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6月25日、月曜日。期末テスト1日目。
天災というのは恐ろしいものだ。津波を呼び、原発事故まで引き起こし、何事もなかったかのように去って行く。一瞬で多くの命を奪った東日本大震災が起きてから、もう一年が過ぎている。しかし、未だ被災地の復興の目途は立っていないという。
被災した子供たちの中には、放射能やら瓦礫やらの影響で、仮設住宅から外に出て、
目一杯体を動かして走りまわることもできない子供もいるそうだが、ここらのガキときたら、どうして昼間っからこんなところでゲームなんかしているんだ。
図書館のロビーに設置された、木製の長いすに座り、携帯ゲーム機をいじる小学生たちを見て、透はため息を吐く。
外で遊べない子供がいる中、好んで屋内で遊ぶ子供がいるとは、皮肉なものだ。こんな俺でも小学生時代には輝かしい思い出の一つや二つは存在しているというのに、黄金期を携帯ゲームで遊んで過ごすことに違和感は無いらしい。ある意味こいつ等は天災よりも恐ろしい。
節電の為か、電灯の点いていない薄暗い廊下を抜け、受付を通り過ぎると、透は真っ先に法医学関係の本を探す。
最近の科学捜査はばかにできない。殺害後に戦う相手のことも、視野に入れておかなければ、ことを有利には進めない。
医療関係の本を集めた棚で、法医学と書かれた札を見つけ、該当部分の本を適当に手に取る。
『死体の叫び 根橋文彦』
透が手にしたのは、監察医が書いた本だった。
根橋文彦。聞いたことのない名前だ。この世界では有名な人間なのだろうか。
透は読書が好きなので、名のある作家や流行りの作家の名前なら、ぱっと思い浮かべることができる。
頭の中に記憶されていない名前に戸惑いを覚えたが、その本に書かれていることは、正に今の彼が求めている情報の宝庫だった。
≪救急救命士が死体と判断した場合は、すぐに警察と監察医が呼ばれることになる≫
こんなことも知らずに人を殺そうとしていたのか、俺は。
計画の杜撰さを理解し、まだまだ実行には移せないと、透は夢中になって本を読み進めた。
≪警察と監察医の間では、意見が対立することがある≫
≪若い監察医は警察の判断が間違っていることに気付いていても、意見を出しにくいのが現状≫
≪監察医の判断次第で、本来他殺であるものが事故死になることも≫
全てのページを読み終えると、本を『ぱたん』と音を立てて閉じる。あらゆる有益な知識を授けてくれた『死体の叫び』の中でも、透が一番驚いたのは、煙草を使って完全犯罪を確立させる方法の記載だった。
公共の施設に犯罪を助長するような本が置いてあって良いのか?そう思いながらも、透は件の内容をメモ帳に書き記しておいた。
あいつが煙草を吸っているところを見たことはないが、折羽詰まった時の為に、最終手段として、頭の片隅に置いておいても損はしない。最悪警察に疑われるかもしれないが、本に書かれた通りに実行さえできれば、俺が裁きを受けることはまず、ない筈だ。
あっさり完全犯罪のネタを一つ手に入れた透は、上機嫌で別の法医学関係の本を眺める。
十数秒後、本のタイトルから中身を想像し、自分に今必要だと思うのはこれだと判断した、一冊の本を手にする。次に手にした本『死体と科学』は、確かに今の彼に必要な情報が数多く書かれていたが、先程とは違い、計画が進行するどころか、逆に後退してしまうような内容だった。
酢酸タリウムは飲ませても病気と見分けがつきにくいって、なんかの小説に書いてあったな。しかし、あれは劇薬だ。高校生が簡単に入手できるようなものではない。運良く手に入れたとしても、死体を解剖して調べれば、すぐに薬殺したことは露見してしまうことだろう。
一通り目を通してから『死体と科学』を棚に戻す。
ちっくしょう。薬殺が一番手っ取り早いと思ったが、今は江戸時代ではないから、劇薬で殺害は無理か。
透は一旦法医学の本を読むのを止めて『ううん』と唸り、医薬関連の本を探しに、本棚に目を向けたまま足を横にずらした。と、同時に、近くで屈んで本を読んでいた若い女と、軽くぶつかってしまい、慌てて謝った。
「あ、すみません」
「いえ、こちらこそ、ごめんなさい」
本を胸に抱いて立ちあがり、礼をした女と透は目が合う。
美人だ。そんな人がどうして俺なんかに……。
「あ、えっと……」
けがしませんでしたかと、尋ねようとしたが、ぐずぐずしている間に、若い女は女優のような綺麗な顔に笑みを浮かべ、透に背を向けて去って行ってしまった。
世の中には、すぐにかっとなって暴力を振るう人間もいれば、あの人みたいに心優しい人も、本当にいるんだな。
ふと、透は若い女が屈んでいた辺りで腰を折り、本棚へと目を向ける。
何の本を読んでたんだろう。
目の前の札には『妊娠・出産』と書かれてある。
どうやら出産関係の本を読んでいたようだ。
俺が人の命を奪うことを考えていた時に、あの人は命を生むことを考えていたのか。そう気付いた途端、自分が情けなく思えてきた。殺人者になるかもしれない俺なんかに、謝ることなんてない。俺はたったひとりの家族も守ってやれていなかった、屑人間だ。罵倒されても殴られても、文句は言わないし、言えない。最底辺の人間なのに……。
『いえ、こちらこそ、ごめんなさい』
若い女の笑みが思い起こされる。
俺は何をしているんだ。
殺人について考えているだけで、透は罪悪感に駆られた。
どうやら俺には人殺しの素養がいないらしい。
苦笑して、精神医学の本を探して通路を歩く。
諸悪の根源を絶たなくても、花圃を救う方法はあるかもしれない。これは俺の甘えか逃避かもしれないが、精神医学について調べるのは、花圃の発作を抑える為にも何かしら役立つ筈だから、息抜きついでに時間を割いても損することはないだろう。
透は社会科学と書かれた紙が貼られた本棚の前に立ち『虐待を受けた子供の治療』というタイトルの本を手にする。
≪虐待を受けた者の進学率は約10%で、囚人の9割が被虐待者というデータがある≫
以前熟読したことのあるその本に書かれていることは、今の彼を追い込むような内容ばかりだったが、救いがない訳でもなかった。
≪虐待を受けてPTSD(心的外傷後ストレス障害)になった子供は、家族の支えが必要不可欠である≫
そうだ。そうだった。あいつを殺せば花圃の発作が治まるとは限らないじゃないか。あいつを殺さなくとも、発作は抑えられないことはない。殺しに拘る必要なんて、ない。俺が花圃を支え続ければ、いつか花圃も普通の人生を送れる日が来るかもしれない。俺の努力次第で……。
そこまで考えて、透は右手の拳を本棚に押し付けた。
馬鹿野郎。本気でそんなことで解決すると思っているのか?俺や花圃があいつにヤられてる映像は、今だって世界へと拡散し続けているに違いないんだ。俺たちは、あの映像がある限り、一生幸せになんかなれないんだ。忘れたのか?それに、花圃の発作を抑えられても、悪癖を治させるには、あいつを殺す以外に方法は無い筈だ。
でも、それで本当に良いのか?花圃は俺が殺人者になっても生きていたいと思っているのか?
やめろやめろやめろ!うるさい黙れ。そんなこと、そんなこと俺が分かるか。分かる訳がない。
どうすれば良いのか。どうすることが正しいのか。十代の透には、答えは見つけられなかった。
馬鹿野郎馬鹿野郎馬鹿野郎。そんな甘い考えで、花圃のことを守ってやれる訳がないだろ。ひたすら自身を叱責していると、館内でチャイムが鳴った。
もう三時か。悔しいが、少し休んだほうが良いのかもしれない。
携帯電話で現在の時刻を確認してから、透は外に出た。
花圃を迎えに行く時間は午後四時だが、外の空気に当たっていたかった。
窓ガラスを前に、透と同い歳くらいの少年少女が、ダンスの練習をしているが、ここらで物騒なことを考えているのは彼だけだ。
もし、実際にあいつを殺すのであれば、警察から少しでも疑いの目を向けられては駄目だ。法医学の本には、物的証拠を残さずに殺害する方法が幾つか掲載されていたが、警察がつけ入る隙は無いほうが得策だ。しかし、どうすれば良いんだ。俺には殺人者になる勇気も無ければ、完全犯罪を達成できるだけの能も無い。分からないことだらけだ。ちくしょう。何をどうすれば良い。源川、お前ならどうする?
「あれ、透?何してるの?」
中学三年生だった頃に、同じクラスだった源川ゆみのことを考え、目の前の信号が青に変わっても、ぼうっと突っ立っていると、後ろから舞岡千代に声をかけられた。
「ひょっとして、図書館で勉強してた?」
千代は透の横に並ぶと、乗っている自転車から降りて、彼の肩を右手で軽く叩く。
「おい、起きろ」
「何だよ。うるせえなぁ」
「起きてるなら返事しなよ」
唇を尖らせてそっぽを向く千代の横顔を、透はきっと睨みつける。その拍子に、自分とは違い、私服ではなく、彼女がまだ奏鳴高校の制服姿であることに気付く。
「学校は十時四十五分に終わったっていうのに、お前こんな時間まで遊んでたのか?」
「遊んでないよ。学校でテスト勉強してきて、今買い物から帰るところ」
千代の自転車の籠には、学生カバンしか置かれていない。よって、彼女の言葉が真か嘘かどうかは透には解らない。が、そんなことはどうでも良かった。
透は千代から目を放し、信号へと視線を移す。
「そうか。でも、あまり制服着て外うろつかないほうが良いぞ」
「どうして?」
「男ってのは、若さを求める傾向があるんだよ」
「それと制服がどう関係してくるの?」
赤に変わり、再度青になった信号を認めて、透が横断歩道を渡り始めると、千代も自転車を押して彼の横を歩く。
「多くの男にとって、制服は若さの象徴という印象を受けるんだそうだ。だから、気持悪いロリコン野郎に襲われて、厭な思いをしたくなかったら、そんな格好であまり外をうろつかないほうが、身の為だ」
「へぇ、教えてくれてありがと。でも、制服デートって結構憧れるよね」
「またそういう話か」
千代や同級生が、昼休みに恋愛話ばかりしていることに、透は前々から辟易していた。
一体何が楽しくてそんな話を好んでするのか解らない。
露骨に不快な顔をして、ため息を吐いたが、千代の表情は先程から輝いたままだ。
「良いでしょ、別に、制服デートは中高生の時にしかできないことなんだから、夢見たってさ。透も少しは考えてごらんよ。夜の浜辺を好きな人と二人で手を繋いで歩いたら、修学旅行中、ホテルを抜け出して、二人っきりのデートを楽しんでいるみたいで最高じゃない?」
うっとりとした双眸で中空を見つめている千代を見て、透は彼女とは反対側に唾を吐く振りをする。
「お前等が羨ましいよ。恋愛話で盛り上がり、女の下着を見て興奮できるんだからな」
「……またそういう顔してる」
「そういう顔って何だよ」
意味が解らず、透が純粋に説明を求めると、千代はやれやれと首を左右に振った。
「俺はお前等とは違う、って顔だよ」
「実際そうだろ」
「おお、言うね」
透の発言を聞いて、千代は目を丸くして、つんとそっぽを向いた。
「どこが同じだって言うんだよ。お前は成績優秀でスポーツもできる。でも、俺は勉強もできなければスポーツもできない。一緒な訳が無いだろ」
「同じ人間という生物だけどね」
「性別が違ったら、生き方も感じ方も違う。別の生き物のようなものだ」
俺が完全に花圃を理解できないように。おそらく花圃が俺を完全に理解できていないように。
透は下唇の裏を噛みしめる。
「どうしても一緒にされたくないみたいだね。仮に、透が全世界の男から仲間外れにされた時は、同じ人間である女しか、透のことを理解してくれる人はいなくなるんだよ」
「別に俺は一人でも良い」
強がりではない。正直な気持だった。しかし、千代は透に頼ってほしいらしく、返事を聞いてむっとする。
「捻くれてるよね。少しは女に興味持ちなよ」
千代に軽く腕を握られて、透は慌てて彼女の手を振り払った。
「触んなよばか!」
身体が触れあっただけで、邪な気持が千代にも移ってしまうような気がした。
家の揉め事に、千代を巻き込みたくなかった。
悪気はなかったのだが、怒らせてしまっただろうかと、透は恐る恐る千代の顔を覗き込む。と、千代は透の予想に反して、悲しそうな顔をしていた。
「何怒ってんの?」
怒ってないと否定したかったが、今更弁解を始める気にはなれなかった。
「だから言っただろ。お前と俺は、別の生き物なんだよ。見てきたものも、感じてきたものも、これから進んで行く道程も、何もかもが違う。解りあえることなんて、できないんだよ」
そう。そのまま突き離してしまえば良い。そうしたら、千代は俺の家の内情を知らなくて済む筈だ。それに、性感覚が狂った俺みたいな人間に、まともな人間の友達がそうそうできる訳がない。
透は横目で千代の表情を盗み見る。千代はいつの間にか、先程よりも深い、悲愴感溢れる苦悶に満ちた顔をして俯いていた。
「透……」
「不幸ぶってる訳じゃないけどさ、本当に本当に、俺はお前等とは違うんだよ」
千代がか細い声で何か言おうとしたのを遮って、透は精一杯優しく言葉を紡いだ。
泣きそうな顔するなよ。らしくないな。昔の暴力的だったお前はどこに行ったんだよ。
そう口にする勇気も無く、心の中だけで千代を励ます。が、透の気持が彼女に届くことはなかった。
俺だって、できることならお前と一緒に歩いて行きたいよ。でも、できないんだよ。俺には、例え人を殺さなくても、明るい道を歩くことはできないんだ。解ってくれよ。
透は意気消沈した千代を一人で帰らせるのは危険だと思い、彼女を家まで送ることにした。