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シューティング・スター・ハイウェイ

 夢を見ていた。私は、布団を払いのけながら、呆然とそんなことを考えていた。夢の内容は、思い出せない。ただ、幸せな夢だったような気はするのだ。カーテンを払うと、朝の目映い陽光が顔を目を刺し、あくびを生んだ。朝に弱い私は、そのまましばらくぼうっと空を見続ける。空は暗い。暗いのに、光っている。その様子をみながら、どんどん意識が覚醒してくると、今の状況を思い出した。

「おはよう」

「……おはよう」

 妻の千鶴と娘の華苗、それぞれのおはよう。前者が千鶴で、後者が華苗だ。千鶴はいつもどおりの調子を保っている。華苗もまた、いつもどおりの朝の弱さを前面に押し出している。

「……おはよう」

娘と似たような返事で返して、椅子に座る。千鶴が何かを作ってくれている。その音も匂いも今の五感は受け付けなかった。

 テーブルに無造作に置かれた新聞を手に取る。世界の滅亡。トップに出た話題はいささか不景気がすぎる。この時代の人に負わされた運命は過酷過ぎた。

 トースターが、入れておいた食パンが焼けたことを知らせる。スクランブルエッグもほとんど同時に出来上がる。コーヒーはその二つの前にテーブルに出されていた。あと一ヶ月。それはこの世が滅亡するまでの時間でなく、自分が必要としている時間だった。

 空は紫色に光っている。少しずつ地表に近づいてくる異様なそれの原因は、私しか知らない。そして、誰にも食い止めることはできない。


 私の人生は常に恐怖に縛られているものだった。十数年生きて、そのほとんどの記憶を奪われて、私が知る私はたったの一年。その一年、恐怖で動けなくなることしか経験してこなかった。篠章のゆがんだ思考とカナエの白熱した怒りがぶつかる。ただ目を合わせているだけなのに、カナエは相手を殺してしまいそうだった。

「分かった」

意外にも、カナエは抵抗しなかった。篠章の実験の被験者になることを選んだ。どうして?という私の疑問に、カナエは私の目を見て微笑んだ。それだけで、理由を理解するには十分だった。ここでカナエが拒否すれば、私に危険が及ぶ。廃棄が決まっている私のことを、カナエは諦めていない。だから今ここで、私を捨てるわけにはいかないと判断したのだ。だが、それはよくない。カナエは死ぬ恐怖よりプライドを優先すると言った。そういう信念を他人の存在のせいで、諦めてはいけない。 

 篠章にカナエが歩み寄る。やめさせなければ。篠章を妨害しなければ。途端に震えが体を走った。指先からぶるぶると、寒い冬の中に取り残されたみたいに震える。体が使い物にならなくなった。

 恐怖は駄目なんだ。恐怖は、絶対にあっちゃならない。ぐっと一歩踏み出した。目の前が真っ暗になった。それでも、カナエと篠章の間に割り込み、篠章の頬をぶった。ごんという不吉な音と共に、篠章の頭が揺れる。不健康な私の力は微々たる物だが、猫騙しくらいの効果は得られたと思う。すぐに、カナエの手を掴むと、引っ張って必死に走り出した。後ろで篠章の罵声が聞こえた。そして次に、数人の足音が後ろから聞こえた。恐怖が煽られる。足の感覚がなくなる。

「ありがとう」

カナエが耳元で囁いた。うんと頷いてその顔を見ると、いつもの笑顔のままだった。それで私は幾分か安心させられる。

「上に行くよ」

カナエの指示を受け、上を目指す。どこまで目指せばいいのか分からないが、とにかく上だ。そう考えたところで、気付く。結局どこまで行っても逃げ切れないんじゃないか。この建物には出入り口は無い。一つある正面玄関は、一部の人間しか通ることができない。それに上の階に行ってしまえばその玄関から遠ざかることになる。私はもう踏み出してしまった。ここで逃げるのをやめれば死ぬ。

 ばたばたと必死な足音が二つ。その後ろからついてくるのは二人の研究者。彼らも体力に自慢がある方ではなかったが、か弱い少女らに負けるほどやわではなかった。それだけでなく、最初から、この追いかけっこの結末は見えていた。鬼はいたるところに潜んでいる。そして、その数は数十。目前に迫った曲がり角に二人、鬼が現れた。少し距離をとって動きを止める。後ろと前から二人ずつ迫ってきて、通路の隅に追いやられてしまう。

「どうしよう」

またしても弱気になる私に対して、カナエはあくまでいつもどおりだった。

「考えれば、結構活路を見出せるもんだよ」

そう言うと、カナエは私の盾になるように立って、先日の折りたたみナイフを、ポケットから取り出した。それを自分の首筋に突きつけると堂々と言い放つ。

「道を開けて。死ぬよ」

四人の男はその手の届く範囲に近づけない。だから、私を使うことを考える。

「ウェザー。そのナイフを奪え。そうすれば、廃棄処分が覆る」

「……断る」

どうせ覆ったって、数日経ったらまた同じことになるだけだ。そもそも篠章が私を許すはずがない。私が静かに跳ね除けると彼らは、その懐から拳銃を取り出した。その銃口は全て私に向けられている。

「なら仕方ない。カナエ。ナイフを捨てろ。さもなくばウェザーを撃つ」

 撃つ。その言葉の響きだけで、私の心臓は撃ち抜かれたも同然だった。また震えに体を捕らわれる。それがカナエに伝わらないように必死に覆い隠す。首筋にナイフを突きつけたまま動かないカナエと、銃口を私に向けた四人の研究者の間に緊張が走る。彼らが道をあけない限り、いい結果は生まれない。しかし、彼らに逃がす気など微塵も無いのだ。時間が経つにつれ震えが酷くなる。鉛の弾丸が、銃口を飛び出し私の眉間に突き立つのを想像してしまう。血が、溢れ出す。もっとも死に肉薄した、赤いコートの男とのやりとりが、あのときのことがフラッシュバックする。

「ウェザー?」

「大丈夫」

本当にそう発音できたとは思えなかった。体全身で戦慄いく。呼吸が止まりそうなくらいに深く息をする。涙が溢れていることにも気付かない。背中をべったりと壁にくっつけて、震える足だけでは支えられなくなった体を、どうにか支えている。カナエが振り向く。カナエは優しかった。私を安心させようと薄く笑いかけて、そして、ナイフを下ろした。一歩前に踏み出すと、ナイフを捨てる。カナエの弱点は、私だった。私という友人を作ってしまったがために、気高く強い意志を破棄しなければならない。カナエが両手を挙げたところで、四人がいっせいにその人を取り押さえる。

 拘束できる道具がないからか、両手をぐっと鷲掴みにするような形で、後ろ手に拘束される。カナエは連れて行かれ、私はその場で放置される。ぐったりと、壁に背をつけ、崩れ落ちた子供に興味は無いらしい。十数メートル離れてようやく、まともな思考を取り戻した私は、カナエはもう自由を取り戻せないことを感じた。篠章は、カナエから情報を取り出す新たな策を編み出し、それを実行に移すのだろう。その時、カナエを手放すことはもう無い。死ぬまでその記憶を搾り取られる。

 暗い恐怖が去った後は、さらなる漆黒の絶望と、その中で燃え上がる怒りが残った。私がいなければカナエは、もっと上手く立ち回れただろうに。恐怖は駄目だ。それがあったから私の全てが駄目になる。そんな感情は、特に、私の中に必要ない。

 すっと、風が吹きぬけるような心地がした。絶望も、怒りも、その隙間風のようなひと吹きで消えてしまった。澄んだ心で、カナエが連れて行かれた方向を見る。結構小さくなったな。でもこの通路は不便なことにエレベーターまで遠いんだ。まだ間に合うかな。

 座り込んだままの姿勢で、何も無い澄んだ心でいると、目の前に光が集まり始めた。鈍い灰色が集まったそれは、しばらくすると人のような輪郭になった。次の瞬間、輝きが失われて、その輪郭は、確かにそこにあるという質量感を伴った。銀色の光沢を放つ鉄。その鉄によってかたちどられた女性の上半身。胸部が平らでちっともセクシーじゃない。足

らしきものはどこにも見えなくて、その代わりに腰から下はスカートを履いていて、宙に浮かんでいる。体の全身いたるところに書かれたShut-Downという文字列も目を引いたが、そのか細い両腕に抱えた二丁の細長いスナイパーライフルが、より特異性を醸し出す。

「私はシャット・ダウン。あなたのダブル」

蚊の泣くような声でそいつは言った。

「そう。じゃあ、一丁貸してもらうよ」

そう言ってその手の中から一本奪い取った。そのまま腹ばいになって、スコープを覗く。難しい操作なんて分からないが、私のダブルが作り出したものというのなら、難しい操作はいらないはずだ。肉眼で見ると、随分小さくなった研究者とカナエも、スコープを覗けばその表情までしっかり確認できる。倍率をもう少し上げたいな。そう思うと、勝手にズームしてくれた。これらの操作は私の意志と直結しているみたいだ。

 右端の研究員を照準の真ん中に置く。私の呼吸と同期して照準が上下にぶれる。呼吸をとめると、ぴったりとその後頭部の一点に固定された。自分の心臓の鼓動音しか聞こえなくなった世界で、引き金を引き絞る。

 重い発砲音と比べて、反動は非常に軽かった。おそらく、ダブルの銃ゆえに、物理法則に反して私が使いやすいようになっているんだろう。音と同時に、スコープの中の人間が崩れ落ちる。まず一人。スナイパーは奇襲が大事だという。それもそうだ。一人倒れれば、もう無用心ではいられるはずがない。反動の少なさを利用して、倒れたその隣の人物を狙う。カナエが銃の延長線上を掠めないように注意しながら、二発目を撃ち込む。二人が死に研究者の間に動揺が広がる。その内に、もう一人射殺する。最後の一人はカナエを置いて逃げ出した。十二分に狙えるものだったが、もう殺す意味はない。

 ふと気付くと、シャット・ダウンと名乗った奴は消えていた。私は残されたライフルをどうしようかと、思案する。首をかしげて唸っていると、一つ思いついて、その細い銃身を握り締めてみた。ダブル人格者はダブルを自分の心に還すとき、その体に触れる。このライフルがダブルのものなら、同じことができるはずだ。案の定、上手くいった。上手くいったことで、自分がダブル人格者として覚醒したことを実感した。

「カナエ!」

随分遠くにいったその人を呼ぶ。大声で呼び、手を振って、走り出した。カナエも私に気付いて走り出す。ひとまず、カナエは助かった。小さな喜びをかみ締めながら、カナエと数分ぶりの再会を果たした。

「ウェザー!今のは?」

「私、ダブルに目覚めたみたい。これで、襲われても何とかなりそう」

その代わり、私は人殺しになった。そのことをカナエも私も分かっているから、少しだけ声のトーンが低い。

「うん。ありがとう」

それでも、カナエの強い声が心を支えてくれる。それにもう私は恐怖に縛られない。

「行こう」

二人で歩き始めた。そうすると、ここから脱出するという勇気が沸いてきた。道が無いなら作ればいいのだ。

―気をつけて。油断しないでね。

 頭の中に、自分によく似た声が響く。これが、ダブルの声というやつなんだろう。

 大丈夫。上手くやるよ。

 しばらく歩くと、階段が見えてきた。大体四人ほどが列になっても大丈夫な幅は、このビルの平均的な通路の幅と同じだ。このビルにはエレベーターがいくつかと、階段が一つある。エレベーターも階段も、一階から最上階まで真っ直ぐ上っていける。だが、階数がやたらとある。階段を選ぼうとはあまり思えない。

「どうする?」

「階段で行こう。エレベーターは誰か来たとき逃げられないし」

最も階段だってそれの条件はあまり変わらない。それでもカナエは階段のほうがいいと強く推した。私は自分が折れて、カナエについていくことを決めた。一階、二階、と着実に階数を重ねていく。上った階数が五階になったところで、私たちは歩みを止めた。

 階段の中ほどに、女が一人。空色の水玉模様のパジャマを着て、今さっき起きたばかりというような感じに髪をぼさぼさにしている。あまつさえ、その大きな目には目やにが溜まっているように見える。私の知る後天性のダブル人格者だ。炎の軌道と規模を操る、そういう能力を持っている。ダブル同士の戦いは、相手の能力を知っているほうが有利だ。私のダブルはこれといって特殊な能力を持っているようではないが、それでも私は知られていなくて、彼女は知られている、そういう状況になっただけでも有利といえる。

「ウェザー、何してんの?」

寝ぼけた目をこすりながら彼女は言う。

「ちょっと散歩かな」

「そう、がんばってね」

その言葉と共に、彼女の隣にダブルが現れた。宙に浮いた真っ黒な手袋。手の甲に目がついていて、手のひらには唇がついている。それが右手と左手で一対。そいつは彼女からマッチを受け取ると、慣れた手つきで擦って火をつけた。

「下がってて、カナエ」

「うん」

視界の中央に黒い手袋を捉える。ダブルを破壊すれば、人殺しとしての罪悪感もまだましかもしれない。

 シャット・ダウン。銃を

―分かった。

 銀色に光る銃を心の中でシャット・ダウンから借り受ける。それを取り出し構えると、視界のブレを減らそうと集中する。その時、ふっと首筋に何かが触れた。次の瞬間、体が宙に浮いた。うわっと思わず声を上げて、全身に逆向きにかかる重力に流される。私は天井へ真っ逆さまに落ちていく。これは、別のダブルの能力だ。確か空色の甲虫の形を取っていて、触っている相手の重力を逆転させるとか、そういう能力だったはずだ。床から足が離れた瞬間から、どんどん加速していく。天井に叩きつけられる一瞬前にシャット・ダウンを召喚して、衝撃を和らげようと試みる。緩和し切れなかった衝撃が与える痛みに喘ぎながら、立ち上がると、頭上には床が広がっていた。カナエに近づく男の影、そして黒い手袋の持ったマッチの火が咆哮をあげる。小さなともし火程度の火が、急速に巨大化し、うねり襲い掛かってきた。

「シャット!」

―炎を止める!

 頼んだよ。

 ライフルを構えなおす。襲ってくる炎には目もくれず、カナエを階段の隅に追い詰めた男を狙う。スコープを、その後頭部でいっぱいにする。その瞬間、また重力が逆転する。甲虫が飛んでいくのが見えた。さっきまで張り付いて私の重力を逆転させていたやつだ。能力が解除されたせいで、私はまた照準を見失う。そして手袋によって作られた火炎の中に放り込まれる。恐怖は無いが、対策が思い浮かばない。自由落下に捕らわれて、動けない中、死を覚悟した。

 炎を切り裂いて、銃弾が三発とんできた。それは私から離れたところにそれぞれ着弾する。その弾が走った場所の周辺の炎が消えてなくなっていた。そして、弾道から強烈な冷気を感じるた。一瞬で炎が消え、跡に残された異様に冷たい空気を通り抜け、シャット・ダウンの手前に落ちた。

―これが私の能力。弾丸の温度を自由に操ること。

 なるほどね。やるじゃん。

 温度が低い物体は、回りの温度を奪う。シャット・ダウンの撃った弾丸は炎から熱を根こそぎ奪い去り、無力化した。

 体勢を立て直した私は、男に銃を突きつける。動くなという言葉で、男はぴくりとも動けなくなる。シャット・ダウンは手袋に向かって発砲した。当たらなかったものの、そのマッチはもう使い物にならない。

「退いてくれる?」

二人に問いかけた。

「退くに退けなくってね。行きたかったら殺したら?」

私は動ける。殺せといわれたなら、即刻殺す。脱出するための意思がある。引き金に力が入る。カナエは私を非難しないだろう。それでも、心に責を負わせてしまうかもしれない。そんな、一瞬の躊躇が、事態を好転させた。

 赤いコートを着た赤髪の男が上の階から、手袋使いの方に飛び込んできた。鞘に収まったままの刀を一振りすると、寝ぼけ眼の女性はぎゃっと声を上げてまた眠りについた。そのまま男は振り向くと、私とシャット・ダウンに伏せろと手で指示をする。そして刀を振って、鞘だけを投げ飛ばした。猛烈に加速するそれはカナエに迫る男の後頭部に猛烈な威力をともなって叩き込まれる。二人のダブル人格者をいともたやすくのしたそいつは、口の端を吊り上げてにやりと笑った。

「誰?」

私は銃を構える。その姿には敵としての見覚えがある。ただ、後ろではしゃぐカナエの声が聞こえて、引き金に指をかけることすらできなくなった。

「丞一だよ!丞一が来たんだよ」

「丞一?」

ということは、目の前にいるのは、カナエを外に連れ出したという人のダブルか。たしかに、よく思い出してみると、その姿はカナエと共に見た気がする。カナエの信頼する人なら銃を向けるわけにはいかない。二丁のライフルの照準が下がると、二人分の階段を降りてくる音がした。一人は星のない夜のような黒い髪を肩の辺りまで伸ばした少年だ。痩せ気味で、男の癖に華奢な体つきをしていて、身長も低い。隣にいるダブルの背と比べると、頭一つ分の違いがある。ダブルはそのコートの上から見ても、しっかりとした体つきをしていて、これも対照的だ。一つ二人に共通項があって、それは顔立ちだった。鋭い目と高い鼻、鋭利な印象は同一人物だとよく分かる。私は自分のダブルを見る。そこにいるダブルは顔も髪も持ち合わせていなくて、頭部模型の原形のようなのっぺらぼうだ。

 もう一人出てきたのは女性だった。眼鏡をかけたその女性は、柔和な笑みを眼鏡の奥に称えていた。ボブカットにした髪がよく似合っている。その女性もきっとダブル人格者なのだろうが、肝心のダブルが見えない。二人は私たちの前に姿を現すと、男のほうが、ゆっくりと口を開いた。

「待たせたな。カナエ」

 心の奥から嬉しそうな、そして俺がずっと見たかった笑顔がそこにあった。今にも走り出して、そして飛びついてきそうな勢いだ。俺のうぬぼれなどではなく、実際にうずうずといった具合に体が揺れている。そういうところで自分を制するあたりがカナエらしい。そのカナエの隣に、見慣れない少女がいる。背がカナエよりも少し低く、幼い顔つきからして、十三、四くらいだろう。隣に銀色の金属でできた人型が浮かんでいて、この少女もダブル人格者だと分かった。上の階で、アブルリイが言っていたカナエを助けている人物、というのはこの子のことだろう。

 俺は階段を降りる。それに続いて、氷野やアブルリイも降りてくる。カナエがゆっくりと近づいてくる。大切な人がそこにいる。

「遅いよ」

至近距離まで近づいたところで、ぐっと握った拳で額を小突かれた。かなり痛みが走る。

「悪い」

「来てくれると思ってたよ」

カナエは無邪気な笑みでそう言った。

「ありがとう」

その気持ちを、裏切った瞬間があったことが思い出されて、申し訳ない気持ちになる。カナエは、そんな俺の気持ちを知ってかしらずか、同じ目線で、じっと見つめてくる。心の中を見透かされるような気持ちになったが、悪い気はしなかった。しばらく、お互いに見つめ合って動かないままでいた。すると、当然のように隣から氷野のちゃちが入る。

「後にしなよ。お二人さん」

「そうだよ新婚さん。今、やばいんだから」

女の子にまでのっかられた。新婚さんて何だよ。赤くなる顔を壁に向けて二人から隠した。二人の顔は見えないがにやにや笑いを貼り付けているのが容易に想像できた。

「あ、そうだ。紹介しとかないとね」

カナエは照れていないらしい。本当に、どんなことにも動じないな。

「こっちの照れてる奴が丞一。クールないじられキャラね」

「異議有りだ」

「却下。でこっちのお姉さんは氷野理々さん。ダブル人格者で、作家さん。私たちを助けてくれた恩人」

「照れるね」

「さて、この子はウェザー。ここで知り合った私の友達。見ての通りダブル人格者です」

「どうもー」

顔の火照りが静まるまで、俺は後ろを向いていた。だいぶ落ち着いてきて、また、三人を視界に入れる。カナエと会えた。後はこの四人で、ここを脱出するだけだ。

 来た道を引き返す。今まで必死で降りてきたこの階段を、次は必死でのぼることになった。ある高さまでのぼると、階段は一旦終わる。真ん中のホールを通らなければならない。非効率的な建物だと思ったが、ホールの付近の壁には連絡がびっしりと張り出されていて、それをとにかく見せるためだと分かった。確かに、研究者はそんなものを自分から見に行こうとはしないようなイメージがある。そしてそのホールは、今回、全く別の目的を果たすのに効果的だった。

「遅かったな。待ちくたびれたぞ」

角ばった顔に広げたにやにや笑い。醜悪なその容姿は、ここに来る途中、ウェザーに教えてもらった人物の人相そのものだった。

 篠章、ここのトップでカナエを実験材料としか見ない人間。様々な人体実験をしてきた外道。倒さなければならない敵だ。

 俺と氷野、そしてウェザーはそれぞれのダブルを召喚し身構える。カナエはかなり後ろに下がって見学だ。篠章はダブル人格者だとは聞いていない。油断は禁物だが、俺たちの敵ではないはずだ。そう思っていた。篠章の背後に光が集まる。今まで何度も見たことある光景だった。黄金色の眩しさを持つその光は人の輪郭をとりはじめた。ただ、一人の人間ではない。二人、三人、四人とどんどん光が増えていく。二十人ほどの人の輪郭ができると、それらが重なり合って、巨大な一つになった。縦横に三メートル、奥行きも三メートル、目算でそのくらいある巨大な箱が現れた。

 圧倒される俺たちの前で、その箱のこっちを向いている面が開いた。継ぎ目の無い一枚板のようなその面を、観音開きにして開けてでてきたのは巨大な腕だった。それは俺たちめがけて、横から一つ薙ぎに振り回された。質量が無いかのような素早さで、迫ってくる。アブルリイは俺と、そして隣にいたウェザーを掴むと、両足の力を最大限に使って上に跳躍した。氷野はフブキを体内に潜行させて、後ろに跳び退る。黄金の手は、半分まで振りぬいたところで急停止すると、真っ直ぐに突進した。その先には俺も氷野もウェザーもいないが、カナエが呆然と立っていた。

 悲鳴も上げられない一瞬で、黄金の手がカナエを奪い取り、そして、箱の中に返っていった。箱はまたもとの切れ目も何も無いのっぺらな正方形に戻る。

「俺のダブルは、お前たちのような醜悪なものじゃない。洗練された、ただ一つの目的のためにのみ作られたものだ」

篠章が笑う。高笑いをする。呆然とする俺たちの前で、カナエは一瞬のうちに敵の手に落ちた。それどころじゃない。このダブルこそ、カナエから情報を引き出すもの装置なのだろう。箱はまた移動する。篠章をその背後に隠して、俺たちの前の通路を塞いだ。

 全て絶望に包まれたような気がした。だが、そんな中で、アブルリイだけが箱に飛び掛った。刀を突きつける。

「ただ一つの目的のためにって言ったな。じゃあ、こいつは、」

「守るためにはできていない。そういいたいんだろ。残念だが、そいつを破壊するのは無理な話だ」

「守るためにもできているってか?」

「一つの目的のために洗練されるということは、そういうことだ」

ダブルにスピーカーでもついているか、篠章の声は目の前から聞こえてくる。しかし、それを聞いたとき、アブルリイはにやりと口の端を上げて笑った。

「なら俺の勝ちだ。守るためにできているようなものじゃ、殺意の塊を防げないんだよ」

「は?」

「殺す気の達人には、殺す気で立ち向かわないと助からない。そういうことさ」

篠章が大声を上げて笑った。

「精神論か?」

「そうだ」

「馬鹿馬鹿しい」

「お前は何も知らないんだな。ダブルの勝手を。ダブルは精神から生まれたものだ。だから、」

その悪魔のような力を、殺意を、刀に注ぎ込む。俺はその光景に誘い込まれるように、近づいた。刀は箱に引っかき傷をつけることもできない。だが、まったくぶれていない。一点だけに正確に力を伝えていた。そして、ついに、その硬い殻に、刀身がめり込む。

「篠章。お前からは見えていないんだろうな。お前のダブルがやられていく光景が」

刀はそれ以上動くことは無かった。だけど、それで十分なことを俺は知っている。できるかどうかわからないことを、やったことのないことをできるような気がしていた。

「アブルリイは俺らしい。ダブルっていうのは自分が嫌う自分の部分だ。ただ、自分の全部を嫌っていたなら、それはまさにダブルイコール自分なんだ」

「何を言っているんだ。お前たちは」

「どっちが本体ということも無い。アブルリイ。そうだな」

俺はアブルリイの背に触れる。普段は俺に吸収されていくアブルリイだが、今だけは違った。俺はアブルリイの心の中に還り、そして、アブルリイの持つ刀の切っ先から、箱の中へ、召喚される。

 篠章は気付かない。箱の中に異物が入ったことを。

 そこは、三百六十度どこを見渡しても、無限の地平線が続く場所だった。地面は平らで凹凸がなく、黄金の輝きを放っている。上を見上げると、何も無い。何も無いが、太陽で照らされているような明るさだった。そこに、仰向けで、目を瞑って、お腹のあたりで手を組んで眠っている人物がいる。カナエだ。

 すやすやと眠る目の前の少女の肩を揺さぶった。すぐに、居心地の悪そうに顔をしかめ、少女は目を開けた。ぼーっと天井を見上げ、パチパチと二度三度まばたきをしてから、ようやく俺に気付いた。目の焦点を俺に固定して、じっと見つめてくる。そして、笑った。

「おはよう」

「おはよう。行こうか」

カナエの手を取って、その体を起こす。それだけで、篠章の目論みは阻止されるのだった。

 異常を察知した箱に放り出される。さっきと同じ光景が広がっている。そして、獣じみた叫びを、篠章は上げた。箱が動き出す。二度目の攻撃に備える俺らに対して、箱はそっぽを向くと、篠章をその体に平らげて、逃げ出した。

「逃げやがったか」

苦々しげにアブルリイが呟く。殺人衝動は変わらないらしい。

「いいじゃん。別に」

俺の隣でカナエが言った。

 俺たちは階段をのぼりはじめる。篠章を下したためか、誰も目の前には現れなかった。そのまま、屋上に出ると、みながアブルリイにしがみついた。

「ちょっと重量オーバーぎみじゃね?」

「大丈夫。フブキでサポートするから」

 アブルリイが助走をつける。四人の人間を乗せて、不満そうな顔をしながら、俺の隣にはカナエがいて、氷野がいて、ウェザーも増えた。全員が、信頼できる人だ。たった二週間。その間に、俺や変わってしまった俺の周りにすがすがしい気持ちを抱きながら、アブルリイの足で、青空に舞う。


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