【読切】ホモサピエンスの残高
scene1 虚無坊主
私が勤める銀行の窓口には、最近変わったお客さんが来る。
後方事務のデスクからガラス越しに見えるその人は、いつもふらふらと頼りなく歩く、スキンヘッドのおじさんだ。
何が怖いって、とにかく目が座っている。
焦点が合っているような、合っていないような、虚無を見つめるその目つきに、私は密かに「虚無坊主」と名付けていた。
ある日、あまりに気になってベテラン窓口さんに聞いてみた。
「あの、あそこにいる坊主頭のおじさん……最近よく来ますけど、何しに来てるんですかね?」
ベテランさんは手元を崩さずに、事もなげに言った。
「ん? ああ。……話しに、来てるんじゃないかしら? 誰かと」
「えっ、雑談ですか……?」
銀行を憩いの場にしないでほしい。しかもあの目つきで。
scene2 ここに、殺し屋がいる
数日後、窓口が戦場のように混み合い、後方担当の私も応援としてカウンターに駆り出された。
最悪なことに、私の引き当てた番号札を持って現れたのは、例の「虚無坊主」だった。
間近で見るおじさんは、想像以上に迫力があった。
「い、いらっしゃいませ。本日はどのような……」
私が引きつった笑顔で声をかけると、おじさんはじっと私の目を見つめ、低く掠れた声でこう呟いた。
「……ここに、殺し屋がいる」
「へ?」
おじさんだけが知っている秘密を、こっそり打ち明けてれているみたいな言い方だった。
言い残すや否や、おじさんはふらりと方向転換し、そのまま自動ドアから出て行ってしまった。
背筋に冷たいものが走る。殺し屋!? 銀行に!? 私のこと!?
恐怖で震えながら、隣のベテランさんに小声で助けを求めた。
「せ、先輩! さっきのおじさん、『殺し屋がいる』って……! 警察呼んだ方がよくないですか!?」
するとベテランさんは、お札を数える手をピタリとも止めず、遠い目をして言った。
「ああ、気にしなくていいわよ。あの方、お金がありすぎておかしくなっちゃったのよ」
パワーワードすぎる。お金がありすぎて狂うって、一体どういう人生なんだ。
scene3 光る刃物と、微笑む女支店長
また別の日。ロビーに緊張が走った。
例のおじさんが、またふらふらと入ってきたのだが……その手には、鈍く光る銀色の「何か」が握られていた。
(まさか……刃物のようなもの!? 少なくとも、バールのようなものではなさそう!!)
私が防犯カラーボールに手を伸ばそうとしたその時、奥から我が支店のトップ、百戦錬磨の女支店長が遮光器土偶のような完璧な営業スマイルで進み出てきた。
「あら、小室様。本日はいかがなさいました?」
支店長がおじさんににこやかに話しかけ、何かを優しく諭すと、おじさんは憑き物が落ちたような顔(目は座ったままだが)をして、そのまま大人しく帰っていった。
さすが支店長、修羅場のくぐり方が違う。
その後、支店長が若手の融資担当と何やら深刻そうに話し込んでいるのが聞こえた。
「アパートローンの借り換えの時期なのに、あの状態じゃ困ったわね……」
「そうですね……。一度、ご自宅に行って様子を見てみましょうか」
そうして二人は、戦地へ赴く兵士のような顔で外回りへと出かけて行った。
scene4 狂気のハウスツアー
お昼休み。休憩室のドアが勢いよく開き、戻ってきた若手融資担当が、魂の抜けた顔で入ってきた。
「いやあ、やばいですよ……。マジでやばいです」
お茶を飲みながら、私は興味津々で身を乗り出した。
「何が? 支店長とどこ行ってたの?」
「例の、さっきの坊主頭のおじさんの家ですよ!」
若手が語るその一軒家の実態は、コメディを通り越してホラーだった。
リビングは足の踏み場もないほどぐちゃぐちゃ。
壁紙には黒のマジックで、デカデカと「ホモサピエンス」とだけ書き殴られている。
テレビ液晶画面のど真ん中に、包丁が突き刺さっている。
「意味がわからないんだけど……!」
私が戦慄していると、若手は事の真相を教えてくれた。
「あのおじさん、親がものすごい地主で、不動産を大量に持ってるんですよ。だから働かなくても毎月莫大な家賃収入が入ってくるんです。
今回、親が『我が子のために』って不動産の一部を譲渡して、アパートローンもおじさん名義で一部借りたらしいんですけど……どうしても本人の自署と意思確認が必要で、さっき手続きに行ってきたんです。
親は良かれと思って、我が子にどんどんお金を注ぎ込んでるんですけど……お金を入れれば入れるほど、おじさんはおかしくなっていくらしいんですよね」
scene5 目の奥のきらきら
「ただいま」
休憩室に、少し疲れた顔の女支店長が入ってきた。
私たちは一瞬で背筋を伸ばす。支店長はパイプ椅子に腰掛け、コーヒーを一口すすると、ぽつりと呟いた。
「壁にホモサピエンスは驚いたけれど……。でもね、あの人、とっても純粋そうなのよね。目の奥がね、きらきらしていたの。まるで、小さな子どもみたいに」
「……」
支店長の言葉に、休憩室が静まり返る。
小さな子ども。
その言葉が妙に腑に落ちる。
おじさんの背景の全ては、私にはもちろんわからない。
ただ一つ思ったのは、人はお金だけでは生きられないということだった。
彼はきっと、人生の荒波に揉まれることも、誰かのために汗を流すこともないまま、温室の中で延々と肥料を与えられ続けたのかもしれない。
テレビに包丁を突き刺し、壁に「ホモサピエンス」と刻まざるを得なかったおじさんの、虚無の目。
私は、自分の薄給の給与明細を思い浮かべた。毎月文句を言いながら、理不尽なクレームに耐え、満員電車に揺られる日々。
だけど、それが私を「人間」に繋ぎ止めてくれているのかもしれない。
適度な労働と、自分の人生への適度な責任感。
それこそが、狂わずに、まともにホモサピエンスとして生きていくために、絶対に必要な栄養素なのだ。
私はそっと、デスクに残してきた終わらない伝票の山に、深い感謝を捧げた。




