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追憶は涙に濡れて  作者: タロ
1章
3/12

第1話 欲するは定め 交わされるは命の欠片

 あなたにとって、人生最大の苦難とはなんだったろう。

 それは、あなたを翻弄(ほんろう)しただろうか。

 それは、あなたを嘲笑(ちょうしょう)しただろうか。

 それは、あなたを(おとし)めただろうか。

 それは、あなたを打ちのめしただろうか。

 苦難の大きさは人ぞれぞれでも、与える効果に大きな違いはない。

 それは、等しく絶望を与えるものなのだから。

 

 彼はどうだったのか。

 彼にとっての最大の苦難とはなんだったのか。

 それにひれ伏したとき、彼はどのような行動をとったのか。


 この物語は我が友の願いによって、僭越(せんえつ)ながら小生(しょうせい)が筆を()らせてもらうこととなった。

 しばしの間、読者諸君にはお付き合い頂ければ幸いである。


               ――《(にえ)とされたもの》序文より――




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




――王国歴2012年・11月――



「ごほっごほっ」


 窓際の小机で本を読んでいた少年が()きこむと、母親ゆずりの褐色の髪が上下に揺れた。


「トワイル様。勉学はその辺にして、ベッドにお戻りください」

「もう少しでキリがいいところなんだ、マリッサ」


 言外にしばしの継続を匂わせたが、マリッサと呼ばれた長身のメイドはきっぱりと答える。


「先ほどもそうおっしゃいましたよ」


 共感を拒むような(りん)とした声音(こわね)がつよい。


「……わかったよ」


 はぁと小さく息をはき、本を閉じてすごすごとベッドに戻るトワイル。その背中は八つという年齢以上に幼く、弱弱しかった。


「また無理をされて熱が出るようなことになれば元も子もありません。つづきはもっと体調の良い日にされたほうが良いでしょう」


 マリッサの鋭い目つきでにらまれて、トワイルは思わず毛布で顔を隠す。

 彼女の目つきが鋭いのは元からで、言うほど怒っていないということは今までの経験からわかっているのだが、それでも八歳の子供には怯えをもよおしてしまうことがしばしばある。

 アレは心臓に悪いのだ。一日も早く慣れる日が来ることを願いつつも、そんな日が来るのか自信はない。


 彼女のため息を聞いて、トワイルは毛布から顔をのぞかせる。


「先生の授業を休んでしまったから、すこしでも早くとりもどさないと」

「先生もトワイル様のお身体のことはご理解して下さっています。多少遅れたところで問題はありません」

「でも……」

「……なにをそんなに焦っておられるのですか。トワイル様はまだ八歳。慌てるような歳ではありません。ゆっくり成長していけば良いではないですか」


 上体を起こし、うつむいて毛布を握りしめる少年に、マリッサは内心ため息をつく。

 彼がこの世に生を()けてから八年。その時間は決して平坦なものではなかった。


 誕生直後の発熱を皮切りに、その後いくどとなく体調をくずす日々をくり返した。

 発熱をしたかと思えば苦しげにうめき、体力をつけさせるためにあれやこれやと工夫して食事をさせても、嘔吐(おうと)をして台無しにしてしまう。


 それこそ最初の一年は気の休まる日など全くなかった。

 専属の治癒魔法士がいなければ一月ともたなかっただろう。


 肉体的な成長も人並みより遅れ、一年のほとんどをベッドの上で過ごす。

 唯一の救いは知恵の方は標準よりかなり高い水準を持っていたことくらい。


 側付きを命じられた彼女にとって、トワイルは気を長くして成長を見守っていかなければならない存在であり、決して今日明日の劇的な変化を望むべくものではない。


 だから、なぜこんなに必死になるのか、よく理解できなかった。

 急げ、と言われているわけではないのに。


「ぼくは……」


 トワイルは両の手に力をこめて、ただ歯噛みしてくやしがった。




◇◆◇




「ふぅ……」


 手元の書類の山を片付けたトラナヴィは革張りの重厚な椅子に背をあずける。

 もう何も見たくないと言わんばかりに(まぶた)を下ろし、()りかたまった眉間(みけん)の皺を指でほぐす。ポマードで固められた黒髪がはらりと前にしな垂れた。


 国内ではマシな部類に属していると言われている自領内の状態にも、彼は決して満足していなかった。


 経済は先の争乱から完全に回復したとは言えず、治安も改善はおろか、悪化を防ぐだけで精一杯。領民の不安は根強くのこっている。

 お膝元の都市ですらそのような状態なのだから、周辺の中小の町や村は言わずもがなである。


 先日も、辺境のとある村では冬を越すための食糧を確保するために子供を奴隷商に売り払わねばならなかったという報告が上がってきている。

 そのような悲話を聞いても、すべての村々に手を差し伸べる余裕がセアリアス家にないことが彼の皺を一層濃くする。

 

 そうであっても、一歩一歩着実に前に進んでいくことしか自分にはできない。

 己の無力さが憎くもなろう。40を迎えたばかりだというのに、その面には歳不相応の年輪がきざまれていた。


 いまは耐えるときと窓の外をぼんやりと見やっていると、扉がたたかれた。


「旦那様。ルナエール様がお見えです」

「通してくれ」


 トラナヴィは背もたれから身を起こす。

 一拍あけて、あけはなたれた扉から小柄な禿頭(とくとう)の老人が姿を見せた。

 老人はまん丸とした団子のような顔にこれ以上ないというほどに笑みをはりつけている。それは、見る者によって人(なつ)っこそうでもあり、なにか良からぬことを企んでそうでもある、名状(めいじょう)しがたいものだった。

 

「おや、ずいぶんお疲れのようですな、トラナヴィ様。(くま)ができておりますぞ」とルナエールと呼ばれた老人は机に歩みよる。「唇もかさついていますし表情もかたい。いけませんな、そのような感じでは。領民が陳情(ちんじょう)にでも来たらどうなさいます。鬼が出るか(じゃ)が出るかなどと楽しむ余裕など彼らにはないのですから。

 ああ、いたましい。伏した顔をあげた先にあるもの、それを認めたときの彼らの顔ときたら! ただでさえ非力な彼らになんという仕打ちでしょうか。

 触らぬ神にたたりなし。(やぶ)からのぞいた蛇をつつく馬鹿者はおりません。なにも用件を切りだすことなく帰ってしまうことでしょう。

 もとよりそれが狙いですかな? 

 だとしたら、なかなかお見事と申し上げておきましょうか。私とて、いつからこの屋敷の主は熊にでもなったのかと思いました。

 はたまた、寝起きだったのでしょうか? 

 寝起きというのは大抵の人はそのような顔をされておりますからな。

 さて、私は午睡(ごすい)とはなにごとかと叱るべきなのか、まどろみの邪魔をしたことを謝罪するべきなのか。どうでしょうな」

「むぅ。そんなにひどい顔をしているかね」


 トラナヴィが皺の増えてきた顔を()ぜると老人は(ほが)らかに笑った。


「ハハッ。ご心労お察しいたします。わが身をつねってみるのも良いですが、領主が倒れれば元も子もありませんぞ」

「ありがとう。そこに座ってくれ。

 まったく、あなたという人は相変わらず口が軽いようだ。よほどご機嫌と見える。

 ――ああ、いいいい、なにも言わなくて。それはまた今度にしてもらおう。見てのとおりなのだ。――にして、今日はどうした、ルークス」


 執務机の前のソファーに腰かけた老人――ルークス・ルナエールは、お団子顔にひろがる笑みをくずさずに机上の紙の山を一瞥した。

 その視線は同情するようでいて、楽しんでいるようでもあった。


「いえ、なに。トワイル様の体調が優れぬようでね。

 ああ、ご心配なく。いつもの不調です。それほど重いものではありませんでした。話すこともできましたし――ええ、問題ありません。あの子は強いですから。

 問題があるといえば、実のところ私のほうなのです。――お待ちを。いまお話しますから。心してお聞きくだされ。

 今日はトワイル様の講義の予定でしたが、お話したとおり、中止となりました。

 つまり……午後の予定はすっかり空いてしまったのです。このぽっかりとあいた空間を埋めなければならないのは明白。

 空間は空間を侵食します。

 穴があれば埋めたくなるのは本能によるもの。欠如(けつじょ)を見過ごせないのは人の(さが)というもの。

 不完全な生物であるからこそ、自身の無欠を達成できないからこそ、せめて自分以外のものは満たされていなければならない。整っていなければならない。欠けたままにしておくことは自身の至らなさを露呈(ろてい)してしまうのですから。

 せめぎ合う引力に増大するひずみ。隙間を埋めようと空間と空間がぶつかりあう。

 引き合い、ゆがみ、ぶつかり、壊れる! 

 このままでは私の心に平穏はおとずれません。

 いわば、時間という荒野をさまよう旅人。

 見果てどつづく地平線のどこかにいこいの場というオアシスを見つけなければどうなってしまうのか。

 ひとりぼっちの時間、絶えた人との交流。飢えと渇きがもたらすのは痴呆(ちほう)という底なし沼。

 おお、怖い怖い。考えたくもないですな。

 ということで、時間ができてしまったので領主様の渋面(じゅうめん)をながめにまいりました」


 快活に笑うルークスに、トラナヴィはなんとも言えぬ顔をする。

 立場上は雇用主と被雇用者にあるのだが、それを感じさせず不快にも思わせないのは人柄ゆえか年の功ゆえか。


「あなたの暇つぶしに付きあうほど暇ではないのだがな。

 空間と空間が引き合うように人と人のあいだでも同様であると考えるのは思い込みが強いだろう。あなたの言い分であれば、引力がはたらくときもあれば斥力(せきりょく)がはたらくときもあるのだから。

 第一、不完全だからこそ尊く感じるということも、またあるのではないか」

「ほっほっほ。まあまあ、老人をないがしろにするものではありませんぞ。

 いちおう私も貴方様の領民の一人なのですから。領民は大事にいたしませんと」

「ふむ……」

「それに……トワイル様のことでお話したいこともありましたので」

「トワイル?」


 失礼いたします、と入ってきたメイドが二人に紅茶を差しだし退出する。

 それを待って、トラナヴィは話をつづけた。


「トワイルがどうかしたのか? まさか、なにか――」

「いやいや、先ほどもお話しましたが、お身体の方はいつもどおりといったところでした」

「では?」

「……もう少し授業を増やしたいのです」

「…………」

「これはトワイル様のご希望でもあります」


 トラナヴィは乗りだしていた体を再び背もたれになげた。

 整えられた口髭が指にからむ。


「どういうつもりだ? いまさっき体調が優れぬと言ったばかりではないか。

 荷は背負えども歩を乱すことなかれ。しからずんば正道これ(はなは)だ遠し、という言葉もある。

 過重な負担は前を見ることをさまたげる。背は折れ、腰はまがる。重石(おもし)は体力をそぎ、けずられた精神はもろい。足元へそそがれたまま前進することは道を失うにやすいのだ。

 子供は身の丈を知らぬ。手綱をとり導くのは大人の役目。

 (はり)をさしてみるほどの瀬戸際にあるとも思えん。いまは無理をするべきときではなかろう」

「それは承知の上ですが……人は常に成長していくべき生き物だということもまた言わざるをえません。

 現在よりもより高いところへ、より前へ進みたいと思うのは至極当然な感情かと。

 鈍重(どんじゅう)な歩みでは汗をかかない。汗が出なければこびりついた(あか)も流れない。流れぬ垢はやがて酸化して動作をさまたげる(さび)となる。

 更新されぬ魂がさびつくのは道理。停滞が堕落への一歩なのだとしたら、魂の硬直は終焉(しゅうえん)への一歩なのです。

 しかしながら、幼い時分にはそういったことを理解するのは困難。それをあの歳でお持ちなのは流石といったところでしょう。

 鳥は自身の翼を重いとは感じません。子供の向上心には積極的に餌を与えてやらなければ。飢えた子供は腐りますから」


 ルークスは陶器製のカップを手にとり、紅茶の香りに鼻をあそばせる。段鼻(だんばな)がひくひくと動き、鼻息も喜びをあらわにする。

 くっとカップを傾け一口飲むと、猫舌の彼には思いのほか熱かったのか、ごまかすように咳払(せきばら)いをした。


「トラナヴィ様がトワイル様のお身体をご心配なのはよく存じ上げております。

 ですが、これは治療のためでもあるのです」

「治療? どういうことかね」

「トワイル様の体調不良の原因は魔力の暴走によるものだからです。

 あの幼い身体には想像を絶するほどの膨大な魔力が秘められています。

 それはさながら王都の堕落した貴族の腹のようなもの。

 破裂しまいとする肉体が成熟していないために、発熱や嘔吐といった体調不良の形で顕現(けんげん)しているにすぎません」

「それでは肉体の成長を待つしかないのではないか? 先の話となんの関係が」


 ルークスは優秀な教え子に指導をしているときのように満足そうに一つうなずきを返す。

 思いどおりの答えと問いかけが来るのはとても愉快なことだからだ。


「肉体の成長を待つというのも一つの手です。

 ですが、それにはやはり時間がかかる。また、成長しきるまで身体がもつのかどうかも不明です。

 ですから、もう一つの方法をご提案いたします。トワイル様がご自身の魔力を制御できるようになることを。

 それがかなえば、より早期に健常な状態へと戻ることが可能になりましょう。現状でも少しずつ制御に向けて前進してはおりますが」

「なるほど……」


 トラナヴィは顎に手をやり思案する。


 ルークスの提案は理解できた。

 息子に魔法の素養があることは司祭からも知らされていた周知のこと。

 ゆえに、領内でも高名な魔法士――ルークスを雇ってトワイルに教育をほどこしていたのだ。

 

 魔法にうとい自分には魔力制御の習熟にどの程度の時間と労力が必要なのかはわからないが、そこは彼を信じるほかない。提案するくらいなのだから勝算はあるのだろう。

 早期の体得がかない体調の安定がもたらされれば、ひとまず安心することはできる。


 懸念なのは息子の身体。

 赤子のころに比べれば体調をくずす回数はまちがいなく少なくなってきている。

 とはいえ、一般人とは比較するべくもないのもまた事実。この提案を受けて、むしろ悪化したなんてことになれば目も当てられない。


 トワイルのことは妻のアンドリアから一任されているとはいえ、諸々の事情をかんがみれば即断はむずかしい。

 もし現在よりも悪くなれば正室であるティミーダが口を挟んできかねない。

 アンドリアをうとましく思っている彼女ならば、絶好の機会ととらえるだろうことは想像にかたくなかった。


 迷うトラナヴィにルークスはほほえむ。


「トワイル様ならご心配ありません。

 あの子の素養はピカイチ。真面目で意志が強く、性向(せいこう)も素直。

 飲みこみの早さは言うまでもなく、なにより未来を恐れない。リスクを恐れず前へ進むことだけを考えるのは幼さゆえの勝気でしょうか。

 なにものにも(とら)われることなく意志を貫けるのは子供だからでもありましょうが、彼の秘めたる気質によるところも大きいでしょうな。

 彼は、強い。八歳にして己を治めるということを理解している。

 本能的にか理知的にかはおいておいて、立つべきありかたと行く末を見すえることができるのならば、種々の妨害など事ともしない。

 きっと私たちの期待どおりの成長をとげてくださるでしょう。私も細心の注意を払いますゆえ」

「ふぅむ。……それほどか?」


 ルークスは力強くうなずく。


「ええ、あれほどの器は見たことがありません。神に祝福された者というのは彼のような人間を言うのでしょうな。

 人格だけではありません。魔法士としての素質でもです。

 基本となる四属性すべての適正を有しているだけでも十年に一人の逸材。

 それだけでも驚愕でありますのに、あのあふれんばかりの魔力といったら! 

 器の大きさもさることながら、その深さも底が知れない。いったいどれだけのものがあの小さな身体の中に詰まっているのか。まさに一寸(いっすん)にして昇天の気ある龍のごとし! 

 掘りおこしてみるのが楽しみでもあり、怖くもある。初めてです、このような気持ちになったのは。

 まったく、種を植える前から将来の収穫に右往左往する滑稽(こっけい)さよ!

 長年魔法士として後輩を育成して参りましたが、いやはや。あの大賢者にすら匹敵するほどですぞ!」

「ルークス……」

「と、これは申し訳ありません」


 興奮するルークスはたしなめられたことでいくらか落ち着きを取り戻したが、その目には恍惚(こうこつ)とした色が見え隠れしている。


「失礼いたしました。年甲斐(としがい)もなく色気を出してしまったみたいで。

 ですが、まあ、トワイル様はそれほどの才器(さいき)だということであります。

 初級魔法を覚えるのも、そう遠い日ではないでしょう」

「そうか……」


 トワイルが魔法士として大成するのはトラナヴィにとっても、セアリアス家にとっても願ってもいないことだ。もちろん本人にとっても。

 それが少しでも早くなるのであれば、セアリアス家の当主としては首を縦に振らざるをえないのかもしれない。家庭内で不和の種が萌芽(ほうが)せぬうちに。


「ルークス、任せても良いか?」


 トラナヴィはルークスを見据える。

 老爺はその貴族然とした眼差しにこうべをたれた。


「はい、お任せください」


 トラナヴィの(まぶた)がおちる。


 双肩(そうけん)にのしかかる重圧は重い。優良貴族との領民の言葉が怠惰(たいだ)をゆるさない。

 今はどこもかしこも火の車で、大事な長男のことをじっくり考える余裕すらなかった。それだけに、自分の手の及ばない事柄への心配はつのるばかりだ。


「大賢者か……」

「……なにかご懸念でもおありで?」


 ルークスは空になったカップを物足りなそうに机におく。

 子供のような飄々(ひょうひょう)とした顔にトラナヴィは盛大に息を吐き、窓辺の樹に視線をうつした。


「……過ぎたる力は身を亡ぼすというからな。

 あなたもよく知っているはずだ。身の丈をこえた力をもった者の末路を。人の狂うありさまを。狂わざるをえなくなった者の悲惨さを。

 バランスを失ったとき、人は足を踏みはずす。地の底に真っ逆さまに落ちてしまうのだ。

 頂きに登れるということはそこから落ちることもあるということ。

 息子が負わなければならないリスクのなんと大きなことか。哀れなり。それを憂うのは親としての義務であろうさ。

 底のない穴の恐ろしさよ。奈落への道程の険しさよ! 

 その口が愉悦にゆがむとき、人はこてんぱんに打ちのめされる。

 目は底へしか投じられず、悲しみからもひきはなされ、世とのつながりを断たれたとき、我々は絶望を知るのだ。

 通常でもそうなのだから、高みにいればこそ、その落下は想像を絶するものとなる。

 それにだ。そもそも天才とはなんだ。才能とはなんだ。

 神から与えられし才能、天賦(てんぷ)の才を人は喜色(きしょく)ととらえる。

 ほめたたえ、うらやみ、ありがたがり、ねたむ。

 才能を有する者は好待遇で迎えられ、恵まれた人生を送ることができる。

 凡人は遠目にそれを眺め羨望の眼差しを向けながら、かみ合わせた歯はぎしりと鳴っている。『くそっ、うらやましい』とな。

 憧憬(しょうけい)を向けられる一方で憎悪を生み、敬意を受ける一方で侮蔑(ぶべつ)がこっそりと花ひらく。

 天才と凡人。そのあいだに生まれる目に見えぬ壁。亀裂。ああ、両者のへだたりの大きさよ。

 同じ世界、同じ人間であるのに、生きる世界が異なるということはなんと不可思議なことか! 

 彼らは互いに理解しているのだ。決して底知れぬ狭間(はざま)が埋まることはないのだという現実を。

 天才は前を歩き、凡人は後ろを歩く。位置が逆転することはありえない。凡人が天才の横に並ぶこともありえない。

 常に先をゆくその背中に凡人はなにを見る。なにを感じる。なにを思う。

 無意識下の(おご)りと卑屈からの追従(ついしょう)。才智からの情けと傲慢(ごうまん)な要求。恩恵と報奨(ほうしょう)

 彼らはコンビでありながら距離がある。接近はしても重なることはない。視線は()わしても手はとらない。同じ言語であっても言葉は通じない。暗黙のうちに結ばれた(ちぎ)りは互いの領分をおかさないということ。

 共存できているはずなのに隔絶しているという事実。

 凡人からそそがれる笑顔と称賛。その下にあるものはなんなのか。仮面をはいだときに見えるものはいったいなんなのか!

 恐ろしいことだ。私は恐ろしいよ、ルークス。

 この世界の導き手と構成者という関係でありながら、これほどいびつ(・・・)なものはない。

 王と民ならわかる。貴族と民でもだ。

 力の行使者と受諾者。支配者と被支配者。搾取するものとされるもの。そのあいだが歪むのは当然だ。国とは歪んでいるものなのだから。

 だが資質は!

 才幹(さいかん)ある者が与える利益とそれを受けとるだけの凡才。供与(きょうよ)された輝かしい未来とそれを謳歌(おうか)するだけの存在。与える一方と与えられる一方。それなのに歪みが発生するという醜悪(しゅうあく)さ!

 うす汚い。ぞっとしないか!? 天才は社会に奉仕しても真実感謝されることはない。

 それでいて凡人はうらやむのだ。自分にも才能があったなら、と。

 なあ、ルークスよ。

 あなたはトワイルに天賦の才があると言う。逸材だと言う。あなたが言うのならそうなのかもしれない。私はそれを否定することはできない。

 もし、トワイルが天才なのだとしたら、どうだ? 

 父として、私はそれを喜ぶべきなのだろうか? 

 人類の大多数から外れた存在になることを祝うべきなのだろうか? 

 孤独な存在になろうという場所へ勧めるべきなのだろうか? 

 わからん。わからんよ、私には。

 ともすれば、その大きな力に翻弄(ほんろう)され、自己を見失ってしまうかもしれないというのに」

「それは……。

 申し訳ないのですが、その問いに与えられる答えはございません。それは父親である貴方様みずからが見つけなければならないものだからです。

 ただ……とび抜けた才覚を有する者には相応の責務というものが課せられます。

 たしかにそれはときに苦しくつらいもの。ある意味で人類すべてを背負っているようなものなのですからな。

 その重みに耐えかねた者もいたでしょう。塗炭(とたん)の苦しみにあえぎ、己の宿命を呪う者もいたでしょう。天に(つば)はき憎悪をまき散らした者もいたでしょう。

 ですがね、トラナヴィ様。

 人は己に課せられたものから逃げることはできないのです。

 トワイル様がこの世に無事誕生した以上、すでに(さい)は投げられました。いまさら放棄することはかないませんし、誰かに押しつけることもできません。

 だから、私が言えるのはただ一つ、トワイル様を信じましょうということだけです。

 あの子ならきっと自らの力を制御できるような人間になるでしょう。そして正道を歩んでくれることでしょう。我々の期待したとおりに。いえ、我々の期待以上に。

 私もその一助(いちじょ)(にな)えるかと」

「だといいが……。

 そうであっても、大きな力というものはそれだけで災いを招くこともある。かの大賢者ですら、そうだったのだからな」

「…………」


 ルークスは口をつぐむ。

 それを否定することは困難だったからであり、またそれを肯定したくもなかったからだ。


「アレが幸せになるには、その力は邪魔なのかもしれん」

「……私にはなんとも」

「すまん、言いすぎた。杞憂(きゆう)であろうさ」


 トラナヴィは席を立ち窓を押しひらく。

 冬の接近をつげる寒々しい風が我先にと体をうち、背筋がぶるりとふるえた。


 広がる空は青く()みわたり、果てしなくつづいている。

 願わくは、息子の未来もこの空のようにどこまでもつづかんと――。




◇◆◇




「はやく、恩返しがしたいんだ……」


 マリッサが隙間のあいた窓をしっかりと閉じる。それにともなって、背後でトワイルがぽつりとつぶやいた。


 短く切りそろえられた黒髪をスカートのようにひるがえすと、仰向けになり天井を見つめている彼の顔があった。

 その横顔は少女のようにかわいらしいものなのだが、そこには決然とした男の部分がはっきりと垣間(かいま)見えた。


「物心ついたころからこんな身体だったから……。

 みんなに迷惑かけてばかりで、誰もがぼくを気遣って優しくふるまってくれる。領主の息子だからね。

 ぼくになにかすれば、きっとひどいことになるって思っているから。だから我慢しているんだ。ぼくはなにもできないのに。

 役立たずのぼくがおいしい食事にありつけるのに、家の外では多くの人がひもじい思いをしているんでしょう? それが、ずっと嫌だった……。

 でも、ぼくには魔法の才能があるって先生が言っていた。

 一人前の魔法士になれば、この家の力になれる。

 いつか、いまはお荷物でもいつか、みんなから必要とされる人間になれるんだ。

 だからたくさん勉強して、すこしでもはやく、家の手助けができるようになりたい」


 歩いては倒れ、倒れては支えられ。

 八年という歳月は人の一生からするとあまりにも短く、浅い。自我が芽生え物心がつく年齢を考慮すれば、彼が経験した時間というのはさらに短くなる。


 浅瀬のただ中にいるような小童(こわっぱ)が知ったようなことを言うのはおろかしいと笑う者もいるだろう。

 けれども、世話をされつづける人生の重みというものを余人が理解することははなはだ困難なことである。


 彼は大地を歩けない。一人の足で立つことができない。かたい地面が求める反発に耐えられない。弱く、はかない。


 誰もが当たりまえのようにできることができなかった。

 この世界という揺るがぬ大地を歩むには貧弱すぎたのだ。


 浅い砂浜、転んでも傷つかず膝にも優しい砂浜でなければ、彼は歩くことができない。

 自分の足に合わせて形を変えてくれる砂浜でなければ、人々が支えてくれる優しい砂浜でなければ。


 砂に足をとられ、たえまない小波(さざなみ)に翻弄され転がされる日々。

 砂はしずむ。足をのみこみ、己をのみこむ。

 膝をついてしまえば、手をついてしまえば、もう抜け出ることはむずかしい。

 庇護下(ひごか)というぬるま湯に慣れた者の末路(まつろ)はおしてしるべしである。


 彼はもがく。

 沈みこまないように、自立心を失わないように。おぼつかない歩行で。

 足取りは波にかき消され、痕跡(こんせき)を探ることもできず、どこから歩きだしたのか、どのくらい歩いてきたのかもわからず、それでも前に歩を進めることだけがゆるされた。


「どこへゆくのだ?」と問われれば「ここではないところへ」と答え、「そちらには何もないぞ」と言われれば「ここにも何もないよ」と返す。


 かわいた大地を必死に歩む人々を遠目に見て、申しわけなく思いながらも足は砂浜から離れられない。出ていくことができない。

 彼はしばしば思った。「あぁ、どうして雨がふっているのに、この砂はかたまらないんだろう。もっと歩きやすくなったらなぁ」


 涙も波にさらわれ、砂浜は彼の想いを吸いつくす。

 自責。

 彼を形づくるのはその一言だった。


「トワイル様……」


 マリッサは胸の中がじぃんと熱くなるのを感じた。


 感動と喜び。そして、主への誇らしさ。けれども、その想いが強いほど虚しさで心は苦しくなってしまう。

 この方こそ、いずれはこの家を背負っていくのにふさわしいはずなのに、とやるせない思いが胸中(きょうちゅう)をよぎるのは避けられなかった。

 

 側室の長男と正室の長女と次男。

 セアリアス家を継ぐのは彼の二歳下、次男のフォンとすでに決められている。


 余計なあらそいが発生するのを嫌ったトラナヴィの判断によるもので時期尚早(しょうそう)感はいなめなかったが、肉体的にもろく脆弱(ぜいじゃく)なトワイルが今後どうなるかは誰にも断言できるものではない。

 決断をぐずっていれば正室のティミーダがいずれでばってくることは、この家の人間なら誰でも想像できた。


 ひとたび下された当主の決断は非常に重い。よほどのことがないかぎり覆りはしないだろう。

 つまり、トワイルは早晩家を出るか、留まるにしても相応の有能さと忠誠心を示さねばならない。


 それも、当主よりは無能で家臣よりは有能であることが望ましい。

 いや、たとえその条件を満たしていても、彼自身にいくら次男に対する忠誠心が備わっていても、ティミーダがそれを許さないだろう。

 いつかは反逆してくるに違いないと疑心暗鬼におちいった彼女が、トワイル排除の強制的な手段に出ないともかぎらない。


 ティミーダは貴族の出だ。それに対して彼の母であるアンドリアは平民出身。

 貴族出の女が平民出の女をさげすみ嫌悪する。よくある話だ。平民出の子供である彼もまた、ティミーダの嫌悪対象に含まれていた。


 結局、トワイルには家を出る以外の選択肢は実質存在しないのだ。それをこの気高き少年はまだ知らない。まだ知るべきでもない。

 

「わかりました。でも、ほどほどにしてくださいね」


 トワイルは毛布をはねのけ、がばりと飛び起きる。


「ほんと!? ありがとう、マリッサ」


 そんな満面の笑みを見せられては、マリッサはただうっすらと、ほほえむしかなかった。


「その代わり、一つ私と約束してください」

「約束?」

「はい。今後なにがあっても、どんなにつらい状況になっても、あきらめずに前へ進むことを」


 おそらくトワイルの願いはかなわない。

 最悪領内にいることさえゆるされない可能性もありうる。

 それを悟ったとき、この心優しい少年は絶望するかもしれない。打ちひしがれるかもしれない。

 ならば、それをも乗りこえられる強い人間であって欲しい。それが、彼女が抱いた率直な想いだった。


 美しい女性に真正面からじっと見つめられ、トワイルは照れながらもこたえた。


「うん、わかったよ、マリッサ。約束する」

「ありがとうございます。不肖(ふしょう)マリッサ・タシターン、いつまでもトワイル様のお側でお仕えいたします」

「よろしくね」

「はい、こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 マリッサは深々と頭を下げる。

 それは八歳の少年に対してするような、見かけだけのものではなかった。


何年か前に投稿してすぐにエタったのを加筆修正したものです。

何話か進んだら、投稿はスローペースになります。


※紹介


トワイル・・・セアリアス家の長男。病弱だが魔法士としての資質はピカイチらしい。童顔なショ〇。


マリッサ・タシターン・・・トワイル付きのメイド。美人だが目つきがするどくて怖いらしい。自覚はあまりない。


トラナヴィ・・・セアリアス家当主。最近ため息ばっか。はぁ、まじ鬱。


ルークス・ルナエール・・・トワイルの先生。チビハゲのお団子顔。実はすごい人らしい。


ティミーダ・・・トラナヴィの第一夫人。口うるさそう。

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