第7話 道の行く先 行かざれば至らず
ネズミが空をうかがうとき、鳥は餌を見ている。
鳥が空をのぞむとき、人は獲物を狙っている。
人が世界をしるとき、それは空腹を紛らわしている。
悪意なき悪意が舌なめずりしていても、彼にはどうしようもなかった。
それが世界の意志であるならば、人間一人に立ち向かえるものではない。
世界の総意を前にしたならば、人一人の意志など塵芥に過ぎないのだ。
だから彼は素知らぬふりをしてやり過ごすことにした。
自らの気持ちを押し殺して。
世界のために――。
――《贄とされたもの》一章68Pより――
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ルークスの講義はとどこおりなく進んだ。
体内の魔力を感じとることから始まり、魔力の流れを思いどおりに操れるようにはげみ、血液のように全身にいきわたらせる。
基礎中の基礎でありながらこの流動性の効率化というのは極めて大事とされ、大半の時間はそれに費やされた。
なめらかに、素早く。そして流転する魔力を練り、手のひらに集中して下界に顕現させること。
一連の流れを追うなかで絶えず集中力を維持しつづけなければならないということが魔法士見習いとしての第一の関門である。
トワイルとシャリークはよくできた生徒だった。
よけいなことに気をそらさず真面目に取りくむ姿勢。魔法を覚えたいという心からの願い。一心にうちこむ健気さ。
それらは通常よりもはるかに、ことに二人の年齢のことを考慮すれば格段に早いペースで修得させる手助けとなった。
もしかしたら、二人というのが良かったのかもしれない。
ライバルがいるのと一人で勉強するのとではやはり熱意に差が出るものだ。先へ進もうとしている姿を隣で見せつけられては、真面目で向上心の強い彼らは奮起するよりほかない。
当初のルークスの想像以上の成長速度に、彼自身教えながら胸をときめかせるほどで。
目まぐるしく過ぎる日々は色を忘れ、シャリークがともに学ぶようになってから実に二年の月日が流れた。
◇◆◇
肌寒い風が吹いている。
うららかな秋の日差しはよわよわしく、やわらかに肌をなめていく。
空をおよぐ秋雲はあらわれたかと思えばじっくり見る間もなく勢いよく後ろに流れて、めっきり暑さの遠のいた太陽を拝ませた。
緑の傘をすり抜けるやわい日の光。さわさわという擬態語がふさわしい優しい感触。
悠然とした空気の流れる昼下がりの裏庭にあって、額に雫のような汗粒を浮かべているのは場にそぐわない光景だった。
全身に吹きつける風は強い。
鉄錆びたような萌葱色のローブはバタバタと裾をはためかせ、品の良い褐色の髪は風のままに踊りくるっている。
憎々しいまでにまき散らされる暴威。彼の集中を邪魔してくれようと存分にはげむ大風はしつこかった。
それでも眼差しがそれることはない。まばたき一つない。
揺るがぬという強い意思の先にあるのは閑散とした林の壁。
屋敷の裏手の林は半分ほど身を軽くし、堆積した落ち葉が暖かそうに根にかかっている。
生気の抜けた落ち葉の中からは数匹のリスが顔をのぞかせ、餌を探すために潜っては出、場所を移しては潜るたびにカサカサパリパリと乾いた音をはずませた。
不意に、一匹のリスが頭をもたげた。
きょろきょろと周囲を見回す。
途端。
わずか30センチ頭上を人の頭ほどあろうかという炎の塊が走り抜けた。
周囲にいたリスも含めて一目散に逃げまどう上空を、一つの炎球がぐるりと回って来た方向へ素早く戻っていく。その速度は普通の大人が全力で走るよりも早い。
炎球が走るその先では褐色の髪をした一人の少年が片手を突き出していた。
炎は少年の手まで戻るとぴたっと制止し、跡形もなく霧散する。
ぱちぱちと手を叩く音が響いた。
「お見事です、トワイル様」
褐色の髪の少年――トワイルはふぅと一息入れて、ルークスに礼をした。
「初級魔法はもうほぼ完璧ですかな」
「いえ、まだまだです。大分慣れてはきましたが、難しい。気を抜けないし、こめる魔力が安定しません」
「ふむ、今のように他者の魔力が混在していると制御が難しくなりますからな」
魔力によって生み出される魔法は、自然、魔力に強い影響を受ける。
魔法士が魔法をはなつ際、その場に魔法を使える者が一人しかいないのであればなにも問題はないが、戦闘においてはそんなケースは稀だ。
とうぜん魔法士対魔法士という想定もしなければならない。
その場合、意図的に魔力を放出することで相手の魔法に干渉し集中を乱す、力の差によっては魔法自体失敗して発動させられなくすることもできる。
魔法士の訓練では、そうした他者により放出された『場の魔力』とも呼ぶべきものをねじ伏せて、場合によってはよけて、魔法を発動させる技術を身につける必要が出てくるのだ。
現在はルークスの風魔法の影響の中で、トワイルが問題なく魔法を使用できるかという訓練を行っていた。
「いや、しかし、この二年で魔力制御も大分落ち着いてきましたし、十分合格点を上げられます」
トワイルは素直に顔をほころばす。
二年がたって背も少しは伸びたが、面立ちは依然として幼く中性的。
かわいらしいと言われたことは一度や二度ではない。どれも好意的な評であり、大抵そこにあざけりは含まれていない。
だが、男としてどうなのだ、と本人にはコンプレックスのようだった。
彼の理想はあくまで父のトラナヴィであるからして、格好よく渋い男になりたいという願望が強かった。
それを理解したうえで、かわいいと言われるたびに表情が固まったり歪んだりするのを楽しむ輩もいるにはいたが。
「さて、シャリーク嬢は――」
ルークスが視線を移す。
シャリークはそばの一際大きな樹木の笠の下で目をつむり姿勢を正して座っている。
白磁を思わせる額にはこちらも汗が浮かび、きめ細やかな肌にときおり陽が落ちる。
細く高い鼻筋に妖艶な口元はたたずみ、白磁の肌よりなお白い髪が耳を隠して胸にかかる。その周囲は蜃気楼のごとく心なしか大気が揺らめいているように見えた。
「ふむ……。もうよろしいですぞ、シャリーク嬢!」
彼女の目がひらく。
まぶたの下からは穏やかでありながら意志の強い銀の瞳。
深い瞑想の名残か、まだいくらか陶酔の色が見える。精神の深層をうかがうときにおちいる一種の浮揚状態だ。
これがさらに進行すれば深層にたまった甘露のような水たまりに浸水し、恍惚とした心酔状態にまでなることもある。
二、三のまばたきの後、意識が鮮明になってくると足をくずして立ち上がり、こちらへやってくる。
緑の笠の恩恵を失いまぶしそうに細まる目。耳にかける髪がきらめいて、秋の陽光に晴れ晴れしく映えた。
「どうでしたか、先生」
「うむ、言うことはないですな。もう魔力制御に関しては、トワイル様を追いぬいてしまわれたようです。
そろそろ初級魔法の方に本格的に移行するとしましょうか」
「はい!」
元気のいい返事はなによりも彼女の心情を率直にあらわしていた。
自分自身も魔法制御に手ごたえを感じており、魔力を整えるにつれエルフの血が呼びおこされるような、血に馴染んでいくような感触があった。
それは悪い感じではなく、むしろどこかなつかしいような――。
将来のためにも魔法技術を会得することは必要不可欠である、と判断した二年前の自分の考えにまちがいはなかったという想いを深め、次のステップに進める喜びが魔力に横溢しているようだった。
表情もどことなく嬉しそうなのは気のせいではないだろう。
「今後のお二人の課題は、魔法を発動するまでのラグの短縮としましょうか」
「ラグ?」と首をかしげる二人。
「はい。いくら正確で強力な魔法が使えても、それを発動するまでに多大な時間を要するようでは、実戦では役に立ちません。
敵はいちいちこちらの行動を待ってはくれませんから。
機先を制すためにもラグは小さければ小さいほど強みになるので、魔法士として第一線で頑張りたいのであれば、常に向上すべく努力しつづけていく必要があるわけです。
これを魔法の瞬発力と呼びます。
トワイル様は脳内に思い描いたものを顕現するまでの時間、シャリーク嬢は自身の魔力放出を一定に保つまでの時間。それぞれ注意して励んでみましょう。
理想は脳内に描くと同時に顕現させることですが、それが可能な人間は数えるほどしかいないでしょうな」
「顕現するまでの時間か……」とトワイルはうなる。「たしかに。簡単なものでも十秒くらいはかかってしまいますし、複雑なものとなれば……うーん。正確性との両立が問われることになりそうですね。
一度顕現できたものであっても、それを操作するのにも一筋縄ではいきませんし。
そこでもまたラグが生じてしまいますね」
「それも含めての瞬発力の訓練ですな」
「あの」と声を上げたのはシャリーク。「魔力放出を一定に保つまでの時間を短縮するというのは、治療を素早く行うためにですか?」
「そのとおり。魔法を使った治癒のためには対象者との魔力の同化が必要。
相手の魔力を探り、それに合わせて自身の魔力を一定に保ち、練り合わせることで、はじめて治癒の段階に進めます。
相手の魔力を探るまでのラグもそうですし、相手に見合った魔力状態を維持するまでのラグも小さくしていくことが重要です。
魔力探知に感度、冷静な精神に不動の心得。
治癒術者にはつねに平静でいることが、少なくとも表向きはそうあることが求められるのです。
そういう意味では、シャリーク嬢は良き治癒術者としての適性があるのやもしれませんな」
「シャルはあまり表情に出ないからね」とトワイルが笑うと、シャリークはそれと知られぬほど眉間に皺を寄せた。
「……トワは魔力を無駄にしすぎ。
たくさんあるって言っても無限にあるわけじゃないんだから、もっと気をつけるべき」
「……もしかして、怒ってる?」
もの珍しそうに見やるトワイルに「ぜんぜん」と返すシャリーク。
見わけるためにもっとよく見ようと見つめていると、少しずつ顔がそらされていく。
「はっは」とルークスの白い歯がこぼれた。「いや、それはシャリーク嬢のご指摘の通り。トワイル様は魔法を行使するさいに無駄な魔力の漏出が多分にあります。
そこに関しては、シャリーク嬢のほうに一日の長がありますな。
場を支配せんと敢えて漏出させる場合もありますが、トワイル様のは未熟ゆえ。
今はまだそれでも良いですが、さらに上のレベルに進むには極力おさえていかねばなりませんぞ」
「慢心しないように」とシャリークが付け足すと、トワイルは肩をすくめた。
「……気をつけます」
ルークスは笑みを崩さずにつづける。
「山の高さを知るためには、まず登らねばなりません。下から見上げているだけではいつまでたっても高いということしかわからない。
登っていくうちに道の険しさを知り、種々の障害を越え、不足しているものを認め、乗りきる術を見つけ、それを磨き、頂上へと至る。そして、より高き山々を遠くに望むのです」
「そのくり返しが人をつくるのですね」とトワイルは背を正す。
「左様。人は――」とルークスはためらいがちに言った。「おろかです。我々はときに自然にコウベをたれ、ときに世の理を踏みにじってきました。
神に祈りをささげつつ、後ろ足で砂をかける。
庇護と慈悲を願いながら、課せられたものから逃れようとする。
それも無意識のうちに。すべては我々の都合によって。
誰それが悪いというのではない。人が人である限り、この呪縛からは逃れられないのです。あるいは、それが原罪のせいなのかもしれませんが。
お二人もこれから成長していくにつれ、また社会に出るにつれ、多くの人と出会います。
とうぜんのことながら、なかには醜い人もおります。
怠惰と悪徳にぬかづく者、傲慢にあやつられ嫉妬におどらされる者、視界にいれるのすら不快な唾棄すべき輩とも出会うことでしょう。
ですが、断じて悲観してはなりません。
人間のおろかさを目の当たりにしても、卑劣な誘いを受けても、醜悪な息を吹きかけられても、目をつむらないこと。耳をふさがないこと。呼吸をとめないこと。光を手放さないこと。
近きにとらわれず遠きを心にいだきなさい。
目をそむけたくなるような現実の中にも、素晴らしき人は必ずいます。生涯の友となる者が必ず見つかります。深い闇夜の中にあって、ともに励まし合える存在が。
さきほど、山を登るくり返しが人をつくると言いましたが、それは正確ではない。
どのような山に登るのか、どのように登るのかということだけでなく、どのようなものと登るのかということも同じくらい大事なことなのです」
ルークスの顔には笑みはない。
とうに人生の下り坂にはいった者として、また二人の導き手として、どこまで伝えるべきなのかというのは判断が苦しいところだった。
「今はまだ山の麓。私の言葉を十分に理解することはできないでしょう。
焦ることはない。いずれ知ることになりますから。――望む望まぬにかかわらず。
人を知り、世界を知って、あなた方がどのような道を進んでいくのか、教師として非常に興味があるところですな」
空気を切るようにフッとほほえむルークス。
息を呑むトワイルとは裏腹に、シャリークはいつものように表情を変えず言葉をつむぐ。
「先生にも、そういう人たちがいたんですか?」
「もちろん。若い頃は冒険者もしておりましたからな、チームを組んでバリバリと。
そのときの仲間たちは格別でした」
「……どんな人たちだったんですか?」
立ち直ったふうのトワイルからの問いにルークスはふふんと笑う。
「それはまた別の機会にしましょう。
少し長くなってしまいましたな。ではまた」
ほっほっほと笑いながら去る後姿に、二人は顔を見合わせて息をついた。
「僕らも行こうか」
「そうね」
思えば、ルークスの若かりし頃の話というのはほとんど聞いたことがなかった。
興味を覚えたことがないというのもあるが、彼も積極的に自分のことを話そうというタイプではないせいだろう。
また、半熟なルークスというのもとんと目に浮かばない。
誰にでも未熟な時期は存在するが、出会ったときにはもう成熟しているような相手だと想像するのは困難になる。
大人ははじめから大人であり、両親ははじめから両親のように思える。教えをこう相手であればなおさらだ。
そのことについて、かつて講義のなかでルークスは次のように言及していた。
「経験は存在をねじまげる、と言ったのは1300年ほど前、イーマ・ムーカッシ王国の偉大な魔法士であられるリサ・マーツィです。
彼女は生涯でたった一人しか弟子を持たず、公の場で自身の思想を語ることを嫌いましたが、愛弟子であるO・ベヴィスが彼女の言葉を後世に残しています。
『時とともにひずみが生まれていくのは世界がそれを望むからである。
この世に生まれ落ちたものを現実というわななきから守るため、という名目により耳元でささやきつづけるのだ。「なんて格好をしているんだ。寒いだろ? さぁ、これを着なさい」
真実とは純粋なままではいられない。
世の理がむき出しの本性を許さない。
衣をかぶせ、栄養を阻害し、壁をつくり、日の光をさえぎってしまえば、真実は倒錯する。
大木を見てその若木を描くことが難しいように形相から質料を暴くことはかなわず、湖を見て巨大な穴底を連想できぬように本来の姿を想起することは難儀である。
人はそれを生きると呼ぶ。現実とは不可逆なものなのだ』
さて、彼女は――」
ルークスの昔の姿がちっとも想像できないのはそういうことなのかなとトワイルはぼんやりと考えながら、隣を歩く少女を横目で見る。
二人が並んで歩くと、シャリークの方がやや目線が高い。
エルフといえども男より女の方が成熟するのが早いのは同じなのか。
二年前は同じくらいだったのに、と内心残念に思う。
四歳差があることを考慮すれば仕方ないことだろうに、素直にそうは思えなかった。
原因は二年前のパーシーの叱責。
覇気が足りない。そうしてつづけられた言葉は彼に大きなダメージを与えた。
トワイルは悩んだ。
悩みに悩んだ。
悩んで、眠って、また悩んで。
夜、ふかふかの布団の中で袋小路に行き当たってうなされることもあった。
悩んでも悩んでも結論は出ない。
気概を持てと言われても、八歳の子供にはどうすればそれが持てるようになるのかわからなかった。
さりげなくマリッサにきいてみても「トワイル様はそのままで良いのですよ」と言われ、さりげなくアンヌに尋ねてみても「そういった種類の答えを他人に求めないところからではないでしょうか?」とさとされ、さりげなく母にきいてみようと部屋を訪れる直前で引き返したこともあった。
さりげなくシャリークに話を向けてみれば「気概? 持ちたいなら持てばいいじゃない」と身も蓋もない対応をされ、さりげなく門番のジョビーに水を向けてみれば「男ならやっぱ武器をもたないと!」と渡される使い古しの剣。
懊悩した結果、とりあえず見かけだけでも庇護対象から外れようと思い立ち、身長を伸ばそうとしたり精悍な顔つきになろうとしたりと懸命に努力を重ねてきたのだが、努力と結果が釣り合うとはかぎらないことを幼くして知るはめになる。
「シャルはいいよなぁ」
「ん?」
「悩みなさそうで」
顔も背も幼さのぬけぬ彼には、順調に成長しているように見えるシャリークがうらやましかった。
「む……。トワのほうがうらやましいわ。悩める余裕なんてないもの」
「余裕があっても有効に使えなければ損だよ。持てあましたくないものだってあるんだからさ。
誰か時間を早送りできる魔導具でも作ってくれないかな」
「なに、また背の話? もっとたくさん飲んだら? 牛乳。一日一杯じゃ足らないんじゃない?」
「でもあんまり飲むとお腹こわしちゃうし――って、なんで毎日牛乳飲んでること知っているの?」
「さあ。ただ、アンドリアさんって隠しごとができないタイプよね」
「……僕もそう思うよ」
「そうだ。両手と両脚を思いっきり引っ張ってもらったら? 案外のびるかも」
真顔のシャリークは冗談なのか本気なのか極めてわかりにくい。
はぁ、とトワイルは今日何度目かのためいきをついた。
「もしそれを試すことがあったらシャルに頼むことにするよ」
「任せて。ちぎれないように気をつけるから」
「……そのときは治してね」
はやく大人になりたいな、とつくづく感じる今日この頃である。
落ち葉をはためかせ枯れ枝をならすこと少々、正面に見えてきたのは屋敷の本館。
本館の裏口には長身のメイドが一人ぽつねんと立ち尽くしている。
メイドはすでにトワイルを認識しており、間近まで来たのを見はからって頭を下げた。
「トワイル様、お疲れさまでございます」
「うん、マリッサもご苦労さま」
側付きメイドのマリッサは顔を上げる。能面のように表情が少ない。おそらくシャリーク以上だろう。
「シャリーク様も」
「こちらこそ」
この二人のあいだに会話は少ない。
表情がとぼしい者どうし気が合いそうにも思えるが、必要なこと以外おたがい話そうとはしなかった。
最初はトワイルが気を使って二人を仲良くさせようとしていたが、一向に縮まらぬ二人の距離にしだいに諦めてしまった。
会話自体はあまりないが仲が悪いというわけではなさそうだったので、まあいいかと思うようになったのだ。
二人とも気まずそうにしている感じでもないので、どうやら彼のひとり相撲だったらしい。
三人のなかで最年少のトワイルがひとり気をはくというのもおかしな話ではあるが。
「……お腹へった」
シャリークはお腹をさする。
講義の日はいつも一緒に食堂で食事をとっているのだが、訓練に熱中するあまり、もうお昼の時間はすぎていた。
「うーん」
トワイルは迷うようにうなる。
シェフに言うのは簡単だが時間を守っていないのはこちらの落ち度だ。
立場が上だからと押しとおすような傲慢さはない。罪悪感を抱いてまで命令するのはどうかと思う。
とはいえ、シャリークの望みを無碍にはしたくない。
いまから作るように命じるのははばかられるが、間をとって軽いものを頼むくらいならさして問題ないだろうか。
まだ時間に余裕もある。
「簡単なものなら食堂でつまむ時間くらいはあるかな」
「そうしたい」
「では厨房に伝えてまいります。
トワイル様とシャリーク様は食堂にてお待ちください」
「うん、わかった」
屋敷へと入っていく三人。
裏手の扉が閉じるにあわせて、さっと風が通り過ぎる。
ふわりと舞う落ち葉に秋の色は薄く、乳白色の液体をたらしたような青空はぼんやりとしている。
しんしんとした風は、近く木枯らしが到来することを予見しているようだった。
◇◆◇
食堂で軽く食事をすませると、話は食後の予定に。
「今日は大丈夫なんだっけ? 孤児院の手伝い」
「ええ、時間をもらってきたから。ちゃんと付き合えると思う」
「よかった。僕だけじゃどこへ行けばいいかわからないから、助かるよ」
二人が話しているのはこの後の街への繰り出しの件について。
二年前にくらべだいぶ身体の強くなったトワイルであったが、街へ外出するということはあれから一度もなかった。トラナヴィが認めなかったのだ。
身体のことを理由にされては、トワイルにはなにも言えない。
「トワイル様、私は先に着替えてまいりますね。この格好では目立ってしまいますから」
マリッサは自身のメイド服をつまんで見せる。
街中を歩くのにその格好では悪目立ちしてしまうのは明らかだ。
「そうだね、じゃあぼくらは先に母様のところへ行っているね」
「はい、かしこまりました」
三人が席を立ち食堂から出たところで、トワイルがなにかにぶつかった。
「わっ」
彼よりも一回り小さい、坊ちゃん刈りの少年がぽてんとすっころぶ。
まだ小さい、こどもこどもした愛らしい子。
びっくりしつつも倒れた少年に手を差し伸べる。
「だいじょうぶ? フォン。怪我は? ない?」
「ぅぅ、はい。すみません、お兄様」
パーシーよりも一段と色素のうすい頭を揺らし、フォンはお尻を何度もさすった。
無垢な瞳がトワイルを見て、ほころぶ。
「お兄様はもうお食事はすんだのですか?」
「うん、もうすませたよ」
「そうですか……、残念です。
お昼寝がながびいて、ごはんは今からなんです。
いっしょに食べられたらよかったんですけど」
フォンはしゅんとする。
あからさまに気落ちした風の弟は歳相応でほほえましい。これが演技であればたいしたものだが、さすがにそうとは思えなかった。
兄弟だからということもあるが、小さな子犬のようになついてくる姿に悪意を見ることはどうしてもできない。
フォン・セアリアス。セアリアス家の次期当主。歳はわずかに八歳。
側室の長男と正室の次男。
伝統ある貴族家にあって、足の取り合いや蹴落としがあってもなんらおかしくはない関係だ。
とりわけ、身体は弱いながらも神童と呼ばれている長男が跡目に選ばれなかったというのはよほど平民の血をうとんじる家ではないかぎり、他家からしたら奇妙に映る。
中には、優秀な平民を娘婿や嫁として受け入れる家もないではないのだから。
なにか外からでは見えない大きな事情でもあるのではないかと勘繰られても致し方ない話ではある。
事実、屋敷の中には二人の間に確執を想像する者も少なからずいたが、それはあくまでも母であるティミーダによる一方的な見方であって、幼いフォンには次期当主だのなんだの言われてもよく理解できなかった。
母であるティミーダが兄であるトワイルと極力会わせないようにしたり、仲良くすることを禁じたりするのもなぜなのかわからない。
一度反発したときにしこたま怒られてから、フォンは反抗するのを止め母の従属下に入ることとなった。
本意ではなかったが抗うには相手が巨大すぎた。
彼のそういった面をおぼろげながら察していたトワイルは、弟に対して反感を抱く気になれようはずもなかった。
接する時間はほとんどなくとも、弟は弟。
自分よりもさらにか弱き守らねばならない存在。
いずれは当主として自分の上に立つのだとしても、今は大切な肉親としてできれば仲良くしたかった。
住む家は異なれども寄る家は同じであるはずなのに、滅多に接点を持つことのない弟と。
「フォン」
頭を撫でようとして、パシりと鋭い音がその手を払った。
「なにを騒いでいるのですか」
抑揚のない声がひびく。
トワイルの手を払ったのは青白い不健康そうな、綺麗な手。きらびやかな宝石がいくつもはめられた細くながい指が宙で止まっている。
長男長女よりミルクの強目な長髪を波立たせ、両肩から思い切りよく切り込みが入った良質な白のローブに青の豪奢なローブを重ね着した背の高い大人の女性。
フォンの母であるティミーダだ。
すずやかな口元は紅。
目を合わせれば冷淡な色の瞳に背筋がぶるりと震えた。
マリッサはコウベをたれる。
「お騒がせして申し訳ございません、奥方様」
ティミーダの突き刺すような目つきが三人に刺さる。
初めて会うシャリークはぞくりと背筋を這い上がるものを感じて、本能的にトワイルの背後に隠れた。
「すみま――」
「マリッサ、子供の教育もできないのですか。
フォンは次期当主。怪我でもあったらどうするのです」
トワイルの言は最後まで終わることなく阻まれる。
抑揚に乏しい声という点ではシャリークやマリッサと似ているが、二人に比べて彼女にはあまりに温かみが欠けていた。
払暁の森深く、霧がかった大地、光がさしこむ前に眠りにつこうとしているモノの、夜に生きるモノの息吹きのように、彼女の口から出てくるのは心胆寒からしめる響きで。
肌の青白さとあいまって、血が通っていないのではないかと思わせるほどの冷たさだった。
言葉が飛ぶのは手の届かない頭上。
次期当主の部分が強調されたように聞こえたのは気のせいか。
「申し訳ございません」
「目障りです。さっさと連れていきなさい」
「はい、失礼いたしました」
ティミーダはトワイルに見向きもせず脇を通り過ぎる。
フォンはあたふたと三人に頭を下げて母の後を追った。
彼女に嫌われているということはトワイルにも理解できていた。
その理由についてもうっすらと把握できていたが、なぜここまで、という思いがないではない。
自身がこの世のすべてに祝福されているなどという純粋無垢な子供の感覚は、はるか昔に捨て去った。
誰もがみな自分を愛してくれるという幼き子供なら誰しもが抱いている独善的な幸福を、彼の境遇は許さなかった。
されども、トワイルとてまだ十歳の子供。
こうして直接的に誰かに強い悪意を向けられるのは心身ともにこたえる。
ぼーっと突っ立っている二人の背を、マリッサが押して進ませた。
「さあ、参りましょう。もたもたしていると日が暮れてしまいますよ」
表情のとぼしい顔に、今はなぜだか救われるような気持ちだった。
※紹介
ルークス・・・トワイルらの先生。お団子顔のハゲだが昔は結構イケメンだったらしい。導き手としての役割に苦心しているようだ。あぁ、疲れる。
トワイル・・・病弱な天才魔法少年。背が伸びたい。このままじゃルークス先生みたいにな――っ! いえ、先生、なんでもありません!
シャリーク・・・エルフの血をつぐ少女。トワイルをからかうのおもろ。
マリッサ・・・トワイル付きのメイド。ふぅ、この屋敷って人間関係複雑すぎるわ・・・。
フォン・セアリアス・・・セアリアス家の次男。次期当主。トワイルの腹違いの弟。かわいらしい姿のままの柔らかな気性。オカアサンコワイ。
ティミーダ・・・トラナヴィの第一夫人。フォンの母親。色白美人。背も高く威圧感がすごい。ふんっ、紹介文に品がありませんよ。