堕胎痛哭
題名通りですが、堕胎にトラウマがある方やそういう類の話が苦手な人は読むのを控えた方がいいと思います。
それでもいいと言う人は短い話ですが読んでいただけると嬉しいです。
「もしもし!?大丈夫ですか!?聞こえますか!?」
いたい。イタい。痛い。
身体が、動かない。
「誰か!!救急車を呼んでくれ!!早く!!」
何があったの?
何で身体が動かないの?
何でこんなに痛いの?
「血が止まらない…!!誰か応急処置ができる人は!?」
騒がしい声に誘われるように、私はゆっくり、うっすらと目を開ける。
「!!大丈夫ですか!?意識が!!意識が戻った!!」
「……ぁ…」
声を出そうとして、でもうまく出ない。
人が、沢山居る。皆、好奇心に満ちた目で、哀れむような目で、私を見てる。
何が、あったんだっけ?
下が、ゴツゴツしてる。冷たくて、痛い。
ここは…どう、ろ?道路…ああ、そうだ。
私、撥ねられたんだ。
身体…身体が痛い。痛いよ。
何処をぶつけたんだっけ?
…分からない。全身が痛くて、そんなの分からないよ。
けど、さっきから…何でだろう?お腹が、重い…
お腹……あ、私……
「救急車が来た!!」
救急車のサイレンの音がする。
けど、私は…私のお腹には…
手が、動かせない。確認したいのに、確かめられない。
痛い。重い。苦しい。
あ…ダメ…また、目の前が、暗く…なっ、て…
「大…夫です…!…しっ………て……ぃ……」
私の異変を察してくれた人のその声すら、もう遠い。
私は再び、意識を失った。
『愛して、ほしかった…』
誰かの声がする。その声は苦しそうで、悲しそうで、寂しそうで…
『短い間でも、直接会えなくても。それでも…愛されたかった…』
その声は、男の子の声で。聞いた事がないはずなのに、凄く親しみを感じて。
『…さようなら…』
声が遠くに行ってしまう。私はそれが嫌で、行かないで。と、手を伸ばそうとして…
「……ぅ…」
目が覚めた時、一番最初に見えたのは白い天井だった。
フワフワとした頭でここは何処だろうって考えて、自分が交通事故に遭った事を思い出す。それでここは病院だと気づく。
交通事故に遭ったのに、身体が痛くない事を不思議に思って、同時に違和感を感じた。
お腹が軽い。だけどそれに対して感じるのは喪失感。空虚な感覚。
どうしてなのか考えて、でもうまく思い出せない。
とりあえず、お腹に触れば思い出せるかもしれない。そう思って、手を持ち上げようとしたら。
「失礼します。」
扉をノックする音の後にそう声がした。そして扉が滑り開く。
「!!」
扉の向こうに居たのは若い看護師。丁度、様子を見に来る時間だったようだ。
看護師は私が目を覚ましているのに気づき、その場で立ち止まる。
「せ、先生を呼んで来ます!」
看護師は走って戻って行った。
もしかすると、結構長い事目を覚まさなかったのかもしれない。
ほんの少し、あの看護師に悪い事をしたような気がした。
しばらく後、看護師と医者が部屋にやって来た。
「やっと目が覚めたんですね。体調はどうですか?」
「多分、大丈夫だと思います。」
未だに感じる違和感を除いては特に問題はないようだから、私はそう答える。
「でも一応、今日一日は様子を見て、明日退院にしましょう。」
「あの…」
看護師と医者の様子が何となくおかしい気がした。
何処か不自然で、まるで壊れやすい物を取り扱っているような。必要最低限の事だけに抑え、傷がつかないぎりぎりの位置を探しているような。そんな感じがした。
「何ですか?」
医者の対応は早い。だけどそれで何かを隠しているような気がした。
「私…何か、なくしてませんか?」
「!」
私が聞くと、医者と看護師は動きを止める。
その顔は聞かれたくない事を聞かれたような、そんな苦々しい表情を浮かべていた。
重い沈黙が訪れる。普通ならば他の音がよく聞こえるはず。
けれどこの場に漂う張り詰めた緊張が、他の音を聞く事を許してはくれない。
しかしそれでは埒が明かない。
私は真っ直ぐに医者を見つめる。
「…分かりました。落ち着いて、聞いて下さい。」
私が諦める気がない事が分かったのか、医者が重い口を開いた。
しかし沈黙が去っても、緊張は残っている。
むしろ先程よりも空気が張り詰めている。まるで部屋に無数のピアノ線が張り巡らされているかのように。
動く事は勿論、果ては呼吸をする事にすら躊躇いを感じる。
「貴方は、自分が身篭っていたという事実を思い出せますか?」
「あ…」
その言葉でようやく思い出す。
私の中に居た新しい命。…不本意にも、できてしまったその塊。
重苦しくて仕方なかったそれが…今は、ない。
「貴女は交通事故に遭いました。幸いにも、貴女自身へのダメージ自体は、さほど酷いものではありませんでした。」
しかし…。と、医者は言いにくそうに言葉を切る。
そして少しの間を置いて、医者はゆっくりと口を開く。
「…不幸にも、そのダメージは貴女の中に居た胎児に。そして子宮そのものに集中していました。」
「…だから、何ですか?」
その先は聞かなくても分かる。だけど聞きたい。
もうあの邪魔な胎は私の中に居ないのだと、そう突き付けてほしい。
「…貴女の命を優先し、やむ終えず…子宮ごと胎児を摘出しました。…申し訳ありません。」
…おかしい。そう感じるのに、大して時間は必要なかった。
要らないと思っていた。ただの気まぐれで、宿したままだっただけ。
ただ、それだけの事。
望んでいた。こうなる事を。喪失感は突然故の、仕方のないもの。
なのに…落ち着かない。
いや、落ち着いているはいる。しかし妙にしんみりとし過ぎていて、それが逆に不自然に思える。
ふと意識を戻すと、医者と看護師が頭を下げている。
その様子に、怒りを感じる訳じゃない。
だけど、何だと言うのだろう?胸が苦しい。やり場のない不可解な感情が自分の中でうごめいている。
「…子供を…」
不思議な感じだった。誰かに操られているとか、そんなのじゃない。
けれどただ自然に、意識する暇もなく、口が勝手に動いた。
「子供を、見せて下さい…会わせて下さい。」
言葉になるまで、自分自身が何を言おうとしているのか全く分からなかった。
身体と心。それが別々になっているかのように。
ああ、けれど違う。別々なのは身体と心じゃない。
何かの映像を俯瞰で見ているようで、もう一つ別の想いが、別の心がここにある。
一体どちらの想いが本物だと言うのだろう?
「…分かりました。ご案内します。」
今度は看護師が答える。医者も特に止めるつもりはないようだ。
看護師に手伝われ、私はベッドから降りる。感情が安定しないからか、身体の感覚ですら何処か曖昧だ。
けれど身体の軽さは分かる。それで改めて、胎が居ないという事実を知る。
しかしそれが呼び起こす感情は、おおよそ自分の考えていたものとは異なっていた。
看護師の後をついて行き、気づけばある部屋の前に着いていた。
きちんと自分の足で歩いて来たはずなのに、変に記憶がぼやけていて、ここまでどうやって来たのか思い出せない。
看護師が部屋の扉を開ける。
部屋の中は真っ白で、窓から差し込む光が全体を照らしている。真ん中に低いテーブルがあり、その上に小さな箱が置かれている。
「これが、貴女の中に居た胎児です。」
看護師にその小さな箱を手渡される。その箱はよく見ると棺のようにも見えた。
これを手にして、私は何をしたいのだろう?
「…しばらく、一人にして下さい。」
「分かりました。」
看護師は子を失った母の悲しみのようなものを思ったのか、すぐに部屋を出て行ってくれた。
気持ち悪い。
感情がごちゃごちゃしていて、本物が分からない。
この箱の中身を…堕ちた胎を見たら、分かるようになるのだろうか?
確信はない。けれど予感ならある。
だけどそれが分かった時、私はどうなるのだろう?
それが少し恐い。
後押しするのは好奇心。引き止めるのは恐怖心。
しかしどちらにせよ、このままでは何も変わらない。何も分からない。
私は恐る恐る、ゆっくりと箱を開ける。
「!!」
中に居た…いや、あったのは乾き潰れた胎。
それは思っていたよりもとても小さく、脆くはかなく見えた。
私は自然とそれを抱きしめるようにする。
自分の中で感情が暴れる。
身篭ったのはほんの些細な、一度の過ち。
要らない命だった。けれど下ろすのは面倒だと思った。
だからそのままにしていた。きっと下ろさなくても、堕ちてしまうだろうと思って。
そして今、思った通りになった。
胎は堕ちた。思っていたよりも、随分と簡単に。
だけどその喪失感は、あまりにも大きいもので。
要らないと、そう思ってた。はずなのに…
「…ハッ、アハ…アハハハッ!!」
潰れた胎を腕に抱き、悲痛な笑い声を上げる。
ああ、どうしてこんなにも苦しいの?
「アハハッ!アハ、ハ……ぅ……アア゛ーーー!!」
笑い声は苦痛による叫びに変わる。
痛い、痛い、痛い。もう何もないはずなのに…お腹が、痛い。
叫びながらも、涙が流れる。
嫌だ、嫌だ。何で…何で?
痛い…苦しい、悲しい…!!
「ぁ……ああ…アア゛ーーーー!!」
泣き叫び、そして喚く。部屋に響く声はそれだけ。
堕ちた胎が泣く事はない。
産声を上げる事なく、この世界の空気を感じる事もなく、胎は堕ちた。
…愛される事も、ないままに。
「…ご、めん…」
ごめんね…ごめんなさい。
気づくのが、遅すぎた。
胎はもう戻らない。そして私はもう、産む事ができない。
「…愛し、たかった…!!」
愛したかったよ…
不器用でも、戸惑ってでも。
少しずつ、ゆっくりと学びながら、愛してあげたかった。
無事に産まれていたのなら、初めて会ったその姿に愛おしさを知れたかもしれないのに。
私はそのまま胎を胸に当てて泣き続けた。
何故か潰れた胎が、微かに笑ったような気配がした。
堕胎痛哭
<胎が堕ちた痛みに哭く>