第2話 王の婚姻令
百一日目の朝は、雨がやみ、石畳が薄い光を返していた。
俺は窓を少しだけ開ける前に、言ってみる。
「……窓、開けてもいい?」
ユナは顔を上げ、短く考えてから頷いた。
「うん。少しだけ」
軋む音。冷たい風が入り、台所の葉擦れを揺らす。痛みは来ない。それだけのことが、胸の奥で音を立てた。
誓環が、ほんの刹那、淡く灯った気がした。錯覚かもしれない。でも、俺は見た。
「昨日の紙片……見せて」
ユナが席についたまま言う。俺は布袋から羊皮紙の欠片を取り出し、テーブルに置いた。
〈……問ひ、待ち、退く……〉
「古い祈りの形式。東方修院の文体に似てる。意志を確かめる順序が、儀式の核になってる」
目の前で、ユナの言葉は淡々としているのに、指先はわずかに揺れていた。手袋の縫い目が、朝の光で細く光る。
「ねえ、レオン」
「うん」
「わたしたち、婚礼のとき――選べなかった」
息に混じる、ずっと言えなかった音。
「王の婚姻令が出た日、書庫の壁に名簿が貼られた。わたしの名前の横に、あなたの名があって。上司に『おめでとう』って言われたのに、言葉が出なかった」
俺は頷く。あの日を思い出す。
王の大広間で、銀の槌が三度打たれ、監察官が名を読み上げた。
「近衛槍士レオン、王命により書庫司書ユナと婚す」
歓声。楽の音。祝詞。俺は前に進み、誓環を受け取った。そうする以外の手順を、誰も知らなかった。
――もし、あの場で「待って」と言えたなら。
今さらの仮定は、石みたいに重いだけだ。けれど、ユナの「選べなかった」というひと言は、身体の芯をまっすぐに射抜いた。
「俺は……選ぶ言葉を持ってなかった。済まない」
「違うの。責めてるんじゃない。わたしが言えなかった“いいえ”が、今も喉にひっかかってるだけ」
ユナは視線を落とし、誓環を親指で撫でた。紅印は、薄く、でも確かにそこにある。
昼前、用事で王城下の広場を通った。月初は決まって「婚姻令の告示」が貼り替えられる。新しい羊皮紙が石壁に留められ、筆太に「本月指定婚姻者一覧」とある。
祝福の歌を練習する子ども。花を売る老婆。役人の朱筆。
誰かの歓びの裏に、言えなかった「いいえ」がいくつ折りも重なっている――そう思うと、鼓動が速くなった。
「……戻ろう」
ユナが囁いた。俺は頷き、人波から彼女を守るように半歩、横にずれる。近づきすぎない位置。背中の空気の流れで、彼女の所在を確かめる。
露店の隅で、灰色の僧衣の影が視界を掠めた。肩章に小さな灰の徽。街の噂で聞く、「灰の司祭」と同じ印だ。
噂では、婚姻令で結ばれた者たちの相談を、黙って受ける司祭がいるという。式では聞けなかった言葉を、代わりに拾ってくれる人。
振り向いたときには、人の波に紛れて見えなくなっていた。
家に戻ると、ユナは水差しに新しい水を汲み、卓上に置いた。指先が器の縁を撫でる。俺は呼吸を整え、紙片をもう一度押しやる。
「――試してみよう」
「うん」
「まず、問う。次に、待つ。もし揺らいだら、退く」
言いながら、俺は立ち上がって、ゆっくりと両手を見せる。武器を持たないことを示す、訓練場の基本の形だ。
「近づいても、いい?」
ユナは息を一度吸い、吐いて、頷いた。
一歩。床板がかすかに鳴る。
「……ここまで」
「わかった」
止まる。誓環がまた、ふっと灯る。痛みは来ない。
「手袋、の上から、一秒だけ。指先を、触れてみたい」
俺は問うた。自分の声が震えていないか、確かめる。
ユナは目を閉じ、数を数えるみたいに静かに言った。
「一秒。わたしが“待って”と言ったら、そこで終わり」
「約束する」
俺は手を伸ばし、手袋の上に、指先をそっと置いた。
一、二――
「待って」
ユナの声。俺はすぐに引いた。
痛みは来なかった。心臓の音は強く、誓環は静かだった。
ユナが目を開ける。そこに、怯えと、ほんの少しの安堵が同居している。
「……できたね」
「ああ」
言葉が熱を持って喉に残る。たった一秒が、長い橋を渡りきったあとのように足を震わせる。
「これを……誰かに確かめてほしい」
ユナの声が、はっきりとした調子に変わる。
「祈りの形式に沿ってるのか。もっと他の印があるのか。書庫にも記述はほとんどない。――灰の司祭なら、知っているかもしれない」
「見た。広場で、灰の徽をつけた司祭を」
ユナは椅子から立ち、外套を取る。迷いは短い。
「行こう。今日でなくても、早いほうがいい」
俺は剣帯を壁にかけたまま、外套を羽織る。武器は持たない。今日は戦いではない。
扉の前で、俺はもう一度、問う。
「並んで歩いても、いい?」
ユナが笑う。やわらかい、百日目以降でいちばん自然な笑みだった。
「うん。肩、半分ぶん、離れて」
「了解」
俺たちは家を出る。石畳の光は薄れ、雲間から射す光が街角を白く切り取っていた。
問う。待つ。退く。
三つの言葉を足裏に刻みながら、灰の司祭のいるという小さな礼拝堂へ向かった。次の頁が、いま、指先の先でめくられようとしている。