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放課後、千代からの下校の誘いを断り、透は花圃を迎えに行く為、地元の鏡遠中学校へと歩を進めた。その途中、妹の花圃の携帯電話には、帰りの電車内でメールを送信しておいたので、校舎の前に辿り着いた時には、彼女は既に学校の正門の前で佇み、透の姿を探して、辺りを忙しなく見周していた。
しばらく、近くの車の陰に隠れて、門の周囲に人気が無いか窺っていた透は、一歩前に出て、姿を現し、不安そうな花圃をすぐにでも安心させたかった。が、目の前にそびえ立つ、かつて自分が卒業した鏡遠中学校を見ていると、千代と話をしたからなのか、普段は思い出さないようにしている一人の少女の容姿が、透には一瞬妹の花圃と重なり、束の間足が硬直した。
源川……。
透は突如芽生えた駆け出し、確かめたい衝動を必死に抑え、
―ばか、源川が学校にいる訳ないじゃないか―
頭を犬猫のように振ってから、花圃の前に姿を現した。
透が傍にいることに気付くと、花穂は笑みを浮かべて帰路につき始めた。
透は黙って花圃から五メートルほど離れて、彼女の後ろを歩いていた。が、やがて花圃が速度を緩めたので、彼女と並行して歩くことになった。
「どうしたの、透。元気ないの?」
花圃は平生、透のことを『お兄ちゃん』と呼ぶ。しかし、下校途中に限り、透の名前を呼び捨てにしていた。その理由は花圃曰く『下校時はお兄ちゃんが私の彼氏』だから。透は冗談でも家族間での恋愛には嫌悪していた。とはいえ『同級生にブラコンと思われないように、一緒に帰る時だけ俺を彼氏のように思え』と、花圃に助言したのは透なのだが。
「元気?あぁ、今空っぽ。どこにも売ってないから」
「売っていたって買わないのに?」
「何だって、このやろう」
透は花圃の頭の上に手を乗せ、このやろうと言って、彼女の頭髪を軽くくしゃくしゃにさせた。
「あぁ。もう何するの」
「年上をうやまやないからだよ」
親しかったバイトの先輩の言葉を真似し、びしっと決めるところで、透は『敬う』と正しく発音できずに噛んでしまった。
「敬うって言えてないし」
「花圃は細かいなぁ。意味が通じたのなら見逃せよ」
「嫌だ」
花圃は頭を抱えてくるくる回る。
「見逃したら、そこですぐに話が終わっちゃうでしょ?」
「俺と花圃なら、一日中途絶えることなく会話することくらい、簡単にできるだろ」
透が即答してやると、花圃の表情はぱっと明るくなった。
千代もこれくらい素直なら可愛いのだが……。
透は私道に転がった小石を軽く蹴飛ばす。と、蹴飛ばされた石は、道路標識にぶつかり『きぃん』と耳障りな音を奏でた。
「なぁ花圃。今日は外で食わないか?」
「良いけど、どこで食べるの?」
「どこか食べに行くとしたら、駅前のガストだな」
二人で食べに行くのにファミレスを提案すれば、千代だったら不満を述べていただろうが、花圃は嫌な顔一つせずに頷いた。
「わかった。じゃあ何時頃に家を出る?」
「普段着に着替えたらすぐに出よう」
「えぇ?早過ぎじゃない?それに、私テスト勉強しないといけないし……」
「俺もだよ。でも、勉強は店の中でもできるだろ。家の中でするよりも、ちょっと騒がしいかもしれないが、集中できるから効率も良い。解らないところは俺が教えるから、な、良いだろ?」
『うん……』と、言いながら花圃が俯いたのが気になったが、透は静かに安堵の息を吐く。
家にはあいつがいつ帰って来るのか分からないので、外でリラックスした状態を維持できたほうが己の為になる。あいつの声も、醸し出す空気も、生活音も、何もかもが気に入らない。今のように、殺気立っている時に、あいつの傍に長時間いたら、後先考えずにあいつを殺してしまうだろう。
素直に受け入れてくれてありがとうなと、心の中で礼を言うと、花圃がぼそっと呟いた。
「お兄ちゃんも厭だったんだ」
『お兄ちゃん』と呼ばれて、透はひやっとして周囲を見渡す。
幸い、近くには人気はなかった。
「『お兄ちゃん』って、誰のことだ?」
「あ、透……」
『あ』じゃないだろ。額を軽く小突いてやりたかったが、透は抑えて花圃に尋ねる。
「で、厭だったって、何のことだよ」
「え?それは、家にいること……」
「当たり前だろ。そりゃあ花圃と二人だけなら、ちょっとくらいましだけどな、ちょっとくらい」
「そうだったんだ。私だけだと思ってた」
「馬鹿言うなよ。俺が今の状況を楽しんでいるとでも思ったのか?」
その通りだとしたら心外だったが、花圃は間髪入れずに否定した。
「そうは思わないけど、あの人と、普通に話してるから……」
花圃の遠慮勝ちな表情をじっと観察しても、彼女が嘘を吐いているようには見えない。
花圃は純粋に、俺があいつと会話しているのが理解できないらしい。やれやれ。少し考えればわかると思うが、まぁ、中学生なんてみんなこんなものか。
透は『あの人』すなわち父親のことを話題に出したくなかったが、先程から花圃の声のトーンが下がり始めているので、仕方なく彼女の疑問に答えることにした。
「少し考えてみろ。あいつだって人間なんだ。俺と花圃が二人であいつを避けていたら、あいつも良い気はしない。そんな状態をずっと続けていたら、いつかストレスが溜まって爆発しかねないだろ。こんなこと言いたくないけどな、そうなったらあいつ何して来るか解んねぇぞ。俺は男だから、武器さえあれば体格差はどうにかなっても、花圃は女の子だ。あいつと真っ向から戦うのは無理がある」
現実を知り、泣きだされたらどうしようかと透は思ったが、隣で花圃は、彼の言葉を平然と受け止めていた。
「そっか、そうだよね。でも、ちゃんと考えて、そうしてくれてたんだね。安心した」
「あぁ、もう止めようぜ、こんな話」
透は頭を横に振って、意識を夕飯に集中させる。
「ほら、ガスト着いたら、好きなもの何でも頼んで良いぞ。サラダでもデザートでも、何でも」
「本当に!やったぁ」
目を輝かせて無邪気な笑みを浮かべる花圃。余程嬉しいのか、鼻歌まで歌い始めた。
ファミレスでここまで喜んでもらえるとは、俺も幸せ者だな。
自嘲気味に笑うと、透は花圃の鼻歌へと耳を傾けた。どこかで聞いたことのある曲だった。
それは五人グループの『嵐』の歌だというのは解るが、曲名までは彼には解らない。少なくともそれは、最近の流行歌ではなかった。音楽に無関心の透が思い浮かべられないのも無理はない。
花圃は三歳の時から嵐が好きで、嵐の歌は全て記憶していて、歌うことができる。嵐の根っからのファンで、他のアイドルにはまるで興味を示さず、テレビでよく見かけるようになってからファンを自称し始めた人は、生理的に受け付けないらしく、そのことで時折透に愚痴をこぼすので、知らず知らずの内に、彼にも嵐に関する知識が僅かであるが、備わっていた。
唐突に、花圃が『ふふ』と笑ったので、透は彼女が好きな大野智のことを考えているのだろうと判断した。
そう判断したのは『大野さん』の話題を出す時は、決まって花圃は笑顔になるからだ。
「ねぇ、もう普通に呼んでも良いよね」
父親と花圃と、三人で住んでいる一軒家の前まで辿り着くと、恥ずかしそうに彼女は俯く。透は周囲に学生の姿がないことを確認してから、玄関前に立ち、扉の鍵を開けた。
「あぁ、そうだな」
玄関口に父親の靴が無いことを確かめ、ライオンでも入れるかのように大きく扉を開く。と、花圃は軽く頭を下げて敷居を跨いだ。
「ねぇ、聞いても引いたりしないでよ?」
「内容にもよる」
「絶対に笑わないでよ!」
扉を閉めて、前を見てみれば、つい先程まであった花圃の笑顔は、いつの間にか怒りに変わっていた。
「わかったわかった。どうしたんだよ、急に」
透は彼女の気迫に押されて、曖昧に頷いた。
「人間、いつ死んじゃうか解らないから、後悔しない為に言うだけだからね」
一通り弁解してから花圃は紅葉を散らして俯く。
「私、お兄ちゃんと兄妹で、本当に良かった」
「俺も、妹が真面目で素直な子で良かったよ」
「うん……」
透は耳まで赤い花圃から目を逸らし、考える。
束の間の幸せあろうと、幸福な時間を手放すリスクを背負ってまでして、あいつを殺す必要があるのだろうか。透は答えが見つけられない。少なくとも今は。