第29話
家から空港へと走っていき、その日一番早い飛行機に乗った。これがただの旅行なら空の旅を楽しむところだが、残念ながらそうではない。さっき知らないばあさんに「一人で旅行かい?」と聞かれた時は、「ええ、まあ」と曖昧な返事をした。いいえ、神の世界に行くんです。なんて言ったら、自殺志願者か変な宗教をやっているあぶない奴だと思われるだろう。
時間になり、飛行機が空へと飛び立つ。飛行機の窓から外を見て、あたしはなんとなく思った。もしかしたら日本の空を見るのはこれが最後かもしれないと……。
――日本を出て数時間。あたしは今、中国雲南省の空港にいる。
中国に来たのは2回目だ。前に来たのは小学校の夏休みの自由研究で、中国まで泳いで行ったらどのくらいかかるを調べたときだった。結果は30分くらいだったが、教師には信用されなかったな。
地図を開き、梅里雪山の場所を確認した。ここから結構遠いみたいだ。しかもいくつが山を越える必要がある。まあ、あたしの足なら方角さえ間違えなければすぐに着く。
軽く準備運動をし、走り出す。障害物はジャンプで飛び越える。なんだかアクションゲームのキャラクターになった気分だ。
町を駆け抜け山を越え野を走り、ようやく目的地に着いた。
さて、着いたはいいが、どこから登ればいいんだろ? まあいい、てきとーに登ればそのうち頂上に着くだろう。
あたしはとりあえず登り始めた。
飛んだり跳ねたり歩いたりしながら登り続け、20分ほどたった。半分くらいきたところで吹雪いてきて視界が悪くなり、前が見えなくなる。普通の人間なら死を覚悟するところだろう。
山登りというのは大変なものだ。体力がいかれているあたしでさえこんなにしんどいんだから、普通の人間には地獄の苦しみに匹敵するくらい辛いだろう。本来の体力があれば、山の頂上から山の頂上に飛び移れるくらい、あたしの跳躍力は並外れているはずなのだが、どうもここ最近調子が悪くてそれができない。具合が悪いとか病気とかではなく、単純に前ほどの力が出せなくなっている。この先、なに者かと戦うってなったとき、このままの状態で勝てるだろうか? それを考えると先行きが少し不安だ。
やがて頂上に着き、辺りを見回す。吹雪も止み、よく晴れている。見渡す限り、おそらくここが一番高い。良い眺めなので、記念にスマホで写真を撮っておいた。
ふむ……ここであれを言うと神の世界の扉が開かれるらしいが、やはりうさんくさい。
あたしは頂上に腰を下ろし、ぼーっとした。
世界にはこんな素晴らしい景色があるんだなぁ……。
登山家がなぜ命がけで山登りをするのかちょっとわかったような気がする。普通の人間はもっと苦労して登るから、今のあたしよりもずっと感動は大きいだろう。まあ、普通はここに来るまでに雪崩で死ぬだろうけど。
登る途中、何度か雪崩にあった。そのたんびに高く跳んで回避してきたが、普通なら死ぬ。運よく生きていたとしても、登山を続けるのは難しいだろう。
――達成感。そんな見えもしない、売れもしないものに命をかける登山家は、勇気ある立派な馬鹿だなぁとしみじみ思った。
それからしばらくして、あたしは立ち上がる。あの言葉を言うためだ。言うだけなら立たなくてもいいんだが、なにが起こるかわからないので、一応立った。
…………なんだったっけかな? いかん、忘れてしまった。と、こんな時のためにスマホを持ってきたんだ。
あたしはスマホを取り出し、あの時の会話を再生した。
念のため録音しといてよかった。
生徒会長室に入った時から録音を始めたので、序盤何分かはあたしと最狩命の関係ない会話が続いた。そしていよいよあの言葉が再生される。
…………ん? 再生されない。どうしたんだ?
突然再生が止まってしまった。充電が切れたわけではなさそうだが……。
『神……君を……待……』
かすかになにか聞こえる。ボリュームを上げてみたが、音量はかわらない。しかたないのでスピーカー部分に耳を近づける。
『神鳥千鳥。君を待っていた』
その声が聞こえた瞬間、あたしの体はなにかに吸い込まれ、その場から消え去った。
……
どのくらい経っただろうか?
うつ伏せで倒れていたあたしは体を起こし、あぐらをかいた。
辺りを見渡すが、なにもない。なにもない部屋とか、なにもない草原という意味ではなく、本当の意味でなにもない。360度見渡す限り真っ白の、なにひとつない場所だ。真っ白な空には雲も太陽もなく、真っ白な地面には凹みも突起もない。
なんだここは?
恐ろしく気味が悪いところだ。夜の墓場なんかの方が、よっぽどましかもしれない。
「誰かいないかー!!」
立ち上がり、大声で叫ぶが反応は無い。スマホは当然圏外。どうしていいかわからず、途方に暮れる。
もしかしてここが神の世界なんだろうか? ということはここにフレディが? あの欲の皮の突っ張ったフレディがこんななにもないところに?
……にわかに信じがたいが、そう考えるしかないだろう。そうでなければあたしは最狩命にまんまと騙されたことになる。それは悔しい。
そういえばさっきのスマホから聞こえた声はなんだったんだろう?
もう一度スマホで録音した音声を再生してみるが、さっきの声は入っていない。なんとも不気味で気持ちが悪い。
スマホをしまい、とりあえず歩くことにした。
1時間ほど歩いただろうか。精神的に疲れ、うんざりしてきた。歩けど歩けどなにもない。風も吹かないし、においもないし、暑くも寒くないし、一体なんなんだここは?
ふたたびあぐらをかき、あたしは持ってきた板チョコを鞄から出しかじった。
このままじゃ埒が明かない。どうするか……。
あたしは目を瞑り、この先のことを考えた。
「無駄だよ。この状況で的確な答えが出せるほど、人間の頭は良くできていない」
突然近くで声がした。当然あたしは目を開き、それを見る。
「なんだお前は?」
10メートルくらい離れた場所に、高級そうな椅子に座って本を読んでいる子供がいた。歳は8~10歳くらい。性別は女だろうか? あたしは不思議とその異様な光景に違和感を持たなかった。それほどに、あたしは異様な状況というものに慣れてしまっていた。
「僕の名はスブル。神だ」
その子供は本から目を離さずそう答えた。
神? ならやはりここは神の世界なのか。
普通なら得体の知れない子供の言うことなんか信じないが、この状況だ。こんなところに普通の子供がいるという方がおかしい。仮に神というのが嘘であっても、ここについてはあたしより知っているだろう。
「ここはどこなんだ?」
「神の世界」
スブルは、あたしの質問を簡潔に答えた。
「ならフレディ……いや、フレンティーユという神を知っているか?」
「知っている」
めんどくさそうなわけでも、積極的なわけでもなく、ただたんたんとスブルはあたしの質問に答えていく。
「どこにいるか知っているか?」
「知っている」
「どこにいるんだ?」
「その前に、君はなぜここにいるのかを知る必要がある」
スブルは微動だにせずにそう言った。
「どういうことだ?」
「君は死ぬためにここにいるんだよ」
あたしは身構えた。そしてわかった。
――敵はこいつだ。
「なるほど。てめーか最狩命を使ってあたしを殺そうとしたのは」
「失敗したけどね。まあ、君には一度会ってみたかったし、結果的にはよかったのかな」
安堵した。フレディではなかった。あたしを殺そうとしていたのはフレディじゃなかったんだ。それなのにあたしは疑っちまった。ダチを疑うなんて最低だ……。
心の中で、あたしは何度も自分を責めた。何度も何度も何度も。
「なぜあたしを殺そうとした?」
「君は実にイレギュラーだ。神であるならば修正したいと思うのは当然だろう」
なんとなく言っていることがわからない。イレギュラー? 修正? なにを言っているんだ?
「フレンティーユを乗っ取る過程で君の存在を知ってね。まさかこんなイレギュラーが僕の世界に存在していたなんて知らなかったよ」
「フレンティーユを乗っ取った? てめーフレディになにしやがった?」
僕の世界というのも気にかかったが、まずはフレディのことが気になった。
「君は質問ばかりだね。つまり弱い神から世界を奪ったっていうことさ」
最初よりも饒舌になったが、相変わらず目線は本から離さない。
「フレディはどこだ? 会わせろ」
「かまわないけど、その前に彼女が君に用があるみたいだ」
スブルは本を読みながら人差し指を前に一本出す。するとスブルの前に一人の人間が現れた。――最狩命だ。最狩命は現れると同時、スブルに向き直り跪いた。
「お呼びいただき感謝いたします。スブル様」
頭なんて絶対に下げなそうなあの女がスブルに対して頭を下げている。相手は神なのだから、当然といえば当然だが。
スブルには妙な威圧感があり、フレディよりも神という雰囲気はある。とはいえ、それはあたしの感想であり、神としてそれが正しい姿なのかはわからない。
「君の望みは叶えた」
最狩命は立ち上がり、今度はあたしに向き直った。
「ありがとうございます」
言いながら、あたしを睨んだ。
どうやらやる気らしい。
「前と同じ結果になるだけだぞ」
「わたくし言いましたわよね。油断したと――ッ」
仕掛けてきた。
ついこの間負けて、また挑んでくるとは負けず嫌いな女だ。
腰を落とし、レスリングのような体勢で向かってくる最狩命に対し、あたしは素直にそれにむかって右拳を振るった。
それを読まれていたのか、素早く右に避けられる。そして後ろに回りこまれ、両手で腹を覆うように掴まれたと思ったら、そのままジャーマンスープレックスで後方に叩き落された。
……やはり体が思ったように動かない。どうしたってんだ一体。
「鈍い……ですわね」
「悪かったな」
ジャーマンスープレックスをかけられたみっともない体勢のまま、言葉を返す。
最狩命はあたしを解放してゆらりと立ち上がる。
「立ちなさい。その程度ではないはずですわ」
仰向けに倒れながらあたしは考えた。この女は強い。本調子じゃないとはいえ、あたしとここまで戦えるんだ。並ではないだろう。
立ち上がり、目の前の最狩命を見据える。
しかし、この女はなぜこうもあたしと戦いたがる? スブルの命令だからか? それだけではないような気もするが。
最狩命の目には、なにか強い憎悪のようなものが感じられた。
「てめーはどうもあたしを嫌いなようだ。いや、憎んでいると言ってもいい。あたしもてめーは嫌いだが、てめーは初めて会ったときからあたしのことを嫌っている様子だった。もしかしてどこかで足でも踏んだことがあったかな?」
冗談を交えてなんとなく聞いてみる。
喧嘩なんかを常日頃やっている手前、恨みを買うことは多い。しかし、こんないいとこ育ちのお嬢様をぶん殴ったことがあっただろうか? いや、ない。あたしに喧嘩を売ってくるのはいつも不良ばかりだ。
「……いいですわ。少し話して差し上げましょう」
構えを解き、最狩命は語り始めた。
「あれはわたくしが小学生の時でしたわ。わたくし、幼少の頃よりあらゆる格闘技を学び、同世代では男性を含めて最強と自負しておりました」
確かにこいつほどの強さなら、自分を最強と錯覚してもおかしくないだろうな。
「ですがそれは大きな勘違いだと気付いた出来事がありました。忘れもしない、4年前の12月25日の出来事。その日わたくしはクリスマスのパーティー会場に向かうため、お父様の車に乗っていましたわ。クリスマスに雪が降り、わたくしは気分が高揚しておりました。そんな時、車の前からフラフラと走る大きなトラックがやってきましたの。後で知ったことですが、積もった雪の影響でハンドル操作を失い、ブレーキもきかなかったそうですわ。お父様は必死にハンドルをきり、避けようとしましたがもう間に合いませんでした。ぶつかると思った瞬間、わたくしは目を瞑りましたわ。でも、不思議といつまでたってもぶつかった衝撃はきませんでしたの。わたくしが恐る恐る目を開けると、そこには異様な光景がありました。わたくしと同じくらいの女の子が、片手でトラックを受け止めていましたの。目を疑いましたわ。だってそうでしょう? 人間が、それも小学生くらいの女の子が暴走するトラックを片手で受け止めるなんて、普通ありえませんわ」
なつかしそうに、しかしどこか恨めしそうに、最狩命は語る。
「わたくしは命を助けてくれたその女の子に感謝しましたわ。それと同時に憧れました。名も告げず、その女の子はすぐにどこかへと行ってしまいましたが、わたくしはその名も知らぬ女の子のように強くなると心に誓いましたわ。次の日からいつものトレーニングを倍以上に増やし、わたくしは益々強くなりました。きっとあの女の子のように強くなっている。そう信じていました。ある日、偶然あの時の女の子を街で見かけましたの。わたくしは車を止めてもらい駆け寄り、まずはあの時のお礼をいいました。女の子はあんまり覚えていない風な顔をしていましたわね。その次に手合わせをお願いしましたわ。女の子は断り、背中を向けて立ち去って行きましたが、わたくしは我慢できず後ろから仕掛けましたの。すると突然女の子は振り返り、わたくしの額を人差し指でトンと押しましたの。わたくしは大きく吹き飛び、仰向けに倒れました。倒れているわたくしに対し、女の子がこう言いましたわ『弱い』と」
弱い、その一言を言った瞬間、最狩命はあたしを強く睨んだ。
「悔しかったですわ。でも、彼女はわたくしよりも過酷なトレーニングをしている。そう思うことで納得できましたわ。ですが現実は違いました。女の子がどのようなトレーニングをしているのか気になり、お父様に頼んで調べてもらいましたの。ですがその女の子はトレーニングはおろか、体育の授業をサボるような子でしたの。なにかの間違いだと思いましたわ。ですが、間違いではありませんでした。その女の子はなにもせず、圧倒的な強さを持っていたのです。その瞬間、憧れは憎悪に変わりましたわ。才能だけでわたくしがほしい全てのものを持っているあなたに対して!」
強い憎悪。自分がこんなにも恨まれていたとは露と知らなかった。
「スブル様はあなたの存在を間違いと認めてくださり、修正すると仰せになりました。わたくしは神のお言いつけに従い、あなたという間違いを修正する、不正を正す、正義ですわ」
最狩命はふたたび構えをなす。
お話タイムは終わりのようだ。立ち上がり、右腕をグルリと回す。
「ですがあなたには感謝していますわ。あの時、命を助けてもらわなければ、あなたを殺すことはできなかった」
「する必要ないぜ。あの時は横断歩道を渡っている途中、トラックが突っ込んできたから自分の身を守っただけだ」
「それを聞いて安心しましたわ。これで心置きなくあなたを殺せる」
今度は相撲の構えをとった。
こいつ相撲までやるのか。
しかし、たっぱがない。いくら技術があっても、たっぱがなければ生かせないだろう。
先程と同じく腰を落とし、突進してくる。あたしはなにもせず、相手の出方を待った。目の前まで来ると突進の勢いのまま右手を振り上げ、最狩命が手の平を広げた。
これは張り手か。
体に当たったら腕を掴んで投げ飛ばしてやろう。そう思った瞬間、最狩命の体が2倍近くに膨れ上がった。