流れるままに!
例えばある日、亀を助けた女子高生が、竜宮城ならぬ異世界に身一つで放り出されたとして。
何の才能も美貌も特殊技能も持たないその女子高生に、その日のうちに救い手が見つかり、飢えることも徒に傷付けられることもなく庇護と生活の保証を手に入れられる確率というのは、一体どれほど高いのだろう。
けれどそれは、道端でたまたま落ちていた五百円玉を拾うなんてこととは、比べ物にならないほど低い確率だと。
少なくとも、黒瀬鈴はそう思う。
「う゛あ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!! う゛あ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!! 嫌だあ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁ!!! 放してぇぇぇぇぇぇ!!! 放してよおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉう゛え゛ぇぇぇぇぇぇあ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
「はいはいクロ、良い子にしててねー」
豪奢な装飾を施された玄関ホールに声を響かせ、この世の終わりかのように泣き叫んでいるのは、クロと呼ばれた黒髪黒目の少女だ。
正しい名を鈴という彼女は、しかしこの屋敷に住むようになってから、数えるほどしかその名で呼ばれたことがない。
本来は艶のある髪をバッサバッサと振り乱し、まさしく形振り構わぬという表現が正しい体で、彼女はひたすら物理的な抵抗を抗議と代えているようである。
そして、そんな鈴を片手で担ぎ上げて平然と歩いているその青年は、細面の美貌にニコニコと愉しげな笑顔を浮かべながら、傍らに控える執事に指示を与えていた。
こちらは紫がかった長い艶やかな黒髪に、切れ長の目は白銀を垂らした夜の色。
今年で十九歳だという顔貌はどこか油断のならない蛇か狐を想わせて、しかし常に口角を吊り上げている無邪気げな笑顔が人の警戒心をじわりと溶かす。
しばらく屋敷を空けるからと、さくさく注文を言い残していく彼の名を、ユイス・カーレル。
このカドリナ王国の歴とした第四王子にして――異世界トリッパー・黒瀬鈴の、現在の保護者だったりする。
さて、そんな異様な二人の姿。
スカートがちらちら捲れるのも構わず足をばたつかせている被保護者を見下ろして、ユイスは器用に肩を竦めてみせた。
細くも鍛えられた腕にがっちり抑えられて泣き叫んでいる鈴だが、別に可哀想な仔牛の如く売られて行こうとしているわけではない。――単に、もっと直接的に命の危険がある場所へ、同行を求められているだけで。
「もういい加減諦めなよ、クロ。この半年、僕がお前を置いて出かけたことなんて一度でもあった?」
「ないから怖いんですよお゛ぉぉぉぉぉ!! 毎回毎回毎回毎回、任務のたびに連れ出されて、あんたあたしにどうしろってんですか! 自慢じゃないけど、あたしは物陰でガタガタ震えるしか能がない凡人なんですよ! 戦闘なんか見てたって、解説係にすらなれないスペックなんですからね!」
「お前にそんなこと期待してないよ。ペットはご主人様の傍にいるのが仕事だろう?」
「ご主人様の帰りを良い子で待ってるのがペットの仕事ですうぅぅぅぅぅ!!」
――意味も分からず異世界に落とされ、彼に拾われたあの日。
鈴はもう、一生分の驚愕と不運を使い果たしたのではないかと思うほどショックを受けた。
だからこそ、迷わず手を差し伸べてくれたユイスに、彼女は心からの感謝と恩義を感じている。
感じている、のだけれど。
(でも、だからと言って――これはないでしょう!)
何せこのユイス、王族でありながら大層優秀な軍人でもあるらしく、紛争だの野盗退治だのモンスター退治だの、あらゆる場面に引っ張りだこなのは良いとして、その任務に例外なく鈴の身柄まで連れて行くのだ。
百歩譲ってペット扱いは許容するとしても、矢だの魔法だのがガンガン飛び交う戦場に連れて行かれるのは、どう考えても納得いかない。と言うか、納得したら死にそうな気がする。
僕のペットなんだから、付いて来るのは当然だよね、とか。
正直ユイスが王族で、部隊の責任者でなければ、あらゆる意味で許されない暴挙である。
けれど現実には、親兄弟にすら一目置かれているらしい第四王子に、頭ごなしに命令できるツワモノなどいるはずがなく。
従って、誰にも助けてもらえない鈴は、毎回毎回、懲りずに逃げる。
そしてユイスにあっさり捕まり、しっかり戦場に連れ出され、逃げ回ったり隠れ場所を探したり、ともかくひたすら泣き叫ぶことになるのだ。
鈴の絶叫混じりの訴えに、ユイスはてきぱきと指示を続けながら、あははと笑ってこう言った。
「うんうん、だから、ちゃんと良い子で待っててよ。今回は隣国との小競り合いで、ちょっと期間は長引くと思うし、もしかしたら前線は結構な激戦区になるかも知れないけど――まあお前の寝床は、僕の天幕にきちんと作ってあげるからさ」
「おがあざあ゛あぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!!!」
「……物凄く泣き喚いていますね」
「……まあ、泣くでしょうな」
そんな青年と少女の姿を、複雑そうな目で眺めながら。
まだ若い青年と、壮年の男の二人――ユイスの副官の地位を任せられている彼らは、ぼそぼそと感想を交わし合った。
心底怯え切って泣き叫ぶ少女は、正直哀れに思わないはずもないのだが――如何せん、自分たち如きの提言で主を止められる気がしない。
何せ、クロセ・スズと名乗る少女が主の元にやって来てからこっち、彼らは主の行動に未だかつてない驚愕ばかりを与えられているのだ。
鈴がどう思っているのかは知らないが、ユイスの鈴への待遇は、正しく破格と言うに相応しい。
菓子が好きだという少女のために自ら菓子屋へと足を運び、文字を教え、本を与え、任務に行く時でさえ片時も離さず傍に置いて。
あの矜持の高い主が、明らかに格下である相手に(たとえ格上であろうとも)「あんた」なんぞと呼ばわれて、けらけら朗らかに笑っている姿を見るなど、彼らは想像すらしたことがなかったのだ。
近隣諸国からカドリナ王国の毒蛇と恐れられる第四王子がああも誰かを傍に置くことも初めてなら、泣いて嫌がる少女を全開の笑顔で担いで歩くなんてことも前例がない。
いつだって冷めた笑顔で他人を睥睨し、媚びを含んだ目で縋ってくる数多の手を嘲笑して、たとえ親族だろうと去る者を追わず自らは踏み込まない無関心主義者こそが、彼らの知るユイス・カーレルだったというのに。
「……クロセは、今回こそ逃げられると思いますか」
「……無理でしょうな」
彼らが気の毒そうに眺めている前で、泣き濡れた鈴を見つめるユイスが、はあ、と陶然とした溜息を吐いた。
どこか化生じみた怜悧な美貌を誇るユイスだが、そんな顔をすると信じがたいほど妖艶さが匂い立つ。
どんな美女にも見せたことのないその表情を惜しみなく向けて、毒蛇と呼ばれる第四王子は、ぐすぐす情けなく鼻を啜る少女の頬を、するりと優しく撫で上げた。
「泣いて怯えるクロは本当に可愛いなあ……。いっそ敵陣に突っ込む時も背負って行こうか」
「い゛や゛あ゛あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
鈴の暴れ方が一層酷くなった。
肩の上で瀕死の魚の如く暴れ狂う少女を、ユイスは「あははははは!」と大笑いしながら抱え直す。
一片の曇りもないその笑顔は、夢中で欲していた玩具をようやく買ってもらえた子供のようで。
「……ユイス様、満足そうですね」
「……心から満足そうですな」
諦めたように呟き合って、彼らはひたすら騒がしい主とその『ペット』から視線を逸らした。
触らぬ神に祟りなし。
神より怖い目前の主君は、今日も元気な生贄娘に大層ご機嫌な様子である。
《登場人物》
※黒瀬鈴
元、地方在住の高校生。家の方針で高校卒業まで携帯電話を持たせない約束になっていた、黒髪黒目の十六歳。
性質は凡人。どこまでも凡人。ただし「生き延びること」に関してのみ、天才的な才能を持っている。そこそこに人が好く、そこそこに自分の身が可愛い、至極常識的な思考の持ち主。
異世界での保護者であるユイスには「クロ」と呼ばれ、構われまくるペットのような扱いを受けている。感謝は心からしているが、戦場まで連れて行くのは真面目に怖いのでやめて欲しい。名前を「りん」と間違えられるのが、日本での密かな悩みだった。
※ユイス・カーレル
カドリナ王国第四王子兼、国軍師団長の十九歳。密かな渾名は「カドリナの毒蛇」。
髪は紫黒のロングストレート、瞳は銀を垂らした夜色。いつも目を細めて笑っている線の細い美形だが、知る人には狐か蛇のような油断のならない笑顔に見える。
初対面の鈴を犬でも拾うかのように連れ帰った、我が道を行く無関心系マイペース。実は鈴に一目惚れだったりするが、確信犯の天然ドSなので鈴にはペット扱いとしか思われていない。
なんか今、生きるのが楽しい。鈴はずっと自分の傍で泣き喚いていれば良いと思っている。