関係ない婚約破棄騒動に巻き込まれた女王夫妻のお話
壁に嵌め込まれた大きな鏡にシャンデリアの光が反射し、金で装飾された白い壁や磨かれた大理石の床が大広間をさらに煌びやかに輝かせる。
宮殿内でも一番大きな大広間では、あちらこちらで色とりどりの盛装をした男女が花のように舞っている。
グラス片手に話しかける紳士と扇で口元を隠しながら返す淑女。手に手を取りあい軽やかに踊る人々。
ところどころで起こる笑い声と途切れることのないメヌエットやワルツ。
むせかえるような香水の匂いと熱気。
今宵は一年を締めくくる特別な夜。
女王ジュリエッタは玉座に座り、目の前で繰り広げられている舞踏会の様子を見下ろしていた。
今年二十八になる美貌の女王は長々と続いた貴族たちとの挨拶をこなし王配とのダンスもつつがなく終了して、今は退屈極まりない。なのに装飾品と化した女王夫妻は、それでも注目の的であるので時折りワイングラスを傾けるだけで食事もままならない。
扇の陰であくびを噛み殺す。
ちらりと横を見ると、その視線に気づいた夫のバーデン公エリオットから微笑を送られる。それだけでジュリエッタの心は癒された。
(もう少し頑張れるわね)
そう、幸いなことにジュリエッタは愛する人と結ばれたのだ。結婚して十年、二男一女に恵まれた。
ジュリエッタが王太女となった八才の時、二つ上のアバーテ公爵家次男のエリオットと婚約した。当時は王権が盤石ではなく、王族は絶え間なく命を狙われていた。それは未来の王配となったエリオットも例外ではなく、ジュリエッタとの婚約は秘匿されることとなった。
あの頃は色々あったわね、とジュリエッタは思い返す。さまざまな思いと策謀が渦巻く中、ジュリエッタとエリオットはお互いに励まし合い尊敬し合い、緩やかに愛情を育んだ。
中央集権化を推し進めた前王である父と、ジュリエッタとエリオットの尽力で今は国も落ち着き、平和を謳歌している。
ジュリエッタが女王の仮面を貼り付けたまま、しみじみとしていると、広間の一角から騒めきが聞こえた。
人が集まれば大なり小なりいざこざは起きるもの。周囲も気に留めない様子であったが、不意に訪れた音楽の切れ目で大きな声が響いた。
「ペルティ伯爵令嬢ジニア! 貴様との婚約は破棄させてもらう!」
玉座のある高い場所からは、その場所がよく見える。一人の若者が一人の令嬢を横に置き、正面に凛と立つペルティ伯爵令嬢と呼ばれた少女を指さしている。
王宮の舞踏会で大胆なこと、と思いつつジュリエッタは退屈であったので静観することにした。
「理由をお聞かせ願えますでしょうか? フィオリさま」
「なんの取り柄もないお前とは婚約を破棄し、このラーナと結婚する。ラーナの実家は新しい技術で鉄鋼製品を製造しており、我が侯爵家が経営する商会に多大な利益をもたらしてくれる。その上この美しさだ」
(それだけの理由で婚約破棄? まあまだ詳しい情報はわからないし)
ジュリエッタは少し呆れながらも成り行きを見守る。離れたところからそれぞれの両親と思われる二組の男女が人波をかき分けているのが見える。
「フィオリ! 何を言っているのだ! 女王陛下の御前だぞっ」
フィオリの父マッジ侯爵が青い顔をして出てきた。
「御前なればこそです! 王配殿下ならば理解していただけます!」
「私?」
頬杖をついていたエリオットが顔を上げる。
「王配殿下は叔母上と婚約しておきながら利を取って女王陛下とご結婚なされたではありませんか!」
若者の高らかな声に、ジュリエッタは目を細めた。
「ほう」
「面白がっているね、ジュリエッタ」
ジュリエッタがゆっくりと身を乗り出すのとは逆にエリオットが小さくため息を吐きながら背もたれに背を預けた。
周囲の一定の年代以上の貴族たちは「ああ」と呆れた顔をしているが、若者たちは目を見開いて壇上の女王夫妻に目を向ける。
「面白がってなどないわよ。ただそういう話っていつまでもくすぶるものなのね、と思って」
ジュリエッタがすっと手を挙げると宰相が前に出てきた。宰相が頷き、騒ぎの元へと部下を行かせた。
「マッジ侯爵、この状況の説明をしていただけますか?」
「いや、あの……」
「父上! 叔母上も国のためにと王配殿下との婚約を諦めたのです。ジニアも我が家の利益のために譲るべきでしょう!」
一緒にするな、とその場にいる者は一様に思う。それにマッジ侯爵家では息子にどのような教育をしているのかと、蔑みと憐憫の混じった視線を向ける。
それから、ちらちらと壇上の女王夫妻を盗み見た。
「マッジ侯爵の妹御らしいわよ。婚約してたの?」
「記憶にないなあ」
壇上でジュリエッタとエリオットはこそこそ会話をする。
ジュリエッタとの婚約を秘匿されたエリオットは、王配になるための勉強と訓練のため、またその命を守るために十才から王宮内でほとんど軟禁状態で育った。
エリオットは曽祖父が王弟である家系に生まれ、自らの子供より下位ではあるが王位継承権も持っている。もしジュリエッタになにかあった時は臨時で王位を守り、つつがなく息子に王位を譲った後は政務を補佐できる立場となることを考慮して選ばれたのだ。
そのためジュリエッタとともに帝王学を学び、婚姻するまでの間は周囲を欺くため『近衛兵』としてジュリエッタのそばにいた。
つまり、四六時中ジュリエッタとエリオットは一緒にいたのである。それはもう、うんざりするほどに。
座学は二人で学び、二人で予習復習をし、エリオットが武術の訓練の時にはジュリエッタは淑女教育を受ける。
そして空いた時間は周囲に聞こえないように愚痴を語り合う。
お互いが一番の理解者であり同志としての絆もあり、かけがえのない存在でもあるから、朝から晩まで一緒にいても不満に思うことはなかったのは幸いだった。
ジュリエッタはエリオットを王配に選んだ父の慧眼に感謝した。
二人の間には燃え上がるような恋情はないとしても、確かな愛情と信頼がある。
ただ、近衛兵としてのエリオットは令嬢たちの憧れの的だった。
公式の場でエリオットは常にジュリエッタの後ろにいて警護しており、公爵家の令息として舞踏会に参加することはなかった。近づくことができない黒髪に蒼い瞳の美丈夫は、当時の令嬢たちの憧れであり高嶺の花だった。
『ジュリエッタ王女がエリオットさまを独り占めしている』という嫉妬とともに、いくつもの妄想めいた噂が流布された。
『エリオットさまと私は本当は恋人なの』
『エリオットさまと一晩共にしたわ』
『エリオットさまともうすぐ婚約するのよ』
「仮面舞踏会でエリオットが遊びまわっているという噂もあったわね」
「ああ、バデス男爵家の三男ね。ご丁寧に髪の毛を黒く染めて」
「今はどうしているの?」
「国境警備隊で雑役をしているはずだよ。どうやら髪の毛は染めすぎてハゲたらしいが」
「ふふっ」
周囲に悟られないよう、視線を下げて扇の中で小さく息を漏らす。
仮面をつけていても騙せるぐらいなら、優れた容姿をしていたのだろう。愚かなことをする。
それにしても相変わらずエリオットは小さな情報も集めていると感心する。そして優秀な脳から必要な情報はすぐに引っ張り出されるのだ。
ジュリエッタはエリオットの横顔を見る。
明晰な頭脳に、淑女たちを夢中にさせる端正な顔立ち。
「妬けるわ」
「急に何?」
ジュリエッタは再び視線を会場に送る。
「あなたの妹君とバーデン公エリオット殿下と婚約されていた事実はございましたか?」
「えーと、そのー……」
「今はそんなことはどうでもいいのです! 私はジニアとの婚約を破棄してラーナと結婚します! 父上もその方が良いでしょう?」
マッジ侯爵は宰相補佐と息子の板挟みで「あ……、う……」と狼狽えている。
そのそばではジニアが静かに佇み、少し離れたところでジニアの父親が苦虫を噛み潰したような顔で、母親は青ざめながら胸の前で手を組んで立っている。
確かに、ペルティ伯爵家にとってはメリットがあるが、マッジ侯爵家にはそれほど旨みがない婚約なのだろう。
(さりとて……)とジュリエッタは考える。
ジュリエッタが閉じた扇を手のひらに打ち、パンっと音を出す。広間にいたエリオット以外の皆がジュリエッタに注目した。
「宰相補佐官、よいか?」
宰相補佐が礼をして下がる。
「まずはマッジ侯爵令息。我が夫とそなたの叔母が婚約していたというのは事実無根であることを明言しよう」
「なっ……! けれど叔母上は何度もその話を……」
「黙れ! フィオリ!」
父親の一喝でフィオリが押し黙る。ジュリエッタが扇をすいっと横に動かすとマッジ侯爵は礼を執って口を閉じた。
「若い者たちは知らぬだろうが夫と私の婚約は幼少の頃になされたものだ。婚約して以降、夫は王宮で暮らしている。常にそばにいた私が夫の誠実さを証言しよう。この件はそなたの無知に免じて今日のところは不問にしても良いが……」
フィオリがかっと赤くなってなにかを言おうとしたが、衛兵たちに押さえられ宰相補佐から「不敬である」と言われ口をつぐんだ。
「……さて、次はそなたらの婚約破棄であるが。マッジ令息、ジニア嬢には破棄するほどの瑕疵があるのか?」
「え……」
「解消ではなく破棄の理由は?」
フィオリはジニアを憎々しげに横目で睨んでいる。どうやら個人的な感情らしい。
「見たところ関係の修復は困難そうだが、ジニア嬢?」
女王から名を呼ばれたジニアがすっと体をジュリエッタに向け、頭を下げる。
「はい、その通りでございます。しかし婚約を破棄される謂れもございません」
若いながら落ち着いた受け答えをするジニアを、ジュリエッタは好ましく思った。それに対して感情が表に出やすいフィオリよ……。
なるほどなあ、とジュリエッタは思う。自分より優秀な婚約者に対する嫉妬か。ばかだな。得難い宝をみすみす手放そうとするとは。
「マッジ令息、貴族の結婚には王の許可が必要なのは知っておるか?」
「も、もちろんです」
「婚約に関する請願書が王宮に提出され、精査された上で許可が出ていることは?」
「えと、あの、はい……」
「それを知っていて勝手に婚約破棄しようとしたのか?」
「……」
「破棄にしろ解消にしろ、まずは父親を通して王宮に伺いを立てるのが筋」
ジュリエッタはゆっくりとマッジ侯爵に視線を動かす。
「侯爵はどう考える?」
マッジ侯爵は青くなり汗をだらだら流しながら答えた。
「……筋を通さず、さらには王宮舞踏会の場で女王陛下のお目を汚したこと……」
「我が夫の根拠なき話も声高にしてくれたな?」
マッジ侯爵はぶるりと揺れた。
「フィオリは廃嫡し、領地にて労役を課します」
「ち……父上!」
「黙れ! この恥晒しが!」
「ふむ、妥当だな。王家が認めた契約の反故、及び王族への侮辱発言。本来なら鞭打ち百回の上縛り首だが、私は新しい世を目指しているからな」
大広間の人々の頭の中にかつて行われていた粛清が頭をよぎり、フィオリは膝から崩れ落ちた。
十数年ほど前の大改革と粛清を経て、ジュリエッタが王位を継ぐと同時に新しい時代へと移り変わった。だが、やっとの思いで確固たるものにした国の基盤を揺るがすことはできない。王権をふりかざしながらも温情を与えることも必要だ。
ジュリエッタは水を打ったように静かになった広間を見渡した。
「次に同じような騒ぎを起こした者は、能無しとして対処する」
顔をぐしゃぐしゃにして泣いているフィオリたちをジュリエッタは冷たい視線で見下ろす。
マッジ侯爵はジュリエッタとエリオットに向かって場を辞する許可を取り、ラーナを置き去りにして衛兵とともに息子を引きずって去っていった。
そのラーナは顔を真っ赤にして俯き、小走りでその場を後にした。
ラーナの後ろ姿を見ながら(まあ、一言も喋らなかったし処分は不要だろう。……もう社交界に顔を出せないだろうし)とジュリエッタはほんの少し不憫に思った。そして残るジニアに声をかけた。
「ジニア嬢、そなたには後ほど使いを送る。……今日は疲れただろう。ご両親とともに帰るがよい」
ぱっと顔を上げたジニアは、深々と頭を下げた。後ろでペルティ伯爵も頭を下げている。
数日後、ペルティ伯爵家には『ジニアを王女の侍女として召し上げる』との知らせが届いた。
*
「いやいや、まとまったね。さすがの威厳だったよ」
「嬉しそうね、エリオット」
「君がまず私の誠実さを言ってくれたからね」
舞踏会の後、女王夫妻の私室ではジュリエッタとエリオットが酒を酌み交わしている。机の上には彩りよく盛られたフィンガーフード。
衆人環視の生活の中、数少ない二人きりの時間をジュリエッタとエリオットは大切にしている。
ジュリエッタはエリオットをまじまじと見る。
黒い髪にサファイアの瞳。近衛としての訓練も積み、体格も良く姿勢もいい。そして優秀な頭脳も持っている。
まだ三十になったばかりのエリオットは男の盛りであり、今も相変わらず大勢の貴婦人や令嬢たちから熱い視線を送られている。
ジュリエッタはむむうと眉間に皺を寄せた。
「どうした?」
「改めて思ったのよ。王配として選ばれて不自由な生活を強いてきたと思うわ。……解放されたいと思う?」
エリオットは一歩引いてジュリエッタを支え、子どもも三人なした。王配の地位を奪うわけにはいかないが、自由になってもいいとジュリエッタは思ったのだ。……胸の奥は痛むが。
エリオットは少し考えて「いや?」と呟いた。
「考えたことがなかったな。たしかに不自由ではあるけれど、それはジュリエッタも同様だし。そうだな、得難い体験をさせてもらっていると思っているよ」
「……私、子どもを三人産んで、魅力がなくなったとか……ある?」
エリオットは目を丸くし、そして「ははっ」と笑った。
「君は俺が一目惚れした子供の頃からずっと魅力的だよ。いや、成長につれてますます魅力的になった」
エリオットはテーブルにグラスを置いた。
「あの過酷な環境の中、ジュリエッタはまっすぐ為政者となるべく努力してきた。けれど」
エリオットはジュリエッタの金の髪をするりと撫でる。
「今みたいに俺の前だけでむくれるのが、とてつもなくかわいい」
ジュリエッタは幼い頃から命の危険に晒されていた。国王の直系の子は娘の自分しかいなかったため、王座を狙う者たちから命を狙われていたのだ。そしてエリオットも王配の立場を脅かされていた。エリオットは近衛として秘匿されることが可能だったが、ジュリエッタはそうもいかなかった。
ジュリエッタは誰からも認められる女王になるべく必死に勉強をした。ダンスも馬術も人並み以上に努力した。
自信をなくして泣いたこともあった。そんな時に慰めてくれるのはエリオットだった。エリオットも子どもながら家族から離されて王宮で暮らし、厳しい教育を受けて辛かったはずなのにそばにいてくれた。
庭園の片隅でくすねてきたクッキーをかじりながら話すひとときは、世界で二人だけになったような気がした。
そしてお互いがなくてはならない存在になった。
エリオットは文字通りジュリエッタから片時も離れなかった。一緒に授業を受け二人でダンスをして、成長すればジュリエッタの警護と称してそばにいた。
だからどんな噂が流されようとも揺らぐことはなかった。
「……それでも、不安なのよね」
「なにが?」
エリオットは変わらずジュリエッタの髪の毛を弄んでいる。
「……夜中に抜け出して仮面舞踏会なんかに行かないでよ?」
エリオットが「ふはっ」と笑って言った。
「だから飽きないんだよね、ジュリエッタは」
今夜の舞踏会や国政の会議での威厳に満ちた美しい女王としてのジュリエッタとは違う、二人だけの時の普通のかわいらしい女性としてのジュリエッタ。それを知っているのはエリオットだけだ。
幼い頃から自分の手で守ると決めて今まで守り抜いてきた。エリオットこそ王配の地位を狙う数多の男どもに苦慮してきたのだ。
女王でなくてもジュリエッタは充分魅力的であり、今でも心配は尽きない。
ジュリエッタが再びむむうとなり、エリオットはくすくす笑いながらジュリエッタの頭を撫でた。
【終わり】
エリオットの生きがいはジュリエッタを甘やかすことです。




