スタンド・バイ・ハーミット
カナエと出会って五日経った。情研部からの追っ手がくることもなく、カナエの記憶の手がかりが見つかるわけでもなく。平穏な日常が流れていく。焦ることは無いというカナエの言葉のおかげで、ゆっくりと腰を落ち着けていられた。ここで過ごす日々は、何でも屋にいた頃は考えられなかった、楽しさがあった。カナエと過ごすと、どんな時でも楽しい。氷野に茶化されるのも、悪くは無い。ただ、そういう賑やかな日常は、心の深層を刺す。本心は別のところにあるのかもしれない。というより、俺が本心を見えるのだろうか。今にもこの時が、崩れ落ちてしまいそうに感じて、誰にも見えないところで心が震えていた。
この部屋の住人は新聞を読まない。カナエは記憶喪失で、俺は受けた依頼以外には無頓着、そして氷野は情報収集はもっぱらインターネットとテレビだということだった。特に今、氷野はその脳に溢れるアイディアに身をゆだね、新作小説を執筆中だった。料理以外は俺たちに任せきりであることも作用して、たまに息抜きとして、俺をからかいにくるとき以外は、現実世界と切り離されたようになっている。
「ようやく一区切りつけそうだよ」
氷野は、昼食を食べ終わった後の席でそう言って笑った。小説のことを言っているのだろう。
「というかアイディアがまとまらなくなっただけなんだけどね。また、まとまってくるまで小休止、小休止」
「どんなお話なんですか?」
カナエが訊いた。
「記憶喪失の子と、そのクラスメイトの恋物語。ネタ元はカナエちゃん」
「肖像権の侵害で、」
訴えますよの前に遮られた。
「大丈夫、誘義君はモデルじゃないからね」
それはよかったというふうにため息をついてみせた。
「さて、久々にネットでも見てみるかー」
「ネット?」
カナエが純真無垢な瞳で訊いた。
「まさか、インターネットも忘れたというわけじゃないだろうな」
戦々恐々という感じで訊いてみると、眉間に皺をよせてあーとかうーとか唸っていたが、しばらくして言った。
「うん、大丈夫。なんとなく覚えてるみたい」
「良かった」
ほっと胸を撫で下ろす。
「そういえば、君らもテレビでニュースとか見とけよー」
「どうしてですか?」
「情報収集だよ。何気ない情報がそういうところから転がり込んだりしてくるの」
ふんぞり返って見せて、すぐに快活に笑って、氷野は部屋の奥に消えていった。数々の名作を生み出し、あるいは世界を見る窓となる相棒のところへ。現実世界と断絶し、空想の世界へ入り浸っていた数日間の穴埋めだ。
居間に残された俺たちはいつものように他愛のない話をはじめる。話のネタは、俺たち二人がいる間はほとんどのついてるテレビに映っている番組だったり、氷野に借りて読んだ本のことだったり、記憶喪失のカナエの、気になる疑問だったりする。三つ目の話題、カナエの疑問に対して、俺は半分くらいしか答えられなかった。それから、ただに話をする以外に、カナエは俺をよくからかう。それが趣味といわんばかりの楽しみようで、その巧みな話術に、俺はどうにも逃げたり反撃したりができない。そして今も、もうからかいが始まっているのである。そのときの楽しそうな笑顔にどきりとさせられるのだが、それが何なのか、今は、よく、分からない。
カナエの言葉から逃れようと目を向けた壁掛けテレビは、今サスペンスドラマをやっている。火サスという俺が生まれるはるか昔から続く、サスペンスの王道中の王道で、毎度展開が似たり寄ったりで、犯人を容易に推測できてしまう。現実も、そう簡単に行けばと、心中でため息をついた。
「逃げたな」
「逃げるって?」
「目線で分かるよ」
この五日間でカナエについて分かったことがいくつかある。そのうちの一つが、鋭い洞察力を持っているということだ。
「ぐぅ」の音しかでない。
「女の子にいじめられて逃げるようじゃだめだね、うん」
腕を組んで、カナエは、ふんふんと一人納得する。
「……いじめ返してやろうか」
不思議と、できる気は全くしない。そして、それはおそらくカナエも分かっているに違いなく、やはりどうにも、この人には勝てそうに無い。
「やってみな」
「無理です。ごめんなさい」
カナエはとても楽しそうで、見ているこっちも楽しくなってくる。そこには全くマゾヒズム的な要素がないと断言しておく。
しばらくして氷野が戻ってきた。五日の間には特に大きな出来事はなく、埋め合わせも一瞬ですんだようだ。ただ、その一瞬で氷野がつかんだ情報は、俺とカナエの動揺を買うのに十分な価値を秘めていた。
「アイドルの霧雨チヅって知ってる?」
氷野は俺に向かって、訊いてきた。記憶の無いカナエはまず知らないと思ったのだろう。
「知ってますよ」
霧雨の顔を思い浮かべると、一瞬だけ、知らないと突き通してやろうかとも思った。
「ほー。アイドルに興味あるんだ?まあ、それはともかく、その子、行方不明みたい」
カナエがこぼした「え」という一文字を聞き逃すことはなかった。自分の表情がなくなっていくのも感じた。嵐が訪れる寸前の刹那のように、空気がしんと静まりかえる。
「九月の二十三だから、ちょうど、カナエちゃんが来た日に、生放送があったんだけど、それが終わるまで来なくって。どうにも行方不明じゃないかって話だよ」
「行方不明じゃないか、とは?」
「公式な発表とかはされてないみたい。でも、行方不明っぽい状況証拠がいろいろ挙げられてるわけさ。ネットでね」
妙なことが起きた。ただの噂ならいいのだが、霧雨は確かあの日俺たちに会っている。その直後、出演予定である生放送に出なかったのは、俺も見た。そのときはそれが霧雨だとは分からなかったが。俺たちと出会って、それから番組が始まるまではそんなに長い時間あったわけじゃない。その間にどこかへ行くというのは考えにくい。誘拐でもされたのか?
「どしたの?そんなに深刻な顔して」
「知り合いですから」
「え?本当に!?」
氷野の驚きも無視して、俺は頭を働かせる。アイドルが誘拐される。その動機なんていくらでも思い浮かぶが、このタイミングということが少し気にかかる。考えすぎだろうか。
「私がここに来るちょっと前に会ってるんです。丞一は、旧知の仲って感じだったけど」
「なるほど。確かに知り合いなら心配だろうね」
「そうでもありませんよ。ただ、このタイミングだったから、気になってるだけです」
俺の心配のベクトルは霧雨には向かずカナエにひたすらだった。
しばらくその話題を話しこんだ後、少し散歩にでてみることにした。昼下がりの、暖かな陽光の下で、人波に体を浸ける。そのまま流されるようにして、賑やかな都会の風の中を歩いた。派手で奇抜な看板や、道行く学生の操る軽やかな言葉、それらを楽しみながら、一つの公園にたどり着いた。背の高めの広葉樹によって涼しげな陰が形どられている。その下のベンチに腰を落ち着けた。心地よい秋風が髪を撫ぜる。何でも屋にいた頃はこうやってぼうっとしているのが一番だった。今はどうだろう。
時間が経つのにただ身を任せていると、二人の、この場所の雰囲気には少し場違いな男が現れた。一方はひどく痩せた小柄な少年、他方は太った体が球体を描いている、それなりに年のいった男性だ。少年はにやにやと品の無い笑みを浮かべ、対して太った男は憮然とした顔つきだ。
二人はつかつかと俺の前まで来ると、名を名乗ることもせず、単刀直入に用件を述べた。
「霧雨チヅを預かっている」
太った方が口を開けると、ねばっこい音で脅迫口上が放出された。
「……何だって?」
「返してほしくば、例の女と交換だ。明日、五時、この場所へ女とお前二人だけでこい」
太った男はポケットから折りたたまれた地図を取り出した。その中の建物の一つに丸印がついている。
「分かった。一つだけ訊いていいか?」
「何だよ」
少年のほうが答えるようだ。
「五日経ってる。今になって用件を伝えた理由は何だ?」
「さっきやっとお前を見つけたんだ」
「なるほど、分かりやすい、」
馬鹿だな。
「さあ、行け。明日どうするかは、考えておく」
俺の物言いに太ったほうが分かりやすく眉をぴくりと動かした。しかし、何も言わないで踵を返すと、少年を後ろに従えて去っていった。
氷野の部屋に戻ると、早速ことの次第を伝えた。びりりと部屋の空気が痺れる。カナエも氷野も、一瞬の驚きの後その瞳に鋭い切れを宿す。恐れは見当たらない。知り合いが行方不明という他人事が、一瞬にして、己が身に降りかかる災いの一端に切り替わったというのに。いやに用意の悪さが気になるが、カナエを指定していること、俺のところに来たことが悪戯でないと示している。そういえば、例の女なんて言い方だしカナエじゃない可能性もあるのか。氷野さんとか?
「明日か。どうしようか」
テーブルを囲んでの作戦会議が始まる。
「助けるなら、素直に従うのが一番でしょうね」
「助けるのが前提じゃない言い方だね」
鋭く冷たい刃なような声をカナエに突き付けられた。
「お前を危険にさらすくらいなら、」
「霧雨さんはどうなってもいいの?」
考える間も必要としない一言が浮かぶ。
「誰かとお前ならお前をとる」
五日間過ごして、俺はカナエに信頼のような心を抱いていた。それを捨てることはどうにも考えにくいことだった。
「まあまあ、落ち着いて二人とも」
剣呑な視線の刃を合わせる俺とカナエの間に氷野が割って入った。
「誘義君がカナエちゃんのことを好きなのは分かったから」
「そういうことじゃないです」
本当に、そんな浮ついた気持ちは持ち合わせていない。
「とにかく、チヅちゃんを助けるのは決定事項。その上でカナエちゃんが一番な安全な方法をとる」
不服を胸に抱えながらも同意した。途端にカナエが少し嬉しそうに笑った。それから、俺たちは霧雨チヅ救出の作戦を立て始める。無難な作を打ち立てるに留まってしまったのだが。
翌日、窓の外の世界は灰色の陰湿な雲がはびこっていた。昨日までの気持ちのいい快晴は終幕に隠れる。三人で緊張感に包まれた無言の食卓を囲む。三人の表情は優れない。特に俺の表情は、その中でも顕著なものだと思う。
霧雨を誘拐したというあの二人、おそらくダブル人格者だ。そして、俺の情報はどんなダブルを持っているのかということは知らないまでも、それなりに向こうに渡っているはずだ。その上で、あえて、カナエに俺を同行させようとしている。ただの馬鹿なのか、はたまたそれなりの実力を秘めているのか。戦いになることは確実だ。その中で、俺は霧雨と、カナエの二人を守りながら戦うことになる。何の用意もせずに行くわけではないが、勝てるのか。
「気に病んでも仕方ないよ」
交換条件にされた少女は、いつもの明るさを纏って言った。
「旗色が悪いと感じたら、霧雨さんは放って逃げるからな」
逃げられるようにはなっていないだろうが。霧雨は放ってでも、カナエは。
嫌な考えを頭を振って捨て去り、目の前の食事をとにかく腹へおさめることにした。
外に出てみると、雲の色がより鮮明に分かる。部屋の中から見たときより、どす黒く、一雨来そうだった。指定された場所は、町外れの廃工場だった。いかにもな雰囲気に、緊張感がすこしそがれたものだ。
「ねぇ、丞一。氷野さんのダブルって結構変わってるんだね」
今まで無言だったカナエが興味を示してきた。
「あの姿か?俺は今まで何人かのダブルを見てきたけど、人の形をとってるやつはいなかったよ」
「そうなの?じゃあ、君って結構トクベツ?」
「いや、同じような姿の奴はいなかったかな。ダブルも個性ってことなんだろ」
「ふーん」と、素っ気無いような返事が返ってきたが、カナエの瞳はらんらんと好奇心に輝いていた。こんなときなのに、どうでもいいことへの興味が彼女を刺激している。のんきだと思っていたが、他の考えが頭に浮かんだ。
「なあ、訊きたいことがあるんだが、」
訊くのは野暮だと思うんだが、
「なぁに?」
「俺って信頼されていたりするのか?」
何気ない風を装って、よく分からない不安に心を煽られながら、その問いを口にした。のどがからからになった。
「もちろん、誰よりも。というか君しかいないわけだし」
あっけらかんと、いつもの調子で言ってくれた。
「ふーん」
今度は俺が素っ気無く返す番だった。その言葉が心に染み渡っていく感じはするのに、俺が何を感じ取ったのか分からなかったから。ただ、勝てるのかという疑問を、打ち払うことはできた。
廃工場は、間近で見ればよりそれらしかった。そこは放棄されて廃れた工場ではなく、レトロな感じをだすサスペンスドラマのセットというほうが納得がいく。敷地を覆う背の高い雑草。赤く見にくい吹き出物のできた金属。砂。風は埃をその手で弄び、ようやく飽きたら過ぎ去っていく。ヘッドホンを俺にたくし、アブルリイは別行動をとる。俺はそのレーダーで中の様子を探ると、昨日の二人と、そして、椅子に縄で縛られてぐったりと動かない霧雨を判別できた。正面の入り口から入れば、ちょうど二人の正面数メートルのところにでることになる。アブルリイの準備が完了するのを待っていると、声が聞こえた。
「あー、本当に来るのかなー?」
少年の声だ。
「来るに決まってる。恋人だぞ」
こんどは肥満の声。恋人ではないのだが。
「来なかったらどうすんだよ。廃棄されるのとか嫌だぜ俺」
「来る。来るに決まってる」
「大体いつ来んだよ。お前なんで時間提示しないんだよウスノロ」
ただの喧嘩か。しかし廃棄とはどういうことだ。
「いいか。月宮さんくらい計画的に行動しないといけないんだよ」
「あの男のどこが計画的なんだ。無計画のせいで、月宮はもう長くないだ」
「お前らは月宮さんのことが分かってないんだって。部長もそうだぜ。偉そうなくせして、月宮さんの何分の一にも劣るぜ。ふらふらしてたってだけで、今度のことの責任も押し付けやがって。てめーもふらふらしてんじゃねーか」
月宮、部長。後者は情研部のトップか。月宮というのはそこに所属する研究員のようだが。
―スタンバイオーケー。さあ、行け。
分かった。
二人はまだ喧嘩している。これ以上の情報は得られそうに無く、ちょうどいいタイミングだ。
カナエに目配せする。意志の強い瞳に俺は安心する。右手にカナエの左手を握り、小さなドアのノブを捻った。土っぽい広々とした空間がそこに広がる。放置された機材が埃くさい。三メートルほど向こうに、ヘッドホンから得たイメージ通りに三人がいた。
「ほら、来ただろ」
「まじかよ」
太った男は憮然とした顔の口を捻った。歪な笑みが少年を見下す。少年は唖然と、信じられないというように俺のほうを見ていた。
「霧雨さんを離してもらおうか」
目的の人質、霧雨はかなり衰弱しているように見える。だらりと首を俯けて、動かない。ヘッドホンは霧雨の微小な呼吸音を汲み取っているが、死んでいるといわれれば疑わないだろう。カナエの手に力が入る。
「断る」
肥満男はズボンのポケットから拳銃を出した。少年も上着のポケットから同じものを出す。同時に、それらは俺に向けられる。一瞬唖然としていた。断るなど、予想外の問答だ。拳銃の引き金がためらい無く引かれる。叫ぶような銃声が工場全体に響き渡り反響し、銃口からかすかに煙が立ち上る。
それでも、撃たれることはなかった。カナエの手を引き、その場に伏せさせる。全身の体重を左足にかける。引き金が引かれる瞬間、それを注視して、体重をかけた足で思い切り地面を蹴った。弾丸が飛ぶ寸前、俺の体は大砲で打ち出されるようなスピードで左へ跳んでいた。壁に体を打ち付ける寸前、急に減速し、安全に着地した。その不自然な挙動に、少年が苦虫を噛み潰したように歯軋りする。
「もう召喚していたのか」
ふっと口元をゆがめて答えてみせた。「いくぞ」と合図を出し、また左足に体重をのせ、一気に地面蹴る。少年めがけて一直線に跳ぶと、その冷や汗を浮かべた顔に勝機を見出したか力が宿る。再び拳銃を構え、引き金を引く。しかし、その簡単な動作は妨害される。天井を蹴破って、一直線に落下したアブルリイは抜刀し、その勢いで少年の右腕を切り飛ばした。驚愕と激痛の叫び声を、アブルリイは一蹴する。蹴られて少年は体を吹き飛ばし、機材の山に埋もれていった。アブルリイは起用に刀を振り回し、霧雨を縛っていた縄を一閃に切り解いた。
肥満男が拳銃を構えつつ後ずさる。俺と霧雨をかばうようにアブルリイが立ち、俺はその背に隠れ霧雨を抱える。
「フブキ、アブルリイに加勢を」
俺の声で、俺の体に潜んでいたもう一人が現れる。深い青色の毛並み、水晶のような装飾を見に纏う、虎。氷野が俺によこしたダブルだ。
「ダブルを二体も持っているのか!?」
「仲間のダブルだ。能力で俺の中に潜んでいたにすぎない」
氷野のダブル、フブキは、ベクトルになるというかなり特殊な能力を持っていた。物体の中に入りこむことができ、その物体に方向と量をもつ力を与える。俺の異様な瞬発力のタネだ。
カナエが、肥満野郎の目を気をつけながら、そっと俺のところへやってくる。俺の代わりに霧雨を支えてくれる。後は上手く立ち回って逃げ出せばいいだけだ。
―丞一。ダブルはどこだ?
レーダーには何も。
そうだ。二人はダブル人格者のはず。なぜダブルがいないのだ。そもそもダブル人格者というのが、俺の思い込みだったというのか。
事態は一瞬にして暗転する。俺の目の前、アブルリイの後ろでカナエは人質にとられた。カナエのこめかみに黒光りする拳銃を突き付けているのは霧雨だ。驚く俺の、まさに目と鼻の先で霧雨が下品に笑う。それは少年のものとよく似ていた。
アブルリイが気色の違う気配を感じ取って一瞬男から目を離す。男が笑う。どこからともなく集まった黄色の光が男の肩に集まり形を成す。黄色の布で成形された鷲。目にあたる部分には何もなく鷲が空洞の存在であることを示していた。鳥が動く。アブルリイに伝えられない。一瞬の出来事だった。銃声より甲高く、引き裂くような大音響が鼓膜を揺らし、思わずふらついた。同時に陶器が割れる音がして、アブルリイな刀を持つ腕が落ちる。肩口が無惨に破壊され、彫刻のような白い中身が現れる。右腕は地面に落ちたところから砕けていった。
電撃だ。黄色の鷲の能力は黒雲から放たれた稲妻のような電撃で、それが一瞬にしてアブルリイを焼いたのだ。
「先に仕掛けをしておいたのはそっちだけじゃねえんだよ」
機材の山の中から這い出た少年が埃にむせながら言う。霧雨が狂気じみた笑みを浮かべカナエを重さを感じていないかのように引き摺っていく。カナエをとられた。首を絞められカナエの顔が苦痛に歪む。
「お前のダブルだな。霧雨さんに寄生して操っている」
「ご名答。まあ、てめえは、今すぐ死ぬんだけどな」
拳銃が向けられる。死がそこに近づく。何もできない。男も少年も、そして霧雨も刀を腕と共に失ったアブルリイの間合いの外だ。それはフブキにも同じことで、人である俺は尚更何もできない。
誰も助からない。霧雨を放っておけばこうはならなかったのか。いや、そうでなくても、こんなに俺が弱くては、いずれ何者かにカナエを奪われるだろう。銃口に釘付けになる。その円形の暗闇が死の入り口だ。増大する恐れと無力感に目を背ける。するとそこでカナエと目があった。苦しそうに喘いでいるが、その瞳は光る。その時、鉛玉でない何かに頭を撃ち抜かれた気がした。
アブルリイ!銃弾を。
―分かった。上手くやれよ。
頭で言葉を交わす一瞬。アブルリイは体を捻り男に背を向けた。俺はアブルリイに向かって踏み込む。俺に向けられた銃の引金が引かれ、銃弾が飛ぶ。それをアブルリイが、全身の筋肉を使った渾身の正掌突きで掴む。俺の肩ごしに俺の背後に落ちていくアブルリイをかわして、フブキの隣に飛び込んだ。驚くフブキの頭を右腕で抱え込むと、その耳元に咄嗟の閃きを囁いてやる。フブキは首を横に振ろうとするが、そんなものは聞かない。腕に力を込めてフブキを締めあげると、すぐに観念して右腕に入り込んだ。その右腕を突き上げファイティングポーズをとろうとしたところで雷鳴が鳴り響いた。
音より速く、痛みより速く右腕が焼ける。炎に包まれるより熱い温度で焼かれていく。
ベクトルとは方向をもつ量のことだ。この腕を焼く電流も方向と量を持っている。ダブルの人間離れした認識速度は俺の期待を上回っていた。電撃は、俺の腕を焼き尽くす前に離れた。そしてまた空気を揺るがし、雷鳴を轟かせ、少年の脳天を貫いた。
次に備え、電流が腕から去った後、すぐに地面を蹴って後退した。アブルリイと立ち位置を交換して、男からの攻撃に備えつつ、アブルリイの攻撃を促す。腕が酷く痛む。服は焼けて灰になり、皮膚は焼け爛れている。指先のほうは更に酷くなり黒く焦げていた。痛みに歯を食い縛りつつ、霧雨とカナエを見た。霧雨が気を失ったようにぐったりと、カナエにもたれかかる。カナエは霧雨をおんぶするような形で霧雨を支えていた。
俺はほっとして息をつくと、息と共に体の力も抜けていった。倒れそうな俺を走ってきたフブキが支えた。
「お疲れ様」
「……しゃべれたのかよ」
アブルリイのスピードが上がる。一つだけになった拳に、両脚に、怒りを。男と、そのダブルが動く前に姿を捕らえていた。ダブルを地面に叩きつけ、脚で踏みつける。その踏みつけた足を軸に男を左足で蹴る。髪をつかみ、またしても蹴る。蹴る。蹴る。蹴る。
「フブキ、刀を拾ってくれ」
その場に座り込み、俺は動けない。フブキは俺を一瞥して、うなずくと、刀を拾いアブルリイに飛び込む。アブルリイが刀を掴む。フブキが腕に憑依する。アブルリイの足から逃れて、敵のダブルが飛び立った。距離を置いて、もう一度電撃を浴びせようと試みるが、アブルリイの加速からは逃れられない。アブルリイの咆哮が、世界を揺るがした。
「無駄だァアッ!」
黄色の鳥が霧散する。倒れた肥満男の目に恐怖が浮かぶ。口がふるえ、戦慄く。
「止めてくれ。俺は、脅されていたんだ!部長に」
「オラァアアア」
風より速く、音より速く、稲妻よりも、光よりも、速く。一瞬にして世界をも切り裂く刀が飛ぶ。首が飛ぶ。激昂したアブルリイは誰も止められず、そして誰も止めようとはしなかった。
カナエが霧雨を重そうに引きずりながら、俺のところへと歩いてくる。アブルリイとフブキも止めをさして帰ってきた。カナエは俺の右腕を見るなり、血相を変えた。ほっとした笑顔さえ浮かべていたというのに、表情が失せ、真っ青になっていく。
「大丈夫?」
「全然。命に別状は無い、って感じだ」
「軽口叩いてる場合?早く、えーと、救急車」
あたふたしているカナエに、場違いな感情ながらも癒される。
「必要ない」
「必要ないことない!」
カナエに怒鳴られる。アブルリイがいつにない穏やかさで間に入った。
「丞一は病院が苦手なんだ。勘弁してやってくれ」
「病院が苦手とか、関係ないでしょ」
俺は黙って聞いている。すると、横で、同じく黙って聞いていたフブキが口を開いた。
「これは、単なる火傷。市販の薬で大丈夫」
「単なるって、電撃浴びてたのに?」
「私がベクトルになって、電流を逃がした。腕を離れるときに体表が焼けてしまっただけ」
フブキはいたって冷静だった。確かに、単なる火傷なら薬で大丈夫だ。
「でも、真っ黒になってるよ?」
「灰になってなければ、治るもんだ」
カナエは、全員の説得を受けて、ようやく俺を解放してくれた。まだ少し不服そうだったが、病院に行こうが行くまいが、そんなことは俺にとってどうでもよかった。上手くいった。代償はボロボロになった右腕だけだ。
フブキを俺の体に憑依させ、アブルリイを心に還す。弱った体をフブキのベクトルを利用して歩かせる。霧雨はまだ目を覚まさなくて、カナエと一緒にその肩を支え歩く。廃工場から氷野の家はでは少し遠い。右腕の痛みが歩みを妨げる。爛れた腕はかなり目立ち、それもまた歩みを遅くしていた。
「ありがとう」
不意にカナエがつぶやいた。
「それは、お前が言うことじゃないな。お前は感謝される立場だ」
「そうじゃなくて、電撃浴びるなんて痛い思いをさせちゃって」
カナエの声は悲痛な響きをもっていた。
「あれをやらなくちゃ、俺が死んでいたってのもある」
「それもそっか」
カナエが笑う。疲れが見えるような乾いた笑みだったが、それを見ただけで、少し嬉しくなった。
氷野の家についても霧雨は起きなかった。死んでいるわけではないことは確かだが、五日間、拘束されていたうえに食事も満足に取れていたのか定かではない。ひとまず、居間に敷いた布団に寝かせる。世間的には行方不明の霧雨チヅをどうしたものか。二人人を殺しているから、事件を明るみにするのはあまり望ましくない。
「あまり触れないようにしてたけど、やっちゃったんだよね」
氷野が悲しそうに呟いた。
「やらないとやられていた。善悪云々の話ではないよ」
「君のその傷が、過酷さを物語っているし、ね」
俺の右腕は今、薬を塗った上に巻かれた包帯でミイラのような姿になっている。
「それより、霧雨さん、どうしようか。警察に届けるにも理由とか聞かれそうだし」
「あんまり難しいこと考えないで、その辺で倒れてた。でいいんじゃない?」
ストーリーテラーは適当だった。
「霧雨さんが起きたら、連れ去られたこととか俺たちが助けたことを誰にも言わないと約束させる。その後、最寄の交番に、氷野さんに連れて行ってもらう。こんな感じでいいですか?」
「私が連れて行くんだね」
「今一番安全な人ですから」
「仕方ないか」
氷野はため息混じりに呟いた。
そういえば、氷野に伝えなければならないことがある。
「氷野さん。月宮って人、知ってますか?」
「月宮?」
「犯人の二人が話してて、出てきた名前なんですが、手がかりになりませんか?」
「月宮。月宮さんね。もしかしたら、かなりいい線行ってるかもしれないよ」
氷野は納得したように言う。どういうことだ。
「はい?」
「私はその名前を聞いたことがある。君に近い所でね」
「月宮さんってたしか、雨城さんの友達だよ」
雨城総一。何でも屋前店主で、去年、事故で他界したダブル人格者だ。俺の、育ての親でもある。雨城は総一は、ダブルの組織に所属していた時期がある。氷野はそのころに雨城と知り合い、しばらくして月宮を紹介されたのだと言う。氷野のパソコンの中に雨城と件の月宮の写る写真があった。右側に、その顔に年季のいった深い皺を称えた長身の男、その隣に快活に笑う痩せた男が写っていた。右側に写るのは俺の育ての親で、その隣に写るのは紛れも無くカナエ救出の依頼者だった。
俺たちは、今また西京行きの新幹線に乗っている。情研部に近づくことになり、俺や氷野は止めようとしたが、カナエの意思は強かった。記憶を取り戻す。その手がかりのためなら何だってやる。どんな危険の中へも飛び込んで、跳ね除ける。そういう気構えを感じた。対して、俺はたしかにカナエの意思に負け一緒に行くことに同意したのだが、どうにも気が乗らなかった。気が乗らないというよりも滅入っていた。
「カナエ。俺、家族のことは触れられたくないって、前に言ったよな」
「うん。ごめんね」
カナエは目を伏せる。
「何でも屋で俺がどう扱われようが、気にしないでくれるか?」
「どういうこと?」
カナエの訝しげな表情に答えるべき事実は、まだ胸の内にしまっておくつもりだ。打明けなければならないなんて日は来ないはずだ。
「避けられてるんだ」
「どうして?」
「そこは触れないでくれ」
寂しげな顔で笑ってみせた。そうすると、カナエはそれ以上追及をしないでくれるのだ。
それから西京都につくまで無言の時間が流れた。話しかけられないほど深刻な顔をしていたと、後でカナエに指摘された。
西京都の空も雲に覆われていた。十三時の白昼は暗い陰欝な雰囲気に包まれる。昨日の大阪も雲に覆われていたが、結局雨は降らなかった。この黒雲はいつその不幸を降らすのだろう。カナエは向こうに行ったときから、氷野に服を借りている。他人から借りたものだが、私服姿のカナエはより一層可愛らしかった。新幹線を降りると、次はバスに乗る。いくらか交通機関を乗り換え、町の隅っこの、もはや懐かしい景色が目に入ってくると、目的地だった。
少し古くさい、どこにでもあるような二階建。灰色のコンクリートが冷淡な印象を与えるその一階が事務所だ。二階は住居として使われている。透明な自動ドアの前に立つと、仕事がないのか暇そうにしている女性の姿が認められた。ドアが開きタイル張りの床を踏む音で女性は振り向き、客に向けての第一声を発する。その口が開いたのと、来たのは俺だと気付いて凍り付くのは同時だった。俺は何を言うべきか思い浮かばず表情もなかった。そこにいる女性、俺の姉貴分、雨城奈々もしばらく無言だった。
「生きていたのね」
悲しげな、呟くような言葉だった。長い黒髪に覆われた顔に影が差すようだ。
「運がよかったんです」
一度死にそうになりはしたが、それだけだった。
「あ、えっと、じゃあ、上手くいったっんだね」姉のゆったりとした喋り方に慌てが混じる。俺が頷くと、しばらくあたふたしたあと、笑みを作って言った。
「おかえりなさい」
俺はただいまを言えず、一度「はい」と返事をしただけだった。
俺は姉に依頼がどうなったのか、今、俺がここに来た理由を話した。姉は相槌をうちながら、俺の後ろのカナエが気になるのかチラチラ見ていたが、話が終わる得心がいったようで「大変でしたね」とその境遇を労っていた。
「それから、これを」
左手に持って来たアタッシュケースを手渡した。中には現金で三千万円が入っている。
「依頼料です。半分は頂いて行きますが、もう半分、前金の二千万と合わせて五千万はお渡しします」
「え?」
姉は目を丸くしながら、重そうにアタッシュケースを抱えた。
「俺はもうここには居られません。用が住んだら、すぐ出ていきます」
「どうして、そんなこと」
愕然とした表情。その皮の内側にあるものを俺は知らない。
「命を狙われているんです。その依頼料の代償で」
姉は絶句した。何も言えず、その手が震えている。
「だから、手短に用を済ませて帰ります。迷惑は掛けません」
カナエは終始沈黙していた。
俺たちは二階に上がる。居間を除いて部屋は五つある。俺が一週間まえまで使っていた部屋や、姉の部屋、兄の部屋もある。ここにくるまでに見かけなかったということは、兄は仕事ででているんだな。雨城総一の部屋は廊下の一番おくにある。一年前に事故死したときのままの状態から変わっていない。彼の家族は、その人の居なくなったことをなかなか受け入れられず、俺と育ての親との間の絆は小さなものだった。それが変わらない原因だ。俺がいなくなったこの一週間に、片付けられていなければいいのだが。
引き戸を開けた先の、綺麗で殺風景な部屋。一年前から、一週間前から変わらない風景。生活感の無さこそ、総一の部屋だった。本棚に整然の並ぶ哲学書や小説。デスクには古いタイプのパソコンが置いてある。部屋へ一歩踏み込むと、懐かしい匂いが鼻をつく。冷やりとした空気が頬に触れる。それらの感覚は、俺に昔を思い起こさせるのに十分だった。
雨城家と俺は血が繋がっていない。遠い親戚ということもなく、遺伝子の一致といえば人であることくらいだ。俺はまだ小学校に通っていたある日、両親に捨てられた。そのときのことは今でも鮮明に覚えている。当時、心の中にもう一つの人格がいることに気付いた俺は、そのことを両親に相談した。その頃のダブルはまだ、アブルリイという名前も持たず、召喚することもできなかった。いつからか心の中にいて、いつからか言葉を交わすようになっていた。その存在を、両親は否定した。昨日まで笑顔でいた二人は、醜く顔をゆがめ、苦痛で仕方ないという表情で俺に迫った。聞いたことも無い罵声を浴びせられた。初めて人に本気で殴られた。知らない場所に文字通り捨てらた。何が起きたのか分からなかった。自分が悪いのだと思った。ダブルを持つこと、それは悪いことだと思って、精一杯、頭の中に語りかけてくる誰かを呪った。呪い続けた。
雨城総一は、行き倒れていた俺を拾った。そして、そのまま家につれて帰り、三人目の息子、というように扱ってくれた。空腹で歩けず、誰にも助けてもらえず、倒れていた俺を介抱し、温かい飯を食べさせてもらった。雨城の二人の子供も、無邪気なままに接してくれた。余所者なんて扱わず、二人は優しい人間なんだと思った。けれども、信用できなかった。俺はダブルのことをなかなか話せなかった。もう一人いることを悟られた瞬間、また捨てられる。そしてそれが無くとも、何かへまをすれば、その笑顔が歪むのではないかとずっと冷や冷やしていた。両親は俺から人への信用を完全に奪っていた。
雨城家は優しかった。ただ、俺の氷を溶かしきるほどの熱は無かった。いつしか、兄妹は、俺を諦めた。二人と一人の間に線が引かれた。俺はそれを悪いこととは思わなかった。いつか強烈なリバースを見せられるよりも、最初から何も見せられないほうが随分楽だったのだ。
俺はずっと、誰も信頼できずに生きてきた。雨城家との絶妙な繋がりが、信頼無しの生活を支えていた。
「ねえ、すごいもの見つけたよ」
カナエの声が俺を現実に引き戻す。みると、デスクの引き出しから何やら書類のようなものを引っ張り出していた。見ると、その書類には短くこう書かれていた。「ダブルの本質について、月宮八代」と。
「ダブルの本質?研究成果ってことか」
俺は何の気なしに、書類を、手にとってしまった。適当に捲ったそのページに、書かれていた一文が俺を凍りつかせた。
「ダブルとは、主人格、副人格ともに同一の存在であり、その違いは本体を操作するか、ダブルを操作するか、ということだけである」
俺とアブルリイは同一人物だと、その一文は告げていた。これが、どんなに残酷な一言であるか、誰にも分かりはしないだろう。俺は今でもアブルリイを嫌い続けている。それは、子供の頃からずっとそうであり、その異様な、殺人を嗜好するという性格にもほとほと参っていたのだ。
「丞一?」
心配そうに覗き込んでくるカナエを、俺はどんな顔で見返したか分からない。手が震えていたことだけは分かった。
「ちょっと、外の空気を吸ってくる」
逃げたかった。書類を捨て置いて、早足に。気がつくと、店の外に出ていた。
手が震えている。血の気が引いているのが分かる。俺は今まで、アブルリイを自分とは別物としてくぎってきた。だから、アブルリイの犯す異様な殺人の罪の意識から逃れることができていたのだ。
「落ち着け。あんなものに騙されるな」
言葉にしてかみ締めると、むしろ、より真実らしく感じられた。月宮という人物は、この国で唯一、ダブルを研究する機関に所属している者だ。その人物が書いたものなら。いや、昨日廃工場で聞いた名前は、また別の月宮かもしれない。そうに違いない。
―俺はお前も、最初から知っているものと思っていたんだがな。
え?
アブルリイの呆れたような声が頭に響いた。
―俺たちは一人だ。コインの裏と表ですらない。俺は生まれたときからそれを知っていたっていうのに。
うるさい。今一番聞きたくないのはお前の声だ。
耳をふさいでも、意味は無かった。心の中にいる人間から逃げ場は無い。それでも、拒絶していた。自分ではないのだ。そこにいる殺人マシンは。
どれだけそうしていたのだろう。コンクリートの壁に背をつけて、ずっと耳をふさいでいた。曇り空から滴が一滴、目の前にぽつんと落ちてきて、急速に、意識が鮮明を取り戻した。いつしか声は聞こえなくなっていた。
ひとしずく、ふたしずく、コンクリートの地面に染みを作ると、加速度的に、降るしずくは多くなる。本格的に降り始めた雨から逃げて、何でも屋の中に引っ込んだ。
「大丈夫?丞一」
何でも屋に入って、出迎えてくれたのはカナエだった。
「大丈夫」
掠れた、弱弱しい声しか出てこない。
「うん、大丈夫じゃなさそうだね」
「大丈夫だ」
カナエを押しのけた。今にも崩れ落ちそうな心地を精一杯隠すように。すれ違いざまに、手を握られた。力のこもったその温かみを、俺はそれ以上の力で振りほどいた。信憑性なんてないたったの一文で、アブルリイの一言で、俺はいつに無く心を磨耗させていた。
総一の部屋を調べる気も起きず、一週間前の自分の部屋に戻る。ノブを握った感じが懐かしい。篭城するように、その部屋に篭ってしまおう。ノブを捻った先の光景は、想像とかなり食い違っていた。大量の血が目に写った。その中に沈む頭の無い姉の死体が、心を揺さぶる。顔を上げると、窓枠に座った長身の男と目が合った。黒いロングコートを着込み、短い髪の毛を、風雨にさらしている。
「やあ、誘義丞一くん」
甘ったるいホストのような声。狂気じみた喜びを滲ませている。それだけで、こいつが追っ手の一人だと分かった。
「今、この家に来ているのは僕一人じゃないよ。件の女の子を君から奪うために、五人も来ている」
開いた口が塞がらなかった。俺たちはこの家に来るまで、細心の注意を払ってきた。追っ手のいないことを確認しながらここまできた。それなのにまた敵に見つかっている。そして、目と鼻の先で知り合いを殺されそれに気付かなかった。男はしたり顔で近づいてくる。血で、黒いブーツが汚れることもいとわない。死体を踏みつけ、俺の一メートル程手前に立った。冷静にならなければならないのに、なれなかった。
男はその細い笑みを浮かべたままで、高く腕を上げた。その先端で指を鳴らすと、突如、猛烈な勢いで銀色の閃光が俺に向かって走る。閃光は瞬時に形を成し、それは銀の金属光沢を放つ人型のロボットとなった。筋骨隆々といったその拳が少ない間合いを詰める。その拳が俺の体を打ち抜く寸前、軌道を直角に変えて壁に突っ込んだ。その拳の中から飛び出すようにして青い虎、フブキが姿を現した。
「誘義君。早くアブルリイを」
大阪を出る前に、氷野が俺の体に潜ませておいたのだろう。その冷静な声に、落ち着きを取り戻しながらも、俺はアブルリイを召喚できなかった。あまたの人間の命を絶ってきた真っ赤な姿が強烈に怖くなったのだ。フブキに首を振り、手招きすると、部屋を出た。すぐにフブキの力を借りて、人の限界を越えたベクトルで階段を転がるように下りる。すぐ後ろから男が追ってくる音が聞こえる。振り向かず、ただ、カナエの無事を願った。
事務所に下りると、そこにはカナエの姿は無かった。代わりにまだ幼い小学生くらいの少年と少女が立っていた。二人も、ここに送られたダブルなのだろう。俺の姿を見つけるなりこういった。
「あの人はもういないよ。連れていかれちゃいましたー」
ぷすすと人を馬鹿にしたように笑う。腹を抱えて笑う二人の向こう、透明の自動ドアに目を凝らしたが、その先には誰もいるようには見えなかった。カナエは一階にいた。降りてくる途中、すれ違うなんてことはなかった。そこにいる子供が言っていることは事実だ。それだけ理解すると、目の前の景色がぐらりと、一回転した。頭痛がして、眩暈がする。床にがくりと膝をついて、痛みが走った。
「だから意味はもう無いんだが、君には死んでもらうよ」
後ろから男の声がした。振り向く気力ももう何も無かった。二人の子供は俺を見て笑い転げる。後ろにはロボットの気配がある。俺の中にいたフブキが飛び出して、噛み付かんばかりの勢いで吼えた。
「誘義君!」
もう間に合わない。ロボットの加速する瞬間が、音で分かった。どんという踏み込みの音と共に、体を銀色の拳が貫いていた。心臓のある場所を的確に貫かれ、左胸から銀の手先が見える。脈が止まる。体を循環していた血液はその動きを止め、脳に酸素がいかなくなる。フブキに血しぶきがかかり、青の毛並みを赤に染める。驚愕の表情。俺はきっと何の表情も持っていない。手が引き抜かれてフブキに覆いかぶさるように体が前に倒れる。痛みに痺れながら、その一瞬、脳裏にカナエの顔がよぎった。今まで誰のことも信頼したことがないと言った俺だったが、それはきっと違う。カナエの、出会って一週間しか経っていないその人のことを、心のそこから信頼し、その笑顔を大切に思っていたのだ。もう二度と会えない。カナエは情報研究部に連れ去られ、俺はここで死ぬ。ならせめて、ここにいる三人のダブルを殺してやりたいと、そう願った。目を閉じる間際、赤い閃光が視界の端に引っかかった。
再び目を開けたとき、俺は仰向けに寝かされ、アブルリイがそこに立っていた。ぼんやりとした意識の中で、アブルリイがつぶやく。
「失望したよ。さよならだ」
アブルリイは出て行った。俺の心に還ることもなく、何でも屋を出て行った。その気配が完全に分からなくなると同時に、俺の意識もまた途切れた。