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6月26日、火曜日。期末テスト2日目。
教師の『始め』の合図で、三年C組の教室にいる生徒達は、一斉に問題用紙をひっくり返す。
がしゃがしゃがしゃがしゃ……。
あちこちで耳障りな音がする中、透はぼうっとしていると教師に怒られるので、仕方なく世界史の問題用紙に目を向ける。が、どうしてもテストに意識を集中させることができなかった。
人を傷つけて、家族を苦しめて、馬鹿笑いしているような奴は、俺が殺してやる。殺して何が悪い。腐った精魂の持ち主を死に至らせるだけだ。なぜ批難されなければならない。むしろ称賛されるべきではないか。
透は解答用紙の上に乗せたシャープペンに力を入れて、先端から飛び出した芯を『ばき』と音を立てて折る。と、音に釣られたのか、名前も浮かばない若い教師がこちらに目を向けてきた。
はぁ面倒臭い。
手を動かしていないと、教師がこちらに寄って来るかもしれないので、透はしぶしぶ作業に取りかかり始めた。
透が初めて父親を殺そうと思ったのは、中学一年生の時だった。
母親と別居するようになってから、透は父親に暴力を振るわれるようになった。
父親は毎日透を殴り、蹴り、時折裸にして身体を触り、その様子をビデオカメラに収め、収めた映像を第三者に売り渡していた。透はことあるごとに、その映像を『ばらまく』と言って脅され、父親の言いなりの状態が約六年続いた。彼にとって、自身の痴態が晒されることは、死ぬ以上に怖いことだった。
父親からは、自殺を禁止されていたが、しなかった訳ではない。
知らない土地に足を運び、マンションの階段を上って、最上階から飛び降りようとしたことは何度もある。しかし、いざ死のうとすると、決まって母親が家を出て行く時に、まだ九歳の透だけに話した言葉が思い起こされた。
『花圃のこと、見守ってあげてね。透だけが頼りだから』
人一倍家族思いの透は、妹の花圃のことを思うと、死ぬに死ねず、かといって生きる気力も無く、日に日に欲の無い空っぽな人間へと近付いていった。透自身、このまま透明人間になるかと思っていたが、そうはならなかった。
二〇〇七年、十一月の、ある晴れた日のことだった。透はいつものように、朝早くに起きて、食事を済ませてから家を出て、鏡遠中学校へと向かった。
『おおい、透』
その途中、校門近くで、小学生の頃から親しかった、多田というちゃらちゃらした同級生に声をかけられた。その時の透の心の中は、無力感で満たされていたので、無視しようかとも思ったのだが、だるそうに振り返った。
『よ、透』
振り返ってみると、額に包帯を巻いた多田の姿が目に入った。
『どうしたんだ、その頭』
透が尋ねると、多田は嬉しそうに答えた。
『ちょっと親父と殴りあいの喧嘩したんだよ』
それを聞いた瞬間、透の中で何かが崩れていった。
どうして俺は今まであいつに抵抗しなかったのだろう。そう思い、その日の夜、透は父親を殺すつもりで包丁を片手に、玄関口で灯りも点けず、真っ暗闇の中、父親の帰りを待ち構えた。
とうとう待ちに待った父親が家に帰って来たのは、午後十時七分のことだった。
透は玄関が開かれ、見覚えのある影が目に入ると、早速包丁を突き出して父親に向かって突進した。が、あっさり透の腕は掴まれてしまった。
どうしてばれたんだ?
一瞬パニックに陥ったが、向かいの家の玄関口の電灯が、透の持つ包丁を僅かに照らしていることに気付く。
それでばれたのか。くそ、どうしよう、逃げないと。
状況を理解した時には遅かった。父親は玄関の鍵を閉めるなり、透のこめかみを殴った。一回、二回、三回……、容赦なく何度も。しかし、透もただ黙って殴られていた訳ではない。足をばたつかせて、何度も父親の脚を蹴っていた。が、自身の三倍近く体重のある父親に、非力な子供が敵う筈も無く、透は朝日が出るまでじわじわと痛めつけられた。途中、花圃が不穏な空気を感じ取り、二階の自室から一階に下りてきたのは一度だけ。
『お父さん、いるの?』
花圃が一階に来た時には、透は父親に、玄関の位置とは正反対の場所の、和室へと移動させれていた。相も変わらず、二人は真っ暗闇の中にいたので、花圃は曖昧な情景しか目に入ることはなかった。透にとってはそれが唯一の救いだった。
透としては、花圃にとっての父親が、誰にも負けない憧憬の対象であってほしかった。
『どうした、花圃。眠れないのか?』
父親は部屋の入口に立つ花圃に向かって、つい先程まで透を痛めつけていた残虐な人間とは思えないほど優しく、柔和な声で尋ねた。
『ううん。さっきから下で大きな音がするから来てみただけ』
『そうか。今、透を叱っているところだから、花圃は自分の部屋に戻って、静かに寝ているんだぞ』
『解った。おやすみなさい』
花圃の声を聞いて、透は自分が殴られても花圃が傷つけられなければ、それで良いと思った。殺意を抑え、家族の平穏の為にと、父親からの暴力にも耐え続けた。結果、表向きは仲の良い家族で、近所にも知れていた。裏でも、自分が我慢していれば問題はないと思っていた。が、裏ではうまくいっていると思っていたのは透だけで、家族の関係は滅茶苦茶だった。
『ごめんなさい。話したら、私のことお兄ちゃんにばらすとか、次はお兄ちゃんに手を出すとか、脅されて、怖くて今まで言えなかった』
妹が父親から性暴力を受けていたことを、透は今年の四月に初めて知った。
花圃の話によると、透が父親から暴力を振るわれなくなり、彼女が小学六年生になったあたりから、父親に度々裸をビデオカメラで撮られるようになったという。
泣きながら妹に助けを求められ、透は殺意を抑制できなくなった。
とはいえ、真っ先に父親を殺害する算段を立てた訳ではなかった。
まず最初に透が家庭内暴力について相談したのは警察だった。が、まともに取り合ってもらえず、次に、警察から紹介してもらった『青少年相談センター』に電話するも、話を聞いてくれただけで、具体的な解決策は提示してもらえず、区役所の市民相談を勧められて、地元の区役所を訪ねるも、そこでは警察に行けと遠まわしに言われ、父親に第三者の手を借りて、裁きを与える術は、見つからないまま堂堂巡りに終わった。
その後は花圃だけでも安心して暮らせる場を用意しようと、駆け込み寺や児童相談所といった類の場所に、片っ端から電話をかけたが、どこも満員を理由に断られた。
最後の砦に、別居中の母親がいたが、正直透は自分の子供を置いて出て行った彼女のことを、完全に信頼することができずにいた。その上、花圃一人だけなら母親の住む実家で同棲できないこともないにしても、そうするにはまず事実を話す以外に方法は見つからなかった。透には花圃が自分の痴態をこれ以上誰にも知られたくないと思っているのを、普段の何気ないやりとりから察していたので、母親を頼る選択肢もすぐに無くなった。
ここまで来ると、透には劣悪な環境を脱出する妙案は、父親を殺害する以外は浮かばなかった。
何より、透は誰かに頼ることにうんざりしていた。
透の相談相手となった大人たちはみな、家庭内暴力の話をすると、よくある話だと言わんばかりの慣れたような顔をして、別れ際には『辛いだろうけど』とか『必ず解決策は見つかる』など、何を根拠に発言しているのか解らないような同情めいた台詞を口にしていた。しかし、当然と言うべきか、倫理的行動では現状は何も変わらなかった。
結局、自分の力で解決するしかないんだ。
透はそう結論を出して、一週間前から完全犯罪を達成する方法を探していた。