【完結】目の見えない妹に光を与えるため、俺は感情を売った。~満開の桜の木の下で、君が最初に見たのは…。
灰色の空の下、狭いアトリエには絵の具の匂いと、静かな息遣いだけが満ちていた。
「お兄ちゃん、今日はどんな色?」
窓辺に腰掛けた少女、ミナが小さく首を傾げる。見えない瞳は空っぽのはずなのに、その表情にはいつも柔らかな光が宿っていた。
「今日は、春の光の色だよ。暖かくて、少しだけ甘い匂いがする」
兄のルカは、擦り切れた筆を握り直し、キャンバスに向かった。ルカの描く絵には不思議な力がある。彼が絵を描き、ミナの手を取って語りかけるとき、ミナの頭の中には兄の描いた世界が完璧な色彩となって広がるのだ。ミナにとって、ルカの絵だけが世界のすべてだった。
しかし、ミナの体は日ごとに蝕まれていた。光を知らぬまま命を散らそうとしている妹を前に、ルカは夜ごと神に祈り、ついには闇の存在――悪魔と対峙した。
「妹に光を与えたいか? ならば代償を貰おう。絵を一枚仕上げるごとに、お前の中の『大切な記憶』と『感情』を一つずつ引き抜く」
ルカは迷わず肯いた。ミナが本当の光を見られるのなら、自分などどうなってもよかった。
それから、ルカの「最後の制作」が始まった。
一枚、また一枚と絵が完成するたび、ルカの中で何かが消えていった。
ミナと食べたパンの味を忘れた。
ミナの生まれた日の喜びを忘れた。
ミナの笑い声がどれほど愛おしかったかを忘れた。
それでもルカは筆を動かし続けた。最後の一枚――ミナの瞳に光を取り戻すための、満開の桜を描いた大作が完成したとき、ルカの心からは「愛」という感情のすべてが削り落とされていた。
「お兄ちゃん……? 目が、見える……。光が、見えるよ!」
ベッドから起き上がったミナの視界に、鮮烈な世界が飛び込んできた。窓から差し込む金色の光、色鮮やかな絵の具、そして――自分をじっと見つめる兄の姿。
「お兄ちゃん!」
ミナは涙を流し、兄へ駆け寄ろうとした。しかし、ルカの眼光に触れた瞬間、足が凍りついた。
そこにいたのは、自分を愛してくれた優しい兄ではなかった。何一つ感情の籠もっていない、氷のように冷たい二つの瞳。
「なにか用か、不審者」
ルカの声には、一切の温もりがなかった。
「お、お兄ちゃん……? 私だよ、ミナだよ……?」
「ミナ? 知らない名だ。さっさと出ていけ。俺は忙しいんだ」
ルカは目も合わさず、妹を冷たく押しのけた。ミナが生まれて初めてその目で見たものは、世界を埋め尽くす美しさなどではなく、自分を完璧な「他人」として拒絶する、最愛の兄の冷酷な眼差しだった。
アトリエの床には、かつて二人が笑い合った日々の記憶が、黒く塗りつぶされたキャンバスのように転がっていた。




