第一章 嘲笑うエレベーター 1
映画『インタビューウィズヴァンパイア』より
レスタト「もがけばもがくほど手放したくなくなる」
自由時間。奏鳴高校の三年C組の粗悪な生徒達は、世界史の授業のことを、そう呼んでいた。世界史担当の田部井教諭は、基本的に騒ぎ立てる生徒には、無視を決め込み、黙々と授業を進めるので、不真面目な少年少女にとって、世界史の時間は天国で過ごすようなものだった。
奏鳴高校の三年C組の教室では、現在世界史の授業が行われていて、ほとんどの生徒が勉強するなり遊ぶなり、とにかく自分の好きなことをしているのだが、中に一人だけ、だるそうに、机の上に、ノートも出さずに突っ伏している少年がいた。
その少年の名前は山岸透。
透は学校の成績が平凡で、教師達からの評価だけで見れば、真面目な生徒だ。しかし、昨夜―正確に言えば今日の午前二時十七分―に、妹の山岸花圃を宥めた後、なかなか寝付くことができず、ろくに睡眠時間を確保できなかった為、居眠りしても怒らない田部井教諭の授業を狙って、不真面目な行為に及んでいた。
ったく……。どうしてこいつらこんなに元気があり余ってんだよ。その元気を、少しは俺に分けてくれよ。
透は顔を伏せた状態のまま、目を開け、下品で汚らしい笑い声を上げる同級生達に、心の中で悪態を吐く。
そもそも、学校の勉強はどうしてこんなにも退屈なものばかりなんだ。教わるのは覚えたとしても、家族一人救うこともできない、役立たずの知識だけ。恋愛とかセックスのテクニックを学校で教えるのであれば、こいつらだって真面目に話を聞くようになるだろうに……。つまらないものを楽しめというのは無理な話だ。強制させるのは残酷でもあるし、それに、何より……。何より……。
唐突に、意識が遠くなっていく。周囲の声も気にならなくなってきた。
透はようやくまどろんできて、ゆっくりと目を閉じた。
このまま夢の世界に入り、いつの間にか授業は全て終わっている。そんな夢のような光景を想像していたちょうどその時、同級生の太田俊樹が透の名前を呼び、彼は現実世界に戻された。
「山岸なら解るんじゃないですか?」
太田が『山岸』という名詞を口にした途端、室内の至る所から歓声が上がった。
余計なことしやがって。透は露骨に不快な顔をして、太田を睨む。が、田部井にも名前を呼ばれ、仕方なく黒板に目を向ける。
「どうだ?この字、読めるか?」
田部井が指しているのは『紂王』という黄色の字。
俺もなめられたものだ。透は一目見て、即座に答えた。
「チュウオウ。本名は辛。酒池肉林という言葉は紂王の悪業から作られた言葉。炮烙の刑で、罪人が炎の中で惨死する様を、笑い転げながら見ていたとか」
透がつまらなさそうに答えて見せると、教室内はしんとなった。
こいつらはみんな単純だ。博識かどうかで人の見る目が変わる。そんなことは、このクラスになった時から解っているが、改めて実感した。どいつもこいつも扱いやすくて、馬鹿で、世界中みんなこいつ等みたいな間抜けしかいなければ、少しくらい人生も楽しくなるのだろうと思う。しかし、現実は学校みたいに甘くない。言葉やありきたりの行動であっては、動じない輩もいる。問題は、その手の奴をどうやって止めるかだ。この問題は、期末テストとは違い、目の前に答えが用意されている訳ではない。答えを知りたくば、自分で考え、導き出さなければならない。
透は溜め息を吐いて、再び机に突っ伏し、目を閉じる。静まりかえった教室内では、すぐに眠れるだろうと思ったが、意識が遠のく寸前に、頭に異物が当たり、怒りのあまり、すっかり目が覚めてしまった。
何だ、これ。透は机の上に落ちた紙屑を見て、すぐに斜め前の席で笑みを浮かべる太田俊樹を睨みつける。
透に紙屑を投げても、太田は悪びれる様子もなく、これ見よがしに、ズボンのポケットからナイフの刀身を片手で摘み、持ち上げていた。
彼としては、それで脅しているつもりのようだ。下卑た笑みを浮かべている。
終いには、透に対し『後で殺してやる』とまで言って、ナイフをポケットの中に滑り込ませた。
透は心の中で『はいはい』と返事をして、カバンから世界史の教科書とノートを取り出した。
あの馬鹿のせいで、目が冴えてしまった。それにしても、太田は相変わらずの間抜けっぷりだ。殺してやる?あんなことで脅しているつもりなのか。ばかばかしい。本当に俺を殺す気があるのであれば、ご丁寧に殺人予告めいた言葉を口にして、周囲に疑いの目を向けられる伏線を張ることなんてない。野生のライオンが堂々と仁王立ちして、お前を殺すと主張していたら、食べ物となるシマウマもガゼルも、捕まえる前に逃げてしまう。気配を絶ち、ひっそりと獲物に近付き、息の根を止めなければ、自然界でも人間会でも生きてはいけない。俺はあいつのように、スポットライトを浴びてから人を殺したりなんかしない。俺が人を殺すのであれば、完全犯罪を目指す。人目のつくところで、ナイフをチラつかせるような馬鹿な真似はしない。しかし、今のところ俺には、警察に捕まらないだけでなく、周囲に疑われずに人を殺す方法が思い浮かばない。結局今はまだ、俺も馬鹿の内の一人というわけだ。
「先生、ホウラクの刑って、何ですか?」
不意に訪れた静寂を破って、透の左隣の席の、舞岡千代が律義に手を上げて田部井に尋ねた。
「……そんなこと、山岸に聞けばいいだろう。隣なんだから」
余計なことを言わずに授業を進めろよ。透は適当に教科書を開き、目に入った中世ヨーロッパの項の黙読を始める。
「でも……」
千代は透を一瞥し、小さく溜め息を吐く。
「今何か、すごく集中しているみたいなので、多分、教えてくれないと思います」
「楽しい話ではないぞ、炮烙の刑は」
「まぁ、そうですよね」
呆れたといった顔で、千代は教科書をぱらぱら捲り始める。
炮烙の刑。猛火の上に、多量の油を塗った銅製の丸太を渡し、その熱せられた丸太の上を、罪人に裸足で渡らせ、渡り切れば冤罪、釈放になるという、中国の伝承的な処刑方法の一つ。
古来より、罪人に人は罰を与えてきた。それが具体的にいつから続いているのかは知らないが、今日明日、突然テロの無いこの国が、無法地帯になることはないだろう。つまり、この国では現在、法律を犯したら、裁きが下されるのだ。
人を殺したら、俺もかつて紂王が罪人にしたとされるように、惨い罰を与えられ、苦しむ姿を見て、誰かに笑われるのかもしれない。別に、それだけであれば、耐えることはできるだろうが、人を殺して、批難されるのが俺だけなんてことはありえない。俺が殺人者だと露見された途端、おそらく母さんも花圃も、世間に人殺しの家族というレッテル貼られてしまうのだろう。それだけは避けないといけない。家族を苦しめることになれば、結局は俺もあいつと同類だ。だから、人を殺すのであれば、完全犯罪を目指さなければならない。家族を守る為にも、早く俺が妙案を見つけないと……。
ぱたんと、音を立てて透が教科書を閉じたと同時に、授業の終わりを告げるチャイムの音が校内に響き渡った。
授業が終わると、炮烙の刑について話が聞きたいのか、早速千代が物問いた気な目を向けてきた。が、透は無視し、机の上に突っ伏して、目を閉じた。
「あれ、また寝るの?」
千代は席を立ち、透の席を軽く叩く。
「お昼御飯食べないの?」
「そのうち食べる」
「一緒に食べようよ」
舞岡千代とは幼稚園児の時からの知り合いで、家も近く、現在の高校生に至るまでも、透と同じ学校に通って来ていた。そんな、透と幼馴染の千代だからなのか、彼が一度や二度素っ気ない態度をとっても、彼女にダメージはないらしい。千代は平然と透を見下ろしている。
「いやだ。一人で食べてろ」
「たまには誰かと食べなよ。暗い人だと思われるよ」
ずずずずず……。横で千代が机を押し始めると、透はつと顔を上げた。
「お前こっち来るなよ」
「だって透が一人で寂しそうなんだもん」
「良いんだよ。俺は一人が好きなの」
「透は良くても私は良くない」
「何だよそれ」
千代は自身の机と透の机を律義にぴったりとくっつけると、満足そうに『これで良し』と言って、笑顔で席についた。
「今日はいつものみんなと食べないのかよ」
透は椅子に凭れかかり、左奥の窓際の席へと顔を向ける。
「良いよ。久しぶりに透と話がしたいし……」
「あぁ、そう」
そういえば、千代とは小学六年生の時に同じクラスになってから、ずっと違うクラスだったな。
透はカバンから、朝早く起きて、自分で作った弁当を取り出しながら、吹き出物一つ無いきれいな千代の顔をじっと見つめる。
「何?私の顔に何か付いてる?」
千代は透からの視線に気付くと、紅葉を散らして俯いた。
「え?いや、何かさ……」
『懐かしいな』と言おうとして、透はすぐに辞めた。
「ほら、あれだよあれ。お友達に言っておいたほうが良いんじゃないか、今日は一緒に食べないって」
「何だ、そのことね。大丈夫だよ。いつも一緒に食べている訳でもないし」
「それでも女ってのは、そういう小さなことを根に持つ生物だろ?一応言っておけよ」
「ううん……」
千代はしばし、深刻に悩んでいる様子だったが、やがて『そうだね』と言って、席を立ち、窓際で早くも群を作り始めている女生徒達に一声かけてから席に着いた。
「で、何?俺に何か用?」
「うん。ちょっとね……」
「『ちょっと』って何だよ」
千代とまともに会話するのは約二年ぶりだ。中学三年生の時に、二人で同じ奏鳴高校に受験するからという理由で、本屋に参考書を買いに行ったあの日から、ほとんど話をしていない。
高校三年生にもなり、透はいつの間にか大人っぽくなった千代の容姿を見て、どぎまぎした。
「炮烙の刑について聞きたいのか?話しても良いが、食事中にする話ではないぞ」
「違うよ。何かさっき、すごい怖い顔してたから、何でかなぁって思って」
千代はきょとんとした顔で、透の双眸を覗き込む。
「そうだったか?まぁ覚えてないけど、太田がうるさかったからじゃないのか」
「太田君がからかう前から殺気立ってたけど?」
どうやら授業中、横からずっと千代に監視されていたようだ。しかし、正直に人を殺す手段について考えていたとは言えない。
「顔を伏せていたのに分かる訳ないだろ」
不自然とは思われないような、合理的な作り話が思い浮かぶまで、透は話を逸らすことにした。
「分かるよ。長い付き合いなんだから」
「お前がそういうこと言うから変なうわさが流れるんだよ」
「別に良いでしょ、私たちが本当のことを知っていれば。それに、人に理解してもらうのって、けっこう難しい訳だし……。言葉や行動で示して解ってもらえないこともあるからね」
そんなこと、お前に言われなくても分かってるよ。
千代が玉子焼きを口の中に入れる様子を、弁当箱も開けずに見ていると、腹の虫が『ぐぅ』と不満気な鳴き声を上げた。
「それで、どうして怖い顔してたの?」
「あぁ、あれだよ……」
話題を変えたと思ったらすぐに本題に戻され、透は一瞬返事に困った。
「俺の家の近くに、コンビニがあるだろ?あそこで、水曜の夜十時頃に、すっごい綺麗な姉ちゃんがいてさぁ、何とかして親しくなりたいと思ってるんだけど、どうも彼氏がいるらしくてな。さっきはその姉ちゃんの彼氏が爆発しないかなぁって、考えてたんだよ」
即興にしては良くできた出任せではないか。
透は千代が『あっ、そう』と言って、目を僅かに細めたのを見て、企みの成功を確信した。
「ま、そう怒るなよ」
「何?私、怒ってないよ」
「だよな。お前怒ると鬼みたいな面になるもんな」
「どういう意味?それ」
千代は眉を吊り上げ、席を立つ透を見上げる。
「ちょっと、どこ行くの?」
「どっか一人になれるところだよ」
「お弁当食べないの?」
千代に背を向け、教室の出入口へと歩み始めたものの、透はすぐに振り返った。
「あぁ、食べたいのなら食べても良いぞ」
「いらないよ」
「食べると太るからな」
お約束のオチをつけて話を終わらせたが、千代はにこりともしなかった。
透の通う、奏鳴高校で生徒が静かに時を過ごしたいのであれば、一階の男子トイレの個室がベストだ。容姿も思考もまだまだ幼い一年生の教室が両脇に固めれているそのトイレは、曰く付きなのか、利用者の数がなぜか少ない。時折、隣室から汚らしい音が聞こえてくるが、教室にいる生徒達が奏でる騒音の中で、殺人方法を考えるよりは集中できる。
透は個室の鍵を直接触れないように、トイレットペーパーを指に巻いて閉めると、ゆっくりと天井を見上げた。
どうやってあいつを殺せば、俺が警察に捕まらずに済むのだろう。俺も馬鹿だからなのか、まるで妙案が浮かばない。今まで推理小説は何十冊も読んできたが、犯人は大体捕まるか、死ぬかのどちらかだった。小説に記載せれた殺人方法を模倣するにしたって、作品内では完全犯罪でも、現実で同じことができる訳ではない。とりあえず今は実行することは考えず、情報収集を先決にするべきか。翼の折れた鳥が空を飛べないように、アイデアなしに計画の立案、実行は不可能だ。しかし、今日明日は俺も花圃も学校だから、図書館でじっくり化学やら法医学やらの勉強はできそうにない。つまり、情報収集を開始できるのは明後日からという訳か。何だか歯痒いな。
透が深いため息を吐こうとすると、ちょうど隣室から品の無い、豚の鳴き声のような音が聞こえてきた。
幸い、臭いまではこちらに届くことはなかったが、透は苦笑して俯いた。
それにしても、千代が俺のことを見ていたなんて、想定外だ。他の奴等に顔を見られたところで、俺が何を考えているかなんて、一生かかっても解らないだろうが、千代は違う。十年以上傍にいる千代だったら、気を抜いていると何もかも見透かされてしまうだろう。次からは気を付けないとな。
自身をしっかり戒めてから、透は個室を出た。
そんなに長いことトイレにいた訳ではないが、教室に戻った時には、透の席の隣から、千代の姿は消えていた。