愛人
間違えて投稿してしまったが、一応最後まで書ききる予定です。小説を書いてまだ日が浅いため、何か感想やアドバイスがあればお願いします。
俺は、この写真の女を、見たことあるような気がする。
いや、正確に言えば、この目で確かに見た――ような気がする、とでも言うべきか。
写真というものは恐ろしい。たった一枚の紙切れのくせに、こちらの時間を、まるごと引きずり戻す力を持っている。
最初は、ただ「似ているな」と思っただけだった。どこかで見たことがあるような気がする――そんな気分で眺めていたのだ。だが、目を凝らすうちに、心の奥に小さな確信が芽生える。いや、これは偶然ではない。確かに、あの彼女の顔だ、と。
それは、俺の青年時代——などと呼ぶには、いささか芝居がかっているかもしれぬ。ほんの数年前の話だ。
セーラー服を着た彼女は、いつも同級生から一歩離れた場所で、自分の世界に浸っていた。
名のある令嬢たちしか通えぬ、男子禁制のお嬢様学校だった。
俺のような凡庸な男には、門構えを見るだけでも息苦しい場所だ。
今とそう変わりないが、当時の世の中は、女というものは家事さえ出来れば充分、などという気楽な暴言を平然と口にしていた。
けれどその学校では、刺繍や音楽、礼儀作法といった、いかにも優雅な実用が学問と呼ばれていた。
つまり、彼女たちは学問の名を借りて、気品の演技をしていたのだ。
彼女も同じように、俺とは違う世界に生きている娘たちの中の一人に過ぎなかった。
彼女との出会いは、実に運命的だったかもしれない。
もっとも、運命などという言葉を、俺のような薄汚れた男が使うのは、いささか厚かましい気もする。
義務教育を終えて早々に働き出した俺には、学生という生き物そのものが、遠い国の住人のように見えていた。
何せ亭主関白がまだ当然とされた時代である。
女は家を守り、男は汗を流す——そんな窮屈な理屈が、まるで聖書のように信じられていた。
だからこそ、高校に通える娘たちは、俺にとって特別な一等国民に見えたのだ。
朝早くに制服を着て通学する娘たちの群れを、工場へ向かう途中で横目に見るたび、俺はなぜか軽い敗北感を覚えた。
あれは同じ人間ではない。
少なくとも、俺のように油と埃の匂いをまとって生きる種族とは違う。
通学路沿いに工場があるせいで、仕事中に絡まれることもあった。
「いい顔してるのに、工場働きだなんて、もったいないね」——そんなことを言って、袖口で口を隠しながら笑う娘たち。
俺は笑って返した。笑う以外に、どうしようもなかった。
ああいう娘たちは、誉め言葉で人を刺すのが上手い。
褒められているのに、なぜか惨めで、服の中にまで埃が入り込んだような気分になる。
怒ろうにも、怒れなかった。
金のある家の令嬢とあらば、こんな小汚い工場など潰すのもたやすいだろう。
俺には、家族がいた。年老いた両親と、まだ小学生だった弟が。
だから俺は、いつもだんまりを決め込む以外、選択肢を持たぬ男だった。
卑怯と言われても仕方ない。だが、生きるとは、つまりそういう卑怯を選ぶことではないか。
彼女もその群れの中の一人だった。
けれど、彼女は決して俺を笑わなかった。
いつも、少し離れた場所で、その光景を見ていた。
まるで、自分もまた巻き込まれただけの、傍観者にすぎぬというように。
思えば、それが彼女との最初の出会いだったのかもしれない。
他の娘たちとは違って、彼女には静けさがあった。
あの、憎らしい笑い声の中で、ひとりだけ何かを考えているような顔をしていた。
その物静かさに、俺は勝手に知性とか気品などという都合のいい幻想を見たのだろう。
けれど、人は誰しも、自分を救ってくれそうな幻を欲しがるものだ。
俺にとって、彼女はその幻の形をしていたのかもしれない。
何度か出会ったことで、その印象が、少しずつ変わっていった。
最初は、ただの幻だった。俺が勝手に見たい形に彼女を当てはめていただけだった。
けれど、数度、朝の通学路で彼女とすれ違ううちに、その幻がほんのわずかに輪郭を持ちはじめた。
彼女は、決して愛想のいい娘ではなかった。
俺が会釈しても、軽く目を伏せるだけで、笑い返してくれることは一度もなかった。
それでも、俺はそのそっけなさに妙な清らかさを感じていた。
あの年頃の娘にありがちな、無邪気な残酷さというものが、彼女にはなかったのだ。
どこか、遠くを見ているような眼をしていた。
下校時にも、彼女はよくこの前を通った。
決まって二、三人の娘たちと連れ立っていた。
仲の良い友達なのかとも思ったが、彼女はその中でほとんど口を開かなかった。
話しかけられても、微笑むだけで応える。
あれは、沈黙というよりも、ある種の無関心のように見えた。
それでも、俺にはその沈黙が妙に美しく思えた。
人の話に軽々しく笑わぬ女というのは、それだけで少し高貴に見えるものだ。
やがて、工場の配送で学校の方へ裁縫道具を届けに行った時、偶然耳にした。
どうやら、彼女は相当身分の高い家の娘らしい。
教師までもが敬語を使うほどだという。
その話を聞いた瞬間、俺はなぜか笑ってしまった。
ああ、やっぱりそうか、と。
俺が勝手に抱いた知性とか気品とかいう幻想は、結局のところ、生まれついた金の匂いに過ぎなかったのだ。
彼女が静かなのは、心が深いからではなく、言葉を発さずとも世界が彼女に頭を下げてくれるからだ。
そう気づいたとき、自分の愚かさが恥ずかしくて、顔が火照った。
だが、不思議なことに、その恥ずかしさの中で、俺はますます彼女を思い出すようになった。
人間とはつくづく厄介な生き物だ。
遠くのものほど美しく見えるし、届かぬほど惹かれてしまう。
あれから、どれほどの月日が過ぎたのか。
いま手にしているこの写真の中で、彼女はあの頃のまま、微笑みもせず、ただ静かに時を止めている。
俺だけが、こうして汚れ、老い、そして語ることを覚えた。
これは——若さという幻想にすがった、ひとりの愚かな男の記録である。
***
俺が身を置いた工場は、町の外れにある小さな町工場というやつであった。
社長を含めても十人に満たぬ。
義務教育を終えるやいなや、家のために働きに出た俺を拾ってくださったのは、この老社長である。恩人と言っていい。もっとも、当人はそんな殊勝な顔などしていなかったが。
工場では、爪切りやハサミといった金属の小物を作っている。
朝の八時になると、機械の唸りが一斉に響きはじめ、昼のサイレンが鳴るまで、それが町の呼吸のように続いた。
油と鉄粉の匂いが、いつしか俺の肌に染みついた。家に帰っても石けんでは落ちない。
けれども、不思議と嫌ではなかった。手を動かしていれば、何も考えずにすむ。それだけで充分だったのだ。
まだ小学生だった弟を高校にやるためにも、俺は働かねばならなかった。
弟は俺とは違って頭がよく、いつも何かを知りたがる子だった。
近ごろは、学歴のある者が日に日に増えている。やがて俺のような中卒者など、珍獣扱いされる日が来るかもしれない。
それでも、弟だけは——あの子だけは——まともな道を歩ませたいと願っていた。
何の取り柄もない俺が、この工場に雇われたのは、まことに僥倖であった。
老社長には頭が上がらない。だが、近頃はどうも経営が思わしくない様子である。
この町の上流階級の連中が、とうとう工業にも手を出しはじめたのだ。
聞けば、町の反対側に、馬鹿でかい新工場を建てるらしい。
「どうせ長くは続かん」と社長は笑っていたが、その笑い声がどこか空しく響いた。
——あれが、すべての始まりだったのかもしれない。
いつも通りに出社して、いつも通りに金属の加工を勤しみ、いつも通りに昼休憩で、いわゆる貧乏飯なるものを口にしていた。
白飯に漬物。それだけだ。
人間、慣れというのは恐ろしいもので、最初のうちは惨めで仕方なかったが、今では舌がそれを受け入れてしまっている。
このまま一生、こうして生きていくのだろうかと、ふと思った。
せっかく雇ってもらったというのに、会社が経営不振とあっては賃金も上がるまい。
いつまで、こんな飯をかき込む日々が続くのか。
そのときだった。
老社長に呼び出されたのだ。
めずらしいこともあるものだと思った。社長は、俺のような下っ端に用がある人ではない。
作業場の隅の事務机で、社長はどこかバツの悪そうな顔をしていた。
いつものように笑ってもらいたかった。だが、その笑みは、どこにもなかった。
「……悪い。今月でやめてもらえんか」
社長は目を合わせずに言った。
「急な話だが、今月の給料はきちんと払っておく。だから安心していい。明日から仕事を探しに行ってええんから、会社に顔を出さなくてもいい」
言葉が、頭の奥でしばらく響いていた。
不思議と、驚きはなかった。ただ、胸のどこかが空洞になったような気がした。
ああ、ついに来たか。そんな思いだった。
社長の声は震えていた。俺を気の毒がっていたのかもしれない。
けれども俺は、逆にそれがつらかった。
人の情けほど、貧しい人間には重いものはない。
俺はただ頭を下げ、機械油の匂いが染みついた手を、無意味にこすり合わせた。
——その日、工場を出た帰り道。
陽はもう傾きかけていて、町の空気がどこかやけに明るく見えた。
まるで、俺ひとりが取り残されたような気がした。
それでも歩き出すしかなかった。
今月は、まだ残り何日かあった。
明日から仕事を探せと言われても、そんな芸当がすぐに出来るはずもない。
とはいえ、ぼんやりしているわけにもいかぬ。
どうせ探すなら、また工場関係だろう。俺にはそれしか出来ない。
それが、老社長の置き土産のようなものだ。
鉄と油の臭いは、もう俺の血の中にまで染み込んでいる。
この町で工場といえば、今あのボンボンが建てている巨大な新工場ぐらいのものだ。
あれのせいで社長が首を回せなくなったのかもしれん。
そう思うと、どうにも腹立たしい。
にもかかわらず、結局はそこにすがるしかないのか。
ああ、情けない。
自分でも驚くほど、心の底からいやだと思った。
いやというのなら、いっそ振り切って、別の仕事でも探してみよう。
何でもいい。汗を流せば、腹はふくれる。
だが、人間というのは不思議なものでな、
そう思えば思うほど、どこか遠くに逃げたい衝動に駆られる。
どこか、人手が欲しいところはないものか。
明日にでも、町の掲示板を覗いてみよう。
貼り紙の一枚ぐらいは、俺を拾ってくれるかもしれん。
——そんな希望じみたことを考えながら、
俺は夕暮れの坂道を、ゆっくりと下っていった。
翌日、町の掲示板を見に行った。
まだ朝の空気が冷たく、通りには人影もまばらだった。
貼り紙は、どれも似たり寄ったりだ。
荷運びだの、現場補助だの、いずれも力仕事ばかり。
この腕一本でどうにかなるような仕事しか、俺には残されていないらしい。
その中に、一枚だけ異質なものがあった。
白い紙に、細い文字でこう書かれていた。
――「女子高における美術授業モデル募集」。
最初は冗談かと思った。
だが、よく見ると、あの見知った校章が印刷されていた。
そう、あの娘たちの通う、あの高等女学校だ。
募集要項を読むと、どうやら二週間ほど、授業で使用するデッサンのモデルを務めるらしい。
給金は、他の仕事の倍近い。面接は必要だが、拘束時間が短く、次の仕事を探すにも都合がいいらしい。
気は乗らない。だが、飯を食うには、そんな贅沢を言っていられない。
とりあえず、検討だけしてみるか――そう思って、貼り紙の住所をメモした。
とはいえ、「モデル」などという仕事、何をどうすればいいのか見当もつかない。
まさか裸にでもなるのか、と一瞬ぞっとして、すぐにそんなわけはないと打ち消した。
それでも不安は残る。
俺は、同級生の田中に頼ることにした。
彼も中学を出てすぐ働き始めたが、家は農家で、俺の家よりはずっと楽をしている。
畑も広いし、何よりも教師をしている兄がいるという。
どうも高校で体育を教えているらしいが、体育なんて俺でも教えられそうなものだ。
ま、ひとまずは相談してみたのだが、田中は麦茶をすすりながら、「引き受けたらええんちゃうか」と、まるで他人事のように言った。
「お嬢様学校となりゃ面接があるのもわかる話だが、別に言ったからって受かるわけでもない。ダメならダメで、また次を探しゃええだけや」
田中はそう言って、畑の方を見た。
まだ午前の日が低く、彼の顔の半分が影に沈んでいた。
俺は、なんとなく腹が立った。
たしかにその通りだ。けれども、彼の言葉には、俺の苦しみがまるで他人の天気のように聞こえる。
「お前はええよ、田中。家があるじゃないか」
思わず口から出た。
田中は笑って、「まあな」とだけ答えた。
それ以上、言い争う気にもなれなかった。
「まあ、なんだ。困ったら手伝いにでも来い」
田中は、照れ隠しのように笑って言った。
「金は多くやれんが、食べもんなら、ちょっとならやれんくもない」
その言葉に、胸の奥が少しだけ軋んだ。
ありがたい――そう思うより先に、悔しさが込み上げた。
情けをかけられるというのは、どうしてこうも、みじめな気分になるのだろう。
「そんなこと言うな。俺はまだ、乞食じゃない」
気づけば、声が少し荒くなっていた。
田中は、黙っていた。
風が稲を渡る音がして、麦茶の氷がカランと鳴った。
やがて彼は、ため息をつきながら言った。
「お前、昔から真面目すぎるんや。もう少し、気楽に構えたらええ」
俺は返事をしなかった。
真面目、という言葉ほど、俺を傷つけるものはない。
努力しても、結局は報われない人間に向けられる、あの安い褒め言葉。
ああ、俺はたぶん、真面目にしか生きられない愚か者なんだ。
それでもその夜、田中の言葉を思い出していた。
食えなくなったら手伝いに来い――その「食えなくなったら」という一言が、胸の奥で鈍く響いた。
まるで、近い未来にそうなることが、当然のように聞こえたからだ。
翌朝、まだ陽の昇りきらぬうちに、俺は例の貼り紙の住所を頼りに歩き出した。
女子高の白い塀が、朝の光を受けてまぶしかった。
門の前に立った瞬間、背筋が自然と伸びた。
そこに足を踏み入れること自体が、俺のような人間には、どこか場違いなことのように思えたのだ。
校門をくぐった途端、胸の奥がざわついた。
敷地の中は、外の町並みとはまるで別世界だった。
白く塗られた二階建ての校舎が朝日を浴びて、淡く光っている。
芝生の庭には季節の花が整然と咲き、手入れの行き届いた小道がまっすぐに伸びていた。
どこを見ても、静かで清潔で、まるでこの町の貧しさを嘲笑うような、上品さがあった。
通りすがりの女生徒たちが、白い襟の制服を揺らして笑っている。
笑い声が高く響き、俺は思わずうつむいた。
その明るさが、まるで自分には一生手の届かぬもののように感じられた。
たどたどしく校内に入り、受付らしい場所を見つける。
古びた木の机の向こうで、年老いた婦人が眼鏡越しに俺を見た。
灰色の髪を後ろで束ね、まるで何十年もこの校舎と一緒に年を取ってきたような人だった。
「……あの、美術の、モデル募集を見て来たんですが」
口に出した途端、自分でもその言葉が妙に場違いに聞こえた。
「はいはい、承っておりますよ」
老婦人は静かにうなずき、書類の束をめくった。
「教頭先生がお話をなさるそうです。こちらへどうぞ」
俺は案内されるままに、長い廊下を歩いた。
廊下の床板は磨き上げられていて、靴の音がいやに響く。
壁には女生徒たちの描いた風景画が整然と並び、そのどれもが眩しいほどに丁寧だった。
俺のような油にまみれた手では、決して触れてはいけない世界だと思った。
やがて、小さな個室の前で足が止まった。
老婦人がノックをし、「失礼いたします、教頭先生。モデル希望の方がいらっしゃいました」と告げた。
中から、「どうぞ」と落ち着いた声が返る。
俺は、喉の奥が少し鳴った。
扉を押し開けて一歩、部屋に足を踏み入れる。
そこには、眼鏡をかけた中年の男が机の向こうに座っていた。
白いシャツの袖をきちんと折り返し、整った字で何かを記している。
その視線がこちらに向けられた瞬間、俺はまるで、異物を見られているような気がした。
「……君が、例の募集を見て来た方かな?」
その声は、穏やかで、そしてどこか遠い世界の人間のようだった。
俺はまだ齢十七。
年だけ見れば、この学校の生徒とさほど変わらない。
けれども、鏡に映る自分の顔は、もう子供ではなかった。
手のひらには油の跡がこびりつき、爪の間は黒く、首筋には日焼けの筋が残っている。
あの清らかな制服の世界に、俺が混じるなど、どう考えても滑稽だ。
だから、この面接も受かるはずがない――そう思っていた。
教頭先生は、机の上の書類を軽く整えると、眼鏡の奥から穏やかな視線をこちらに向けた。
「では、少しお話をうかがいますね」
声の調子は柔らかかったが、部屋の空気はやはり冷たく、どこかのどの奥がひりついた。
「どうして、この募集を見て応募しようと思われたのですか?」
俺はしばらく口を開けずにいた。
「……仕事を、失くしまして」
「そうですか」
先生は、すぐには何も言わなかった。
短い沈黙のあと、「では、経歴のほうを」と、さらりと続けた。
「中学を出てから、町の工場で働いていました」
「工場……どんなお仕事を?」
「金属の加工です。爪切りとか、ハサミとか。この学校にも裁縫道具を下ろしたことがありました」
そう言いながら、俺は自分の手の甲を見た。油と鉄粉で黒ずみ、皺の奥にはこびりついた汚れが、どんなに洗っても落ちない。まるで、貧乏という烙印のようだった。
教頭先生は小さくうなずいたが、そのうなずきの中に、どこか憐れみのような色が混じっているように見えた。俺は、たまらず視線をそらした。
「なるほど。……では、モデルのご経験は?」
「ありません」
「そうですか。まあ、特別な技能が要るわけではありません。じっとしていられれば、それで充分ですから」
先生は穏やかに笑った。
その笑みは、きっと悪意などない。
けれども俺には、まるで「お前など、そこに立っているだけでいい」と言われたように感じられて、ひどく惨めな気分になった。
「二週間の短期とはいえ、授業に参加していただく形になります。時間は午後の三時間ほど。問題ないですか?」
「はい」
言いながら、声が自分のものではないように響いた。
俺は、ここに座っている自分をどこか他人のように眺めていた。
――どうして俺は、こんな場所で面接なんかを受けているのだろう。
たった十六で、もう働くしかなくて、そしていま、女生徒たちの前で「絵になる男」になろうとしている。
それがどれほど滑稽なことか、頭ではよくわかっているのに、どうにも笑えなかった。
教頭先生は、何か書類に記入しながらふと顔を上げた。
「君は、真面目な方のようですね」
ああ、その言葉がいちばん苦手だ――。
胸の奥がきゅうっと縮む。
真面目。つまり、貧乏で、不器用で、運が悪くて、それでも諦めきれない者たちへの、いちばん安っぽい褒め言葉だ。
それでも俺は、ただ小さく頭を下げた。
教頭先生は、しばらく俺の顔を見ていたが、やがて書類を閉じ、静かに言った。
「では、明日の午後、こちらへ。美術の先生に紹介します」
その声音には、不思議な温かさがあった。
同情か、それともほんの気まぐれか。
俺にはどちらなのか分からなかったが、いずれにせよ、受け入れられたのだという事実が、胸の奥で小さな火のように灯った。
校舎を出ると、昼の日射しがやけにまぶしかった。
俺は手をかざして目を細めた。
白い制服の少女たちが、花壇の前で笑っている。
その笑い声が、まるで別の国の言葉のように遠く響いた。
――あんなふうに笑っていた時代が、俺にもあっただろうか。
思い出そうとして、やめた。思い出しても、きっと何もいいことはない。
***
翌日、再び学校を訪ねた。
受付の老婦人は、昨日と寸分違わぬ笑みで俺を迎えた。
「美術室は二階でございます。先生がお待ちです」
まるで昨日から時が止まっていたかのような声音だった。俺の方だけが、一晩で老け込んだ気がする。
廊下を歩くあいだ、胸の奥で小さな音がしていた。
恐らくそれは心臓ではなく、見栄とか羞恥とか、そんな下等な感情が軋む音だった。
白い壁、光の射す窓、磨かれた床――どれもが俺を拒んでいるように見えた。
足音すら、場違いの告白のように響いた。
美術室は校舎のいちばん奥にあった。
扉を開けると、絵具と油の匂いがむっと鼻をつく。
その匂いが、妙に懐かしかった。工場で嗅ぎ慣れた機械油の匂いに似ていたからだ。
ただ、あちらでは汗と埃の混じった労働の匂い、こちらでは芸術の香りと呼ばれている。
同じ油でも、随分と待遇が違うものだ。
「おう、君かね」
声の主は、五十がらみの男であった。
細い髭、眠たげな眼鏡の奥の目、絵具の染みた白衣。
まるで人生の途中で、うっかり絵筆を握ってしまったような顔をしていた。
「教頭から聞いている。まあ、楽な仕事だ。立っているだけだから」
彼は筆を軽く振り、描きかけの石膏像の前に腰を下ろした。
「ただし――裸になってもらう」
「……は?」
自分でも情けないほど、間の抜けた声が出た。
「全部というわけじゃない。下着だけだ。形が見えなければ練習にならん」
男は、当たり前のことのように言った。
俺は言葉を失い、ただ笑うしかなかった。笑うことでしか、立っていられなかった。
パンツ一枚で、女子高の教室に立つ。
そんな人生設計、誰が予想しただろう。
これを「青春」と呼ぶのは、あまりに悪趣味ではないか。
「今の時期に裸とは……」と俺がつぶやくと、教師は愉快そうに笑った。
「若いんだから大丈夫だろう。こっちは年寄りで、夏でも震える」
その笑い声が、やけに耳に残った。
俺はもう逃げることもできず、ただ服を脱いだ。
脱ぐたびに、自分の中で何かが剥がれていった。
肌に触れる空気の冷たさが、俺の生存を告げる唯一の証拠のように思えた。
「そこに立ってくれ。少し右を向いて……そう、そのまま」
声が遠く聞こえた。
まるで自分が自分でないようだった。
やがて、扉の外からざわめきが近づいてきた。
女生徒たちが、数人ずつ入ってくる。
白い制服、淡いリボン、光る髪。
彼女たちは最初こそ神妙な顔をしていたが、やがて微かな笑いが漏れた。
その笑いが、俺の皮膚を針のように刺した。
笑っているのか、怯えているのか、照れているのか――それすらわからない。
ただ俺は、立っていた。立っているほか、なにができよう。
教師の咳払いが響く。
「では、始めましょう。形を見るんだ。肉の陰影をなぞるように」
その声で、教室の空気が一瞬にして変わった。
鉛筆の音が一斉に走り出す。
俺の存在が、線に分解され、形に還元されていく。
――これが芸術というものか。
俺は、己の恥を誰かの美しさの糧にしている。
だが、それを不思議と誇らしくも感じていた。
羞恥と尊厳の境界線が、ひどく曖昧に思えた。
立ち尽くす俺の影だけが、床に長く伸びていた。
まるで、まだ見ぬ絵の中に吸い込まれていくようだった。
どこか見知った顔がちらほらあったが、俺のことを覚えているものはそういなかった。実におかしな話だが、下校時に絡んでくる娘たちがこうにも大人しくしているとは。やはり目下の人には地位を見せつけ、目上の人がいる場ではただ尻尾を振るだけの尻軽女だ。
最前列には、あの育ちの良い彼女が一心不乱にキャンバスに俺の裸体を描き込んでいた。
その筆の音がやけに耳についた。カリカリと紙を削るような音。あれほど繊細な指が、いまや俺の骨の一本一本を削り取るように動いている。見ていられなかった。いや、見ていた。
見ているふりをして、見られているふりをして、俺は己の存在をなんとか保っていた。
教師といえば、ただこの場にいる女生徒たちに自主的に描かせるだけで、自分の作業に耽っていた。何という無責任ぶりだ。こっちが体張ってるというのに。
いや、もっともだ。芸術というやつは、いつだって誰かの犠牲の上に咲く。画家が描くたびに、誰かが寒さに震え、恥を晒し、死んでいく。それが美というものの正体だ。実に上流階層らしい支配欲の溢れた考えだ。
俺のことをひたすら注視しながら作業に勤しむその娘は、実にまじめで、無言に、ただ筆を動かしていた。
周りからは、少しずつ雑談の声が大きくなり、俺の体を見ながら何か下世話な話をする声も混じってきた。笑いを噛み殺すような声。わざと聞こえるように囁く声。どれも俺の皮膚を薄く削いでいく。
ああ、実に愉快だ。こうして笑われているときほど、自分が“社会の部品”であることを実感する。恥を売って、生活を買う。それがこの国の、何よりも正直な商売だ。
けれども、彼女だけは違った。
あの育ちの良い娘は、周囲のざわめきにも頓着せず、俺の胸元に影を落とし、肋骨の曲線を確かめるように筆を走らせていた。
まるで俺の内側を覗き込むようだった。
あの目が怖かった。
俺の見せかけの矜持や、捻くれた諦念なんか、すべてあの目の前では紙のように薄い。
あの娘は、俺の心臓の鼓動まで描こうとしている。そう思ったら、呼吸がうまくできなくなった。
他の女生徒たちは、笑って、囁いて、俺を塗り潰していく。
彼女だけが、俺を描いていた。
俺は、見られながら、描かれながら、少しずつ俺を失っていくのを感じていた。
まるで、俺の存在そのものが絵具に混ざって、キャンバスの上で別の人間に塗り替えられていくようだった。
――もし、芸術が本当に人を救うものなら、
いっそこのまま、彼女の描く絵の中で死ねたらと思った。
教師の耳が良くないのか、雑談を止めようともしない。金あるおうちのご令嬢だから、口が出しづらいのだろうか。結局、世の中は権力に頭を下げる人間しかいない。誰も彼もが、他人の顔色ばかり伺って生きている。
教師も、女生徒も、俺もだ。
この屈辱たる時間を、長きにわたり味わされ、それでも俺のことをずっと見て、ずっと手を動かし続けていた彼女だけには、俺のあられもない姿を描かせたかった。
いや、描かせるというより、差し出したかったのだ。
俺の醜さを、貧しさを、惨めなまでの生の痕跡を、すべてあの清らかな指でなぞってもらいたかった。
せめて彼女の絵の中でだけでも、俺は、何かひとつの形として生きていられる気がした。
働いても、笑っても、この小娘たちには卑屈で滑稽な存在としてしか扱われなかった。
だが、いま、あの娘の視線の中だけでは、俺は人間の姿をしていた。
絵筆が俺の体をなぞるたびに、俺は少しずつ恥から存在へと変わっていくような気がした。
不思議な話だ。
裸でいることが、これほどまでに正直で、これほどまでに尊いことだとは思わなかった。
羞恥と誇りの境が、いつの間にか曖昧になっていた。皮膚が空気に触れるたび、痛みのような甘さが走る。だがそれは、あらゆる虚飾を剥ぎ取られた末に残る、奇妙に澄んだ快感だった。生きている、という実感が、たしかに指先にまで沁みていた。
気づけば、俺は彼女のことばかり見ていた。
俺の体をなぞるようなその目、それを確かめるように紙へと移していく手。時折、視線がぶつかるたびに赤らむ頬。ストレートの黒髪が光を吸い、頬の線を際立たせている。整った顔立ち。だがそれ以上に、彼女の表情には、何かを見逃すまいとする、純粋で残酷なまでの誠実さがあった。
彼女が俺のことを細かく観察しているように、俺もまた、彼女のことを嘗め回すように見ていた。彼女の筆の運びが、俺の存在を確認するたび、まるで命を与えられていくようだった。
寒さも、周りの嘲りも、筋肉のこわばりも、もうどうでもよかった。
我を忘れ、時間を忘れて――。
教師が授業を終えるまで、俺たちはただ、互いの存在を描き合うように、見つめ合っていた。
筆と眼差し。その往復のあいだにだけ、確かに、ひとつの真実が息づいていた。
***
不真面目な奴らが多い割には、作品を描き終えて提出する者が多かった。どうせ形だけ整えておけば教師は何も言わぬのだろう。なあなあで済ませることに、彼女らは異様な才能を持っている。世の中は、熱意よりも要領に生きる者の方が、ずっと安楽にできているらしい。もっとも、お嬢様学校を通えるほどの経済力をお持ちとあらば、きっと将来安泰だろうな。
生徒の多くが、この美術室から離れたところで、わざとらしく笑いながら廊下を出て行った。俺はそのざわめきを背に受けながら、そそくさと脱いだ服の置かれた隣室に向かった。冷えきった肌にシャツの布が触れると、どこか現実へ戻されたような気がした。あの時間だけが、まるで別の世界の夢だったように思えた。
傍らの教師の机には、すでにいくつかの作品が積み上げられていた。何気なく一番上のものを手に取ると、ひどいものだった。線は怠惰、影は嘘、形は逃げ腰。人の肉を描くというより、ただ「描いたふり」をしているだけの、白々しい努力の痕跡。
俺はふっと笑ってしまった。――俺の労働に見合うだけの作品にしてもらいたいものだ。
この寒さ、恥、時間、すべてを賭けた代償として。
着替え終え、少しばかりの好奇心と、あるいは未練のようなものに突き動かされて、再び美術室へ顔を出した。
夕陽が窓の外で橙に沈みかけていた。
その光に照らされて、彼女はまだそこにいた。
他の誰もいない教室で、ただ一人。
椅子に腰を下ろしたまま、キャンバスとにらめっこしていた。
筆はもう動いていないのに、彼女の目だけは、何かを必死に探すように、紙の上を彷徨っていた。
俺はその姿を見て、奇妙な感情に襲われた。
――彼女はいまも俺を描いているのだ。
後ろから、乾いた声が落ちた。
「白石、作品はどうする。提出しなくていいのか」
教師の声音には、関心よりも義務のにおいがあった。まるで事務処理を終わらせたい役人のような調子だった。
白石はすぐには返事をしなかった。
小さく息を吸い、指先でキャンバスの上――俺の描かれた体のあたりを、そっとなぞった。
絵具の盛り上がりに触れながら、確かめるように。まるでそこに、ほんとうの皮膚があるかのように。
「……もっとちゃんと、描きたいんです」
彼女はようやく、静かにそう答えた。
その言葉に、俺の胸のどこかがざわついた。
白石。
彼女の名を知った。
名を持つということは、もう誰でもないということだ。
その瞬間から、俺は彼女をひとりの生徒ではなく、白石という個として、どうしようもなく意識してしまっていた。
――人間とは、まったく恐ろしい生き物だ。
あれほど軽蔑していた、己よりも上にいると思っていた存在に、こうもあっさり心を奪われるとは。
地位も、倫理も、理性も、すべては紙のように薄く、いとも簡単に透けてしまう。
俺は扉のそばで立ち尽くしていた。
夕陽が、白石の髪を赤く染めていた。
その背中を見ているうちに、ふと、自分の中で何かが音を立てて崩れていくのを感じた。
それは羞恥でも、憧れでもなく――ただ、ひどく人間らしい堕落の音だった。
***
それからは何日か、同じように裸をさらされてモデルをつとめた。
白石という名の清楚な女子生徒は、毎日欠かさず最前列に座り、俺のことを見ながら描き続けていた。何枚も、何枚も。
その眼差しは、他の生徒のような軽薄なものではなかった。彼女はまるで、俺という肉体の奥に、何か別のもの――もっと惨めで、もっと人間らしいものを見つけようとしているようだった。
俺のほうはといえば、あの視線に戸惑っていた。
自分の体が、彼女にとってこれほどまで「描くに値するもの」なのだろうか。
俺はこんな上流階級のお方に誇れるような人間ではない。
しかし彼女の筆先は、俺を醜いとも、滑稽だとも思っていないようだった。
ただ、真っすぐに見るという行為に徹している。
それが、なぜかたまらなく怖かった。
そんな日々の中で、俺はとうとう我慢できなくなった。
授業が終わり、誰もいなくなったタイミングで、服を着終えた俺は白石に声をかけた。
「あのー……なんで毎日、俺のことを描きに来ているの」
自分でも情けないと思うほど、声が震えていた。
白石は少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに表情を戻した。
「別に……ただ絵を描きたいだけ」
その返事は、あまりにもあっさりしていた。
俺が勝手に抱いていた親密の幻想を、軽く切り落とすような言葉だった。
それでも彼女の声には、どこか冷たさとは違う響きがあった。
淡々としているのに、遠くで火が燃えているような――そんな距離感のある温度。
俺は何も言えず、ただ曖昧に笑ってごまかした。
「男の人のこと、あんまりわからないから……こうやって絵に落とし込むの」
白石は少し俯きながら言った。指先でスカートの裾をいじっている。
箱入り娘らしい返答といったところだが、俺の体だけを見ていても、男という生き物の真実には到底辿りつけまい。
男の皮膚の下には、常にみっともない焦燥と、誰にも知られたくない孤独が蠢いているのだ。
それを知らずに、ただ線を追うように描く白石の姿が、滑稽であり、そして少し羨ましかった。
俺は笑った。乾いた、どうにも締まりのない笑いだった。
「そっか。男の勉強か。そりゃあ、俺みたいなのは教材としてうってつけかもしれないね」
白石はその冗談に笑わなかった。
ただ、静かに俺を見た。その眼差しには、冗談も皮肉も通じない透明さがあった。
まるで、俺の中に本当に何か学ぶべきものがあるとでも思っているように。
その瞬間、俺は少し息苦しくなった。
白石の目は純粋すぎて、俺のような濁った人間には直視するのがつらい。
あの目の前では、どんな嘘も、どんな虚勢も意味をなさない。
まるで、自分という人間の薄汚れた内側を、静かに観察されているようだった。
「……君の描く男は、きっと俺なんかよりずっと正しいよ」
そう言って逃げるように美術室を出た。
夕暮れの廊下には、誰の足音もなかった。
窓から差す橙色の光が、俺の影をやけに長く伸ばしていた。
その影が、どこかで白石の絵の中に閉じ込められているような、妙な錯覚を覚えた。
***
逃げ出すように学校を離れた。
空がすでに群青に染まりかけていた。胸の中にぽっかり穴が開いたような、やりきれぬ虚しさを抱えながら、俺は足の向くままに歩いた。
ふと、通りの角に灯る小さな明かりが目に入った。
この町にできたばかりの三軒目のコンビニ――と言っても、まだどこか雑貨屋の名残を引きずったような店だ。
ガラス戸を引くと、チリンと鈴の音が鳴った。
店内には微妙に温まった空気と、どこか混ざったインクと惣菜の匂いが漂っている。
仕事帰りのサラリーマンたちがネクタイを緩め、缶コーヒーやタバコを手にしていた。
奥の棚では、立ち読みの男たちが週刊誌を覗き込み、ページをめくるたびにパラパラと紙の擦れる音が重なっていく。
俺もその群れの中に紛れ込んだ。
週刊誌のグラビアには、笑う女たちの姿。
だがどれも、どこか作り物めいていた。光沢を帯びた肌の下に、温度も重みもない。
――白石の描いた俺の体のほうが、まだ人間らしかった。
こんな触れやしないのに、目を丸くしているのはなぜ。
付き合えもしないのに、求めるのはなんのためだろう。
大人になれば、成人すればわかることなのだろうか。
いや、わかるというより、諦めることを覚えるのだろう。そうして、わかってしまったふりをして、皆、笑っているのだ。
白石とは違うが、考えてみれば俺も同じだった。
女の体を見たこともなければ、ちゃんと関わりを持ったこともない。記憶をたどれば、幼いころにそれらしいこともあったかもしれないが――それはただ、母の手に頬を寄せたぬくもりの記憶にすぎなかった。
一番よく知っている女性は母親で、二番目はない。
口に出してみると、何とも惨めな話だ。
高校に通っている白石も、俺を馬鹿にする小娘たちも、きっと皆が青春を謳歌している。
白石が俺の体で男を勉強するように、俺もなぜか、適当に目についたグラビア誌をパラパラとめくった。
露出は実にすごかった。けれど、どこか物足りない。勉強するなら、もっと過激なもののほうがいい――そんな理屈を自分に言い聞かせながら、俺は隣の棚に目をやった。
そこに並んでいたのは、いわゆる「エロ本」というやつだった。
厚みのあるビニール袋に包まれていて、表紙の女は不自然なほどの笑顔を浮かべていた。
俺は、手を伸ばす前に一度、周囲を見回した。
誰も俺を見ていない。見ていないはずなのに、背中の皮膚がむず痒くなるような羞恥が走った。
それでも、気づけば手に取っていた。
後ろめたさが勝ったのか、ページを確認することもなく、そのままレジに向かった。
硬貨を差し出すと、レジの青年が無言で袋に入れた。
その沈黙が、まるで俺の行為を正確に見透かしているようで、息苦しかった。
店を出ると、風が少し冷たかった。
買い物袋の中には、俺の知らない世界が入っている――そんな気がして、足が自然と重くなる。
公園の端っこに、小さな木のベンチがあった。
人通りもなく、街灯の明かりがぼんやり届く場所だ。
俺はそこに腰を下ろし、袋から本を取り出した。
中身を見ようとして、指先が震えた。
――なぜ、こんなにも緊張しているのだろう。
絵の中の女たちは笑っているのに、その笑顔が、まるで俺をあざ笑っているように見えた。
ページをめくるたびに、胸の奥が妙に空虚になっていく。
欲望の形を覗き込んでいるのに、そこに温度がない。
俺は、何を学ぼうとしていたのだろう。
白石が俺の裸を描いたように、俺もまた、この本の中で“誰か”を理解できると思っていたのかもしれない。
だが、そこにいたのは、俺ではない誰かの幻想でしかなかった。
夜の公園に、風がひとつ吹いた。
ページの端がひらりとめくれ、裸の女が笑っている。
その笑顔が、どうしようもなく寒々しかった。
結局、よくわからないまま、俺はエロ本を眺めた。
わからないまま、それに映った女の体を貪りつくした。
けれど、それで女性のことを知れたのかと問われれば、またどこか違う気がした。
あれは女というより、装飾された肉だった。
男の妄想が作り上げた、完璧で、しかしどこまでも虚ろな存在。
白石の筆が捉えた俺の体には、まだ人間の呼吸があったが、
この紙の上の女たちは、息をしていなかった。
ページを閉じると、胸の内に、何かを失ったような静けさが残った。
そうしてふと、母親の顔が浮かんだ。
さすがに母親に「見せてくれ」などと気持ちの悪いことを言えるわけもない。
だが、その考えが脳裏をかすめた瞬間、自分でも吐き気がした。
――気持ち悪い、と思えること。
それが、俺の中のわずかな成長なのかもしれない。
人を欲しがりながら、人を汚したくはないと思う。
そんな矛盾を抱えたまま、俺はただ風に吹かれていた。
夜はすっかり更け、ベンチの下の影だけが、妙に濃かった。
***
一夜、ほとんど眠れなかった。
布団の中で何度も寝返りを打ったが、まぶたの裏には、女の裸と白石の瞳が交互に浮かんでは消えた。
夜の深さというものは、どうしてこうも人を惨めにするのだろう。
朝になっても、体の芯がまだ冷えていた。
工場勤めのときと同じように、小さな鞄を持って家を出た。
工場の仕事はやめたと家族に伝えたが、本当のこと――すなわち「裸をさらされる絵のモデルになっている」などという話を、年の離れた両親にわかってもらえるはずがなかった。
母はおそらく泣くだろうし、父は黙って煙草の火を強く吸い込むだろう。
だから、何も言わなかった。
今になって思えば、その鞄の中に眠っていたエロ本が、彼女とのすべてのことの発端だった。
鞄の中にしまっていたことを忘れていたのか、それとも自分の欲望ゆえにわざと持っていったのか――もう覚えていまい。どちらにせよ、俺という人間の浅ましさに変わりはない。
今週も先週と同じく、恥と寒さを体で受け止めながら、ただただ時間が過ぎていくのを待っていた。
実に短かい時間だった。
最前列にいる白石のことを見ていたら、それは一瞬だった。彼女の目は、絵筆の先よりも静かで、俺の体を見ているようでいて、どこか遠くの、もっと暗いものを見つめているようでもあった。
絵の具の匂いと、石膏の粉っぽさが、冬の乾いた空気と混じり合って、どうしようもなく俺の喉を渇かせた。
裸のまま立っていると、寒さよりも、羞恥の方がずっと重かった。
俺はただ、じっとしていればいいだけのはずなのに、体の奥で何かがざわついて、落ち着かない。
――まるで、見透かされているような気がするのだ。俺の過去も、欲望も、惨めな逃げ道も、すべて。
そしていつも通りに、全員が帰ったあとも、白石だけが一人残っていた。
キャンバスに描いた俺を見つめている。その情景は、もう見慣れていた。
彼女の儚げな表情と、彼女が何日描いても、何枚描いても、同じように見える俺の体。
それを見つめる彼女の横顔の方が、むしろ生々しく、現実的だった。
彼女は、ゆっくりと振り返った。
その動作に、まるで一枚の薄いカーテンが風にたゆむような静けさがあった。
彼女の目が、真正面から俺を捉える。絵の具の光を受けて、黒曜石のように鈍く光っていた。
「その……私の描いた絵、どう思いますか」
やれやれ、と思った。
俺のような、芸術とは縁もゆかりもない人間に聞いてどうするのだ。
工場の油と汗の臭いがまだ抜けきらないような男に、絵の価値などわかるはずもない。
けれど彼女は、本気だった。俺の答えを待っている目をしていた。
「一目で俺だってわかるくらいだから……よく描けてるんじゃねえの」
我ながら、何のひねりもない、教科書の余白に書き捨てたような返事だった。
当たり障りのない言葉ほど、人を傷つけるものはない――と、あとで思い知るのだが、そのときの俺はまだ気づいていなかった。
白石は、小さく首を横に振った。
その仕草が、妙に幼く見えた。
絵描きというのは、難しいものだ。
見えるものを描いているようで、見えないものを探している。
彼女もきっと、何かに行き詰まっているのだろう。いわゆるスランプというやつかもしれない。
残念だが、俺にはどうにもできない。
工場にいたころは、決められた図面どおりに、同じ形の鉄を削っていただけだった。
手を動かしていれば、そこに答えがあった。
だが、絵というのは違うらしい。正解のない作業ほど、人を不安にするものはない。
俺はその不安を、彼女の肩越しに感じていた。
白石は、唇を噛んで、何か言いたげにうつむいた。
しばらくの沈黙があった。
教室の時計の音だけが、乾いた空気の中でやけに大きく響いた。
やがて、彼女は意を決したように顔を上げた。
その頬が、ほんのりと紅潮しているのを、俺は見逃さなかった。
「その……体を、触らせてくれませんか」
その言葉が落ちた瞬間、空気が凍りついたように感じた。
俺の心臓が一拍遅れて跳ねる。
どう反応していいのか、わからなかった。
冗談にしては、あまりに真面目な声だった。
絵のためなのか、欲望なのか、あるいはそのどちらでもないのか――俺には判断がつかなかった。
俺は笑ってごまかそうとした。
だが、喉の奥がからからに乾いて、うまく声が出なかった。
白石はまっすぐ俺を見ていた。
その瞳の奥にあったのは、いやらしさでも、軽薄な好奇心でもなかった。
むしろ、何かを確かめようとする祈りのような光だった。
俺は、どうすることもできずに、ただ立ち尽くしていた。
あまりにも真剣な眼差しだった。
この場には、彼女と俺の二人きり。……次の仕事を探す以外、やることもない。
だから、彼女に協力することにした。
せっかく着た服を、もう一度脱いだ。静寂の中で、布擦れの音がやけに響いた。
彼女の前へと近づく。触れていいかためらっているようだったが、何も言わないその沈黙が、同意と変わらなかった。
初めて女の人に触れられて、変な気持ちだった。
何よりも、その手の温かさをかみしめていた。
触り方には躊躇があったが、それがかえってくすぐったかった。
それからは――興がのったというべきだろうか。
徐々にそのためらいから解放され、大胆に、指や掌で俺の体を賞味していた。
俺は、あのときの自分の呼吸を思い出せない。
ただ、心臓がやけにうるさかったことだけは覚えている。
白石の手が俺の肌をなぞるたび、世の中の律法というものが、砂のように指のあいだから零れ落ちていった。
それでも、俺は幸福ではなかった。幸福になる資格がないことを、どこかで知っていたからだ。
白石の横顔は、蝋燭の光のように静かだった。
たぶん彼女もまた、どこか遠くの誰かに許しを乞うていたのだろう。
俺たちは、互いの孤独を埋めるために、互いの孤独を使ってしまった。
あれほど近づいたはずなのに、触れあった瞬間から、もうすでに離れていたのだ。
そんな甘美なひとときを打ち破ったのは、廊下のほうから響いた足音だった。
ふと我に返る。
外套と、外側のパンツだけを慌てて身につけ、残った衣類は一目散に鞄へ詰め込んだ。
白石もどこか慌ててはいたが、何をすればよいかわからず、ただ机の前に座って絵筆を握るふりをしていた。
美術の教師だった。
もうこんな時間になってしまったのか。
俺は、まるで悪い芝居の役者のように、ぎこちない笑みを浮かべた。
教師はいぶかしげに眉をひそめ、何かを察したように俺と白石を交互に見た。
「君たち、何をしていたんだね」
いろいろと詰問はされた。
が、俺は「白石に頼まれて、少し協力してあげていたんです」と言ってごまかした。
事実ではある。
だが、後ろめたさというやつは、事実の有無とは関係ない。
心の内側でひとりにやにや笑う誰かがいて、俺をじっと見下ろしていた。
「協力するのはいいが、別に給料が増えるなんてことはないからね」
教師はそう言って、冗談のような、嫌味のような言葉を残した。
美術室を施錠するからと、白石とともに校舎を後にするしかなかった。
教師の目には、どこか警戒の色があった。
だが深入りする気はなかったのだろう。
俺と白石が、互いに少し距離を置きながら、並んで学校から出るその姿に、何も言わなかった。
お互い、無言のまま歩いた。
俺はただ、家への帰り道を歩いているだけだったが、どうやら白石も同じ方角らしい。
偶然か、あるいは運命などというものが、悪戯に俺をからかっているのか。
冷たい風が、さっきまでの出来事をあざ笑うように吹き抜けていく。
外套の下は肌に直接布が当たっておらず、少し動くたびにひやりとする。
とりあえず、この寒さを凌ぐためにも、どこかのトイレでも借りて、ちゃんと服を着たい。
外套だけじゃ、さすがに限界がある。
ふと思い出す。
昨日、エロ本を読んだあの公園が、この先にあったはずだ。
あそこのトイレなら、夜でも人目を気にせず使えるだろう。
隣を歩く白石のことは、どうにも気まずかった。
公園の入り口に差しかかると、錆びた鉄柵が月の光を鈍く反射していた。
夜気はさらに冷え、外套の下の素肌に風が突き刺さる。
トイレの明かりがぼんやりと灯っていた。
俺はまっすぐそこへ向かった。
すると、なぜか白石も後ろをついてくる。
男子トイレにでも入るつもりか、と一瞬ぎょっとしたが、さすがに入口が視界に入ると、彼女は立ち止まり、足もとを見つめた。
そのとき、小さな声で言った。
「着替えに行くのなら……鞄を見ていましょうか。置く場所がないと大変だと思いますから」
……それもそうだ。
俺は少しだけ逡巡したが、彼女の厚意に甘えることにした。
白石に鞄を預け、便所の中に入る。
蛍光灯がひとつ切れていて、薄暗かった。
タイルの壁には黒い染みが広がり、鏡は曇って、自分の顔がはっきりとは映らない。
鞄の中に雑に押し込んでいた服を取り出し、ひとつずつ身に着けた。
シャツの裾には、まだ石膏の粉がついていた。
――鏡に映る自分。
どこか間抜けで、情けない顔をしていた。
服を着終え、外に出ると、白石がいた。
月明かりの下で、彼女は俺の鞄の中を覗き込んでいた。
その手には――あのエロ本。
……おい。
声をかけようとしたが、喉が妙に渇いて言葉にならなかった。
白石は、ばつの悪そうな顔でページを閉じた。だが閉じきれず、指が震えて、紙の端を何度も撫でている。
顔どころか、耳まで真っ赤だった。
それでも、彼女は逃げなかった。
「……こういうの、読むんですね」
その言葉には、非難でも軽蔑でもなく、ただ、素朴な興味のような響きがあった。
俺は笑うしかなかった。いや、笑ってごまかす以外、どうしていいかわからなかった。
「いや、その……勉強だよ」
自分でも驚くほど、情けない声が出た。
白石は唇をきゅっと結んで、少しだけ俯いた。だが次の瞬間、ほんのわずかに笑った。
それが、あまりにも静かで、やさしくて、俺は胸の奥が妙にざわついた。
「勉強、ですか……なるほど」
彼女は本を閉じ、そっと鞄に戻した。
その動作が妙に丁寧で、まるで俺の秘密を布で包んで墓に埋めるような、そんな仕草に見えた。
「男の人って、ああいうのが……好きなんですね」
白石は視線を逸らしたまま、しどろもどろに言った。
その声は、風に消え入りそうに小さく、それでいて、どこか寂しげだった。
俺はどう答えていいかわからなかった。
いや、答えというもの自体、最初から存在しなかったのかもしれない。
なにしろ、俺だって、自分がそれを好きなのか、嫌いなのか、よくわからないのだから。
「……いや、そういうわけじゃないと思うけど……」
我ながら、曖昧でみっともない返事だった。
白石は「そうですか」と呟いた。
その「そうですか」の中には、何かを理解したような、そして同時に、何も理解していないような、奇妙な温度があった。
しばらく、沈黙が降りた。
遠くで車の音が一度だけして、また夜が戻ってきた。
それからまた、帰り道で――俺たちはしばらく、同じ方向を歩いた。
互いに何も言わなかった。言葉を交わすほどの関係でもなければ、沈黙を破るほどの勇気もなかった。
夜の空気はますます冷え、靴音だけが、まるで二人の存在を確かめるように、舗道に乾いた音を落とした。
街灯の下を通るたび、白石の横顔が一瞬だけ光に浮かび上がり、すぐにまた闇に溶けた。
そのたびに、俺はなんとなく、自分の心の中に沈んでいる小石のようなものを感じた。
それは罪悪感というよりも、もっと鈍く、やるせない――生活の重みのようなものだった。
やがて、角をひとつ曲がったところで、白石が足を止めた。
「……私、こっちだから」
白石はそう言って、小さく頭を下げた。
月明かりが、彼女の髪の一房を銀色に照らしていた。
俺は何か言おうとしたが、言葉が喉の奥でほどけてしまった。
「そうか」とだけ答えるのが精一杯だった。
白石は、少しだけ微笑んだ。
それは、感情というより、礼儀の延長のような微笑だった。
それでも――その笑みが、この夜のすべてを赦したような気がして、俺は目を逸らした。
「じゃあ……また、学校で」
その言葉が風に攫われて、消えていった。
白石の背中がゆっくりと遠ざかる。
街灯の光が一つ、また一つと、その影を飲み込んでいった。
白石の姿が完全に闇に溶けてしまってから、ようやく歩き出した。
胸の奥に、言いようのない空洞があった。
それは後悔というほど立派なものではなく、ただ、どうにも埋めようのない隙間のようなものだった。
今日はいろいろあったが、明日になれば、きっとまた何事もなかったように日が昇るだろう。
白石も俺も、何事もなかった顔で教室に座るのだ。
人間とは、そうして生き延びるしかない生き物なのだと思う。
夜の街を抜けるころ、ふと笑みが漏れた。
それは自嘲でもなく、希望でもなく、ただ――生きているということそのものへの、薄っぺらな驚きだった。
***
次の日、そこには白石の姿がなかった。
毎日欠かさずにキャンバスを立て、俺の顔や肩の線を黙々と追っていたというのに。
やはり昨日のことが、まずかったのだろうか。
あのエロ本か。
あるいは、あのとき――俺の体に触れた瞬間に、彼女は男という生き物の正体を悟ってしまったのかもしれない。
知るべきではなかったことを、知ってしまった人間の顔というのは、だいたいあんなふうに、静かで、痛々しいものだ。
いずれにしても、白石のいないこの美術室は、いとも寂しかった。
カーテンがわずかに揺れ、窓際の石膏像が薄く笑っているように見える。
俺は、その笑いを避けるように立ち上がり、ため息をひとつついた。
心の中は少しもやもやする。
だが、帰るしかない。
――もう、会えないのかもしれない。
そう思うと、胸の奥に、冷たいものがじわじわと広がっていった。
***
さらに翌日。
もう今日を含めて、あと三日でモデルをやめられそうだ。
長かったようで、たいして何もなかった数週間。
不思議なもので、最初こそ恥ずかしさで死にそうだったが、いまでは裸になることにも何の抵抗もない。
年頃の女性の前で肌をさらしても、何も感じなくなってしまった。
それがいいことなのか、悪いことなのか――俺にはわからない。
ただ、こうして鈍くなっていく自分を、どこか他人事のように眺めていた。
昨日いなかった白石の姿は、今日はあった。
けれども――どうにも、いつもと違うような気がした。
筆を持つ手は、たしかに動いている。だが、その動きにはどこかぎこちなさがあった。
目が、泳いでいる。
描いているのは俺の体なのに、見ているのは別のもののようだ。
心ここにあらず――という言葉が、まるで彼女のために用意されたかのように、頭に浮かんだ。
教室の空気も、いささか変わっていた。
授業の回を重ねるごとに、参加する学生の数は減っていった。
初めのころは笑い声が絶えなかったこの部屋も、いまでは雑談の合間に筆の音が響くだけだ。
それでも、まだ残っている者たちは、意外と真面目に描いていた。
俺を冷やかしていた小娘たちは、もういない。
そのことが、少しだけ嬉しくもあり、同時に、ひどく空しい。
白石は、何かを気にしているようだった。
時折、目だけで周囲をきょろきょろと窺う。
その視線の先に何があるのか――気になって仕方がない。
だが、俺はモデルだ。
動くことは許されない。
目だけを、ほんのわずかに動かし、彼女の視線の行方を追おうとした。
けれども、その先に何があるのか、俺には見えなかった。
ただ、奇妙なことに、白石のまつ毛の震え方が、いつもよりひどく繊細に見えた。
それは、寒さのせいでも、集中のせいでもない。
――怯えている人間の震え方だった。
先生の方をちらりと見た。
白石の視線の先を追うようにして、俺も、ほんの刹那だけ。
先生は――案の定、机に肘をつきながら文庫本を読んでいた。
授業中だというのに、のんきなものである。
いや、のんきというより、諦めているのだろう。
毎度同じ構図の石膏像や、退屈な生徒のデッサンを眺めていては、人間、どうしても現実から逃げたくなる。
この長すぎる授業時間に、彼もまた囚われの身なのだ。
白石は、その姿を確認すると、再び俺の方を見た。
その眼差しが、どこかいつもと違っていた。
いや――違う、というより、熱を帯びていた。
頬が赤い。
筆を持つ手も、少し震えている。
気のせいだろうと思いたいが、それでも確かに、今日は彼女の顔に「女」という生々しい色が差していた。
その色が、俺の目に刺さるようで、視線を逸らすことができなかった。
そして――次の瞬間、俺は何が起こったのかわからなくなった。
白石が、片膝を横に崩した。
まるで、不自然に。
その拍子に、スカートの裾が静かに開いた。
光の加減で、太ももが露わになった。
いや、それは――まるで俺に見せているようにすら思えた。
どういうつもりなのか、理解が追いつかない。
脳が、ひどく重たく感じた。
ただ、白石の顔は、うつむきながらも笑っていた。
微笑というにはあまりに不器用で、はにかみというにはあまりに熱い笑みだった。
耳まで、赤く染まっていた。
その紅は、まるで罪のように、美しかった。
俺の反応を見て、白石はわずかに口角を上げた。
満足――というより、確かめているような笑みだった。
彼女の指先が、スカートの裾をそっとつまむ。
ほんの数センチ、布が持ち上がる。
それだけのことが、俺の胸をひどくざわつかせた。
通りで、今日はいつもより色っぽく見えたはずだ。
スカートの丈も、わずかに短い。
だがそんな理屈を考える余裕は、もう俺にはなかった。
ただ、そこにある白い光のような肌を、見てしまった。
目を逸らせば済む話なのに、逸らせなかった。
――馬鹿だな、と思う。
けれど、その愚かしさを自覚した瞬間、人間はもう逃げられない。
まるで、薄紙一枚の向こうにある禁忌を覗こうとしているような気分だった。
あのコンビニの棚に置かれた雑誌を、誰にも見つからないように開いた時のような、
どうしようもなく、卑しく、そして哀しい昂ぶり。
白石の目がふと上がり、俺とぶつかった。
その瞬間、世界の音が消えた。
羞恥も、理性も、ただひとつの沈黙の中に溶けていった。
そして、ほんの一瞬――俺は見てはならぬものを見た気がした。
光と影の境目のような、危うい世界。
それが現実だったのか、幻だったのか、自分でもよくわからない。
妙なことに、寒さでこわばっていた身体が、いつのまにか熱を帯びていた。
額に汗が滲む。息が浅くなる。
そのくせ、教室の空気は、ひどく冷たく澄んでいた。
やがて、周囲のざわめきが耳に戻ってきた。
誰かが笑い、誰かが囁く。
どうやら俺の様子が、少しおかしかったらしい。
――まずい。
そう思った。
どうにか平静を装い、与えられた役目を果たそうと努めた。
白石は、あの時のことなど忘れたような顔で、また筆を動かしていた。
だが俺にはわかる。
その筆先が震えていることも、視線が何度も俺の方へ逸れることも。
それからというもの、白石は時折、妙に俺を困らせるような視線を寄越した。
まるで、前日のあの一瞬を覚えていないふりをしながら、覚えているふうでもある。
その曖昧さが、俺の神経をじわじわと蝕んでいった。
彼女は筆を動かしながら、何気ない仕草で髪をかき上げたり、視線を逸らしたりする。
ただそれだけのことが、やけに艶めいて見えるのだから、人間というのは勝手なものである。
俺は、どうにか平常心を保とうと努めた。
自分は石膏像だ、ただの無機物だ――そう言い聞かせる。
だが、そんな自己暗示など、たいてい三秒と持たない。
滑稽なことに、かつてコンビニで立ち読みしたあの安っぽい本の中にも、
こんな生々しい昂ぶりはなかった。
紙の上では何の動悸も覚えなかったというのに、
目の前の、息づく誰か一人の気配だけで、心というやつは勝手に乱れていく。
――これが人間なのだろう。
理屈も美も、羞恥も、みな薄皮一枚の下に詰まっている。
そして俺は、今日もまた、その皮の裏で情けなくうごめいている。
***
あまりにも強気で来られる彼女の姿勢に、どこか怖くなってしまっているところもあった。
いや、正確にいえば、彼女の強気が怖いのではなく、それに動揺してしまう自分が怖かったのだ。
今思えば、それは“仕事”という名の殻の中に逃げ込んだだけだったのかもしれない。
残り三日。
俺はただ、与えられた時間を粛々とこなした。
白石がどれほど微笑を投げかけようとも、どれほど意図を含ませた視線を向けようとも、
俺は動じぬ石像のふりをした。
そうでもしなければ、きっと何かが壊れてしまう気がした。
最終日、教頭先生から分厚い封筒を受け取った。
それは不思議と重たく、指先にまで生活の匂いが染みついていた。
金というものは、触れただけで人を現実に引き戻す。
“青春”だの“感情”だのといった曖昧な言葉を、
容赦なく現実へ引きずり下ろす、残酷な重さがあった。
大人でいう酒の代わりに、奮発してコンビニで炭酸の缶ジュースを一本買った。
手にしたそれは、妙に冷たくて、金属の感触がやけに現実的だった。
俺はそのまま、いつもの公園へ向かった。
小学生くらいの子供らが、まだ薄暗い夕暮れの中で健気に遊んでいた。
笑い声が、風にちぎれては宙に消える。
その光景をぼんやりと眺めながら、まるで父親が晩酌でもしているような気分で、
缶のプルタブを開けた。
プシュッという音がやけに大げさに響いた。
二週間にわたる仕事が終わった。
もう自分の体を、あの美術室のまなざしに晒すこともない。
それは、少しばかりの解放感と、どうしようもない寂寥を同時に孕んでいた。
“裸になる”という行為が、あれほど精神をすり減らすものだとは思ってもみなかった。
服を脱ぐたびに羞恥を感じ、
服を着るたびに、どこか一枚、心の皮膚を置き忘れてきたような気がした。
炭酸を一口飲む。
泡が舌の上で弾けて、喉の奥を刺した。
甘いのに、ひどく苦い。
まるで青春というやつを、缶詰にして売っているような味だった。
気づけば、日はすっかり暮れていた。
街灯がひとつ、またひとつと灯り、
昼間の喧噪はどこか遠くへ引いていった。
公園のベンチに腰を下ろすと、風が通り抜けていった。
どこかで犬が吠え、誰かの笑い声がした。
俺は缶を傾けながら、思った。
――これで、本当に終わったのだろうか。
体は自由になった。
けれど心は、どこかまだ、誰かの視線に縛られているような気がした。
あの白石の目の奥にあった、何か熱のようなもの。
それが、夜風の中でまだ俺の皮膚を焼いていた。
缶の中の泡が、最後のひとつまで消えてしまう頃、
空には見慣れない星がひとつ、ぽつんと光っていた。
俺はそれを見上げながら、静かに息を吐いた。
冬の始まりの匂いが、ほんの少し、した。
***
今日からとうとう無職になったわけだが、仕事探しは継続するとして、友達の田中の家業を手伝うことになった。彼の厚意に甘えて、こうして農業に勤しんでいる。だが、正直なところ、前職との落差があまりに大きい。
土の匂いは、インクや絵の具の匂いとはまるで違う。空の色すら、どこか無遠慮に広がって見えた。
あれだけ男子禁制と言われていた女子の花園に突入できたが、もうお別れだ。白石とも二度と会うことはないだろう。
そんなことを考えながら、俺はネギと白菜の収穫をしていた。
田中が腰を伸ばして、帽子をあおいだ。
「しっかし、お前が本当にあの学校の仕事が受かるとは、みじんも思ってなかったよ。なんっつだってお嬢様学校ってんだから、てっきり俺たちみたいな人たちはお断りだと思ってた」
俺は苦笑いを浮かべた。
「敷居が高いから受けたい人がいないって感じだったよ。面接とかでも大した話はしてなかったし」
田中は鍬を地面に突き立て、興味津々といった顔で俺を見た。
「それでよ、お嬢さんたちに自分の体を見られて、描かれる気持ちってどうだったんや? みんながお前の体しか見てねえなら、有名人みたいな気分でも味わえたのかい?」
俺は笑った。だが、あの笑いは自分でも不気味なほど乾いていた。
有名人、ね。――そんな立派なものじゃない。
笑いものにされていないだけでマシだ。俺の耳に入っていないだけで、陰で何か言われていたとしてもおかしくはない。
一般的に“お嬢様”と呼ばれる者たちの中にも、いろいろある。教養があって、品のある、まるで光そのもののような娘もいれば、人を見下し、貶すことを息抜きのようにしている娘もいた。
結局、金というのは育ちを飾る布であって、心までは覆えないのだ。
裸でモデルをしている俺を、まじめに描こうとしてくれる者がいたのは、せめての救いだった。
その中でも白石の存在は、何気に大きかったのかもしれない。
あの筆の先が震えるたび、俺の中の何かもまた、静かに震えていた。
彼女が誘惑するようになる前――あの頃の白石の目は、澄んでいた。俺の肉体ではなく、内側の何かを見ようとしていた。
もしかしたら、俺は彼女のために頑張れたのかもしれない。いや、頑張るふりをしていただけかもしれない。どちらにせよ、今となっては確かめようもないことだ。
「おーい、なにボーっとしてんだよ。何かいいことでもあったのか」
田中の声で我に返った。
ネギの青い葉が風に揺れ、その香りが妙に鼻についた。
俺は軽く首を振って、笑ってみせた。
「何でもないよ」
そう言うと、田中はにやりと笑った。
「なんだよお前、気持ち悪いな。やっぱなんかあっただろ。パンチラでもしたのか?」
その言葉に、思わず苦笑がこぼれた。
――それなら、どれほどよかったことか。
俺はただ笑いを浮かべて、田中の言葉を受け流した。
再び黙々と収穫に集中する。
ザク、ザク、と鍬が土を割る音だけが響く。
風が少し強くなって、ネギの葉がさわさわと擦れ合った。
その音が、どこか絵筆の走る音に似ていた。
俺は無意識に手を止めかけたが、すぐに首を振り、再び鍬を握り直した。
もう終わったことだ。
終わったことに、未練を抱くほど立派な人生を送ってきたわけでもない。
それでも、胸の奥のどこかで、白石の描く筆先の残光がまだ、微かに瞬いていた。
***
少ないお駄賃と、収穫したネギと白菜を少しばかり分けてもらい、そろそろ帰ろうかと思った。だが、空を見上げると、まだ昼どきの陽が高い。
このまま家に帰っても、誰が待っているわけでもない。せめて掲示板でも覗いて、日雇いの力仕事でも探してみようと思った。
筋肉なんてものは大してついていない。だが一日くらいなら、どうにかなるだろう。
何せ、裸で絵のモデルを務めるという“恥”をすでに捨ててしまった身だ。
筋肉痛ごとき、むしろ人間らしい証のように思えた。
それにしても、お嬢様学校というのはやはり羽振りがいい。
二週間、平日の三時間だけ働いただけで、かつて工場で一か月必死に稼いでいた額と、ほとんど変わらなかった。
金というのは不思議だ。使う者の手によって軽くも重くもなる。俺の手の中では、まだ少しばかり温もりを保っている。
今月も半分が過ぎたばかりだし、少しくらい贅沢しても罰は当たるまい。
もちろん、弟を高校に通わせるためには、貯金しなければならない。だが、それをわかっていても、気持ちというものは勝手に浮ついていく。
――たまには、いいだろう。
そう呟きながら、俺はふと、弟の顔を思い出した。
何か、ちょいと高いものでも買ってやろう。
それが、このどうしようもない兄貴にできる、ほんの小さな贅沢のような気がした。
……せっかくだから、誕生日プレゼントとしてとっておこう。
図鑑でも買ってやりたいが、成長すれば使わなそうだし、正直、何を買ってあげたらいいのかわからない。
俺はもう社会人だから、こういうときに頼りにはならない。
小学生からずっと使えるもの――そんな都合のいいもの、この世にあるだろうか。
全く、こんなに悩むくらいなら田中がいたときに相談しておけばよかった。
なんで今さら思い出したんだよ。
まったく、こういうときだけ妙に感傷的になる。
まあ……財布とかならいいかもしれない。
モデルを勤めていた間、なんだかんだで周りを見渡すくらいしか暇をつぶせなかった。
そのせいで、女子たちがどんな小物を持っているか、いやというほど目に入ってきた。
ハンカチやら、ポーチやら、リボンやら――どれもこれも、柔らかい色合いで、触れたら壊れてしまいそうなほど繊細だった。
ああいうのは、女の子だから似合うんだろう。
弟には、そういう可愛らしいものではなく、もう少しかっこいいものを持たせたい。
それが兄貴らしさってやつだろうか。
……なんて、自分で言っておきながら少しむずがゆい。
家から少し遠いが、商店街が確かにあったな。
あの通りの古びた革細工屋、まだやっているだろうか。
ショーウィンドウに並ぶ、使い古されたような茶色の財布――あの色褪せ方が妙に好きだった。
あれを渡せば、きっと弟も気に入るはずだ。
俺はポケットの中の小銭を鳴らしながら、曇った空を見上げた。
どうにもこうにも、今日は歩き出さずにはいられない気分だった。
***
一度家に帰り、もらってきたネギや白菜をこたつの上に置いた。
まだほんのりと土の匂いがして、室内の空気が少し湿っぽくなる。
弟が帰ってきたら「またこれかよ」と言うに違いない。
俺は苦笑しながら、ぼろいママチャリの鍵をひねった。
ペダルを踏みしめ、商店街へと向かう。
あの通りに足を運ぶのは、たぶん、初めてに近い。
いや、正確には近寄らなかったのだ。
俺のような貧乏人が行く場所ではない――そう思って、無意識に避けていた。
街路樹の根元まで磨かれたように整った歩道、ガラス越しに光る店内、
そして、ひとつひとつの店が「お前なんかが来るな」とでも言いたげに、
きれいに息をそろえて静かに立っている。
ショーウィンドウのある店というのは、どうにも苦手だ。
中のものより、外から覗く自分の姿の方がみすぼらしく見える。
俺は自転車を押して歩きながら、できるだけ視線を落とした。
往来する人々の中に、見覚えのある制服がちらほら見える。
白石の通うあの学校の娘たちだ。
上品に笑い、紙袋を手にして歩く姿を見ていると、
どうにも俺は別の世界の住人のような気がしてくる。
やはり令嬢というものは、遊ぶ場所も、それを許す空気も違う。
場所が人を選ぶのか、人が場所を選ぶのか――そんなことを考えながら、
俺はようやく革細工屋の前にたどり着いた。
だけど、さすがに一か月の給料で買えないものはないだろう。
これでも、精いっぱい汗水流して働いたのだ。
農園の泥も、モデル室の羞恥も、今日のための積み重ねだと思えば、
少しは報われるような気がした。
店に一歩踏み入れた瞬間、空気が変わった。
外の風がまだ袖口に残っているというのに、ここだけは別の季節のようだった。
革とオイルの匂いが鼻をくすぐり、妙に落ち着かない。
「いらっしゃいませ」
スーツを着た従業員が、俺に丁寧に一礼した。
まるで国王でも迎えるような口ぶりである。
一瞬、俺は自分がどこかの貴族にでもなったかのような錯覚に陥った。
だが、すぐに我に返る。そんな柄ではない。
気分はいい。けれど、慣れない。
胸を張って、いかにも“買い慣れている男”を装おうとも思ったが、
着古したシャツの襟が妙に目立つ気がして、どうにも様にならなかった。
鏡に映る自分の姿が場違いすぎて、言葉を失う。
それでいて、なぜか見栄を張る心だけは消えてくれない。
店の空気に呑まれぬよう、背筋を伸ばして歩いてみるが、
結局は自信のない男の散歩にしか見えなかっただろう。
俺はできるだけ物音を立てぬようにして、
まるで図書館にでもいるかのように、商品棚を眺めて回った。
ん――実に高い。
どの財布も、ひとつひとつがまるで宝石のように光っている。
革が息をしているように見えるのは気のせいだろうか。
値札を見て、俺は思わず眉をひそめた。
買えなくはない。
だが、これを手にすれば、給料の七割は持っていかれる。
弟の笑顔と、冷蔵庫の中の現実が、秤の上で静かに揺れた。
領収書さえ処分すれば、出費なんていくらでもごまかせる。
弟には少し高い飯を奢ったとでも言えば、それで済む話だ。
我ながら卑しい考えだと思う。だが、人間というものは、卑しさを自覚してなお、それをやめられない生き物らしい。
もしかすると、これは弟のためではなく、俺の虚栄心のためなのだろう。
汗まみれの手で、何か“立派なもの”を掴み取りたい――そんな見栄の一つや二つ、誰にだってある。
入ってしまった以上、何も買わずに出るのもみっともないし、
「やっぱりやめます」と口にした途端、自分の存在まで返品されてしまいそうで怖かった。
結局、黒い高級そうな財布をひとつ取って、
そそくさと支払いを済ませた。
店員の「ありがとうございました」という声が、
どこか遠くから聞こえるような気がした。
今思えば、プレゼント用の紙袋にでも入れてもらえばよかった。
無造作にレジ袋へ突っ込まれたその財布が、
急に、滑稽なまでに似つかわしく思えた。
高級品を持つのではなく、高級品に持たれているような気分だった。
店を出て、外の空気を深く吸った。
革の匂いがまだ鼻の奥に残っていて、どこかむず痒い。
俺は自転車置き場へ向かい、錆びた鍵を回し、
ハンドルを押しながら商店街を抜けようとした。
――そのときだった。
見覚えのある姿が、視界の端をかすめた。
黒い高級車のドアが開き、
そこから降り立ったのは、紛れもなく白石だった。
艶のある髪、淡いベージュのコート、
その隣には、和服を着た上品な女性――おそらく母親だろう。
二人は言葉を交わしながら、まっすぐ商店街の方へ歩いてくる。
白石はこちらに気づいていない。
それなのに、俺の胸は小さく波打っていた。
別に、知らないふりをして通り過ぎればいい。
そうすれば、それで済む話だ。
だが、なぜだろう。
彼女の前に、今の俺が立ってはいけない――
そんな気がしてならなかった。
俺は思わず頭を下げた。
顔を見られぬよう、俯いたまま自転車に跨る。
ペダルを踏み込む足に力が入りすぎて、
錆びたチェーンが、ひどく頼りない音を立てた。
風が冷たい。
だが、その冷たささえも、自分を追い立てているようだった。
とにかく、この場から離れなければ。
そんな衝動に駆られ、俺はスピードを上げた。
どこをどう走ったのか、覚えていない。
気がつけば、商店街の灯りが遠く滲んでいた。
ようやくハンドルを緩め、振り返る。
もう、あの二人の姿はどこにもなかった。
それでも、胸の奥にかすかな疼きが残っている。
まるで、見られていたような――
気づかれていたような――そんな錯覚が、
いつまでも俺の背中に張りついて離れなかった。
***
帰宅してまずしたことは、買ったばかりの財布を机の引き出しに隠すことだった。
弟の誕生日プレゼントにするのだから、バレないところに収納しておかなきゃいけない。
フライパンからもれる油のはぜる音と、炒め物のにおいが台所から漂ってくる。
母親の動く気配は、家の中でもっとも確かな生活の証のように思えた。
俺はこたつにもぐりこみ、天井をぼんやりと見上げながら、今日のことを反芻していた。
白石――その名前を思い出すたび、胸のどこかがわずかに沈む。
考えたところで、どうにもならない相手だ。
俺たちはもともと違う世界の住人で、
仮にまたどこかですれ違ったとしても、
きっとお互い、顔を見ても気づかないふりをするのだろう。
あるいは、本当に認知すらできなくなっているのかもしれない。
そう考えると、妙に納得もできた。
それよりも、日雇いのバイトでも探した方がいい。
引っ越しの荷運びくらいならできる。
今日は久しぶりに自転車をこいだが、思ったより疲れはなかった。
体はまだ動く。
今月の残りをぼちぼち働いたとしても、工場勤めだった頃の月給は軽く超えるだろう。
老社長には悪いが――あの頃の俺は、あまりにも狭い世界で生きていた。
“恥を捨てれば、金は入る”――そんな単純な理屈を、どうしてあの時は気づけなかったのだろう。
汗と油の染みついた作業着を誇りのように思っていた自分が、今ではなんとも滑稽に思える。
世の中は、努力ではなく、図々しさに報いるようにできているのかもしれない。
玄関のドアが開く音がした。
父親の重たい靴音が、廊下をゆっくりと進んでいく。
いつもより少し遅い帰りだ。
「ただいま」という声も、返事を求めるほどの力はなかった。
台所の方で母親が応える気配がして、家の中にようやく生活の音が満ちた。
弟は、隣の部屋で本を読んでいるのだろう。
まるで外界の喧騒と隔てられた別世界に住んでいるように、声ひとつ聞こえない。
小学生にしてはあまりに物静かで、家にこもりがちなその性格が、少しだけ心配だった。
けれど、それも俺に似たのかもしれないと思うと、なんとも言えぬ気持ちになる。
あいつを高校に入れてやりたい――
そのささやかな願いだけが、いまの俺を人間らしくつないでいる唯一の糸のようだった。
***
引っ越しの荷運びという仕事は、まったくもって地獄のようなものだった。
もう二度とやりたくない。
汗と埃にまみれて、背中の筋肉が悲鳴を上げる。だが、本当に嫌だったのは重さそのものではなく、同じ現場にいた大人たちの、あの妙に湿った言葉づかいだった。
「若いのに、こんなものも持てないのか」
――婉曲的に言ってくれているつもりなのだろう。励ましているのか、貶しているのか、わからない調子で。
けれど、そのネチネチとした声音が、かえって人を苛立たせる。
いっそ「役に立たない」と、はっきり言ってくれた方がどれほど救われただろう。
曖昧な優しさほど、人を傷つけるものはない。
現場を終えて、鉛のように重い体を引きずりながら、俺はまたあの公園へ向かった。
何の因果か、いつもここに戻ってきてしまう。
ベンチに腰を下ろすと、ひどく懐かしいような、しかしどこか薄ら寒い気持ちになった。
この場所で、いろいろなことが起こりすぎた。
たかが半月前の出来事だというのに、もう何年も昔のことのように思える。
俺は背もたれに体を預け、灰色の空を見上げた。
頭の奥で、遠い記憶が鈍く鳴る。
どうしてか、すべてが夢のようで、そして少しだけ――現実よりも美しく思えた。
過去に沈んでいたそのとき――
「あのー」
と、どこかで聞いたことのある声がした。
その響きに、胸の奥が一瞬だけひやりとした。
思考の底から無理やり引き上げられたように、顔を向ける。
そこに立っていたのは、白石だった。
灰色の空を背に、少しだけ首をかしげて俺を見ていた。
まるで、道端で偶然昔の知人を見つけたような、そんな表情で。
さすがに、思ってもみなかった。
現実とは、いつだって最も油断している瞬間に顔を出すものだ。
驚きで一瞬、体が固まった。
心臓の鼓動が、ばかばかしいほどはっきりと耳に響く。
だが、何かを装うように、俺はゆっくりと息を吐き、
努めて平常心を取り戻した。
「……やあ」
口から出た声は、少し乾いていた。
それでも、白石の目の奥に一瞬だけ浮かんだ微笑が、
なぜだか遠い日の光のように感じられた。
あいさつを交わしたのはいいものの、どうにも空気が落ち着かなかった。
言葉の端々が宙に浮き、気まずい距離感がそのまま残ってしまう。
白石は、少し躊躇うように、それでも俺のそばに腰を下ろした。
近い。
それだけのことが、こんなにも息苦しいものか。
俺はただ、視線の置き場を見失っていた。
女性という生き物に対して、俺はどうしてこうも耐性がないのだろう。
手を動かすことも、顔を向けることもできず、ただ黙って座っていた。
しばらくして、沈黙が落ちた。
風の音ばかりが耳を通り抜けていく。
何か言わなければと思うのに、舌が石のように重い。
太ももに、何か妙な感触がした。
思わず顔を向けると、白石の手がそこにあった。
俺の太ももに触れ、徐々と上へと上っていくその行動に、脳が停止した。
反射的に姿勢を変えると、白石がはっとしたように手を引っ込めた。
互いに言葉を失い、空気が一瞬で凍りついた。
「ちょっ……」
と口に出しかけたが、それ以上が出てこなかった。
白石の頬はうっすらと赤く染まり、俯いたまま何も言わない。
俺もまた、どうしていいのかわからなかった。
慣れないことはするもんじゃない。
それは白石に対してというより、自分に向けた言葉だった。
妙な静寂の中で、俺の心臓だけがやけに騒がしかった。
説教じみたことを言ってやろうと、一瞬は思った。
けれど、彼女の顔を見た瞬間、何も言えなくなった。
その表情は確か年頃の女性にある恥ずかしい感情がにじみ出ていたが、対照的に息を荒くして興奮している様には理解ができなかった。
買ったエロ本を見た知識でいう痴女とでも形容すべきだろうか。
本来ならドン引きしてしまう存在と思うのだが、なぜか心が言うことを聞かずに昂ってしまっている。
唐突に白石が立ち上がった。
その動きが、やけにゆっくりに見えた。
俺は何か言おうとしたが、声にならなかった。
白石は、どこか決意を秘めたような目で俺を見ていた。
「……やめろ」
そう言うべきだと、頭では理解していた。
けれど、喉の奥が乾いて、言葉が出ない。
白石の指先が、制服の胸元あたりをそっと押さえた――
ほんのその仕草だけで、空気が張り詰める。
俺は慌てて視線を逸らした。
目を閉じても、なぜかその姿がまぶたの裏に焼き付いて離れない。
心臓の音ばかりがやけに大きく響く。
誰もいないこの公園は、やけに聞こえてしまう。
衣擦れの音、服が地に落ちる音、ファスナーを下ろした音、寒さに耐え思わずガタガタと歯が揺れる音。
聴覚が無駄にその機能を存分に発揮している。白石の姿を目で捉えなくてもなんとなく想像できてしまった。これもまたエロ本を見てしまったせいなのかもしれない。
逃げ出したい気持ちがあった。
白石が、俺の手をつかんだ。細い指だった。思いのほか強い力で、俺の掌を包み込む。
拒もうとすればできたのに、なぜかその勇気が出なかった。
さらに彼女のほうへ引き寄せられ、どこか柔らかい感触があった。
これが女性の素肌というものだろうか。
「ねぇ」白石が言った。
「男の人って、こういうのが好きなんじゃないの」
声が震えていた。
俺は答えられなかった。いや、答えてはいけない気がした。
沈黙が、風よりも冷たく、俺たちのあいだを通り抜けた。
白石の瞳の奥に、自分の情けない顔が映っていた。
俺はその視線から逃げるように立ち上がり、夜の公園を走り出した。
後ろで何かを呼ぶ声がした気がしたが、振り返ることはできなかった。
***
田中んちの農業の手伝いと、日雇いのバイトで時間をつぶしていた。
朝は畑、昼は倉庫、夜は眠るだけ。そんな一日を何度も繰り返すうちに、いつの間にか十一月の風が骨の内側まで沁みるようになっていた。
白石の顔を思い出さない日はなかったが、思い出したくもなかった。
忘れたいから働き、働くほどに忘れられず、どこかで自分に呆れていた。
あれ以来、あの公園には近づいていない。風の音までがあの夜の沈黙に似て聞こえるからだ。
そんなある日、母親が包丁を持ってきて言った。
「切れ味が悪いから、工場で研いでもらってきてくれないかね」
やめてまだ一か月しか経っていない。正直、気が重かった。
だが母親の前では何も言えず、包丁を新聞紙にくるみ、重い足取りで工場へ向かった。
老社長は、変わらず作業台の奥に腰を据えていた。
久しく顔を見たが、あいかわらず油と鉄の匂いをまとっている。
俺の姿を見ると、目を細めて笑い、「おお、生きとったか」と言った。
あの言い方が妙にこたえた。生きている、という言葉が、やけに遠く感じられた。
砥石を貸してくれた。無料でいいと言われたが、さすがに自分で研ぐ羽目になった。
作業台の上に包丁を置くと、鉄の冷たさが掌に伝わった。
滑らせるたびに、ざり、ざり、と乾いた音が響く。
この音を聞いていると、不思議と落ち着く。何かが削られ、何かが消えていくような錯覚があった。
「今、何してんの?」
老社長の一言に、手が止まった。
砥石の上で包丁の刃が、少しだけ滑った。
「……畑とか、バイトとかです」
そう答える声が、自分のものとは思えなかった。
老社長は「そうか」とだけ言って、しばらく沈黙した。
何かを思い出したかのように、老社長は腰を上げ、棚の奥から小さな段ボール箱を引っぱり出してきた。
「そういえば、お前、前に裁縫道具を下ろした学校あったろ。あそこにこれ、届けてくれんか」
段ボールの蓋の隙間から、糸巻きの白と赤がのぞいていた。どうやら寄付用の備品らしい。
「俺がですか」
と一応は口にしたが、断れる立場でもなかった。
包丁の研ぎ賃を取られなかった以上、貸し一つ返すのは当然だ。
それに、老社長の言葉には逆らいがたい温度がある。断れば、自分がいよいよちっぽけな人間になってしまう気がした。
白石の学校。
......まだ早朝だ。授業が始まる頃合いだろう。大丈夫なはずだ。
そう自分に言い聞かせ、段ボールを抱えて工場を出た。
十一月の風は、刃物のように顔を切った。
道すがら、落ち葉がアスファルトに擦れ、ひとつの季節が終わりかけていることを告げていた。
俺は歩きながら、何度も段ボールを持ち直した。重いわけでもないのに、心ばかりが重たかった。
校門が見えた。
生徒らしい姿は、どこにもなかった。
よかった――胸の奥で、ようやく小さな安堵の息が漏れた。
しかし、その安心は一瞬で砕かれた。
黒い高級車が、校門脇に停まっていた。
艶のある車体が、朝の曇り空を鈍く映している。
そして、その傍に――見覚えのある姿があった。
白石の母親だ。
きちんとした装いに、冷たい目元。唇の端がぴくりとも動かない。
その顔には、怒りというよりも、呪いに近いものが宿っていた。
「あの売女……」
そう口の端で呟いた。誰に向けてなのか、わからなかった。
だが、その視線の鋭さは、突如として彼女の視界に入った俺に向けられていた。
娘のことで怒っているのだ――そう直感した。
その瞬間、全身が硬直した。
逃げなければ。
それ以外の思考が浮かばなかった。
俺は段ボールを抱えたまま、校舎に駆け込んだ。
受付にいた年老いた事務のばあさんに息を切らしながら説明すると、
「社長からこれ、お願いします」と言って荷物を渡した。
中身の確認も待たず、頭を下げて、早足でその場を離れた。
背後で誰かの声がしたような気がした。
しかし、振り返らなかった。
あの黒い車の中から視線だけが、いつまでも背中を焼いている気がした。
――それが、俺が知る白石とのすべてだ。
そこから先、互いの人生は別々の道を歩んだはずだった。
***
今、俺の手の中にあるこの紙切れを除けば。
電柱に貼られていた行方不明者のポスター。
そこに映るその顔も、その服装も――白石と同じだった。
数年前と変わらない、あの笑み。あの瞳。
ただ、名前の横にある「捜しています」という文字だけが、現実を突きつけていた。
隣でそれを覗き込む彼女――福田美月。
俺の彼女。
その美月が、なぜか懐かしそうに していた。
その目の奥に、うっすらとした追憶の色が宿っていた。
白石を知らないはずの彼女が、まるで何かを思い出そうとしているように見えた。
俺はその表情に、ひどく居心地の悪さを覚えた。
言葉が出ず、ただ手にしたポスターを見つめる。
印刷の粗い紙面の中で、白石が笑っている。
昔と変わらない、少し挑発的で、少し寂しげな笑みだった。
「……知ってる人?」
美月の声が、やけに静かに響いた。
「……ああ、昔の知り合いだよ。たぶん」
自分でも驚くほど弱々しい声だった。
噓をつくのは違う、そう思ったが、真実を語るほどの勇気もなかった。
あの夜のことを、いま口にしてしまえば、すべてが壊れる気がした。
美月は少しのあいだ俺を見つめてから、ポスターに視線を戻した。
そして、小さく呟いた。
「……私も、どこかで会った気がするの」
その言葉が、風にさらわれて消えていった。
俺は笑おうとしたが、喉の奥で空気が引っかかって、音にならなかった。
夕暮れの風が、紙の端をはためかせた。
ポスターの白石は、今にも笑い声をあげそうな顔をしていた。
だが、その笑みの奥にあるものを、俺は知っている気がした。
あれは、どこにも行けない者の笑いだった。
美月が俺の袖を軽く引いた。
「帰ろ?」
その声が、やけに遠く聞こえた。
俺はポスターを見つめたまま、しばらく動けなかった。
過去というものは、こちらの都合で終わらせることはできないらしい。
いつだって、不意に形を変えて、目の前に現れる。
そして――笑っている。
ポスターが風に揺れ、糊のはがれかけた端がひらりと浮いた。
まるで白石がこちらに手を振っているようだった。
俺は無言でそれに背を向けた。
帰り道の途中、美月が何か話しかけていたが、内容は覚えていない。
ただ、胸の奥に沈むざらついた違和感だけが、夜の底までついてきた。
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