ノーウォーキング・クイイーン
明東市から抜け出した俺たちは、いろいろと交通機関を乗り回し、歩き回り、今は新幹線にのっている。新幹線の窓から見える景色は、電車のそれと変わらない。矢のような速さ、それが景色を亡き者にしているからだ。新幹線、電車、その違いは停車駅の違いと快適さだけだ。窓側の席を陣取ったカナエは、窓のある意味ないじゃんと不満をこぼしていた。
「日の光で、明るくなるだろ」
「そっかー、それだけかー」
ふむむと、唸る。
「やっぱ、違うんだよね。違和感があるんだよね」
「何が?」
「電車とか新幹線とか。こんなに速い物だったかなって」
窓の外を見て、ぬぬぬとまた唸る。真剣に考え続けるその姿からは、違和感というものの重要性を感じた。もしかしたら、
「その違和感とやら、失くした記憶に関係あるのかもな」
「うん、たぶんそれだよね」
考えるのをやめたのか、両手を挙げると、そのまま伸びをした。スレンダーな体に堂々と居座るその胸が強調される。顔が赤くなる前に、そっと、さりげなく目をそらした。
―もっと見せろ。
うるさい。俺が変態扱いされるだろ。
殺すこと以外にも興味があったんだな、こいつは。
「あの、ところでさ」
振り返ると、真摯な表情のカナエがそこにいた。
「どうした?」
「私の記憶のことなんだけど、取り戻すの、手伝ってくれないかな。いや、逃げるの助けてくれてて、その上にまだ頼むなんて厚かましいったらないんだけどさ」
記憶を取り戻すことと逃げること、セットだと思っていたんだがな。
「最初からそのつもりだ」
「まじっすか」
目を輝かせて喜ぶ彼女を見て、少しだけ笑みがこぼれた。
「今から行くところは、たぶんその方の手助けにもなるはずだ」
「というと?」
「ダブルによる組織なんだ。俺は所属してないし、苦手なんだけど。情研部をこっちから探るとか、こっちは望み薄だが依頼者を探すとかはできるかもしれない」
「おおーう。ありがとうございまーす」
依頼者を探すというのはおまけ程度のことだ。この広い国で、不確かな人相書きだけを用いて一人を探すなどほとんど不可能だ。本題の、情研部を探ることというのは、カナエのことを探ることにも繋がる。カナエはきっと、カナエ以外では不可能な実験の実験体に違いない。そうでなければ、追っ手をよこすのは考えにくい。口封じというのも考えたが、カナエを人質に使えた点からして、それはなさそうだ。そして、カナエを使った実験というのは、誰かが一億を投げてでも阻止しようと思う程度のものなのだ。それなら、カナエを殺せという依頼でことたりるはずだが、生かしておくことで何か利益があるのかもしれない。
「ねね、その組織ってさ、どんなところなの?」
「どんなところ?いや、どこかに腰をすえている組織じゃない」
カナエは眉根を寄せ、首をかしげた。
「組織というよりも、ネットワークと言い換えたほうがいいかもな。ダブル人格を持つ十数人、いや、数十人だったかで構成されてる。俺たちは今からそのうちの一人に会いに行くというわけだ」
「なるほどね。それで、先方はどういった方で?」
「氷野理々。中高生に人気の女流作家だ」
「作家……。すごい人が所属してるんだね」
関心したようにカナエは言う。そんなことは無いと、氷野の顔を思い出しながら言った。
「会えば分かるけど普通の人だよ」
「そうかなー?作家だよ?一度読んでみたいかも。あ、中高生に人気っていうんだし、私にもぴったりだね」
カナエは楽しそうだ。俺も、楽しくなってきた。
「記憶無いんだし、年分からないだろ」
「えー。こんな見た目と性格だし、十分ジュブナイルだよ」
「どうだかな」
せいぜい不敵に笑ってみせた。
「私が老けているとおっしゃいますか。あ、そういえば、君はいくつ?」
名前しか名乗っていなかったか。
「十七だ」
「十七……、高校はいってないんだよね。家族は?やっぱ何でも屋が家業?」
途端に、気分が暗転した。観客が拍手を送ったオーケストラコンサートは、一瞬の暗幕の上下を境にして、観衆が好奇の目をつける処刑台へと早変わりした。口元を水平に、表情筋を静に戻して、黙った俺をカナエが心配そうに見てくる。
「どうしたの?」
「家族はいない。この話題は地雷なんだ」
思い出したい思い出せない記憶があれば、忘れたい忘れられない記憶がある。フラッシュバックで目がちかちかした。
「ご、ごめんね」
「いい。終わったことだしな」
終わったことだ。いや、出来事は一つだけ、始まったり終わったりとかはなくて、一瞬の暗幕を境にして、ちょっとした変化が起きただけだった。降りるべき駅が近づいてくる。新幹線を降りたら、心を支配する不穏な感情の入れ替えを試みて深呼吸でもしてみよう。
新幹線を降りると、情研部のビルを抜け出したときと同じ気分を味わった。国の中枢機関が集まる西京都から田舎の山有り谷有りを越えて、というか迂回して、たどり着いたのは同じく大都会の大阪府だ。人の少ない田舎から、また大勢の人海の中へ。町に出てみると、西京都と比べて、ビルの高さに少し劣り、空中車道も無いことがわかる。しかし、活気なら負けていないどころか勝っているといってもいいだろう。人情の町と言われ、人が温かく、面白いということも有名だ。
「大阪……」
ぼーっとした様子でカナエがつぶやいた。
「また例の違和感か?」
「違うよ。何というか、空気が変わってるね」
「空気?」
「方言、ていうんだよね?耳に入ってくる言葉が……」
この地域独特の言葉遣い。それは、俺も嫌いではなかった。
「いい感じだろ?」
頬で、にっと笑って見せた。
「うん、いいね」
カナエもにっと笑った。
雲が濃い赤に染まっている。隣を歩くカナエの笑顔も明るく染められる。もうしばらくで一日が終わる。長かった。あの妙な男の依頼、そのおかげで、たった数時間で、俺は何かしらの運命の変転に巻き込まれてしまった。隣にはカナエがいる。確かなことではないが、依頼者あるいは家の人間以外と一緒に歩くのは初めてのことかもしれない。そもそも外にだって、依頼が無ければ出歩かないのだ。
アタッシュケースが重い。元から重かったが、なおさらだ。相当に疲れがたまっている。アブルリイからヘッドホンを借り、自ら身につけることでレーダーを利用しているのだが、その四六時中の緊張感も、きっと疲労に加担している。ヘッドホンの音が構成する、風景のイメージも靄がかかったようで、不確かになってきた。
はぁとため息を吐いて、ケースを一旦地面に置いた。目立つなあ、これ。
「大丈夫?」
カナエが心配そうに聞いてくる。
「大丈夫」
手にぐっと力を込める。
「本当に?」
今度は霧雨の声だ。
「当たり前だ」
と言いつつも、力が抜けた。
緩慢に、見たくないけど見なくてはいけないものを見るために、ヘッドホンを外しながら、ゆっくりと、もったいつけて、振り向いた。
「霧雨さん……」
もう、崩れ落ちてしまいたかった。人の行き交う路上の真ん中に、大の字になって。目立つのは嫌だが、ここで踏ん張る理由をなくしてしまったような気がした。
視界に入ったのは、昼間、スリーディスクリーンに映るのを見た、人気アイドルの霧雨チヅだ。夕日を受けてキラキラと輝く紅茶みたいな色の茶髪は、腰の辺りまで長く、そしてそれをポニーテールにしている。桜色の縁をした眼鏡が、白い肌に映える。今日戦った女とは違って健康的な白で、頬には赤みが差している。
「お仕事中かな?」
霧雨はカナエを一瞥して言った。
「違う」
「違う?じゃあ、その女の子は何なの?丞一君」
声に少しだけとげ。手のひらにささったささくれのような面倒くさい痛みが走った。
「知り合い、であってるよな?」
カナエに訊いてみた。
「運命共同体って言ったほうが近いと思う」
ややこしくなった。
「丞一君。私というものがありながら、アイドルの彼女がいるくせに、浮気?なかなかに肝が据わってるみたいね」
「いつそんな関係になったっけ。カナエ、いこう」
鋭い目つきで怒りを表す霧雨と、面白そうに観戦を決め込んでいるカナエ。二人の美女にはさまれ、あげく、霧雨がアイドルの彼女とか口走ったものだから、なまじ注目が集まる。疲れた体に鞭を打ち、左手にアタッシュケースを、右手にカナエの手を引いて、さっさと歩き出した。
「ちょ、ちょっと、待って」
「待たない。俺にはやることがあるんだ」
「丞一君。おーい、丞一君」
霧雨の声に捕まらないように、歩調を速める。霧雨は、少し苦手だ。
「いいの?」
「いいよ。いつもあんな感じだし」
霧雨とであったのはある依頼のついでだった。であってそれからというもの、彼女はたまに俺の前に現れた。忙しいアイドル業の暇をぬって、何でも屋に来るのだ。そして、他愛ない話をして、あるいはさっきみたいなつっけんどんな掛け合いをして、去っていく。霧雨は俺のことを好きだと何度も言った。俺はうんとは言えなかった。たぶん、霧雨は、優しい人間なんだろう。そういうことになっているんだろう。だから、俺のところへ来る。その優しさとやらは傷口に塗られた塩のように心にしみる。当たり前だ。俺にはそれが本心だと信じられない。
どこにいっても、賑やかな、悪くいえばやかましいイメージのある大阪、そのただ中に建つ高そうなマンションの一室こそが人気女流作家、氷野理々の城だった。城の前に二人で立つと、なんとなく圧倒された。手元にそれが買えるだけの金があるというのに。
エレベーターの文字盤をしばらく眺め、表示が九になったところで降りた。降りて真っ先に、渡り廊下から見える眺めを簡単に楽しみつつ、隣にいるカナエの人気作家への期待か何かを肌で感じる。記憶の中にある部屋番号を探し当て、インターホンを押すと、昼頃連絡をいれたときに聞いたその声が再び耳に入ってきた。
「誘義君、久しぶり。それと、初めまして、氷野理々です」
玄関先に出てきた氷野は深い青色のジーンズに、同じく寒色系のシャツというラフな格好だった。縁無しの眼鏡ごしにやわらかな笑みをたたえている。
「初めまして、……カナエです」
名字を思い出そうとしたのか、言葉に一瞬の空白がある。
「お久しぶりです」
「そんなかたくならなくていいよ。さ、奥へどうぞー」
氷野はあははと笑って、楽しそうだ。
部屋の中に案内されて、まず目につくのはそこかしこに積み上げられている本だ。机の上、棚の上、置くことができる場所にはとにかく置いている。その本の森をかきわけると、最大限に利用され、もう入らなくなった本棚が見えてくる。
「崩さないように注意してね」
立ちすくむ俺と目を輝かせるカナエの後ろから、氷野がさらに部屋の奥を指差す。その先にはまた一部屋ある。絨毯と背の低い丸テーブル、ソファが二つあって、奥には壁掛け式のテレビがあった。本の無い平和な空間は、漂流中に見つけた絶海の孤島のようにだった。無事に行けるかどうか定かではないが。
「本、こんなにありましたっけ」
運よく孤島にたどり着き、腰をおろした俺は氷野に訊いた。
「誘義君が前来たときはこんなでも無かったんだけど、繁殖しちゃって」
細胞分裂して二つになるイメージが浮かんだ。有性生殖なんて凄惨なイメージは芽吹かない。
「引っ越さないんですか?」
「普段は人を入れることがないしね。むしろ、担当さんもあまり来たがらないから、締め切り近いときとか便利だよ」
籠城戦か。敵は兵糧攻めとして印税でも渋るんだろうか。
しばらくしても、カナエは本の海からでてこない。悲鳴も崩れる音も聞こえないから、溺れたわけではなさそうだ。
「さて、誘義君」
「何でしょうか」
背の低い丸テーブルを挟んで、真剣な氷野に会う。
「今、どうなっているのか、教えてくれる?」
「分かりました」
今日ここまでの冒険活劇を詳しく話した。話していると、その場面を細かく思い出し、そのたびにどっと疲れが体にのしかかってきて、話し終わりにため息を一つこぼした。
「お疲れのようだね」
「長い一日でしたから、これからどうなるのか見当もつきませんし」
「そうだねえ。私たちが、悪いほうにはいかせないさ」
はっはっはと作家のようには見えない豪快な笑いが響く。氷野の笑顔は眩しい。
「さて、じゃあ、今日は早めに寝るべきだね。そのためにも晩御飯、作ってくるよ」
氷野は立ち上がりながら言った。
「手伝いますよ」
「いいよ。疲れてるんだろー?カナエちゃんと一緒にくつろいどけ」
氷野が振り向く寸前、満面の笑顔がその顔からさっと抜け、微笑が残る。氷野のくせで、どんなときでも冷静にものを見る氷野らしさが現れた仕草らしい。直そうと思っても直せないらしく、それで悩んでいると、随分前に聞いた。
カナエとくつろいでいろ、そう言われてもカナエは本の海で物語を泳いでいて、一向に上がってこようとしない。疲れたままにソファの一つに深く腰を下ろすと、瞼が重たくなってきた。寝るまいと、近くにあったリモコンに手をのばし、テレビをつける。生放送のバラエティ番組がちょうどはじまったところのようだ。スタジオの空気が妙だ。どうやら、ゲストの一人がまだ来ていないらしい。司会者がその空気を笑いに変える。ゲストが来なくても、この人さえいればなんとかなるな。そんなことを思いながら、結局のところ、リモコンが手を滑り落ち、気がつけばソファを占領して、体を横たえていた。
「おはよう」
カナエの顔が十数センチほどの近いところにあった。しばらく目を瞬かせ、心が覚醒するとともに、心拍数が増える。
「寝顔可愛かったよ」
「うるさい」
ご満悦というような笑顔がすぐ近くで揺れる。さらに近づいてくる。逃げられずに、まぶたがさらにパチパチと動く。
「照れてる?」
芋虫のように、体を収縮させてその場を脱出した。カナエには背を向け、顔を染めた赤が抜けるまで待機だ。
「若いっていいねー」
「茶化さないでください」
「いやいや、もう、どうみたって彼氏彼女の関係になるのが分かるね。決定事項だね」
彼氏彼女、と聞いても心が乱れることは無かった。ということは、自分にはそういう気はないようだ。よかった。
「そうはならないみたいですよ」
心拍数も上がっていない。自分の胸に手を当てて、確認した。
「というか、私や……誘義君が、これからどうするかで、どうとでもなりますよ」
「ほーぉ、それは可能性があるととっていいんだよね」
丸テーブルの上に氷野が作った手料理が並べられる。どれも旨そうだが、三人で囲むには、少しテーブルが窮屈だ。それでも強引に座り、カナエと氷野の会話が弾むその横で、ひたすらに箸を進める。会話に加わる云々より、とにかく早く寝てしまいたかった。
晩飯を食べ終わった後のことは、あまり記憶に無い。旨かった、という記憶が第一に残り、後は、シャワーを借りた、布団に入った、という簡素なものしか残っていない。
隣にはカナエが寝ている。氷野は自分の寝室で寝ているが、俺たちは飯をつついていた居間で寝ることになった。掛け布団は二つあるが、敷き布団は一つしかないという、楽しそうな氷野の言葉のせいで、俺たちの距離は近い。手出し、顔を見るのは禁止、と言われると、なぜかアブルリイが残念がるのが聞こえた。夜中、カナエの居場所が感づかれたらという可能性を考えて、俺はアブルリイのヘッドホンを装着し、足音を増幅するように設定した。記憶を持たぬカナエはどんな夢を見るのか、少し興味を抱きながら、瞼を閉じる。
夢を見ていた。私は、布団を払いのけながら、呆然とそんなことを考えていた。夢の内容は、思い出せない。ただ、幸せな夢だったような気はするのだ。カーテンを払うと、朝の目映い陽光が顔を目を刺し、あくびを生んだ。朝に弱い私は、そのまましばらくぼうっと空を見続ける。綺麗な青空だ。それで、雲は一つ二つ、そのくらい。ふと、思い立ち、やっと部屋をでることができた。空っぽの頭に、朝食を食べることを意識させ続け、一階への階段を、滑らないように慎重に降りていく。年寄りじゃないが、今は、年寄り並に判断力は欠落しているような気がする。
「おはよう」
「……おはよう」
妻の千鶴と娘の華苗、それぞれのおはよう。前者が千鶴で、後者が華苗だ。娘はどうも、私に似て、朝が弱い。似なくていいところが似てしまった。
「……おはよう」
娘と似たような返事で返して、椅子に座る。額を揉んでも眠気は消えない。千鶴は、朝食を作ってくれているみたいだ。スクランブルエッグの、その焼ける音が聞こえる。華苗はおはようを言ってすぐ、テーブルに突っ伏して動かなくなった。休日の朝は、大体いつもこんな感じだ。
テーブルに無造作に置かれた新聞を手に取る。政治家の汚職、トップに出た話題はいささか不景気だ。ある意味顔とも言える一面を、こんな馬鹿の顔で塗りたくっていいものなのか。毎度、暗い話題がでるたびに疑問を感じる。
トースターが入れておいた食パンが焼けたことを知らせる。スクランブルエッグもほとんど同時に出来上がる。コーヒーはその二つの前にテーブルに出されていた。今日もここから、一日が始まる。
雀の鳴き声が聞こえる。静けさの朝に瑞々しい歌声が響き渡る。朝が来た。眠った気がしない。布団を被ったら朝になったというような感じがする。泥のように眠って、完全な熟睡を果たしたゆえのことなのだろう。疲れは感じない。
本の壁に遮られ、日の光が部屋の奥まで届かない。夜も昼も、この空間の光は、天井からぶら下がる蛍光灯便りらしい。部屋の照明はリモコン操作でつけたり消したりできるようになっている。外に出るか、中に籠もるか、その二択であるらしい氷野は、このリモコンをあまり使わないのだとか。カナエは俺に背を向けて寝ていた。その表情まで照らされる。昨日、出会ったときから全く変わらないその人。そういえば、カナエはノーメイクだ。その顔でも、ちゃんと化粧をした、現役アイドルの霧雨に勝るとも劣らないだろう。
壁に掛けられた丸時計は八時半を差している。いつもの俺の起床時間からして、少し早いくらいだ。隣に眠るカナエの肩を揺する。反応がない。頭が首の上で踊るくらいに強く揺すると、起きる変わりに手が飛んできた。死角からの猛烈な裏拳に打たれた額を押さえながら、やり返しと起こす二つの意味を込めてこめかみのあたりを軽く突いた。
「うぎぎ」
大体そんな感じの呻きが聞こえた。布団がもぞもぞと動き、ようやく起きるかに思われたが、むしろ布団を体に巻き付けみのむしのような姿になってしまった。
放っておきたい、なぜ自分はこんなことをしているのだろう、そんな風に際限なく思い浮かぶ愚痴を口ではなく腕に回し、あらんかぎりの力でみのの一辺を引っ張った。とたんにごろごろと転がっていくカナエ。その軽さに驚きつつ、すぐ近くのソファにぶつかり動かなくなったそれに駆け寄った。頭を抱えながら、カナエはゆっくりこちらを向く。とろけそうな瞳が浮かんでいた。どきりと一瞬脈が揺らぐ。
「……今、何時?」
きりりとした昨日のカナエはどこにも見当たらない。カナエは朝が弱いのだろう。
「八時半」
「早いよ。眠いよ。布団かえしてぇー」
ゆるゆるとした力の抜けた手で、ぺたぺた触ってくる。や、やめろ。
「あ、もしかして、照れてる?」
「誰がだ!」
思わず声を荒らげた。すると、カナエはにんまり笑った。
「照れてる。照れてるよね」
「照れてない。照れる要素なんてどこにも無いだろ」
―寝ぼけたカナエとかな。
うるさい。
顔が熱い。どうして、なぜ、赤くなっているのか分からない。
「誘義君は、かわいいなー。あ、そうだ。丞一って呼んでいい?」
「なななんで?」
……なんで、なななんでとかなった?
「君は私をカナエって呼ぶでしょ。対等になるように、ね?」
ここでうんと言えば、なぜか対等性が失われるような気がしたが、意識しないで、俺はうなずいていた。
カナエはやっと体を持ち上げると、眠気も吹っ飛んだというような具合に笑いかけてきた。きりりとした清涼感のあるその瞳に、カナエという人物が復活したような感じがする。その笑顔で、俺はカナエを起こすという大仕事を果たしたのだと実感することができたのだ。いや、そんな仕事があってたまるか。
「仲いいねー。お二人さん。昨日出会ったばかりには見えないね」
いつのまにか起きてきていた氷野に茶化された。俺がどういう反応を返せば反撃になるか考えていると、一撃食らう前に、氷野は笑いながら朝食を作ってくると言った。
「若い二人の邪魔をするといけないから」
「そういう関係じゃありませんから」
「照れるけどね」
あっけらかんとしてカナエは言う。
「照れて、ない」
カナエが朗らかに笑い、俺はまた頬が熱くなるのを感じた。どうにもからかわれている感じがするし、対抗できないような気もする。
料理ができるまでの間、カナエと他愛ない話に花を咲かせた。部屋の奥に消えた氷野が気になるようで、カナエは料理を手伝いたいと言う。
「できるのか?」
多少いじわるな一言だ。
「できる、はずだけど、根拠の無い不安があるなー」
記憶を失う前から料理はできなかったに違いない。
「丞一は?」
耳がくすぐったい。
「レシピを見ればなんとか」
「ぬー?お主、なかなかやるのー」
それほどでもない。
ほどなくして氷野の手料理が運ばれてきて、一端会話を中断させた。白ご飯に味噌汁、シンプルなそれらは湯気を上げてなかなか旨そうだ。ただ、もう一品あってもいいのではと心中で思う。
「おいしそー」
カナエが目を輝かせている手前、文句は言いにくかった。それ以前に、危険人物の身で居候させてもらっているのだし。
「さあ、たーんとお食べ。おかわりないけど」
久しぶりにまともに朝食を食べ、久しぶりであるという事実を思い出して、なんとはなしに感慨めいたものを俺は感じていた。お椀も茶碗もすぐに空になり「おかわりないよ」と氷野に二度目を言わせてしまった。
三人とも食べ終わり、台所へ食器を持っていく。高級マンションのキッチンは、三人にはどうにも狭い。手伝おうというカナエの善意を、文明の利器、食洗機がかっさらっていってしまい、結局何もしないまま居間に戻った。
「何から何までしてもらって、」
「いいっていいって。なかなかに面白そうな立場なんだし」
氷野は、たぶん、皮肉ではなく本心で面白そうと形容している。
カナエは、人の好意に甘えるというのが好きではないらしい。俺に対して、名前を呼ぶ理由を対等にするためと言ったのは、単なる理由付けだけでなく、本心が少しなりとも混じっていたのかもしれない。対等、自立。昨日、俺に見放されそうになっても涙を流すまいとしたのは、そういう心の現われか。なら、彼女は強い女性だということになる。
「まあでもせっかくだし、買い物にでも行ってもらおうかな」
しばらく考えて、氷野がそう提案した。
「待ってください。今、外に出るのは、」
「いいじゃん。尾行とかされてなかったんでしょ?」
確かに、昨日のあの一戦のあと、誰かにつけられているということは無かった。夜中も、音で起きるということはなかった。
「それに誘義君も当然ついていくでしょ?」
「まあ、ついていきますけど」
「じゃあ、安心じゃない。それにデートにもなって一石二鳥」
どうせ、後者しか考えてないんだろ。心の中で毒づいて、なぜか乗り気になっているカナエも無視して、話題を変えた。
「それで、カナエの記憶の件はどうなりそうですか?」
「逃げたな」
悪いか。
「まあとにかく、そのことなんだけど、あんまり手がかりは得られそうに無いよ。ダブルのネットワークというのは、本当にダブルどうしのつながりがあるだけで、何か大きな力を持っているとか、大きなコネがあるとか、そういうのは無いの。依頼者のほうも、さすがに情報が少なすぎるというか」
「情研部へのスパイとか、はいないですよね」
「送ってやりたいところだけどね。私たちは、そういう組織ではないし、そもそもどうやって送ったらいいものか」
そうだ。情研部は外部から接触することができない。内部の人間も、外へは出てこない。では、なぜ、依頼人はカナエのことを知っていたのか。あの建物の地図、警備が全くいないことなど、内部の人間でないと知りえないことだ。もし依頼人が内部の人間だとしたら、なぜ俺たちのところへ来たのか。警察へ頼めないことだとしても、わざわざ都心から外れた、初見ではどうにも胡散臭いところにまでくる理由とは。そもそも、なぜ知られていたのか。それほど有名ではないはずだ。
「まあ、とにかく」
思索に浸り俯き黙りこくった俺を、一言で、カナエが顔を上げさせる。
「まだ出会って、一日経つか経たないか。気長にいこうよ」
少しだけ肩の荷が降りた気がした。カナエの笑顔で、疑惑の雲に覆われた心が晴れる。逃げ出して、まだ一日だ。緊張感は忘れられないが、それを持ちすぎるのもよくないかもしれない。
氷野の提案を楽しんでみることにした。デート、なんて浮ついた気持ちではなく、あくまで純粋に楽しむという意味で。