赤名札
暖かい陽射し、心地よい風、そしてほのかな花の香り。昼寝の三大要素が揃い、僕の三大欲求のうちのひとつである睡眠欲がどんどんあふれ出てくる。ちなみに残りの三大欲求は、食欲と物欲だ。
ここで寝たらきっといい夢が見れるんだろうな。気持ちいいんだろうな。そんな考えが頭をよぎるが、今ここで眠ってしまうのはまずい。かなりまずい。なぜなら。
「麻倉君、始業式ってあとどれくらいで終わるかな」
「ん、もう終わってもいい時間」
麻倉君は芝生に寝転んだまま、腕時計で時間を確認する。
始業式の予定終了時刻は、十時四十分頃らしい。そして今の時刻が十時四十五分。今すぐにでも始業式が終わって生徒たちが出てきてもおかしくない。さすがに始業式後のHRまでサボるわけにはいかないので、僕らは何をするわけでもなくただ芝生の上に寝転がっているのだ。
「あー、だめだ。寝転がってると眠たい。すごく眠たい」
このままでは寝てしまいそうだったので、仕方なく体を起こして大きく背伸びをする。僕はふと、ベンチの上で気持ち良さそうに眠っている先客を見た。白い毛の、小太りのマンチカンだ。
マンチカンというのは猫の種類で、普通の猫に比べて足が短いのが特徴だ。ミニチュアダックスフントの猫バージョン、と言ったところだろうか。
この先客のおかげで、僕らのベンチ争奪戦は決着がつかずに終わったのだ。
「僕、マンチカンって結構好きなんだよね。猫の中で一番好きかも」
「そうだな、俺も好きだ。……お前そっくりだし」
「誰が短足だって?」
僕は麻倉君を睨む。しかし麻倉君は何のことだか分からない、という様子で肩をすくめた。
この麻倉巡という男はは基本無口で、無表情。彼をよく知らない人から見れば、もしかしたらクールという風に見えてしまうのかもしれない。でも実際は違う。普段喋らないのは、ただ喋るのが面倒なだけで、クールとは全く無縁の性格だ。人の話は聞かないし、休み時間どころか授業中でも寝てばかり。学校行事にはまったく全力を注がないし、運動会なんて麻倉君がいるチームは負ける、なんて噂が立つくらいにとにかく無気力。彼の生活態度は、人生の限られた時間の大半をどぶに放ってしまっているようなものだ。あれじゃあ将来、自宅の警備すらもできないようなだめ人間になりかねない。その癖、人をからかう時だけは楽しそうに、生き生きとして喋るのだから厄介だ。
「……別に短足とは言っていないし、すらっとそれが出てきたということは蘇原自身にも自覚があるということじゃないのか」
ちょいむか。
麻倉君は人をからかっているだけとはいえ、滅多に浮かべない笑みをうっすらと口元に浮かべて、僕をばかにしてくる。口元しか笑っていないのが、妙に腹立たしい。
何か言い返そうかと口を開きかけたその時、体育館の方が騒がしくなっていることに気がついた。どうやら始業式が終わったらしい。
「まぁ、いいや。とりあえず教室に戻った方がいいかもね」
「ん、そうだな」
麻倉君も芝生から起き上がり、早足で脱靴場へと向かう。できればこの流れに紛れて、うまく吉対の目から逃れながら教室へと向かいたい。そのためにはまず、一年B組の出てくるタイミングを見定めなくてはいけない。あまり不審な動きをしてしまうと、教師達に怪しまれてしまうからだ。当然、人ごみの中で立ち止まったり逆走したりするのはモラルに反する。
というわけで。
「麻倉君、B組って誰がいたっけ」
「確か、春海とか吉野弟とか雨池とか……真中、とか」
「なるほど。真中さんも一緒なのか。ならすぐ見つかりそうだね」
「…………」
僕らは講堂からなるべく死角になるように、植え込みの陰へと隠れる。
学年はだいたい名札と制服で分かる。浅海学園は小中高一貫。当然、初等部、中等部、高等部では制服のデザインが少し違う。まずブレザーのボタンの色が、初等部は銅、中等部は銀、高等部は金。男子のネクタイと女子のリボンが、初等部と中等部は取り付け取り外しが簡単なハリボテタイプ、高等部は本物のリボンとネクタイだ。
そして名札の色。ここ浅海学園は、言ってしまえば学年が十二個あるようなもの。それを全部色分けしていたのではカラフルになりすぎてしまうので、初等部、中等部、高等部で色は統一されている。一年が赤、二年は黄、三年は紫だ。そして初等部はまださらに上があるので、四年が青、五年が緑、そして六年が白だ。つまり、僕らが探せばいいのは金ボタンの赤名札だ。
そんな中、僕らの目の前を黄色名札が通り過ぎる。そして紫名札。青名札。あ、また黄色名札だ。
「むぅ、なかなか来ないねぇ……」
自然とため息が漏れる。
止まることのない、人の流れ。それなのに、金ボタンの赤名札が来ない。講堂で始業式や集会が行われる時にはだいたい学年ごとに教室に戻るから、そのうち出てくると思うんだけどな。
そうこうしているうちに、とうとう最後尾。とうとう待ち望んでいた我らが赤名札はやってきた。
「麻倉巡っ! あなた始業式をサボったわね。どこへ行っていたのよ!」
『そういうことするから、後でまた叱られるんだろ。毎回毎回よくやるよ。学習能力ゼロだね。大体お前は――』
麻倉君の元へは強烈なラリアットが、僕の元へは友人からの冷たい言葉(筆談)が投げかけられる。待たせた分の埋め合わせだろうか。どうやら嬉しいオマケつきだったようだ。……いや、嬉しくはないか。
そして、精神的なダメージを受けた僕は若干気を落としながらもそのまま教室へと向かったが、肉体的ダメージを受けた麻倉君は志半ばにして、そのまま保健室へと直行した。それも近くに居合わせた吉対と共に。さようなら、麻倉巡。来世でまた会おう。
僕はだんだんと小さくなっていく彼の背中を、特に見送ることもなく教室へと向かう。