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ハロー・マジシャン

 昼を照らす太陽の光を、あえて遮って、蛍光灯の無機質な光で部屋は照らされている。靴と共にコツコツといい音を響かせる床は、乳白色で光沢すら放っており、そこに立つ机も真っ白だ。デザイン性を感じない無機質さは、大学か何かの研究室の模範と言えるかもしれない。部屋の中央にはベッドが一台あり、それを周りの計器や装置のシーク音が包む。同心円状に机が並び、部屋の残りの部分を埋め尽くしていて、机の上にはいくつものディスプレイが並んでいる。

 ベッドには少女が横たわっている。かたく目を閉ざしているが、呼吸のために胸が薄く上下していることで、生きていることが分かる。少女の額にはいくつも電極がついていて、そこから何本ものコードが周りの装置に延びている。そこからまたコードが延び、その先のディスプレイに表示されたデータを、二人の白衣を着た研究者が覗き込んでいる。一人は髪の薄い中年の男性、一人はまだ若い眼鏡をした男性だ。

 しばらくの間、二人はじっと画面を覗き込んでいたが、思っていたデータが取れなかったか、はたまた、長時間の作業の疲れか、若い方の研究者が画面から目を離しあくびと伸びをした。間の抜けた声を発してぐっと腕を伸ばす。

 ……小さな密室の中の音は、閉じ込められないで、扉の外に中の様子を完璧に伝えた。それがゆえに、次の瞬間、この真っ白な密室は出血する。

 豪快な音と共に、この部屋の一つしかない扉が、研究者の頭めがけて吹っ飛んだ。かばう間も無く脳天を打たれた若い研究者は、頭をおさえながらその場に崩れ落ちた。中年の研究者は咄嗟の出来事に驚きおののきつつ、唯一の出口へさっと体を向ける。そして、震える手で護身用の拳銃を取り出した。銃口の先には、男が一人立っている。

 男は、真っ赤な、それこそ鮮血のような色のロングコートに身を包み、肩ほどまで延びた髪の毛と目も同じ赤をしている。肌は真っ白で、質感は人の肌というより陶器ように見える。両耳をすっぽりと覆うヘッドホンと、左手に携えた打刀が、異様な容姿にさらに磨きをかけていた。

「何だ、お前は」

研究者は震える口で、ようやくというぐあいに言葉を発した。

「ここの研究者のくせして、何だ、とは笑い種だぜ」

赤いコートの男、名をアブルリイというそいつは薄く笑いながら言う。相手を撥ね付けるような凛とした声だ。俺はそいつの背中に隠れつつ、冷ややかに状況を見ていた。

「も、もしかしてお前」

今度は男がため息を吐いた。震えでピストルを落とし、後ずさる研究者に対して、アブルリイは飛び掛った。二つ三つと並ぶ長机を一跳びに跳び越すと、着地するかわりに研究者を踏み倒した。ぎゃっと喚きそうになった口を、抜刀もしていない刀で貫き封じる。

「悪いな。今日はさっさと殺れと言われたからな」

抜刀する時間も勿体無かったんだよ。そうつぶやきながら、アブルリイは研究者の額に左足を乗せる。そして、さっと足をあげたかと思うと、勢いをつけて足を落とし、その頭蓋骨を、脳味噌を、砕ききってしまった。

 俺はアブルリイの背中を苦々しく見つめる。その残虐さに吐き気を催す。

―そう苛々するなよ。

 アブルリイは俺を振り返ってにやりと歯を見せたが、すぐに物憂げな表情に切り替えてため息を吐いた。

 俺が歩き出すと同時に、アブルリイはその手の届く範囲にある計器やコンピュータを、手当たりしだいに下に落とし始めた。そうやって足元の死体二つを隠すと、俺のすぐ隣に立った。アブルリイはふらっと倒れるような具合に俺に触れ、そのまま、俺の中に吸い込まれるように姿を消した。

 そして部屋には二人だけになった。部屋の真ん中には女の子が眠っている。俺はベッドに近づくと、繊細な手つきで少女の額に張り付く電極をとり外した。改めて見た少女は、美しかった。長いまつげ、切れ長の目、通った鼻筋。表情を持たない顔は少し冷たい印象を俺に与えた。どこかの学校の制服らしい紺色のブレザーを着ているのが、少し気にかかった。

―見とれるのは後にしろ。

 愉快そうなアブルリイの声が頭の中に響く。意図せず顔が火照るのを感じ、眉ねを寄せ感情に抵抗する。そうしながら、すやすやと眠る目の前の少女の肩を揺さぶった。すぐに、居心地の悪そうに顔をしかめ、少女は目を開けた。

 ぼーっと天井を見上げ、パチパチと二度三度まばたきをしてから、ようやく俺に気付いた。目の焦点を俺に固定して、じっと見つめてくる。

「……夢?」

「何がだ。ここは現実だ」

華奢な細っこい手で、自分の顔をぺたぺた触りつねったりしながら、少女は言った。

「みたいだね。じゃあ、ここはどこ?」

「情研部の本部だ」

「何それ?」

少女の瞳は訝しげだが、それと同じくらい心の中にわだかまるものを俺は感じた。

「知らないのか?」

「うん」

―妙だな。

俺と同じ感想をアブルリイは抱いていた。

「端的に言えば怪しげな研究施設だよ」

「ふーん。君は?」

誘義丞一(いざなぎじょういち)。何でも屋だ。依頼を受けて、お前を助けに来た」

「何でも屋?胡散臭いね。助けにって?」

よく分からない、というように少女は首を捻った。眠っていて何が起きたか分かっていない、ということか。

「連れ去られたんじゃないか?理由も何が起きたのかも知らないが、家族をなのる男から依頼されたんだ」

彼女は体を起こしながら、眉をよせ、ふむむと唸った。綺麗なその顔に皺を作り、何か考え込んでいるように見える。

「説明は後でする。とにかく今はここを抜け出す。立てるか?」

彼女は俺のほうをもう一度見た。瞳を覗き込まれて、少し気恥ずかしく感じた自分に悪態をつきたくなった。

「うん、大丈夫」

 ベッドから飛び降りると、彼女のはいているローファーと床はたんと軽快な音をたたいた。

「行こうか」

アブルリイ。索敵と道案内を頼む。

―やっぱり、また召喚するくせに還すなよ。二度手間じゃないか。

 悪態をつきながらも、合図を受けてそいつは姿を現す。世界を漂う光の、そのなかでも赤い粒子が俺の隣に集まる。強い発光になるとそれらは、ただの光の塊から、人の輪郭をとり始めた。赤い髪と瞳、コート、陶器のような肌、憎たらしい長身のアブルリイは己の質量が無から有になると、少女にむかってにやりと笑いかけた。対して少女は目を丸くして、大げさに驚いていた。

「俺のダブルだ。そんなに驚かなくてもいいだろ」

「ダブル?」

またしても疑問形。どういうことだ。

「知らないわけはないだろ」

「知らない」

 大きなため息を吐いていた。もともと少ない幸せが、またいくらか逃げていったような気がした。からかわれているのかどうかの判断もしかねて、もう一つ小さいため息が零れ落ちた。

「歩きながら説明する」

 アブルリイを見ると「さっさと行くぞ」とにやり笑いのまま怒られた。アブルリイがヘッドホンをし、歩き始めたのをみて、俺と少女はついていく。

 ダブルは、端的に言えば超能力者のことだ。自分の心の中に、自分ではないもう一人の人格を持っていて、その人格を人智を超えた力を持つ者として心の中から召喚できる人間のことを指す。召喚されたそいつとは、心のどこかで繋がっているらしく、テレパシーのように交信することができる。ダブルという言葉は、召喚された人格のことを指すこともあれば、召喚する方を指すこともある。

 情報開発研究部、通称、情研部は、そのダブルを含む超常現象を研究しているらしい機関だ。内情を知っている人間はほとんどいない。少なくとも俺の知り合いにはゼロで、だから、本当は何を研究しているのか分からない。

 少女はここまでの説明を黙って聞いていた。どこまでも無機的を追求したようなメタリックな装いで、大の大人が三人横に並べばいっぱいいっぱいというような狭い通路には俺の声だけが響いていた。

「夢みたいな話だね」

しばらく間を置いて、彼女は、神妙な顔でそんな感想をこぼした。

「夢じゃない。現実で、常識だ」

「そうかなあ。でも、そうなんだろうね……」

少女の顔は、なぜだろう、寂しそうに曇って見えた。

「ところで、お前、名前は?」

「……カナエ」

「苗字は?」

同年代の女子を下の名前で呼ぶのには抵抗がある。

「知らない」

は。と素っ頓狂な声が通路に薄く響いた。

「知らないものは知らないよ。記憶喪失みたいだし」

 ごめんねと、けろけろっと少女カナエは笑ってみせた。何といっていいのか分からなかった。嘘か本当か、まだ信じる気持ちは未熟だが、そんなことを笑って言われては言葉を失ってしまう。俺とは違って、カナエを全く気にかけないらしく、アブルリイが口を挟んだ。

「前方に人間が四つ。迂回できる道はない。突破するか?」

「本当にそれしか道は無いのか」

「無い。やってくる」

 アブルリイは走り出した。赤い閃光のように、人にはありえない加速の中を駆ける。ため息を吐き捨て、嫌悪感を募らせながら、それを走って追いかける。横にはカナエがいる。見せるべきものではないが、放置するのは危険が多すぎるというものだ。

「嫌そうだね」

「あれは殺人衝動の塊だ。突破するんじゃなくて、殺すなんだ」

 アブルリイは牙をむく。白衣の研究者が三人と、白いワンピースを着た華奢な少女が一人。エレベーター前の踊り場で談笑しているように見える。彼らは赤が迫ってくるのを見たが、その速さゆえ、脅威を認識することができなかった。アブルリイは、驚きを越してあきれかえる一人に飛び掛ると、右手でその頭をわしづかみにした。走ってきた勢いを手に持った研究者を壁にぶつけて潰すことで殺すと、残る三人ににやけ面を見せつけた。

 残る三人はたちまち震えに襲われる。一人が逃げ、一人が拳銃を構え、少女は壁に背を打ちつけ、崩れ落ちた。逃げた一人には死体を投げつけ、その足を封じた。一人は懸命に発砲するが、死神に銃弾は当たらなかった。弾痕を壁に二つつけたところで、二つ目の死体となっていた。重い死体の下から必死に這いずり逃げようとする三人目の獲物を、アブルリイは足で踏み、押さえつける。肺から空気が押し出され、痛みと恐怖と共に呻きとなって口から垂れ流れた。初めてアブルリイは抜刀すると、その首を刈り取った。

 あと一人。赤いコートはいくら血を浴びても、その色を変えることは無い。震えて泣いて、顔も何もかもぐちゃぐちゃになった少女に、刀の切っ先を向けると、一際大きな悲鳴があがる。その様子を目の前で見て聞いて、アブルリイは一層興奮する。感覚は目の前の光景と、声のためだけに澄まされる。刀を振り上げて、言う。

「よかったな、今日はひとおもいにやってやる日だ」

 神速で振り下ろされた刀は、しかし、少女に届くことはなかった。

「殺す必要はない」

 アブルリイの利き腕と刀は、俺の中に吸収される。ダブルは、本体に触れることで、心の中に「戻る」ようになっている。殺害衝動に狂ったアブルリイは、俺の近づく気配にも、腕をつかまれたことにも気付くことはなく、それゆえに俺はアブルリイに触れることが出来た。

「応援を呼ばれたりしたら」

「そんなことが出来るようには見えないな。さあ、さっさと案内を」

 台風の後は快晴が来るように、血走っていたアブルリイの目は何事も無かったように元に戻っていた。殺意は失せた。それでも、つまらないという抗議が繋がった心の中へ流れ込んでくる。

 少女は泣いている。目は恐怖の漆黒で一色に染まっていた。アブルリイを押しのけ、先に行かせた。声の掛けようがなくて、通路の中ほどで固まっているカナエに駆け寄った。

「グロいっす」

カナエは青ざめた顔でつぶやいた

「見なくていい」

「うん、そうさせてもらうよ」

カナエは目を瞑り、その上をさらに左手でおおうと、あまった右手を俺の肩の上に乗せた。ぎゅっとその手に力がこめられる。

「死体とか、そういうのに近づかないようにお願いします」

「分かった」


 アブルリイのヘッドホンには、ヘッドホンとしての機能はない。周りの音を集め増幅し、あるいは取捨選択し、アブルリイの脳に伝える機能を持つ。いわゆる超能力の一種で、周りを把握するためのレーダーになっている。このレーダーのおかげで、アブルリイは初めて行った場所でも道に迷うことはない。俺とカナエの抗議を食らったアブルリイは、しぶしぶ、という感じで人に会わないことを第一に脱出ルートを選択した。その結果、すんなりと、唯一の出口がある屋上にたどり着くことが出来た。

 風のない屋上から、地上を見ると豆粒より大きい程度の人が見える。確かこのビルは地上二十階までの高さがあったか。柵から身を乗り出して、ちょっとクラッとしそうになる浮遊感を楽しんでいると、隣のカナエが口を開いた。

「なんで屋上?あ、お仲間がヘリで迎えに来るとか」

「お仲間なんていない。ここから飛び降りる」

え。とカナエは口を開けて固まった。

「なんてことをすると、着地のときに目立つからしない」

「あ、気にするとこ、そこなんだ」

心底ほっとしたような溜息が聞えた。

「じゃあ、どうするの?」

「隣のビルに飛び移る」

「それも結構目立つよね」

「誰だかわからないから大丈夫だろ」

「はぁ、素っ頓狂だわ。飛び降りるのとあんまかわんないし」

カナエの横顔はアンニュイな雰囲気を漂わせる。

「仕方ないだろ。唯一、一般人が出入りできるのがここなんだよ。つべこべ言わずに、さっさと行くぞ」

 カナエの方を向くと、やっと、本気らしいと察したらしく両手を突き出して、および腰になった。

「いいやいやいやいや、もっと平和的に脱出しようよ」

 カナエは懸命にも俺たちを諭そうと試みたが、アブルリイは容赦しなかった。カナエの逃走を、一跳びで回り込み、足払いをして崩れ落ちるその体をぐっと抱え込んだ。意を決して、目を瞑り大人しくなったカナエを右に、何度目かのフライトに、もう慣れてしまった俺を左に抱えて、アブルリイは助走をつける。心なしか俺の持ち方が荒い。

 アブルリイが地を蹴ったその瞬間から、景色は一気に開放的になる。青空の中、風を切っ裂いて飛ぶ。鳥よりも速く。頬を打つ風はちょっと痛いくらいだが、それも、気にならない。一瞬の大ジャンプ。景色なんてみているほどの時間は無いはずだが、下をみていい眺めだと思った。しばらくして、ビルの屋上がちらと視界に入った。次の瞬間、鈍い衝撃と屋上の面をすり減らす音とで、五感のほとんどが塞がる。うぎゃっと悲鳴が聞こえたような気もする。しばらく尻すぼみに消えていく音を聞いて、体の動的な感覚が去るのを待った。

「成功」

 アブルリイは満足げに言って俺とカナエを手放した。抱えられた姿勢のままどさっと落下した。俺は顔を両腕で守ったが、対策をとれず、鼻を打ったらしいカナエが正当なる抗議をする。

「何すんのよ」

「さて、もう一本飛ぶか?」

「の、のーせんきゅー」

「遠慮するな」

 持ち前の加虐癖で執拗に迫るアブルリイ。それから脱兎のように逃げて、俺の背に隠れたカナエが聞いた。

「それで、次はどうするの?」

明東(みょうどう)市、電車で四つくらい駅を行ったところだ。そこに来いって言われてる」

「アブルリイさんに走ってもらうの?」

「いや、素直に電車に乗ればいいだろ」

「まじっすか」

 驚かれた。警戒心が無いとか言いたいのかもしれないが、さっき平和的にと言ったのはカナエだ。

 カナエの服装はちょっとした偽装効果を表していた。理由は簡単で、この時間帯は部活に恵まれなかった学生の下校時間であることだ。制服は学校ごとによって特徴があるが、制服を着る当人たち、あるいはそういう趣味の人間でなければいちいち気にしないだろう。

 アブルリイを心に還しビルを出ると、隣のカナエが小さくわっと声を上げた。小一時間、異様な空間をさ迷い歩いていた俺も、その感嘆に同調する。地上にしっかりと足をつけてあらためて見上げるとそびえ立つビルの森は圧巻だった。そのうちの一つのビルに取り付けられた、巨大スリーディスクリーンの中では、今話題のアイドル、霧雨(きりさめ)チヅが歌っている。このスクリーン、以前は飛び出すタイプのものだったのだが、映像が空中車道を走る車の邪魔になって、奥行きタイプに取り替えられたという珍事があった。

 ひとしきり町を眺めて、情研部で失った現実感を取り戻すと、隣のカナエを促した。

「行こうか」

 人の波に乗って駅まで歩く道中、カナエは町を物珍しいというように見ていた。時にその瞳に巨大な好奇を輝かせる瞬間もあった。歩いているとき、何かを俺に尋ねるとかいうことはなく、俺が何も話さないのもあってしばらく無言だった。それらの好奇は、駅についたときにやっと言葉となって出てきた。

「なんか近未来的だね」

「何が?」

「んーと、町が」

カナエは、言葉を選んでいるように見える。

「町?どのあたりが?」

「ビルすっごい高いし、車道とか宙に浮いてるし」

ふーむとカナエは唸る。頭の中の無くなった記憶を探すようにして。

「なんか違和感というかなんというかがあるんだよ」

その言葉に、俺も違和感を感じた。

「この町は少なくとも俺が生まれたときからこうだったよ。そもそも記憶が無いのに違和感があるのか?」

カナエはかすかに笑った。

「記憶がなくても知識はあるみたい。てんで、あてにならないみたいだけどね」

 さぁ、行こうよ。とカナエに背を押されて歩き始める。二人分の切符を買って電車に乗る。同じ箱に乗ったまちまちな人ごみと共に、この電車に運ばれた先で、依頼は果たされる。このまま行けば、前金として払われた二千万を含め合計一億の報酬を手に入れることになる。この記憶が無い以外に特異性の見当たらない少女の、どこにそれだけの価値があるのか。疑問は尽きないが、家に帰ったらすぐに忘れてしまうんだろうな。俺は、依頼を達成する以外に脳の無い、ほとんど機械のようなものだから。

 つり革につかまって漫然と外を見ていると、景色は矢のようにとんでいく。最近知った話だが、この矢のような速度とその上で事故を起こさないという技術は情研部が開発したものらしい。

 不意に、隣のカナエが沈黙を破った。

「ねえ、私の家族なんだよね。依頼人って」

「そう聞いてる」

「私、たぶん誰だか分からないよ。失礼だよねそれって」

 のんきな心配だなと思った。三つ目の駅がもうすぐ近いことを知らせるアナウンスが聞えた。ここまでくると人の数は多くない。いつのまにか、人ごみから、個々の数を認識できる程度に密度が小さくなっていた。

「家族かどうか、分からないけどな」

「……嫌だな、それ」

言葉に影が差す。しばらくの沈黙をはさんでカナエが言った。

「これ以上複雑になったら、流石についていけないよ」

影は思い違いだったか、はーっというわざとらしいため息が聞こえた。

「人間は思ったよりも適応力があるらしい」

「家族じゃないの確定なの?」

「お前を助けるのに一億だ。怪しい何でも屋にぽんと渡せる金額じゃあないだろ」

隣に目を向けるが、カナエの顔は見えない。

「本当に嫌になってきた。一緒に来てよ」

「残念だが、お前を引き渡したら、俺の仕事は終わりだよ」

「そっかー、仕方ないな。もうすぐ」

カナエの言葉と重なるように明東市の駅の名が告げられる。さよならだねと、聞き取れた。

 明東市は都市部から少し離れた県境の町だ。田舎から都会への玄関口といえる町で、もし家族総出で逃げる気なら、逃走の出発点としてはいいかもしれない。高層ビルの低さ、地面を走る車道が都会から離れたことを明示する。特徴の少ない町に人は少ない。人の密集するところが苦手な俺は、背中の羽がぐんと伸びたような錯覚すら受けた。

―引き渡して終わりで本当にいいのか。

 頭の中に声が響いた。アブルリイの声は俺によく似ている。それがたまらなく嫌だ。俺はアブルリイに当たり前だと返事をする。そういうと、もうアブルリイは何も言わなかった。

「ところで、その自称私の家族さんは、この町のどこにいるの?」

「俺も知らない。お前を確認できたら連絡をすると言っていた」

依頼してその当日に行かせたことなども含めて、報酬のわりに随分とずぼらで計画性のない依頼だ。

「すばらしくてきとーだね」 

 適当と言いつつも、カナエはうれしそうだった。本当に嫌なのか。しかし、どんなに嫌でも、どんなに穴だらけな依頼でも終わるときは終わる。携帯が鳴り、事前に登録しておいた名前が表示される。名前の欄には依頼人とあった。

「おつかれさま。まさか、本当にやってくれるとは思って無かったよ」

 電話の向こう側から、男の野太い、心底うれしそうな声が届いた。

「妙なことを言いますね。それより場所は?」

「冷たいなあ君は。君はその偉業を誇って喜んで飛び上がるべきなんだ。分かってるかい?」

「分かりません」

破格の仕事だということ以外は。

「まあいいか。報酬だったな。とりあえず――」

 簡単な道案内を聞き、人気の無い路地裏の突き当たり、袋小路、町の地図を頭の中で思い描くと、そんな場所に行き当たった。巨額の金の引渡しはこっそりと行うのが定石か。銀行口座に振り込んでくれたほうが楽なのに、依頼人は現金で払うといってきかなかった。

「目印は、銀色のいかにもなアタッシュケースだ」

「分かりました」

 ぷつと唐突に電話を切られた。かけてくるときも唐突だったな。何もかも唐突だった仕事の終わりを実感しながら携帯を閉じた。

「行こうか」

 振り向くいて目があうと、カナエは口元に笑みを作って言った。

「君と別れるのが辛いよ」

「本気じゃないだろ」

思わず苦笑いを浮かべる。

 二人、肩を並べて歩く。夕日を背負っていたら、別れの光景らしくなったかもしれないが、太陽はまだ降下し始めてまもない。首を後ろに引くと、誰かが鼻歌でも歌っていそうな晴れやかな青空が広がっていた。車道をまばらな台数、車が流れていく。歩道をまばらな数、人が流れていく。どちらも前か後ろか、一直線上の決まった歩み。直線の端っこまでついたなら、別の方向の直線にのって、また前後方向にだけ歩いていく。どこまで行っても誰かが舗装した道だ。

 沈黙は辛いものではなかった。誰かと一緒にいて、何も話さないことには慣れている。むしろ何か話すことにはあまり慣れていない。コンクリートの家を、木造の家を通り越し、壁と壁の殆ど道じゃないような隙間を抜ける。ふと、カナエの手と俺の手が触れる。一瞬小さな力で摘まれたが、すぐに手は引っ込んだ。後ろを振り返っても、何もなかったような顔でカナエは首を傾げるだけだった。カナエには伝えたいことがあるのかもしれない。俺には、何も無いのか。

 しばらくして目的の場所が近づいてきた。閑静な住宅街の家屋の裏、静かなそこでは、少々いわくありげな取引が行われる。行われるはずだったのだが。コンクリート塀に無造作に立てかけられた、銀色のいかにもそれらしいアタッシュケース。人の姿は無い。

「あれ?」

 カナエは俺の後ろから通りを覗き込み、その顔から深刻さを失って途方にくれていた。

 アタッシュケースの特徴は言われたそれと当てはまる。道を間違えて、似ているだけの別物を見つけただけかもしれないが、それはなかなかの偶然だろう。大金を無造作に捨て置くのは流石に考えにくいから、もし、これが本当に依頼人が置いていったものだとすれば、報酬よりも別の目的があるかもしれない。

 怪しげな研究室で、おそらく実験体にされていた少女。大切な験体だ。それを連れ出して、何をするのか。アタッシュケースのそばになぜ依頼人がいないのか。

「まさか、爆弾だなんていう落ちか?」

それもどうかと思うが、可能性を潰すくらいはしておこう。

―俺の出番か。

 すっと、俺の目の前に現れ出たアブルリイは首にかけたヘッドホンを手に取る。目を閉じ周りの音を吟味してケースをスキャンする。と、アブルリイが鼻を鳴らした。

「あのケースからは妙な音はしない。とりあえず後で開けてみる」

言葉の後半が嫌な予感で脳を満たす。

「後で?」

「今すぐ開けてよ」

 アブルリイはにやりと、眉をひそめるカナエに笑いかけた。

「つけられていた。おそらく、電車にのったあたりからずっとだ。出てこいよ。隠れていたって無駄だ」

 アブルリイは不敵に口元を吊り上げて、カナエの背後数メートルのところにある電信柱の影に向かって声を荒らげた。戦いが始まることを見越して、俺はアブルリイの背後に回る。

「本体はまるっきり無能なのに、有能なダブルね」

 皮肉と共に現れたのは女性だった。すらりとした背格好、モデルでもやっていそうなスタイルのよさがまず目に付いた。典型的なOL風のダークスーツに身を包んでいて、長い髪を後ろでまとめている。肌の色が、アブルリイに負けないくらいに白い、いやむしろ青い。それらの特徴から、貧弱な最近の新入社員、なんて言葉が浮かんだ。

「ここまで尾行したお前だって無能だ」

「私が?」

 女はせせら笑う。自分の方が優れていると思い込んでいる笑いだ。

「俺がダブルを召喚する前に、事を起こしていればよかったものを」

「そうかしら。あんたが、そいつをどこに連れて行くのか、見極めるのは当然でしょ」

 俺の背後、アブルリイの向こう、アタッシュケースが立てかけられてある家の屋根を特異な姿が這う。敵のダブルだ。手に拳銃を持って、俺を無理なく狙撃できる位置を探っている。アブルリイのレーダーは、耳にヘッドホンを当てているあいだは、常に起動している。

「一番の目的はカナエを取り返すことだろ。相手を制圧できる力も無いのに、欲張るもんじゃない」

 アブルリイ。あの女は武器を?

―持ってる。拳銃だな。だが、おそらく撃てないだろう。あの女の緊張が聞こえてくる。ダブルのほうは、やれるだろうな。

 そうか。

「自信過剰な餓鬼だな」

「仕事熱心なだけだ。馬鹿女」

 俺の罵倒を、俺とアブルリイの合図とした。背中合わせの姿勢から、半回転する。アブルリイが抜刀し、刀を俺に渡す。渡された刀を握りしめ、カナエのもとへと駆け寄った。銃声があたりに響き渡る。おそらくそれはダブルが走る俺の背中を狙ったものだ。アブルリイがその弾丸を人外の動体視力で捻り潰す。俺の目線の先で、女はスーツのポケットから拳銃を取り出す。構えるその前に、俺は刀をカナエの首元に突きつけた。

「動くな」

 咄嗟の出来事に、女とそのダブル、そしてカナエも動けない。ワンテンポずれて女が構えた拳銃、そこから一直線に伸びる射撃線からカナエを盾にして逃れる。

「銃を捨てろ。お前も、後ろのダブルも」

「な、何するの?」

カナエの声は少し震えていた。

「お前は人質だ。お前が死んで損するのはあいつらだ」

 しばらく俺と女はにらみ合っていたが、観念したのか、構えていた拳銃を捨てた。「蹴ってこっちによこせ」女は言われたとおりにするしかない。同様に後ろからもガシャンと金属質の音が響いた。ひとまず無力化できた。後はどうするか。

 アブルリイ、ダブルを還させよう。

―面倒だ。始末する。

 急いで振り返ると、もう遅かった。アブルリイは、屋根から顔を出していた敵に向かって一足で飛び掛ると、その首を掴み引きずり落とした。そして、巨大なベクトルを敵の脳天へ叩きつける。見えたのは、ダブルの首がはじけ飛ぶ、その瞬間だった。

 ダブル人格の最後は、いつ見ても空虚だ。そのダブルの本体が死の海へ沈み込み、それにつられてその姿を消滅させる。あるいは今のように、光の粒子となってはじけ飛ぶ。どちらも亡骸を残せない。

 女のほうは殺すな。絶対だ。

―はいはい。

 女は膝から崩れ落ちた。青白い顔から、さらに血の気が失せているのが見て取れる。あっけなく追手は敗北した。俺は刀を下ろし、カナエを解放すると、アブルリイに刀を投げてよこした。アブルリイはそれを受け取り、足元に転がるアタッシュケースを軽々しく開けた。そしてにやりと笑って見せた。

「どうやら、本当にこれが報酬らしいぜ」

 アブルリイは、アタッシュケースを閉めなおし、得意の一足跳びで女のもとに寄ると、顎を蹴り飛ばし気絶させた。俺に背を向けたままのカナエが、それを見てあっと小さく声を上げた。その声も意に介さずアブルリイは嬉しそうなにやにやで、カナエと、口が重くなった俺に向けて、アタッシュケースを開けて見せた。中には、膨大な量の札束と、そして封筒が一枚入っていた。封筒に手を伸ばし、中身を取り出す。三つ折にされたコピー用紙が一枚出てきて、そこにはメモ書きのような一文が印刷されていた。

『情研部に引き渡す以外であれば、救出した少女をどう扱ってもかまわない』

「なんだ、これは」

自分の顔が渋くなるのが見なくても分かった。横から覗き込んだカナエの顔も、目の前のアブルリイもおそらく同じような顔になっているだろう。

「私、どうなるの?自称家族さんは?」

 混乱が場を支配する。肺の奥からたまった二酸化炭素を吐き出すようにため息をつくと、少し混乱が遠のいた。

「依頼人はここに来ない。お前を引き取らない。ということだ」

「状況の整理なら、ここにいるのはやばい、っていうのも付け足せ」

すっかり笑みの消えたアブルリイが言った。

「あの女が通信機を持っていないというのは考えにくい。すぐに次がくるはずだ」

 カナエを見ると、目が合ってしまった。今までは見えることのなかった不安が確かにそこに浮かんでいる。

「選択肢は二つ。カナエを置いていくか、連れて行くかだ。お勧めは前者だが、どうする丞一」

カナエの瞳が、一気に揺らいだ。

「どういうこと?情研部に引き渡さないって、手紙に」

「捨て置くなとは書かれていなかった」

 アブルリイが反論の芽を摘んだ。そして、俺はアブルリイに全面的に同意する。今の女は確かに弱かったが、ダブル研究の情研部を敵に回すことは強力なダブルを相手することにつながるかもしれない。そうでなくても、何らかの陰謀にその中心として巻き込まれるのは嫌だ。

「カナエ。すまないが」

「ちょっと待ってよ!」

 悲痛な声だった。口が塞がる。

「私はどうすればいいの?誰に頼ればいいの?」

「人に頼るもんじゃないよ」

頼れば裏切られるから、今みたいに。冷めた心の中でそう、つぶやいた。だが、

「頼るしかない!私は、君たちに頼るしかないの。だって、君たち二人のことしか知らないから。自分のことも知らないから、自分にだって頼れない!」

彼女には記憶が無い。自分はそこにいるが、それが頼るべきアイデンティティは存在しない。

「お願いだから見捨てないで。私に関わることが、どれだけ危険なのかは分かってるよ。追手を仕向けられるくらいだもんね。だけど、だからといって、諦められないよ」

 カナエは涙を流さない。その目にたまってしまった滴を決して零そうとはしない。ここでカナエを助けるのは馬鹿馬鹿しいことで、何ら俺にとっての利益はない。まだ会ってから一時間経つか経たないか、そんなところで、助けるべき友人というわけでもない。反論はいくらでも思いついた。そのどれもが事実で、心を覆すのに足りる力を持っているように見えた。しかし、一度動かされたものは二度と元に戻ることは無かった。

「分かったよ。一緒に行こう」

 何のためらいもなく、言った。渦巻く後悔の風が届かない地に、しっかりと足がついている感じがする。

 カナエの瞳を覆う雲が綺麗に晴れゆく一瞬が鮮明に見て取れた。互いの目と目が心を覗き、心を繋ぐと、俺の心も雲なしの青空に染め上げられるような心地なった。

「本当に?」

「本当だ」

太陽のような笑顔が弾むカナエの隣で、アブルリイは複雑な顔で俺を見ていた。

「本気か?」

「本気だ」

―意志の無いやつだ。頑なに撥ね付けたと思ったら、泣き落としなんかされやがって。

どうとでも言え。殺人機風情が。

「しかし、そうなるとさっさと逃げなければ。大勢で畳み掛けられたりしたらまずい」

選択権を持たぬアブルリイが言った。後ろを向いてこそこそと涙を拭いながら、カナエが訊いた。

「大勢?」

「そこで伸びてる奴が通信機や発信機の類いを持ってないとは考えられないだろ」

説明不足なアブルリイの言葉を俺が補足する。

「なるほど。居場所がばれてる可能性があるのか」

 さあ、この瞬間から逃亡生活が始まる。過酷か、そうでないか、今は分からない道だが、そこに差す影は小さなものではないだろう。俺たちの行きつく先はどこなのか。家にも帰れなくなった。もともと帰りたい場所では無かったが。

―覚悟はできているな。

 分からない。でも、それ以外の選択を、俺は持ち得なかったんだ。

「行こうか」

俺たちは走り出す。ひとまず、人の海にとびこみ身を隠すことだ。それからどうするか、ひとまずの目的地は、一つだけ思い浮かんだ。そこに行けば、ただ逃げるだけから脱却して、反撃のチャンスを得られるはずだ。

「ねえ」

 不意に、ぎゅっと、カナエが俺の左の手を握る。触れた手から伝わる、その微かな温度の変化は心臓にまで達して、それから全身を駆け巡った。

「何だ」

俺の声は、乾いていた。

「ありがとうね」

 ひたすらに穏やかな、音楽のような、単純じゃない心から出た単純な気持ちを表した、一言。するりと指の間を抜けた、細っこい手の感触が忘れられない。後ろを向くことも、言葉を返すこともできない。一瞬もつれそうになった足を、カナエにだけは悟られないように気をつかうことが、精一杯だった。

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