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デステニー・アンド・ハンギング

 窓の無い細長い箱のようなビルの中は、非常に殺風景だった。その中に住む研究者たちに与えられた部屋も殺風景で、簡単なベッドや棚など、家具をのければいつでも他の研究室の代わりになりそうだった。夜の帳が下りないうちから、俗物な鳴き声を響かせている人がいる。それはどう考えても私で、吐きそうになる嫌悪感をわずかな快楽と絶大な恐怖の中に沈めて、赤の他人の欲望の相手をしている。はぁ、というのはため息で、乱れているのは私ではなく、世界だ。苦痛を、最近開発した妖艶な笑顔の下に隠して、ことが終わると、さっさと部屋を後にする。こうでもしないと生きていかれない。それでももう限界で、私の廃棄は既に決まっていると、小耳に挟んだ。そんなところに彼女が現れた。

 カナエ。この国の西の海を少しいったところにあった溶けない氷。その中から発掘されたのは制服姿の少女だった。情報開発研究部部長、篠章(しのあきら)は、その氷を破壊すること専用の力を開発し、使用した。そしてその中から出てきた、ただの少女に何か秘密が隠されているのではないかと探っていたが、それを何者かによって強奪された。篠章は強奪される直前、少女に隠された宝を理解する。それは記憶だった。それを手に入れることで、新しい技術の開発、ダブルの秘密に迫ることができるかもしれないのだそうだ。

 私は、その少女を二度見たことがある。最初に見たときは研究室の中だった。白いベッドに眠らされて、額につけられた電極のものものしさが、少女にかけられた期待を物語っていた。二度目のときは、そのカナエが少年に連れられてここを逃げ出すときだった。少年の召喚した赤いダブルによって、数人の研究者が殺され、私もあと少し少年が止めるのが遅ければ、赤いダブルの刀によって、真っ二つだった。そして、今日、私はもう一度、カナエという人物に接触することになる。

 建物の中を比較的、自由に歩きまわることを許されている私は、一人の研究者の個室から、大広間を通って自分に与えられた部屋に帰る途中だった。そこで、後ろでに両手に手錠をかけられ、二人の男に運ばれてくるその人を見かけた。その場所にはわざわざ出むいてきたらしい篠章と、それを囲むように野次馬みたいな十数名の研究者がいた。

その少女はとても大事な実験材料のように扱われる。簡単に調達できる私たちのようなただの人間と違って。

 研究者の中に混ざってみると、その少女のことがよく見えた。艶やかな黒髪を腰の辺りまでのばしている。その中に浮かぶきりっとした美しい横顔には、目を閉じ表情がなく、氷のような印象を受けた。

「初めまして、カナエ君」

 篠章が大らかな風を装って言った。口にはにやにやを称えて、そのオモチャが再び戻ってきたことが余程嬉しいようだ。その人は何も言わなかった。反応を反さない。

「無視か?ひどい奴だ」

篠章はおどけて言った。すると、その人の瞼が持ち上げられ、白熱した炎が中から現れた。

「うるさいな」

「うるさい?」

篠章の眉がぴくりと震えたのを私は見た。

「うるさいよ、とても」

その人は篠章と視線を合わせた。ナイフを突き付けるように。

「お前、自分の立場分かってる?」

「分からない。教えてくれる?」

篠章はとてもキレやすい人物だ。そして手が付けられない。その人はそのことを分かっていない。

「殺されても文句は言えない。お前と一緒にいたあの馬鹿もいつだって殺せる」

「それで?殺すだけで終わり?」

その人の声は揺るがない。最初から、ただ凛としていた。

「強がりはよくない」

「強がってるように見えるの?」

「俺はここのトップだ。媚びを売っておいて損はないぞ」

「下衆に媚び売るなんて、娼婦くらいなもんよ」

娼婦……。

「何度も言うが、今ここで、殺されるかもしれないのに?」

「私は、プライドが高いからね。死んでも自分を守る」

篠章は一瞬、苦虫を噛み潰したような顔をしたが、次の瞬間には最初のにやにやを復活させていた。

「まあいい。いい。離してやれ」

篠章の一言に多少面食らいつつ少女の隣のダブル人格者が手錠をとった。

「お前は一部の部屋に入ることはできないが、それ以外は自由だ。お前用の個室も用意してやる」

少女は無言で篠章を見上げている。

「おい、そこのお前」

急に指をさされた。

「え?私?」

「そうだ。こいつを案内してやれ。それが終わったら居住区まで連れてこい」

 それだけ言うと、篠章は一瞬少女を見て、その身を翻した。研究者たちも野次馬を終え自分の研究に戻っていく。後に残ったのは私とその人だけだった。

 その人はしばらく動かなかった。放心というわけでなく、目を瞑って、何かを思案しているふうだ。不意に目を開けると、こっちを向いた。その瞳にはさっきまでの炎は宿っておらず、深い黒を称えているだけだった。

「君、ダブルなの?」

静かな声だった。さっきの剣幕を思い返し、少し圧されながらなんとか答える。

「違うよ」

私はただの、

「ダブルのなりそこない」

その人は眉を潜めた。疑問がその額に集まる。

「なりそこない?」

「うん。後天的にダブル人格者をつくるっていう実験の被験者のうち、唯一何も起きなかったのが私」

半数が成功、半数が死亡、唯一私だけがそのどちらにも属さなかった。しかし、それは万が一の可能性が起きただけで、私には何の特異性も見出だされなかった。

「待って、ダブルって後天的に生み出せるの?」

「ここは、そういう実験をしてるの。まだ成功率は五割程度なんだけどね」

「五割も?」

「あなたを連れてきたのも後天的なダブルだよ」

またその人は目を閉じて思索する。

「じゃあさ、」

目を閉じたまま、その人は無邪気な声で言った。

「君を人質にとるのは訳ないってことだね」

そんなことを考えていたのか。

「たぶん、意味ないと思うよ」

「なんで?」

「私は、廃棄されるのが決まってるから」

「廃棄?」

その人の声は無邪気なままだ。

「必要ないものをいつまでも飼っておくわけにはいかないんだって」

数日前に聞いた言葉のままだ。

「ふーん」

その人はあっさりしていた。ただ、その後しばらく無言だった。

「カナエ……さん」

 案内しろと言われていたことを思い出して、声をかけた。今までタメ口をきいていたが恐らく私より年上だ。

「カナエでいいよ」

顔を上げたその人は優しく笑う。冷淡な印象が抜けた顔は本当に美しかった。

「案内するよ。この場所を」

つられて私も笑顔になる。

「ありがとう。その前にさ、名前なんて言うの?」

「え?」

「名前だよ。教えて?」

「ウェザー」

私には名前が無い。本当の名前と記憶は、ここに連れてこられたときに奪われてしまった。だけど、番号で呼ばれるのは嫌だった。被験者が自分のダブルの名前を名乗るなか、ダブルを持たない私は、研究者の一人が持っていた漫画から名前を取る。

「うぇざー?」

「そう、ウェザー。私は記憶を持たない。ウェザーは記憶を持たない人間の名前なの」


 次に目を開けたときは、別の場所だった。白い天井、白いカーテン、白い布団。明るい雰囲気のその場所は誰もが一度は世話になったことがある場所、病院だ。俺はどうなったのだろう。心臓を貫かれたことは確かなはずだが。あたりを見回すと、ベッドの隣のパイプ椅子に座る見知った顔を見つけた。

「氷野さん……」

 俺の掠れた声に呼ばれたその人は、顔を上げると、喜びを全身にみなぎらせ駆け寄ってきた。

「よかった。目が覚めたんだね。ほとんど一週間、眠りっぱなしだったんだよ」

俺の手を握ってはしゃぐ氷野に対して、俺はすっかり冷静だった。

「俺は一体どうなったんですか?」

「あの後、雨城さんの息子さんが、誘義君を見つけて、救急車を呼んでくれたの」

「でも、俺はその時たしか、」

心臓を貫かれていたはずだ。

「フブキが君の心臓の代わりをしていたんだよ。ベクトルになることでね」

そんなことができるとは。思わず目を丸くした。簡単に聞こえるが、実際のことを想像してみると、ぞっとする光景だ。

「あとは病院で、心臓を移植してもらったってわけ。大丈夫そう?」

「ええ、大丈夫みたいです」

体を起こしてみると、その動作だけでも違和感を感じた。しかしそれは、心臓を移植したという事実に対しての違和感なのだろう。いわゆる病は気からの一種だ。

「よかった。本当に心配したよ。チヅちゃんも心配してたんだから。あ、連絡しなきゃ」

 氷野、霧雨、二人が心配してくれていた。その事実は、耳から入って鼓膜を揺らし、ずんずん進んでいくと心にたどり着いた。そして、滑り落ちた。さらさらと、排水溝に吸い込まれていくように消えていく。ありがたいものだと思った、そうは感じなかった。嬉しいものだと思った、そうは感じなかった。心は空虚で、大切なものが欠けている。何が欠けているのか、その正体は記憶の中にある。心臓を貫かれたその時の記憶。忘れたわけではない。ただ、記憶として閲覧するのにとても勇気が必要だった。

「カナエは……」

もういない。確かめたいのは記憶ではない。記憶が間違っていることを確認したいのだ。ここで目覚める一瞬先の記憶が、実は夢の中の記憶であることを、誰かに教えてほしい。氷野の答えは、簡単だった。俺が呟いたそのときに、霧雨を呼ぼうととりだした携帯の操作をやめた。俯いて、顔を見せないようにしている。泣いているわけではない。言えないのだ。俺が、一番聞きたくないものだから。

「いるわけないか」

 止めを刺したのは自分だ。その瞬間、堰を切ったように全て溢れ出す。体から力が流れ出す。目の前が暗転する。涙が出ているのかどうか分からない。努めて見ないようにしていた記憶は、全てさらけ出された。雨城奈々の死体。三人のダブル人格者。カナエの消失。そして、失ったものは、カナエだけではない。カナエを助けるための力、今までずっと心の中にいた者、憎悪の対象、そして俺の唯一の価値、アブルリイ。漆黒だった。目の前は黒一色で何も見えない。ゆらりと体が動いた。後ろに、支えを失って落ちていくように。

 俺には何もできない。カナエを奪われ、ならまた忍び込んで取り返すだけだと心のどこかで思っていた。それは、困難を極めることだろう。情研部側も対処しないわけはない。それでも、奪い返せると思っていた。

 アブルリイという人格は、長らく俺の厄介者だった。殺人を嗜好し、俺が止めることができないときは、ところかまわず殺しを行う。俺が最も嫌いな人物でありながら、俺の心にすみ続ける邪魔者。しかし同時に、アブルリイは俺の力だった。それがあったから、何でも屋の力になっていた。カナエに出会うことができた。たった一週間だけだが、カナエを守ることができた。それを失ったとき、俺には何も残らない。

 目を開けると、白がまだ眩しかった。光に照らされて物の輪郭が鮮明になる。その中に俺も含まれていて嫌になる。目を瞑って、腕でその上から覆って、また暗闇の中に、逃げ込んだ。

 

 私がカナエという人物と知り合って三日が経った。カナエは、情研部に軟禁されていながらも明るかった。周りを笑顔にするムードメーカーといわけでなく、私という友人の前でのみの笑顔だ。自分を研究対象としか見ていない者には苛烈な敵意を、ダブルを手に入れ、その欲を今にも爆発させんと滾らせる者には軽蔑を示していた。私が、被験者としてこの場所につれてこられたときに、記憶を消去されたことを言うと、カナエは自分も記憶が無いと明かした。

「消されたのと忘れたのでは意味合いがまた違うけど、少しくらいは同じ痛みを知ってるよ」

カナエの優しさが私を近づけた。カナエは、自分の価値を知らなかった。何か特殊な、貴重なものが自分の中にあるということには気付いていたが、それは珍しいだけのものだと思っていた。だから、篠章と初めて会ったとき、心の後ろ盾は無いままに激昂していた。死の恐怖より、怒りが勝ったと、カナエは言っていた。私が、カナエはこの世に一人という特異性を持っていることを教えると、にやりと笑って、できる限りの妨害をしてやろうと言った。

「カナエー。どこいくの?」

「秘密。できれば、誰にも見つからないように行きたいんだけど」

 私は今、カナエの後について情研部の研究者用の居住区をさ迷っている。情研部は五十名ほどの研究者が暮らしていて、その上、ダブル実験の被験者や、新に見つけてくる人材もある。そのため居住区はビルの三分の一を占めるほどになっていた。殺風景な通路をいくつも通り過ぎ、部屋の名札を確認する。そういう作業をさっきから延々と行っていた。

「カナエ。もう疲れたよう」

「もうちょっとだけ、お願い」

星が輝く夜のような瞳にお願いされると、私は断れなくなるのだ。断るべき場面は無かったけど。

 しばらく歩くと、居住区の片隅の行き止まりだ。ほとんど全部見て回ってしまったことになる。なんという暴挙を、とため息を吐きそうになりつつ、カナエに手を引かれて歩く。

「ここだ」

 一番奥、隅っこの部屋の名札を見て、静かな声で、カナエは心なしか嬉しそうに言った。私はその名札を見て後悔した。篠章が嫌う研究者であり、飄々としていて自分はほとんど何もせず、誰に与えられたかも分からぬ特権で、この建物を出入りしている人物。月宮八代という名前は、この情研部でも特別なものだった。カナエは扉に慎重に近づくと、ノックをせずにドアに耳を当てた。そうして何かを確認すると、意気揚々とノックする。返事が返ってくる前に、思い切りドアを開け放った。そこにはソファに深く腰掛け、今読んでいた本を閉じようとした姿で固まる若い男の姿があった。短い髪を掻きながら、若いハンサムな顔をくしゃくしゃにして快活な笑みをカナエに向ける。

「来ないと思ってたんだけどな」

「覚悟はできてる?」

 カナエは月宮の言葉を無視し、私を部屋の中に引き入れた。扉を閉めると、鍵をかけ、逃がさないという意思表示をする。

「何するの?」

耳元でささやくと、カナエは同じ声でささやき返してきた。

「ちょっと尋問するだけ」

 ソファの向かい側に置いてあったベッドに私とカナエは座った。月宮は穏やかな目でカナエを見ていたが、不意に視線を私に向け、首をかしげた。

「俺は子供には興味ないんだが」

私が廃棄されないために、研究者に体を差し出していることは、情研部の中で知らない者はいないほどの話だ。

「見返りに差し出すために連れてきたんじゃないよ」

カナエが言った。

「じゃあ、見返りは何か別なものか。期待していいかい?」

「見返りなんてあるわけないでしょ」

私は二人の話についていけない。

「じゃあ、交渉の余地なんて無いね」

「交渉なんてするつもりは無い。責任を取ってもらうだけ」

「責任?」

「丞一、霧雨さん、氷野さんを巻き込んだ責任。それから私には知る権利がある」

カナエの目がナイフのように鋭くなっていく。

「……そんなもので、情報が得られると思ってるの?情報っていうものは世界を揺るがすほどの価値を持ってるというのに」

やれやれというように月宮は首を振った。

「こんな奴だと思わなかった。失望したよ」

 そういいながらカナエは、ジーンズのポケットから折りたたみ式のナイフを取り出した。くるりと回転させて、刃をちらつかせる。

「今見返りを用意した。あんたの命だよ」

カナエはナイフの柄をぐっと握り締めると、月宮ににじり寄る。月宮はさして慌てた様子も無かったが、手に持っていた本を机に置いて、両手を挙げた。

「降参。仕方ないな。君の聞きたいこと、全部話すよ」

「ならよし」

カナエはナイフをポケットにしまった。

「じゃあ、まずは、確かめからかな。丞一に依頼をしたのはあんたで間違いない?」

「間違いない」

「どうして、私を助け出せなんて依頼したの?」

「君が可哀想だったから。それだけだよ」

カナエは訝しげな顔になる。

「本当にそれだけ?」

「本当にそれだけだ」

隣で溜息が聞こえた。カナエが何を聞きたいのか、少し読めてきた。

「じゃあ、次ね。私は何?」

「なんだその質問は。君は君だろ」

「そういう意味じゃなくて、私にはどんな価値があって、ここにいるの?」

「君は氷河の中から出てきた人間だ。そういう価値だ」

「待って。氷河って何?それから出てきたのがどういう意味を持つの?詳しく教えてよ」

 月宮は穏やかな表情のままで、カナエに説明を始めた。それは私が初めて聞く事実も含まれていて興味深いものだった。

 氷河、というのはこの国の西の海にあるものだった。小さな島といえるほどの規模のそれは、どんな熱い夏でさえ解けることは無く、海に浮かんでいるのに海水によって浸食されることも、流されることも無かった。氷河は一世紀ほど前の記録に残っている。そしてダブルが出現しはじめたのもこの頃だ。情研部部長の篠章は氷河を取り除く方法を開発し、その方法に成功した。すると、そこには小さな島が現れ、立派な一軒家と、その玄関口に倒れていた少女が発見された。その少女がカナエだった。情研部はその少女について調べ始める。体のどこかに特殊なものはなかった。専用の機材で調べてたところ、ダブルを宿しているわけでもない。しかし、一つだけ特殊なことがあった。カナエが見る夢だ。

「君が見る夢は、昔の映像だ。恐らく氷河ができる前、ダブルが現れる前のものだ。実を言うと、その氷河が現れる前の記録は、どこにも無いんだよ」

「え?」

「無いってわけではない。ただ、その年にどこで何が起きたとか、そういうタイプの記録は見つかっていないんだ」

「だから君の夢から、昔の映像を抽出し、探ろうとしていたわけだ。今はどうやら篠のやつ、また別の方法を思いついたらしい」

「別の方法?」

「俺は知らない。ただ、そういう動きはあるし、実際君の夢を覗いていないのも確かだ」

月宮はそこまで話すと、ふうとため息をついて、ソファにもたれかかった。疲労困憊というような態度をわざとらしく示している。もう面倒くさいという風体だ。

「もういいか?」

「まだ。最後にダブルのことが残ってる」

「あー。はいはい」

「ダブルってどういう仕組みなの?」

また私の気になる話だ。

「ダブルか。そのためには先に話しておかなければならないことがあるな。いいか?人には体と心がある。でもそれだけじゃない。実は体と心の基盤になる器みたいなものがあるんだ。ダブルという人間は、その器を二つもった人間のことを言う。普通の人間は体と心の大元の器は一つしかない。だから、自分に嫌なところを見つけたりしても、そのまま抱えているしかない。しかし、ダブルは、器を二つ持ってる。自分の嫌な部分は、そのもう一つの器に押し付けてしまえばいい」

「それってつまり、ダブル人格は、元は本人の一部だったってこと?」

「そういうことさ。だから、ダブルは本人の承認なしで外に出られない。そして外に出たとしても動物としての形をとることができない。この世ならざるものの姿をとる。しかし、たまに、ほとんど完璧な人の姿をとるダブルもいてね。そういうのは、自分の中の一部が嫌いなんじゃなくて、全部が嫌いなんだ。だから、自分の姿さえももう一つの器に押し付ける。誘義丞一君のことは、雨城さんから聞いているが、彼もそうらしいね」

 カナエは全て聞き終えた後、無言だった。何かを思案するように、顎に手を当て、目を瞑る。月宮はそんなカナエを穏やかな目つきで見つめている。私は、誘義丞一とは誰なんだろう、とかそういう素朴な疑問を膨らませていた。しばらくして、カナエは目を開けると、小さくため息をついて、月宮の視線を受け止めた。

「ありがとう。参考になったよ」

カナエはさっと立ち上がった。私も慌ててその後に続く。ドアのあたりで振り向くと、カナエは、再び本を手に取った月宮に静かに言った。

「もう、助けは呼ばなくていいから」


「誘義君……」

 氷野の優しい声が聞こえる。すぐに耳をふさぎたくなった。しかし、今の俺の両腕は目の前の世界を閉ざすことに精一杯だった。

「誘義君、」

「うるさい」

何も考えられなかった。ただ、何も見たくなくて、聞きたくなかった。氷野は優しい。その優しい声が心の中に染み込もうとしてくるのが、条に絆されてしまいそうで怖くなった。そして、アブルリイを失ったことが、今度はそのことで捨てられてしまわないかと怖くなった。怖いものは見たくない。臆病な俺はそれらを拒絶することしかできない。

 沈黙が蔓延る。やはり沈黙は辛くなかった。誰かと話しているほうが苦手だ。話していると余計な恐怖を感じるから。

 空になった聴覚にふと、こつこつと、壁越しの靴の音が聞こえる。一定のリズムを崩さないで、真っ直ぐ近づいてくる。その音は、俺が寝ているこの個室の前まで来ると、はたと止んだ。誰か来たのだとわかった。誰が来たのかも予想がついた。俺は体を窓側に向ける。目を隠して光から逃れるだけじゃなく、背を向けて拒絶する意思を示す。音を立てないで、すっと引き戸が開いて、その人が来た。

「おーっす。丞一君」

場違いな明るさで、霧雨チヅが現れた。ベッドと空いた手を利用して両耳も塞ぐ。俺の姿を見た霧雨がどんな顔をしているのか、分からない。

「カナエちゃんだっけ、ちょっと奪われたくらいで落ち込みすぎだよ。またアブルリイで奪い返しゃいいじゃん」

 霧雨は楽天的だった。それゆえの無邪気な言葉が胸に突き立った。

「いない」

「え?」

「アブルリイはいなくなった。俺の中から、出て行った」

 霧雨だけでなく氷野も驚く様子が伝わってきた。霧雨が何も言わなくなるのを俺は心のそこから期待した。

「探さないの?」

予想外の答えが返ってきて、俺は困惑する。

「探す?」

「出て行ったなら、探せばいいじゃん」

俺は無言を返した。探せといわれて、探す気になれなかったからだ。アブルリイは俺に失望したと言った。今会いに行っても、変わらないのでは。それこそ、また同じ言葉をつき返されるだけかもしれない。そもそもどこに行けば会えるんだ。

「カナエちゃんを助けなくていいの?」

ずきりと傷が痛んだ。

「助けられない」

「どうして?」

「アブルリイがいないから」

「じゃあ、探そうよ」

また無言。

「助けたくないんだね」

「そんなことはない」

「じゃあ、どうしてそんなに無気力なの?」

「アブルリイが、」

「またそれ?そんなのただの言い訳じゃん」

「言い訳なんかじゃない。言い訳なんかじゃ、」

霧雨に怒鳴られて声が震える。体が動かなくなる。

「言い訳だよ!せっかく、せっかく本心から接することができる人に、出会えたのに。それでいいの?いいわけないでしょ?」

「え?」

体の震えが止まった。カナエは、唯一俺が信頼できた人。そして同じ気持ちを返してくれた人。

「私、知ってたんだからね。丞一君が、私や、それから何でも屋の人と壁作ってんの。でも、カナエちゃんには、悔しいけど全然そんなふうじゃなかったじゃん。手までつないじゃって。私から逃げやがって、このやろう」

知っていた?俺が人を信頼しないことを。知っていて、霧雨は一緒にいてくれた。知っていて、俺に会いにきてくれた。手をのけて、目を開けて、眩しい光に心をさらした。顔を背けそうになりながら、じっと見つめる。いつもどおりの霧雨と、となりでやわらかい笑みを称える氷野がそこにいた。その二つの笑みの中に、カナエはいない。いないけれど、カナエと同じ笑顔を、信頼できる瞳を見つけた。俺が失ってずっと取り戻せなかったものを、カナエはくれた。そして、身の回りに、最初からあったことを気付かせてくれた。

 霧雨が笑いながら言う。

「ちなみに、今のヘタれた丞一君でも、私は好きだから」

「遠慮しとく」

 アイドルの彼女なんて厄介極まりない。

「でも、ありがとう。霧雨さん」

まだ弱弱しいかもしれないが、笑みを作ることができた。

「じゃあ、そのさんていうの止めろよー」

「俺より年上だろ?それでも」

「だったら全体的に敬語使えよ」

「年上っぽくないし」

 明るかった。白の病室は、陽光に満たされて明るかった。そのくせして眩しくなどない。

「……行くか」

「ああ、アブルリイを探しに行くんだ。行っちゃうんだ」

「カナエは大事だから。それに探しに行くんじゃない」

霧雨は首をかしげた。同じダブル人格者の氷野は、たぶん分かってくれている。

「アブルリイが俺のダブルだというなら、行く場所はひとつだけだ」


 カナエがここに来てから、私の生活は変わっていた。

 ここの研究者はほとんど軟禁状態で研究に励んでいる。それは、違法な人体実験を行えることの対価だった。しかし、軟禁されるということは思ったより精神に悪いものを溜める。それを晴らす方法はいくらかあるが、なかなか簡単にはいかないものだった。そこに私は目をつけた。最初は私の担当の研究者だった。どうやら私には価値がないと分かったとき、その報告書を持った彼を襲った。暴力的なことではない。文字通り交渉をけしかけたのだ。その報告書を握りつぶす代わりに、軟禁によるストレスを性欲にかえて晴らしてみないかと。結果は上手くいった。処女を捨て、死の恐怖から逃れられるなら安いものだと言い聞かせた。それから、さまざまな研究者の相手をするようになった。そのつど、怖かったが、これが無ければ死ぬと自分を脅した。実際、この行為の効果はあったと思う。私に廃棄の処分が下るまで、用済みとしては異様に長い月日がかかったのだから。

 カナエがここに来たことで、私の生活は変わっていた。それは、廃棄が決定してしまったというのも片棒を担いでいることだろう。私は、そういう行為を一切しなくなった。

 死が決定したことへの諦めは、決して自分をこれ以上堕落させることはなかった。むしろ、諦めたことで、自分を捨てて足掻くことをしなくてすんだ。これは、カナエの凛とした姿勢を見たからだろう。

 私は今カナエの部屋にいる。家具なんて無いに等しい部屋で、二人でくつろいでいる。記憶を失くしてからの初めての友達だった。

「そういえばさ、カナエー」

「ん?」

カナエはベッドに寝転がって、私が拝借してきた小説を読んでいる。私はそのカナエが寝ているベッドの縁に座って、漫画を読んでいた。

「誘義丞一って誰?名前からして、男の子だよね?」

パタンという軽快な音がして、本が閉じられる。カナエはそれを枕元に置くと、私のほうを向き直った。

「丞一はね、私の白馬の王子様です」

「まじでか」

噴出しそうになるのを必死で堪えた。

「んーとね、その人はまず、赤いロングコートの男に乗って屋上まで跳んできます」

「怖いなーそれ」

赤いロングコートの男?

「その後は、コートの男と喧嘩しながら私のところにたどり着くと、私を連れて行ってくれるわけですよ」

ああ、もしかして、

「前、助けに来てくれた人のことかー」

あのときの記憶は今でも鮮明に残っている。私の人生は恐怖に縛らるものだった。

「そうそう。で、今回もそろそろ助けに来てくれるはずなんだけど」

「もうそろそろ一週間になるね」

「そうだね。遅いなぁ」

カナエが盛大に溜息を吐いて、私もそれにならった。

「でもさ、ウェザー」

カナエの真摯な声が胸に響いた。

「少し遅れた分、次は、君も連れて行ってくれるよ」

 私と目が合うと、カナエは右手の親指をぴんと立てて、にかっと笑った。そういう仕草や言葉の一つ一つが、逐一私の心に入り込み、潤す。だけど、次の瞬間、無遠慮にもそれが破られた。

 ドアが開く音。それと共に吹くはずの無い風が入り込んできて、ひやりと冷たい。そして完全に開ききったドアの向こうに見えるのはあいつだ。角ばった顔に広げたにやにや笑い。年季のいった白衣。偉そうな態度。それらの符号が合致するのは一人、篠章だ。

「さあ、出番だぞ。カナエ君」


「さて、ここからは私の出番かな」

 氷野はそういうと、パイプ椅子に立てかけてあった荷物を俺に渡した。俺の視界に入らない位置にあったそれは、紙袋に入っている。それを開けてみると、服?

「そんな格好じゃ、カナエちゃんを助けにいけないしね」

黒いコートに濃紺のジーンズ、目立たない色の組み合わせは、何というか迷彩だな。

「ありがとうございます。あの、着替えるので、」

「後ろ向いとく」

そういってひっくり返ってくれたのは氷野だけで、霧雨はこっちを見ている。

「霧雨さん?」

「丞一君を取られたくないんです」

だだをこねるような口調だ。

「だからって、ガン見するってどうなんだ」

「ていうか照れたりしないね。アイドルに好き言われても、冷静だね」

「照れてる場合じゃないし。さあ、後ろ向け」

「へーいへーい」

まだまだ文句がありそうながら、霧雨は後ろを向いてくれた。それでもいつ予告無しに振り向かれるか分からないので、急いで着替えると、ちょうど終わった頃に、ぎらぎらした目でこっちを振り向いた霧雨と目があった。舌打ちが聞こえて、少し怖くなった。

「準備はいい?」

ベッドを降りて、氷野の用意してくれた靴を履く。そしてその快活な笑顔に真剣なまなざしで返事を返す。

「はい」

「行き先は?」

「俺について来てください」

「分かった」

氷野がついて来てくれる。頼もしい戦力になりそうだ。

「行ってらっしゃい」

霧雨が優しい笑みで見送ってくれる。そういう顔を見るのは、初めてかもしれない。俺と氷野は霧雨に見送られながら、病院を後にしようとしたところでふと気付く。病室の引き戸に手をかけたままで、振り向いた。そして首をかしげる氷野に聞いてみた。

「俺、このまま抜けて大丈夫なんですか?」

「大丈夫だよ。きっと」

「心臓移植ってかなり重大ですよね」

「一週間経ったんだし、ね?それよりカナエちゃんの方でしょ」

俺はどうでもいいのかよ。しかし、こんなところで立ち止まっているわけにもいかなかった。面倒な手続きは後回しにして怒られてやる。精密検査とかあるかもしれないが、それも後回しだ。今一番大切なことは俺はよく分かっているつもりだ。

 病院を出ると、久しぶりの直射日光を頭から浴びた。それでも本格的な秋の到来を感じさせる肌寒さがある。俺は目的地まで一直線に歩いた。ここからだと何かの交通機関を使うよりさっさと歩いていってしまったほうが早い。真向かいにスリーディスクリーンを備えたビルを見つける。確か、ビルを出たときにこの巨大な映像が目に入ったのだから、このビルで間違いない。簡単な確認を済ませると、ビルのエレベータで一気に屋上を目指した。

「どこに向かっているの?」

「情研部の入り口です」

 屋上につくと、そこはあの日と同じで風が吹いていなかった。空に近ければ近いほど、風が強いイメージがあるが、その限りではないのかもしれない。そして、目的の人物はすぐに見つかった。屋上の手すりに赤いコートのそいつが寄りかかっている。

「やっぱりここにいたか」

そう呟くと、アブルリイはこっちを振り返った。口元を吊り上げる、そういうアブルリイの好きな笑みを浮かべている。

「結局来やがったか」

それだけの言葉を交わして、俺たちはしばらく無言だった。互いの考えは頭に流れ込んでこない。それでも他人だという気分はしない。

「行くか」

どちらからともなくそう言った。アブルリイは、その場で膝を曲げて腕を振り勢いをつけると、たち幅跳びの要領で数メートルを飛び越し俺の隣に着地する。アブルリイをまねてにやりと笑ってみせた。アブルリイも同じ笑みを浮かべる。そのまま拳を突き合わせると、頭の中に考えが流れ込んでくる。

「結局一人の人間か」

―コインの表と裏では無い。ただ一人の人間が二重に重なっているだけだ。まぁ、その分知恵の回りとかは早いだろうよ。

 アブルリイは俺を右に抱えて、氷野の驚きを無視し左に抱える。そして、一気に助走をつけ、飛んだ。光の中を飛んでいく。しばらく風を切り裂くと、一瞬、ずんと重い衝撃があって、それが敵地についたことを伝える。アブルリイに降ろされ、地に足がついたところで、もう一度呟いてみた。

「行くか」

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