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6月28日、木曜日。期末テスト4日目。
テストを終え、学校から自宅に帰って来ると、透はまず玄関口に父親の靴が無いか確認する。花圃の過去を知ってから、透が父親の気配を探るのは日課になっていた。
透は一応父親の寝室でもある一階の和室も覗いてみたが、人気はどこにもなかった。
まだ帰って来てはいないようだな。
ほっと安堵し、洗面所でうがいをして手を洗い、顔を洗って二階に上がり、自室で私服に着替えてから、透はベッドの上に横になる。
学校でもテスト中、二十分ほど寝たのだが、帰りの電車で推理小説を熟読していた為か、頭が休息を要求していた。
折角あと少しで完全犯罪が完成する一歩手前まで構想が練れていたような気がするのだが、睡魔には勝てなかった。
目を閉じると、気が付けば和室にいて、瞼の裏に、テーブルの上に乗ったビデオカメラが思い浮かんでいた。
見覚えのあるそのビデオカメラは、レンズを、まだ顔立ちが幼い全裸の透に向けて放さない。
透の背後では、父親がにやにやしながら彼の体を弄っていた。
『お父さんお願い!もう嘘吐かないから、やめて。死んじゃうよ!お父さん。お父さん……』
透は泣きながら懇願するが、父親は聞く耳を持たない。
それからどのくらいの時間が経ったのか、和室には、いつの間にか傍に父親の姿はなく、透も全裸ではなく服を着ていて、子供とは思えないくらい深刻な表情で俯いていた。
不意に、背後で和室の襖が開く音がして、透は恐る恐る振り返る。視線の先には、透以上に幼く、体の小さい花圃の姿があった。
『お兄ちゃん、何か悪いことしたの?』
花圃はよちよちしながら透の傍に歩み寄る。透は父親ではなく、花圃が来たことに安心すると同時に、顔に無理矢理笑みを浮かべた。
『うん。でも、もう大丈夫だ。しっかり反省したから……』
透は真横に座りこんだ花圃の肩に腕を回し、彼女を優しく抱きしめる。
『だから、父さんに何かされるようなことがあったら、必ず俺に言えよ』
『何かって、何?』
『ん?ええと、例えば、ぶたれたとか、蹴られたとか……』
『それってシツケじゃないの?悪いことをするからお父さんはお兄ちゃんをぶつんでしょ?』
『うん。でも、花圃は女の子だから、花圃のことぶったりして良い人間なんていないんだよ。だから、もし、物を壊してもいないのに壊したとか、嘘吐いてないのに嘘吐いたとか言われて、父さんにぶたれた時は、必ず俺に言うんだぞ。解ったな?』
『うん』
良し、じゃあ、俺はもうちょっとここで反省してるから、花圃は自分の部屋に戻ってな。透がそう言おうとした時、後方から父親の声が聞こえてきた。
『何の話をしてたんだ、透』
透は花圃から手を離し、ゆっくりと視線を上げていく……。
やめろやめろやめろ。やめてくれ……。
ちょうど、夢の中で父親の顔が視界に入る直前で目が覚めた。
「うぅ……?」
何だ、夢か。過去に見たことを忠実に再現したような夢だったな……。
枕元の時計を見ると、一時間ほど寝ていたことが分かった。
全身汗まみれで、シャワーを浴びたい気分だったが、我慢して机の上に教材を広げ、テストに向けて勉強を開始する。
透は学校の成績は平凡だが、決して馬鹿ではない。むしろ天才的な頭脳の持ち主だ。しかし、まだ十歳にも満たない内から、虐待を受け続けた透は、家族の安息にしか興味が持てず、それに伴わないものには基本的に無気力だった。
学校の勉強にしろ、そうだった。彼が勉強するのは、単純に、成績が悪いからといって、必要以上に学校、すなわち教師に拘束されていたくなかったからだ。
これまで何度も透はそれだけの理由で勉強をしてきた。苦に思ったことは一度もない。百点中、五十点を取るのは透には造作ないこと。特に興味を持てない科目の勉強であっても、普段の彼なら一時間もあれば五十点を確保するだけの知識を頭に詰めることはできたが、今日は中々教材の内容が頭に入らなかった。
おかしいなあ。さっき眠ったのに……。
勉強を後まわしにするのは気が引けたが、仕方なく息抜きと称して透は自室に置かれたテレビを見ることにした。
「……という訳で、今回は未だ謎に包まれた、エル・ロコの元上層部の方に話を聞くことができました!」
ぱっとついたチャンネルのテレビ番組では、エル・ロコと呼ばれる怪し気な犯罪組織の特集を報じていた。
何だこれは……。
どこのチャンネルに設定されていたのか確認することなく、透はくだらないと思い、すぐにリモコンでチャンネルを変えた。
一通りチャンネルをまわしてから、ローカル局のドキュメンタリー番組を見ることにした。
自然現象にはさほど興味はなかったが、気分転換になるだろうと、透はしばらくぼうっと眺めていた。
腹減ってきたな。
視聴を始めて、約二十分が過ぎた頃、まだ昼飯を食べていなかったことに気付き、透はリモコンの電源ボタンを押そうとした、ちょうどその時、番組で自然現象『Brinicle』についての説明が始まり、思わず手を止める。
「まるで雷の如く海中を渦巻きながら凍らせていくという、脅威の自然現象、ブライニクルは、一九六〇年代に初観測され、一九七四年まで『氷の鍾乳石』と呼ばれていましたが、その強烈な冷気を帯びた氷柱に、触れたものはみな凍りつき、死んでしまうことから『死の氷柱』とも呼ばれています」
触れたものはみな凍死か。まるであいつみたいだな。
イラストで紹介されているブライニクルの、実体を想像して、透は頭の中でそのイメージを父親と重ねる。
『透、お前を凍らせてやる』
決して愉快な気持にはならなかった。苦笑して、今度こそ電源ボタンを押す。が、何も映っていないテレビ画面から、透は束の間目を離せなかった。
凍死か……。真夏が近付いていたので、凍死はあいつを殺害する方法には、丸っきり候補に挙げていなかった。が、あいつを凍死させるという方法もありではないか。
『凍死』という言葉から、透は前に図書館で読んだ、監察医の本に書かれていた、真冬に老人が自宅で凍死したという話を思い起こさせた。
その老人は、足が不自由で、家には家族もいたのだが、自尊心からなのか、家族を頼ることなく、夜中に小便を漏らし、時間が経過し、冷えた排泄物によって、体温が奪われ、凍死したという。
そうだ……。そうだ、これだ!これを応用すれば、簡単にあいつを事故死に見せかけることができるではないか。
透の中で、パズルのピースが音を立てて嵌まっていった。
例えば、酒を飲ませて酔っぱらった状態なら、あいつも布団に尿を漏らす確率が相当高くなる筈だ。しかも、酒は飲めば、初めは体が温かくなるが、次第に熱を逃がし始め、体温は下がっていく。これなら北国のような寒い地域でなくとも、十分凍死に至らせることが可能だろう。但し、この方法では確実に狙った時に凍死させることはできない。いくら酔っぱらわせたとしても、あいつが尿を布団に漏らすかどうかは運任せだ。しかし、何度か繰り返していれば、その内あいつも布団に漏らすことはある筈だ。良し、これならあいつを事故死に見せかけることができる。花圃には悪いが、あと五、六ヶ月の辛抱だ。ここまで耐えてきたんだから、冬になるまで頑張って堪えて生きてくれよ。あともう少しなんだ。もう少しで、あいつの最期が見られるんだ。
透はようやくゴールに辿り着き、悪魔のような笑みを浮かべた。