実だけです」


 ルークスは頭痛でもするかのように額を抑えた。

 幼き頃より憧憬をいだいていた人物が歴史に残るほどの大災厄となりはててしまったのだ。その心中はいかばかりか。


「ある日突然、大賢者は一変しました。

 まず標的となったのは王族であったと言われています。

 彼は自身を長日月(ちょうじつげつ)重用してきたはずの王家一族を皆殺しにします。

 つづけて、王宮内部に死の嵐が吹き荒れることになりました。このとき、逃げのびた少数の者が城下町の人々に事態を告げ、大至急避難するように促しましたが、その声を聞き入れた人は少なかったそうです。

 王国民のほとんどは信じませんでした、大賢者の豹変を。

 その情報を人伝に聞いても、『まさか』と、『性質(たち)の悪い冗談だ』と一笑にふして終わり。皮肉にも、大賢者の名声が惨状(さんじょう)をより増大させました。

 大賢者の弟子たちも半数以上が彼にしたがい、したがわなかった者は容赦(ようしゃ)なく殺されたそうです。――結局、王国民の約半数が死に、残りも難民となって大陸中に散らばらざるを得なくなりました。

 ここに、2000年つづいたイニーク王国はついえます。

 そののちは周辺諸国家に侵略の手を伸ばし死神と呼称されるようになり、英雄によって討伐されるまでの実に三年ものあいだ、世界は心の底から震えあがりました。

 彼の目的も豹変の理由もわからぬままに事態は収束をむかえ、王国はいまもって廃墟のままです」




◇◆◇




「大賢者の最期についてお知りになりたいのであれば、アンドリア様に聞いてみると良いでしょう。偶然その場にいあわせたそうですから」という言葉にしたがい、やってきた母親の部屋の前。


 こんこん。

 

「はい」


 返ってきたのはかわいらしい若い娘の声。人によっては甘ったるいと敬遠しそうな声でもある。

 母の声になぜか身がひきしまった。


「トワイルです」

「どうぞ!」


 ひらかれる扉。脇に控えるは亜麻色の長い髪を()い上げた背の低いメイド。

 室内に目を向けるとテーブルを囲む椅子にその人はいた。

 彼女は編み物の手を止め、優しく目を細める。


「トワぁ、よく来たわ! さあ、早くこっちに来て座りなさい」


 隣の椅子をバシバシと叩き手招きする彼女に、トワイルは唯一自分の顔の中で男らしさを誇示する目をパチクリさせた。


「母様……、今日もお元気ですね」


 トワイルが隣に腰かけるやいなや、母のアンドリアはむんずと我が子を抱き寄せた。

 20代前半の若い娘らしく、もちもちと瑞々(みずみず)しさをたもっている頬が彼の心をざくざくと削りとる。


「そうよ。母さんは今日もお元気よ! 元気じゃない母さんなんて母さんじゃないわ! 

 それより、トワは大丈夫なの? 熱はない? 顔が赤いわよ。具合でも悪いんじゃ――ああ、ごめんなさい、苦しかったのね。

 はぁ、母さんが代わってあげられたら良いのだけれど。ごめんね、トワ。母さんには魔法なんて使えないのよ。

 あぁ、なんて私は無力なの。いたらない母で申しわけないわ」


 目頭(めがしら)を押さえるトワイルに、アンドリアは体調でも崩してしまったのかとあたふたする。


「いえ、母様。母様はぼくにとって良いお母さんですよ」

「トワぁ……」


 たれ目の瞳をうるませる母に熱が出そうだった。


「奥方様」

「ありがとう、フェデルタ」


 扉の脇に立っていたメイドーーフェデルタがすかさずアンドリアのそばに歩みより、ハンカチを手渡す。

 目端をぬぐうと、そそがれた紅茶を一服。名高いジョヒン産の茶葉の香りと味わいに、にへらと口元をゆるませる。そうしてやっと、少し落ち着きを取り戻せたようだった。


 一房(ひとふさ)にまとめて垂らした茶褐色の髪を指でいじりながら、視線はテーブルの上をさまよう。弱弱しい空気をかもし出す彼女の仕草はどことなく子犬を思わせた。


「はぁ……ごめんなさいね、こんな母さんで。いつも空回りして一人であたふたして、みっともないわ。

 人に自慢できるような特技の一つもないというのに、これじゃあトワの母失格ね。

 あなたのことももっと丈夫に産んであげられたら良かったのに……」

「いえ、そんなことはありませんよ。ぼくは母様の子供に生まれてきて良かったと思っていますから」

 

 諦観(ていかん)の境地に達しているトワイルは上滑りする言葉を吐きだすと、フェデルタに会釈して紅茶に手をつけた。

 アンドリアはそんな我が子の心中も知らず、また湧き出てきそうになった水溜りをぬぐう。


「それで、今日はどうしたのかしら? トワ。母さんに何か用でも? 

 ――あ、違うのよ! 用がなきゃ来ちゃいけないっていうわけじゃないんだからね! 誤解してはダメよ」

「ああはいだいじょうぶです誤解していません。――今日は母様にお聞きしたいことがあって参りました」

「聞きたいこと? なんでもいいわよ! 

 母さんの好きな食べ物は餡子(あんこ)と黒蜜をたっぷりかけたあんみつよ。とくに白玉が大好きなの。あのもちもちとした触感と舌をなでるなめらかさが最高なの! 

 この世にあんなおいしい食べ物があるなんて、ここに来るまで母さん知らなかったわ!」

「あ、あの、いえ、好きな食べ物ではなくてですね――」

「あぁ、趣味の方だったかしら。趣味は編み物とお花いじりね。

 ほら、これを見て。トワのためにマフラーを編んでいるところなの! 

 このまえあげたお人形と膝かけ! あれ、とても喜んでくれたでしょう? 母さんまた頑張っちゃうわ!」

「……いえ、趣味でもありません。ちょっと落ち着いてください」

「そうね、落ち着くわ。……趣味でもないといったら、なにかしら? 

 あとはスリーサイズくらいしか――」

「いえ! 聞きたいことというのはですね、先ほどルナエール先生の授業があったのですが、そのさいに大賢者の話がでまして――ええ、そうです、その大賢者であってます。それで、大賢者が倒れたときに母さんがその場所にちょうど居合わせたということをお聞きしたのです」


 脱力しかける身体をふるいたたせ用件を切りだす。

 父ゆずりの精悍(せいかん)なまなじりは疲労にほそめられ、母ゆずりのほそい鼻梁(びりょう)と薄い唇は力なく弛緩(しかん)している。

 大賢者のことをもっとよく知りたいとやって来たが、失敗だったのかもしれない。

 話がすんだら速やかに部屋に戻ろうとトワイルは胸に決めた。


「あーうーん、そうだったかしらね……うーん、そう。そうね! たしかに私はそのときカマルにいたわ」

「カマル?」

「ええ、それがあの都市の名前よ。ここボースに向かっている途中に立ち寄ったんだったわ。

 そのときにはもうお腹の中にトワがいてね、あの人の子供を身籠っている事がわかって、呼ばれてきたの」

「そうだったのですか」


 トワイルの意識が母のお腹にうつる。

 アンドリアはすぐにお腹に手をやって視線をさえぎった。


「だめよ。最近お肉がついてきちゃったんだから。あんまり見てはいけないの!」

「あ、すみません」

「もう。いいわ。それで、そのときのことだけれど……、実はなんにも知らないのよね」

「え? どういうことですか?」

「母さんが起きたら、もうすべて終わっていたんですもの」

「終わっていた?」


 そう、とアンドリアは頬に手を当てて首を横にふった。


「母さん、長旅で疲れていてね。悪阻(おそ)のせいで体調も悪かったから、宿でぐっすり眠っていたの。

 それで起きてみたらもう日は落ちていて、町は瓦礫の山。人々は嘆き悲しんだり、歓声を上げて喜んだりしていて……びっくりしたのをおぼえているわ」

「な、なるほど……」


 当時の英雄と大賢者という心おどる英雄(たん)の一幕をかいま見ることができるかもといった期待は虚しくかすんでいく。

 見るからに落胆した我が子を、アンドリアは申し訳なさそうに上目づかいで見た。


「ごめんなさいね、トワ。どうか役立たずな母さんのことを嫌いにならないでちょうだい。トワに嫌われたら私、わたし――」

「……いえ、話を聞けなかったのは残念ですが、そんなことで母様のことを嫌いになったりなどするわけないでしょう?」

「あぁ、愛しのトワ……なんて立派なの。

 さあ、今日は夜がふけるまで語り合いましょう!」

「奥方様、その辺にいたした方が良いのではないかと。あまりお引き止めいたしますと、トワイル様のお身体にもさわります。……私の心身にも」


 フェデルタがぼそっとなにかを付けくわえるがアンドリアの耳には届かない。


「ああ、そうね。そうだったわ。また私はあなたにつらい思いをさせてしまうところでした。もう、なんて馬鹿な母親なのかしら、私は……」


 トワイルがどうしたものかと悩んでいると、フェデルタが今のうちに退室するよう目配せしてきた。これ幸いと席を立つ。

 そこへ扉を叩く音が鳴った。


「アンドリア様。失礼ですが、こちらにトワイル様はおられますか?」


 重厚な低音が廊下より聞こえてくる。セアリアス家に長年仕える執事のアンヌの声だ。


「はい、ここに」


 トワイルは足早に近づき、扉をひらく。

 壮年の真っ黒な頭頂部が背の小さな少年の目に入った。


「旦那様がお呼びでございます」

「父様が?」

「はい」


 トワイルはおおいに驚いた。いまだかつて父の部屋に呼ばれたことはなかった。

 そもそも父と会話した事すら数えるほどしかない上に、それも廊下ですれ違うときなどに一言二言あるだけ。

 部屋に呼ばれるなど――。よほどの重大事でも起きたのか。


 一瞬あらわれかけた喜色はかき消え、知らず背筋がぴんと伸びた。


「なんの御用でしょう?」

「仰せつかっておりません。旦那様から直接お話しがあるかと」

「……わかりました。すぐに向かうと伝えてください」

「かしこまりました」


 アンヌは頭を上げ、再度一礼してから(きびす)をかえす。


「母様。そういうことですので、ぼくはここで失礼させていただきます」

「ええ、仕方ないわね。またいつでもおいでなさい」

「はい、また」

「必ずよ! 明日でもいいんだからね! 母さんは寂しくて――」

「奥方様、編み物が崩れてしまっていますよ。――トワイル様、さっ、お早く」

「は、はい」


 扉が閉まる。

 寄りかかった扉のごつごつとした重厚さが、小さな背中を通じてやけに安堵感を与えてくれた。

 部屋の中から届くは自分を責めたてるような母の嘆き声。

 まとわりついてくるような声は母に抱きつかれているような気分で、すこし身体がだるくなった。

 トワイルはなるべく考えないようにして、父親であるトラナヴィの部屋へと急いだ。


 トラナヴィの部屋は本館にあり、トワイルやアンドリアの部屋は別館にある。

 そのため、子供の足には少々時間がかかる。


 廊下をわたり、階段を降りて、いったん屋敷を出てから庭を横断、本館の表玄関から入りなおす。

 裏口を使えばだいぶ距離が短縮できるのだが、正室のティミーダに見つかったらまた小言を言われてしまう。無駄な遠回りと知りつつも正面まで回らざるをえない。

 それは彼女がトワイルにとって複雑な感情の入り混じる相手だからというだけでなく、半分は自身の内的な反応によるもののせいだった。


 彼は波風をたてることを極端に嫌う。

 人が怒るのを見るのを嫌い、自分が怒られるのも、誰かが怒られるのを見るのも嫌った。


 二年ほど前、母がティミーダに小言を言われている現場に遭遇(そうぐう)してしまったことがある。

 好きにしていいと言われている父の書斎、そこで見つけた母の好きそうな花の図鑑をプレゼントしにいったところ、別館の玄関ホールからその声は届いた。


 子供に対する(しつけ)が甘いと、本館をうろちょろさせるなと叱る声に、涙目でうつむく母。

 その光景を見てしまった彼は大きな後悔を抱いた。

 扉の後ろに隠れて嵐が過ぎ去るのを待っている間にどれほどの想いが渦巻いていたことか。それを知るのは胸に抱えられ締めつけられていた書物だけだろう。


 ティミーダが去り、自室に戻った母のあとをこっそりとつけて、暗い気分で扉を叩いた彼を迎えたのは、満面の笑みの母だった。

 うつむく彼を促し、席に座らせ、押しつけるように渡された書物を頭上に掲げた母は、神への感謝をささげるように言った。「トワぁ! ありがとう! 今日はなんていい日なのかしら!」


 またあるときは、廊下に飾られていた壺を落として割ってしまい、それが運悪くティミーダの耳に入ってしまったことがあった。

 トラナヴィは子供のしたこととことさら問題視しなかったが、翌日からそのときトワイルの側にいたメイドが屋敷から姿を消した。


 実際のところはわからない。

 なにかがあってメイドのほうから(いとま)をこうたのかもしれないし、別件で問題を起こして処罰されたのかもしれない。

 けれど、彼は自身のせいだと感じた。


 そうして、自分のミスのツケが自分へ返ってくるとは限らないということを知った少年は、以来、本館に来る際は一層の気遣いを見せるようになった。


 怒りは人を怯えさせる。あるいは、怒りは怒りを呼びこむ。

 負なる呼び水にさそわれるのは同じく負に連なるもの。歓迎するものなどいないのが普通だ。


 だからトワイルが人を怒らせないよう、不興を買わないよう動こうとするのはおかしくはない。


 ただ、彼の場合は怒りだけでなく喜びまでも遠ざけようとするところがあった。

 母からの熱烈な愛情は他者から向けられる強い悪意と同様に彼を困惑させる。いや、はっきりと苦手だった。実の母からであっても、である。


 正負(せいふ)をとわずふりきれた感情に触れるのを恐れたのは、ひとえに自己への過剰なさげすみによるもの。

 病弱で人の役にたてず迷惑をかけてばかり。生きている価値などないのではないか。

 そういった考えが彼の根底に根づいているのだろう。


 悪意にたいしては自己の不明によるものなのだから自省(じせい)するべきであり、極力他者を不快にさせないよう働きかけ、好意にたいしては貧しい自分にそのようなものは過分(かぶん)であり、つつしむべきであると自虐させた。


 それでいて愛情を求める心、親しき人から、両親から褒められたいという淡い想いも心の片隅で飼いつづけているのだからややこしい。

 父に呼ばれてかすかな喜びを覚えたのはこのせいである。

 

 幅の広い豪奢な階段を上がった三階の一番奥、そこがこの屋敷の主の居城。

 トワイルは扉の前で身だしなみを直し、深呼吸をしてからノックをした。


「入りなさい」


 久しぶりに聞く父の声に心臓をわし(づか)みにされたように鼓動が止まる。


「失礼します」


 緊張が声をせめる。すくむ足を叱咤して中に踏みいった。

 トラナヴィは鏡の前で身支度を整えていた。

 

「体調はどうだ?」

「はい、問題ありません」

「ルークスの授業はどんな調子だ? 数が増えて大変ではないか?」

「いえ、ぼくが希望したことでもありますし、とても楽しいです」

「そうか」


 当たりさわりのない問答がいくつかつづく。その間、トワイルは手持無沙汰(てもちぶさた)に扉のそばに立っていた。

 居心地はあまり良くない。張りつめた息が苦しい。

 それは嫌な気分というわけではなくて、不安と緊張と少しばかりの興奮が平静であることを許してはくれないというだけのこと。


 接点の少ない父は家族というよりも300年つづくセアリアス家の当主としての意識の方が強い。

 トワイル自身もとうぜん貴族なのだが、そこはまだ八歳。

 面前に立つ男こそただしく貴族たる風格をそなえている、彼の内の貴族像そのものであった。

 自分の父が誇らしく、また憧憬の対象となるのは自然な成りゆきであって、単純に言って格好が良かった。


「――トワイル?」


 ふわふわとしてきた息子に違和感を覚えたトラナヴィの言葉、それにとがめるような色がまじって聞こえたのは子供の誤解だろうか。

 

「……は、はい!?」


 若干の陶酔(とうすい)から目を覚ました息子を一瞥(いちべつ)しつつも、それ以上の追及はしなかった。


「これから町に出るところだ。行かねばならぬところがあってな」

「はい」

「ルークスが体調は良さそうだったと言っていたが。大丈夫そうなら、お前もついてきなさい」

「はい……。え!? ぼくもですか?」

「そうだ」


 トラナヴィの髭が固まる。鏡に映る自分を何度も確認し、ぺろりと舌を滑らせた。

 隅に控えていたメイドがそっと歩み出てハンカチを手渡す。

 時間の止まった部屋に影だけが遅滞(ちたい)なく蠕動(ぜんどう)していた。


「なにをぼさっとしている。ついてくるのなら支度をすませなさい。もう行くぞ」

「は、はい!」


 トワイルは部屋を()すと、急いで自室に戻った。

 もつれそうになる足がうとましい。驚きと焦りと喜びをない交ぜにした感情が貧弱な身体を内側から打ちひびく。

 父の話はいろいろな面で想像の範疇(はんちゅう)をこえていた。


 父とともに外出する――そのようなことは当然のことながら一度たりともなかった。なにせトワイルが外出することじたい初めてなのだから。

 初めての街への行脚(あんぎゃ)、それが父と一緒だなんて。妄想することすらおこがましいこと。

 けれども、現実は妄想をこえる。それがうれしくて、せつない。


 講義と自習と睡眠と。繰り返される変化のない日常。

 退屈に感じることはあっても、それを口に出せるような身分ではないと(いまし)める心。 

 変わり映えのしない毎日に不満はない。ないが少しくらいなら、と思う気持ちがないでもない。


 そんな日々に忽然(こつぜん)とさした陽射し。

 初めての輝きはまぶしく胸を照らし出し、その内に秘める明かりにほんのりと燃料を加える一方、それまで燃料が加えられることがなかったという事実が寒々とした風となって隙間から入りこむ。


 憧れと緊張、そして若干のもどかしさ。

 この八年まともに話したことすらない、近くて遠い偉大な父。


 不意によぎる切なさにさらされながらも、いまはそれどころではないと、トワイルは歩を早める。


 このときの彼にはただただ外出するという一事にのみ頭の中を占拠され、それが一体どのような意味をもち、父にどのような思惑があってのことか考える余地はまったくなかった。

 ほんとうの意味で無邪気な子供に戻れたのは、このときが最初で最後だったのかもしれない。


 側付きメイドのマリッサに事情を話し、またたく間に衣装を整えてもらうと返す刀で玄関へいそぐ。

 彼女が密かに興奮していて、いつもよりも丁寧に服装を整えていたことには気づかなかった。期待の重さを知らないことがかえって不必要な重荷を背負わずにすんで幸いだったろう。


 息がはずむのも構わずにいそぐ姿は真剣そのもの。

 セアリアス伯を待たせる時間は一秒でも少ないほうがいい、と子供ながらに感じていたからだ。

 玄関では執事のアンヌが姿勢正しく待ち受けていた。


※紹介


トワイル・・・まじめな努力家。家族関係は複雑。両親との接し方がぎこちない。


ルークス・・・お団子先生。尊敬していた大賢者の結末に嘆き。


タロー・・・大賢者及び死神。彼が善人なのか悪人なのかはいまだに議論がわかれている。


アンドリア・・・おしゃべりなトワイルの母。スリーサイズは教えてほしい。お願いします。


フェデルタ・・・アンドリア付きのメイド。主の扱いは手慣れたもの。脱力系の位置を狙っている。


アンヌ・・・セアリアス家の執事。黒のオールバック。トワイルとはあんまり接点はない。


ティミーダ・・・こわいおばさん。トワイルはあんまり好きじゃない。


イニーク王国・・・北の大王国。タローの反乱により滅亡。2000年の幕を閉じる。


オーガムノ王国・・・大陸東部中央に位置するそこそこの規模の国家。セアリアス伯領もここにある。


自治都市群・・・オーガムノ王国の北部にある都市の集合体。盟主はタシマックイ。


イジマシ国・・・オーガムノの西隣の小国。


ワークパンダ国・・・イジマシの隣接国。小国。


亜人国家連合・・・オーガムノの南のほう。


ミティシネ公国・・・大陸中央の小国。


エーユ共和国・・・ミティシネ公国の南。英雄バウロスの生誕地。


ジャイン帝国・・・大陸西方の巨大な国。


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