僕たち葉桜組
時に流されるまま生きている現代人にふと春の訪れを感じさせてくれる、校庭に咲き誇る桜の花――はとっくに散り始め、散っていない花びらと生えてきた葉が絶妙なバランスで混ざり合い、見事な葉桜となっていた。
早々と咲き、早々と散ってしまった桜たちは人々にとても惜しまれる。しかしだからと言って、最後まで生き残れば人々に歓迎されるかと言われればそうでもない。世間の人々は葉桜などに興味がない、むしろさっさと散ってしまえ、とでも思っているのだろうか。遅咲きの桜たちの扱いはあまりにも酷い、酷すぎる。そんな世の中でいいのか。周りに取り残されながらも最後まで生き残ったやつを、讃えてやらなくてもいいのか。周りに何と言われようと、最後まで自分らしく生き抜く。それが本当の美というものではないのか。
僕、蘇原康仁は葉の混じった桜の木の隣にある掲示板に張り出された、クラス発表の名簿を見ながらそんなことを考えた。僕は基本的に物事を深く考えるのは好きではない。人間でないものに感情移入する、ということも基本的にはしない。
そんな僕がなぜ葉桜にこんなにも感情移入してしまっているのか。理由は僕が葉桜が好きだから、ということではない。むしろ葉桜は嫌いだ。さっさと散ってしまえ、と思っている。僕が葉桜にこんなにも感情移入しているのは、この僕の目の前に張り出されているクラス名簿が原因だ。いや、より正確には、僕の名前が書かれている位置が問題なのだ。
僕が通っているのは浅海学園。地元でも有名な進学校だ。小中高一貫で、進学校という世間の評価通り、過去に何人もの生徒を有名な難関大学へと輩出している。しかし実際のところ、成績優秀な生徒ばかりが集まっているわけではなく、全体の成績的には他の学校と大差ない。いや、そういう言い方をしてしまうと多少の語弊を招いてしまうかもしれない。正確に言うと、成績上位者は普通の高校とは全く比べ物にならないくらい優秀だ。それこそ超難関大学にも合格してしまうくらいに。そして、中間にいる生徒は他の高校と大してレベルは変わらない。まぁ、少し高いくらいだ。
しかし、上には上がいるのと同じく、下には下がいるものだ。学園全体の学力の平均をがくんと下げる生徒が驚くほどたくさんいるのだ。学力的にも学校生活の態度的にも、僕の地元の不良高校と変わらないくらいだと思う。あまりにも成績が悪すぎて、とうとう見かねた教師たちは試験的にひとつの手段を取ることにした。
バカな生徒たちを一クラスにまとめてしまおう、と。
そんなわけで、浅海学園のバカ(ちなみにこの『バカ』という言葉の意味は広く、成績だけでなく普段の生活態度などもしっかりと含まれている)の精鋭たちが集められた一年Bクラスに、僕は所属している。というより、今日、それも今、これから所属する、と言ったほうがいいのかもしれないが。
当然、この試験的なクラス分け制度は事前に、詳しく言うと去年の終わりごろに生徒たちに報告された。そして、生徒たちの間で広まったそのクラスの俗称。
それが、『葉桜組』だった。