迷い込んだら、小説の。
気がついた時、すでに私は森の中にいた。
カフェの椅子に座っていた姿勢だったのが、急に椅子がなくなったために、重力に従って私は後ろにひっくり返った。腰を強かに地面に打ち付け、その痛みに眉をしかめる。そして痛みが少しばかり収まった頃、私はようやく周りを見回して………………自分が森の中にいることを自覚した。
木漏れ日が心地よく私に降り注ぐ。空気は少し湿り気を帯びていて、いかにもマイナスイオンがたっぷりと出ていそうだ。
鳥の鳴き声が其処此処から聞こえ、風が木の葉をザワザワと揺する。その葉が摺れる音の重厚さが、私はいま森の随分奥深いところにいるのではないかと思わせた。
私は己の置かれた状況に気付き、しばらく茫然と座り込んでいた。
それも無理のない話だ。いきなり知らない森に、しかも子供のころの遠足でも行ったことのないような深い深い大森林にいたのだから。
ただ、数分間ほど茫然とはしたものの、比較的すぐに私は「異世界トリップしたのだ」という現実を受け入れていた。毎晩寝る前に異世界トリップ小説を読んでいた成果だろうか。小説の主人公のように戸惑いはしたが、泣き叫ぶよりも喜びのほうがこみ上げてきていた。
これで魔法が使えなかったら…………泣くかもしれないが。
もしかしたら小説に載っていた、この世界の呪文とかなら使えるかもしれない。後で試してみようと思った。
(あれ?でもなんで私トリップしたんだろ――――)
うーん、と唸って記憶を辿る。
(確か3人でお茶会してて、それで呪文の話になって、私が唱えることに…なっ、て……)
私はサッと顔を青くした。
もしかしたら、いや、たぶんきっと。私があのとき唱えた呪文が原因ではないか。
私が呪文を唱えて、異世界トリップは起きた。
だとすれば、私はあのとき……………なんと唱えた?
確か――――。
『いざなえ!我らを!妄想魔法『異世界往路』!』
「いざなえ、我らを…我らって言ったよね……。じゃ、じゃあ…、サヤもミホ、も……この世界に来ているってこと……?私が巻きこん、で…?」
私は跳ね起きるようにして立ちあがると、すぐに二人を探した。こんなに深い森林だ、この中からたった2人の人を探すのは難しいことだろうと思えたが、一緒にトリップしてきたのならすぐ近くにいるかもしれないと思ったのだ。軽く見回した限りは、二人の姿どころか人っ子一人見えないが……とにかく探すしかない。
正直、カフェにいたときのままのハイヒールで森歩きはキツかった。けれども、そんなことは言っていられない。私は必死に探し歩いた。
「サヤーーー!ミホーーー!」
声を何度も何度も張り上げる。返事はないが、声をかけながら歩き回るより他ない。
(サヤ、ミホ…)
ずっと昔から異世界トリップを妄想していた私はいい。夢が叶ったようなものだし、何かあったって自業自得なのだから。でもサヤやミホは違う。二人は私に巻き込まれただけ。明日になれば会社に行って、仕事して。そんな日常が続くはずだったのに。
懸命に二人を呼ぶ声はすぐに掠れてしまった。
ここ数年事務仕事ばかりだったし、こんな声を張り上げることなんか無かったから。
…いつも同期の誘いを断らないで、カラオケで喉を鍛えておけばよかったかな。
「二人ともーーー…!」
――――どれくらい歩いただろう。
ついにヒールが折れてしまった。
舗装された道ではないのだから、そのうち折れるだろうなとは思っていたがちょっと困った。
仕方ないので靴を脱いで歩く。
履いていたストッキングはすぐに破れて、足元は無残な姿になった。
「ねぇ……二人とも、いるんでしょ?!この世界に……いるんでしょーー?!私に、巻き込まれて!」
だんだん声が悲鳴混じりになってくる。
二人からの返事は相変わらず、ない。探し始めてどれくらいだろう。もう結構探しているはずなのに、未だ見つかる気配は無い。
この世界に来ていないならいい。だけど、私の直感が「二人はこの世界にいる」と告げていた。今まで直感なんてそこまで信じたことはなかったが、不思議とこの直感だけは信じられた。きっと、二人はこの世界に来ている。だからこそ私は余計に二人が心配だった。
「お願い………お願いだから、出てきてよーーー!私を、怒って……怒っていいから………!」
サヤもミホも、私の大事な友人だ。
かけがえのない、友人なのだ。
その二人を。
私は、異世界へ連れてきてしまった……!
結局、どんなに探してもサヤもミホも見当たらなかった。
この広い広い大森林の中で、私は一人ぼっちだった。
しばらくしてから私は、異世界は異世界でも、愛読小説『異世界少年』の中の世界に本当にきてしまったのだ、と改めて実感することになった。
そもそも『異世界少年』とは、日本に住んでいる男子高校生の主人公「黒崎誠司」が異世界へと召喚され、魔法を操り冒険を繰り広げるファンタジー小説だ。最初こそ弱っちい黒崎誠司だが、やがてその魔法の才能を開花させ、その力を狙った陰謀に巻き込まれたりと波乱の異世界生活を送るといった内容だった。紆余曲折の末、最後はある女性を愛してしまった黒崎誠司が元の世界に戻るかどうかを悩むことになるのだが―――まぁその話は今は置いておこう。
ともかく私が『異世界少年』の中に入っていると気付いた理由は、夜空にあった。
『異世界少年』の設定に「昼は太陽一つが昇り夜は月二つが昇る」とあったが、まさにそのままの光景が頭上に広がっていたからだ。地球では到底あり得ないその光景に、私はすぐに『異世界少年』の世界を頭に思い浮かべていた。
もしも本当にここがあの小説の中ならば、私が今いる場所はおそらく、ヒョルテ大陸南西部にある「オーランドの森」ではないだろうか。なぜならば小説の中で「オーランドの森にいる螢のような虫を初めて見た主人公が驚く」といったシーンがあったのを思い出したからだ。……先ほどから足元でチカチカキラキラとしている光が、それではないだろうか。
そしてここがオーランドの森だとすると、小説通りの世界ならもう少し北へ歩けばワルズガルド王国の城下町スライシュに着けるはずだ。ワルズガルド王国はヒョルテ大陸でも一・二を争うほどの大国だから、その城下町であるスライシュも大きな町だろうと思われた。
私は夜が明けるのを待ってから町に向かう事を決め、少しでも体を休めるために地面に直接座り込んでいた。
直接座るなんて汚いけど、今更だ。足元はボロボロだし、上着も木の枝に引っ掛けてしまい、すでに全身散々な有様なのだ。
正直なところ異世界の町に行くということに、少し不安はあった。
だけど、結局森で探しても二人は見つからなかったし、だったら町に行って手掛かりを探したほうがいい。あれだけ探してもいないのだ、きっとトリップ場所はバラバラになってしまったのだろう。
それに…………。
……いや。結局のところ、私は人がいる場所へ行きたかったのかもしれない。