プロローグ
日の暮れかけた町に、空砲の音が響き渡る。これから夜が訪れるという合図だ。
その音を聞いて、人々は夕闇に追われるようにせわしなく動き始めた。
この世界では時計というものはとても高級な品物であり、一般庶民にとって王城から撃ち鳴らされる空砲の音だけが正確な時間を知るための唯一の術となっているのだ。
夜からが商売時となる酒場は次々と営業を開始し、昼間路上で店を開いていた行商人たちは商売道具を手際良く畳んでいく。
この町は城下町ということもあっていつも賑やかなのだが、この時間帯はまた一味違った独特の賑やかさがあった。子供のはしゃぐ声が聞こえなくなる代わりに、男たちの騒ぐ声が目立って聞こえてくるせいだろう。この町は騎士団が常駐する城下町ということもあって他の街に比べると治安は断然に良いが、働き盛りの男たちと夜の街という組み合わせはどこの世界でも賑やかになるものだ。
そんな忙しなくも賑わしい町の中で、私はのんびりと歩を進めていた。
少し草臥れた茶色のズボンに、浅黄色をした上着、軽く羽織った安物のマント。腰には短剣を留めたベルトを締めている。足元には編み上げの革製ブーツに、手には草色をした大きめの布袋。典型的な旅人の格好だ。唯一旅人らしくない点と言ったら、短剣とは反対側の腰にぶら下げた細剣くらいか。旅人が自衛のために持つにしてはこの細剣は品も良く、また使いこまれていた。
私は旅人ではなく冒険者なので防具のほうももう少し良い装備に買い替えたいところだが、いかんせんお金がないので仕方ない。それでも無駄遣いを控えて毎日地道に頑張ってきた成果か、今ではだいぶお金も貯まってきていた。
私はパンパンに膨らんだ布袋を重そうに担ぎ直しながら、「これ、いくらになるかなー」と袋の中身に想いを馳せた。
私は松村薫。25歳、独身。OLをやって……ました。
なぜ過去形なのかと言えば、それはここが異世界だからとしか言いようがない。突然異世界に来てしまったのだ、もちろん勤めていた会社に出勤できるわけもなく、異世界で無職からのやり直し。
まぁ、今は冒険者なんてやって生活費稼いでいるわけだけど…。
日本にいるころから私には妄想癖があり、友人もやや引くくらいに私は夢の世界を語ってしまう痛い人ではあったが、さすがに1か月もここで暮していれば誰だって「これは現実だ」と認めざるを得ないだろう。私がこの世界に来てしまったことは妄想でも何でもない。れっきとした事実なのだ。
しかし少し付け加えるならば。
異世界とはいうものの、私はこの世界がどこであるのかを知っている。
剣と魔法の世界「ロメリヤード」だ。
このロメリヤードという世界には大陸が二つあり、東側の大陸を「ヒョルテ」、西側の大陸を「ティット」と言う。
ちなみに私が今いる町は、ヒョルテ大陸の西側にあるワルズガルド王国の城下にある町・スライシュ。
ワルズガルド王国と言えば勇猛なる騎士団を抱えた強国だ。
その中心である王城と隣接しているスライシュの町は、騎士団のおかげだろう、治安もわりと良くなかなか居心地のよい町である。
ただ、私がこの町にいるのは、何も居心地が良いからだけではない。
私は、この町で―――――勇者を待っているのだ。
もっと正確に言うならば、勇者が「勇者として任命され」旅を開始するのを待っている、と言ったほうがいいのかもしれない。
この世界にはRPGのような「魔王」といった存在はないが、それなりに脅威となる魔物や、伝説級の生き物だがドラゴンなんかもいる。
魔物くらいならば騎士団でも対処できようが、ドラゴンともなると普通の人間ではとても太刀打ちできない。
そんなとき、伝説級の相手と戦うために「強敵と戦える人間」として異世界から召喚されるのが、勇者なのだ。
実際―庶民にはまだ知らされていないが―今、王城には勇者がいる。
この城より遙か北、ラシャの湖で数百年前に封印されたはずのドラゴンが目覚めてしまったために、王城にある儀式の間で召喚されたのだ。
しかし、召喚されたこの勇者。この世界の言葉が理解できず、又その溢れるような魔力を使いこなせていなかった。もっとも、当代の勇者は魔法の無い世界から来たのだから、無理もない話だが。
だから勇者は今、王城でこの国の言語と魔法の使い方の勉強をしているのだ。
……まぁ私が先日様子を見てきた感じでは言葉はだいぶ分かるようになったようだが、魔力のコントロールにはついてはもう少し、といった雰囲気だ。
ドラゴンの出現も勇者召喚のことも何も知らない庶民はいつも通りの日々を過ごしているが、事情を知っている王城の一部の人間は「いつドラゴンが暴れ出すか」と内心気が気ではないだろう。
しかし私だけは知っていた。
勇者が己の身の内から湧き出る魔力を使いこなせるようになるのは、召喚された日から数えてキッカリ1ヶ月後…………つまり今から3日後、だということを。
そしてその勇者は、ドラゴン封印の旅で大きな苦難に見舞われるだろうということを。
(勇者・黒崎誠司、かぁ。一緒に旅することになるとは、思わなかったな)
私は勇者の準備ができ次第、一緒に旅に出る手筈になっている。
勇者が旅に出るその時までは、この町を拠点としてお金を稼ぐつもりだ。旅は何かとお金がかかるだろうしね。
……なぜ私が勇者本人ですら知らないことを―それこそ魔法を使えるようになる時期まで―知っているのか。
それは、ここが、この世界「ロメリヤード」が。
私の愛読していた小説の中の世界だから。
私はのんびりと歩いていた足を少し早め、通りを抜けると薄暗い路地に入っていった。
この路地の先に、今の私の常宿があるのだ。
この町はかなり大きな町なので、当然大通りにも立派な宿が何軒かある。
しかし、手持ちのお金が心許ない身としてはこういった少し寂れた宿に泊まるのが精一杯なのだ。
正直なところ安いだけが取り柄みたいな宿だが、今の私にはその安さが何よりもありがたい。
夕食・朝食付きで銅貨35枚、食事なしなら銅貨20枚。もしも大通りの宿に泊まろうとしたら、どんなに安くても食事付きで銅貨70枚が必要になってしまう。
宿だけは毎日かかる費用なだけに、なるべく節約したかったのだ。
私は少々建てつけの悪いエントランスの扉をグッと力を込めて開けると、床をギシギシと言わせながらエントランスの右側の通路を進んだ。
ちなみにエントランスの左側にあるのは食堂や共同風呂で、エントランスから右側は全て客室だ。1階と2階にそれぞれ5部屋ずつ。今はその半分くらいが埋まっていて、私の泊まっている2階は確か私を含めて3部屋が埋まっているはずだ。
私が階段を上がりきったころ、床の鳴る音を聞いて私の帰りに気付いたのだろう、階段近くの扉がふいに開いた。
ドアの隙間から見えたのは、モジャモジャ頭。すっかり見なれたその頭の主を見て、私は相好を崩した。
「トールか」
「よっ、カオル。帰ったのか」
もうすっかり顔馴染みとなったトールは、いわゆる先輩冒険者だ。
私が泊まりだすより半年くらい前からこの宿に泊まっているらしく、この宿はまるで彼の家のように馴染んで見えた。
トールの見た目年齢は40代後半くらいだろうか、家族がいてもおかしくないような年齢に見えるが、そういう細かい事情は聞いたことがないので私は知らない。
たまに寂しそうな顔をして私の姿と誰かの姿を重ね合わせているのは感じるが……私にとってはただの、よくご飯を奢ってくれる気のいいご近所さん、である。
こういう宿には事情のあるような人がよく集まる。
それは私にも言えることなので、逆にこういった宿のほうが気楽なことも多い。
だからこそ私自身も、極力相手を詮索するような発言をしないようには気を付けていた。
「ただいま。ちょうど今戻ったとこ」
私は軽く手を上げて応え、それからトールの手元に視線を移す。
トールの手には大きな酒瓶。……また昼間から呑んでいたらしい。
「トール……いい加減にしないと体壊すよ?また稼いだお金、全部お酒につぎ込んだんでしょ」
「ハッ、これくらい水みたいなもんさ。まったくカオルは男のくせにカアチャンみたいだな!」
溜息とともに忠告すれば、トールはガハハハと豪快に笑って、私の背中をバンバンと叩いた。
遠慮のない力で叩かれた背中は痛いが、全身にしっかりとついた筋肉のおかげか私もこのくらいならビクともしない。
(女のままだったら吹っ飛んだかもしれないなぁ)
私は、元の世界ではOLをしていたわけで、つまり生物学上の性別は女である。
しかし今の私は――――魔法で男になっていた。
この世界で女の冒険者ほど珍しく、絡まれやすいものはない。
それでも強ささえあれば問題はないのだろうが、私のように冒険者になり立ての女がウロウロとするのはどうしても危険が付きまとう。
そんな無用なトラブルから身を守るためにも、私は男へと姿を変えているのだ。
とはいえ、いくら剣と魔法の世界でも性転換できるような魔法なんて本来であれば存在しないが、私はこの世界ではいわゆる「規格外」。
私はこの世界の魔法が使えない代わりに、いろいろと変わった魔法を使うことができた。
まぁ………いろいろと、変わった魔法ではあるが……。
「カオルこそそんな古臭い服着てねェで、もっと良い装備に買い替えたらどうだ?金もだいぶ貯まってきたんだろ?」
酒臭い息で「これじゃ冒険者っつーより旅人だ」と揶揄われ、ムッとするようなアルコール臭とその言葉に顔を顰める。
「どうせ魔物の血で汚れるんだからこれで充分なんだよ。それに着替えくらいあるよ」
「着替えぇ?お前が違う服着てるとこなんか、俺ぁ見たことないぞ」
「だって勿体ないから着てないもん」
私の返事に一瞬虚を突かれたらしいトールは、しかしすぐに「こいつぁいい!勿体ないから着ねぇのか!」と言って体を揺らして笑った。
トールにはまだ話していないが、私は3日後、勇者とともに旅に出ることになる。
その時に新しい服はおろすつもりなのだが、そこまでこの男に話すこともないだろうと思い、黙っておいた。
私はトールと別れると、自分に宛がわれた部屋に向かった。
この宿で生活を始めて20日ほど経つ。
最初の頃こそ、歩くたびにギシギシと嫌な音を立てる床に不安を覚えたり、個別のお風呂もトイレもない狭い部屋に圧迫感を感じていたものだが、住めば都とはよく言ったものだ。古くてボロくて狭いけれど、慣れればそう悪いところでもない。
私は部屋に入るなり、肩に担いでいた袋を勢いよくドサッと床に置いた。
(っと。下の部屋に音が響いちゃったかな?)
昼間エントランスを通りがかったときに女将さんが「下の部屋に1週間滞在予定の人が入る」と言っていたのを思い出す。
今はまだそんなに遅い時間ではないから、その人もたぶん食堂か酒場に行っていて部屋にはいないとは思うが、いちおう気をつけなくてはならない。
ふぅ、と一息つくと、私は袋の中身を検分し始めた。
袋の中身は、今日狩りをしてきた魔物のパーツというか…部位というか……。有体に言ってしまえば、「死骸の一部」である。
魔物の爪や羽、毛皮はけっこう良い値段で売れるので、私のようにお金のない人が手っ取り早く稼ぐには、魔物を倒してその部位を売るのが一番いいのだ。
もちろん最初は気持ち悪かった。
戦う自信だってなかったし、ましてや捌くことなんてとてもできそうにないと思っていた。
実際、初めて戦闘をしたときも、この町で知り合った騎士の協力がなければ勝利は難しかっただろう。
先ほど町の入り口で別れたばかりの騎士の顔を思い浮かべて、私はフッと笑いを洩らした。
あの男は深く知れば知るほど過保護な男で、私のことをまだ子供だと思っているのか、魔物狩りにも暇を見つけては同行してくれているのだ。
どうしても嫌悪や恐怖が先立つ私は魔物狩りに未だに慣れているとは言い難いが……何とかこうしてやっていけているのも彼のおかげだろう。
本当に、日本でOLやっているときは、思いもしなかった生活だ。
キャンプだってしたこともなかった私が今こんな生活をしているなんて、元の世界の親戚たちが知ったら腰を抜かすかもしれない。
だが、私は弱音を吐くわけにはいかなかった。
ともにこの世界にやってきてしまった友人たち――――サヤとミホを、見つけるまでは。
(絶対に二人を助けるって、決めたから――――)
私は遠い目をして思い返していた。
この小説の中の世界に紛れ込んだ、あの日の事を。
区切りや語尾を少し訂正しました(9月9日)