第19話
休日の早朝。
寝起きにもかかわらず、あたしのテンションは高かった。
面倒な学校に行かなくていいからではない。もっともっとうれしい事があるからだ。それは昼に来る。
あたしはとりあえず朝飯を食うため、階段を下りて居間に行く。
顔洗ったり歯を磨いたりするのはあとでいいか、来るのは昼だし。
だが居間に入った瞬間、そのだらけた考えは180度変わる。
「おはよう千鳥。いや、まずはただいまかな」
テーブルの前で姿勢正しくザブトンに座り、こちらを見ながらにこやかに笑う人物。
その人物を見て、あたしは慌てて乱れた寝巻きと乱れた髪を直した。
「え? あ、兄貴? 帰ってくるのは昼ごろじゃなかったのか?」
声が上擦る。それもしかたがない。
目の前のこの人物はあたしの尊敬する5つ上の兄貴、神鳥万鷹。
あたしと違って頭が良く、今は留学して海外の有名1流大学に通っている。
大学が長期休暇に入ったので、今日の昼ごろに帰ってくる予定だった。
「驚かしてやろうと思って、少しだけ早く帰ってきたんだ。どうだ? 驚いたろ?」
歯を出してニカっと笑う兄貴。
我が兄貴ながら、本当に整った顔のイケメンだ。
これで頭が良くて運動神経バツグンでやさしいんだから、まさにチートってやつだろう。
「あ、ああ、ま、まったく人が悪いなぁ、兄貴は。とにかくおかえり」
自分の兄貴なのになぜか緊張する。だってかっこいいもんなぁ……。
いかんいかん、あたしはブラコンじゃない。断じてブラコンじゃない。
「ごめんごめん、お、そうだ土産があるんだ」
そう言って兄貴は鞄をまさぐった。
「あ、その前にあたし、顔洗って歯磨いてくるわ」
いつまでも、洗っていない顔に磨いていない歯で兄貴の前には居れない。
あたしは洗面所に向かおうと、体の向きを変える。
――と、その時、2階から階段を下りてくる、だるそうな足音が聞こえた。
その足音の主はまっすぐと居間までやって来て、あたし達の前に姿を見せる。
「おふくろ朝飯……うん?」
そいつは兄貴を一瞥だけすると、なにも言わずにテーブルの前のザブトンに座り、テレビを見始めた。
「ただいま百舌奈」
おかえりの一言もない無礼なそいつにも、兄貴はあたしの時と同じように笑顔でただいまと言う。
そいつはテレビから視線を外さず、ただ一言。
「ああ」
こいつがあたしの姉貴じゃなかったら、軽く小突いてやるところだ。
この無礼極まりない女はあたしの姉貴、神鳥百舌奈。
アホでだらしなくて不良でほとんど学校にも行かない、あたしの2つの上のダメ姉貴だ。
毎回赤点ギリギリ、出席日数もギリギリだが、進級だけはなんとかできてるらしいので今は高3。
中学までは成績が良く、高校はそれなりの進学校に行ったが、なぜかグレてこうなった。
あたしは姉貴になにも言わず、洗面所に向かう。
たぶん言っても無駄だし、喧嘩になる。
・
・
・
洗面所から戻ってくると、かーちゃんが朝飯の準備をしていた。
兄貴はそれを手伝っている。アホはテレビを見てヘラヘラ笑っている。
お前が手伝えよ。まったくこれだから不良は……。
ちなみにあたしは、喧嘩をするが不良ではない。基本、自分から売らないしな(強そうな奴には多少、売りたくなることもあるけど)。
売られる原因はこいつだ。このバカ姉貴があっちこっちで喧嘩して勝つもんだから、妹のあたしまで報復とかでとばっちりを食らう。
あたしの方が圧倒的に喧嘩が強いのに、バカな奴らだ。まあ、姉貴より身長が20cmくらい低いから、弱そうに見えるのかも知れんけど。
……
朝飯を食い終わり、兄貴はとーちゃんと話を始めた。
久々にも出来の良い我が子と話すとーちゃんは楽しそうだ。
3つ下の出来の悪い方はダチと遊んでくると言って、どこかへと行った。
5つ下の出来の悪い方は話に混じりたそうに兄貴ととーちゃんを見ている。
話に入りたいが内容が難しすぎて入れない。
言わずもがなに頭の良い兄貴と、よくわからんけど頭が良いらしいとーちゃんの会話。
セージとかケーザイの話をしているみたいだが、あたしにはわからん。
一旦、部屋に戻るか話が終わるのを待つか、どうしようか2人をチラチラと見ていると、それを察したのか兄貴がこちらを向いた。
「そういえば千鳥にお土産を渡していなかったな。えっと……ほら」
兄貴が鞄から何かを取り出し、あたしに渡す。
土産の催促をしていると勘違いされてたら嫌だなぁ。あたしは兄貴と話したいだけだし。
少し複雑な気持ちで土産を受け取る。
「あ、これ……」
それはあたしが好きなアメリカの人気ロックスターのサイン入りCDジャケットだった。
「千鳥、前にこのロック歌手が好きだって言ってただろ。向こうの友人でこの人の親戚がいてな、会わせてもらって、頼んだら喜んでサインをくれたよ」
そう言いながら、兄貴は笑った。
うれしい。サイン入りCDジャケットをもらったことよりも、兄貴があたしの好きなロックスターを覚えていてくれたことがうれしい。
これもう勢いで兄貴に抱きつけるんじゃないかな?
と思ったが、さすがにそこまでする勇気はなかった。
「あ、ありがとう、兄貴」
顔が熱い。
赤くなった顔を見られたくないので、もらったCDのジャケットで顔を隠す。
こんな姿を麻美や真理香に見られたら絶対に笑われる。
「うん、喜んでくれてうれしいよ、千鳥」
頭になにか触れたかと思って、CDのジャケットを目の下まで下げると、目の前に兄貴の顔があった。
頭に触れているのは兄貴の手。兄貴があたしの頭を撫でてくれているのだ。
「あ、あああああ兄貴、あの……」
さらに顔が赤くなる。
この後なんて言ったらいいかわからない。
どこを見ればいいのかもわからず、目も泳ぐ。
「そうだ、千鳥、ちょっと散歩にでも行かないか? ひさしぶりにこの辺を歩きたいんだ」
それってデートか?
これ以上あたしを惑わせてどうしようというのだ。まともじゃいられなくなる。もちろん行くけど。
「じゃ、じゃあ、ちょっと着替えてくるよ」
返答は待たず、パタパタと駆け足で階段を上って行った。
・
・
・
着替えが終わり、鏡で自分を見る。
こんなにおしゃれをしたのはいつぶりだろう。
今から行くのは近所の散歩。しかし、友達とちょっと遠くの繁華街に行くときでもこんなにおしゃれはしない。
あたしはひさしぶりに自分が女だということを自覚した。
階段を下りると兄貴が玄関で待ってくれているのが見えた。
待たせてしまって悪いな、と思いつつ、早足で玄関に向かう。
「お待たせ、兄貴」
伏し目がちで兄貴の前に立つ。
普段は着ないような服を着ているので、少し恥ずかしい。
「お、しばらく見ない間にずいぶん女らしくなったな」
言いながら、兄貴はあたしの頭をふたたび撫でてくれた。
この言葉を兄貴からもらうためにあたしは生まれてきたんじゃないか。
そう思うぐらい、兄貴からのこの言葉はうれしかった。
……
いつも歩いている近所の道を、兄貴と並んで歩く。
ガキの頃もよくこうして2人でこの道を歩いた。
兄貴がどこかに出掛けるって時は、あたしもついて行くと、いつもわがままを言い、そのたびに兄貴は嫌な顔一つせずにあたしの手をひいて連れて行ってくれたっけな。
あたしの手をひくその手はたのもしく、暖かった。今ではさらにたのもしくなり、あたしの手のすぐ近くにある。
届きそうで届かない兄貴の手。この歳でつなぐのはやはり恥ずかしいかな?
「ん? なんだ、おにいちゃんと手をつなぎたいのか?」
意地悪っぽく言う兄貴。
つなぎたいって言ったらきっとつないでくれるんだろうな。
でも言えない。言葉が出ない。いくじなし。
俯きながら自分を卑下していると、突然、手に暖かい感触が。
「あ、ああに、あに、兄貴?」
今日があたしの命日か。
兄貴があたしの手を握ってくれている。
神様ありがとう。今日までこの手が健在だったことを感謝します。
「ははは、懐かしいな。子供の頃もこうしてよく手をつないだ」
笑う兄貴の横顔が眩しい。
擦れ違う女はみんな兄貴を見ている。
もらったラブレターは数千枚。バレンタインになればトラックが数台必要になるくらいチョコをもらい、一緒に繁華街を歩けば逆ナンやスカウトだらけでまともには歩けない。
まさに本物のイケメン。……そんな兄貴に彼女がいないはずないよなぁ。
聞いてみるか? 万が一兄貴に変な虫がついていたら心配だしな、妹として。あくまで妹として。
「あ、あの、兄貴?」
「うん?」
兄貴がこっちを向く。
妹として心配だから聞くだけだ。
なにも緊張することはない。だがいたらどうする?
平常心を保てるか? 今でも平常心を保ててないのに?
ええーい! 聞いても聞かなくても結果は変わらん! 聞くぞ! 聞くぞ!
散歩は近所の河川敷にさしかかり、そこであたしは声を絞り出す。
「あ、あああ兄貴は、かっかかかの――」
と、その時、高架下の方から争うような声が聞こえてきた。
ふと、そっちの方に視線をやると、数人が喧嘩をしていた。
誰だこんなところで昼間っから喧嘩している馬鹿は。
ここから見てわかる限りでは、たぶん数人の男女がひとりのでか女と喧嘩をしている。
数人対一人。この状況、普通ならいじめに見えるが、それが喧嘩に見えるのは、ひとりのほうが数人をボコっているからだ。
そしてあたしはあのでか女に見覚えがある。
……姉貴だ。
兄貴も気付いたらしく、なにも言わずにあたしの手を離して、その現場へと向かう。
手を離したのは、あたしにはここで待っていろという意味なんだろうが、さてどうしようか。
あたしが喧嘩強いのは、もちろん兄貴も知っている。ここに置いて行ったのは、喧嘩に巻き込んで学校を停学とかにさせないためだろう。
兄貴は合気道の有段者。あたしと姉貴がこんななせいか、ある程度、喧嘩慣れもしている。
いざとなったら駆けつけよう。
そう決め、とりあえずはここで見ていることにした。
・
・
・
しばらくして兄貴が姉貴を連れて戻ってきた。
怪我はないみたいでよかった。姉貴は知らん。自業自得だし。
「怪我してないか? 百舌奈」
兄貴は姉貴が心配なようだ。
「見りゃわかんだろ」
と強がってはいるが、顔にかすり傷がある。
「ここんとこちょっと切れてるぞ。家に帰って手当てした方がいい」
おもむろに兄貴が姉貴の腕を掴む。
「ちょ、離せよ!」
嫌がる姉貴。
それを無視し、兄貴は姉貴を引っ張って歩き出す。
まったく、楽しい散歩が台無しだよ。
こんなところで喧嘩していた姉貴を少し恨みながら、あたしは2人の後を付いていった。
……
深夜。
そろそろ寝ようと思った時、スマホにメールの着信があった。
誰だこんな時間に。あたしはスマホを操作し、メールを見る。
件名『すぐに10万円ほしくないですか?』
なんだ迷惑メールか。すぐに削除しようとしたが、アドレスに見覚えがあった。
誰のアドレスだったけな、これ。
気になり、メールを開いてみた。
『チート転生者を倒して10万円。ほしいあなたはすぐにベッドで寝てください』
…………。
あたしはスマホの電源を切り、ベッドで横になった。