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6月27日、水曜日。期末テスト3日目。
浴室の薄緑色のタイルの上を、排水溝に向かって流れているのは透明な水。決して赤くはない。その水は無色透明だ。しかし、排水溝の蓋の周囲には、僅かに赤みが差している。
シャワーからは、少なくとも赤い液体が出てくることはない。ということは、誰かがこの浴室に赤い液体を持ち込んで流したということになる。
浴室のタイルの隙間を汚している犯人は、透には考えるまでもなく、察しがついた。察しがついたからといって、透は花圃の自傷を止められないのだが。
午後六時過ぎ。
浴室で、透は頭を洗いながら、中学三年生時の同級生、源川ゆみのことを考えていた。
人に迷惑かけない生き方って、どんな感じなんだ?源川は、本当にそれで幸せだったのか?
透は無意識の内に握り拳を作る。涙を流すまいと歯を食いしばる。
『楽しい』って言ってたの、嘘だよな。苦しくて、苦し過ぎて、感覚が狂っちまったんだよな?
『これ、私のお守りなんだ』
ゆみは、今年の一月に、薬物過剰摂取が原因で、この世を去った。前々から薬が無いと生きていけないと公言していて、気持を抑える為に頭痛薬を飲まずにはいられないなど、彼女には薬物依存の疑いがあった。その為、ゆみが自ら死を望んで数種類の薬物を大量に服用したのかどうかは、本人にしか解らない。しかし、透は彼女の死を知った時から確信していた。源川はこの世界に絶望して死を選んだのだと。
お前は強がりだから、俺の立場になったとしても、人を殺してはいけないって思うのだろう。俺だって、殺して良い人間がいるなんて、思ってる訳ではない。でも、源川、お前、自分が薬を求めている時の顔、見たことないだろ。お前は、自分のことをあまり話したがらない奴だったから、誰に何されてあんな風になったのかは分からない。どうしてあんな、痛痛しい表情をするようになったのかは知らない。どうして、お前が人を頼ろうとしなかったのかも……。でもよ、俺たちだって、自分の幸せ求めたって、良い筈だろ。周りがみんな楽しそうにしていて、悲しみとか苦しみとか無縁のような顔しているのに、俺たちだけが大人の圧力に怯えて生きて行かないといけないのは、俺はおかしいと思う。だから、俺、無力な妹を守ってやらないといけないし、あいつが俺と花圃にしたことも赦せないから、いつか、必ずあいつを殺すけど、源川は俺の友達でいてくれよ。
透は目を閉じて、束の間天国にいるであろう、ゆみの幸せを願った。
「ちょっと、いつまで体洗ってるの?」
透がシャワーの放水を止めたと同時に、隣室の洗面所から、花圃の不機嫌そうな声が聞こえてきた。
今日は熱い湯にゆっくり浸かりたい気分だったが、花圃は実の父親に怯えているので、透が傍にいない限り、例え父親が家にいない時でも、家の中を自由に歩き回ることもできない。
花圃が先に風呂に入っている間、透も洗面所で彼女が入浴を終えるのを待っていたものの、壁に掛かったアナログ時計を見ると、妹が文句を言う気持は解らないこともなかった。
「悪い、もう少しだけ待っていてくれるか。すぐに出るから」
透は素早く体を洗うと、浴槽の蓋の上に乗せておいたタオルで体と床を拭き、蓋の上のパジャマと下着を身に着けて、排水溝付近の、日に日に赤みが増しているタイルの隙間へと目を向ける。
俺自身の限界と、花圃の限界は、いつ越える時がくるのだろう。
時間がほしかった。万物の事象をじっくり考えていられるだけの時間が……。
「ごめんな、待たせて」
透はタイルから目を放すと、笑顔の練習をしてから浴室の扉を開けた。