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第1話 紅い指先

結婚から百日目の朝だった。


窓辺の蔦が雨を吸って重く垂れ下がり、王都の石畳には薄い霧が這っている。湯気の立つ茶を盆にのせ、俺はいつものように食卓へ運んだ。


ユナが椅子を引く。その木が床を擦る音まで、俺にはよくわかるようになっていた。


「ありがとう」


淡い声。受け取る指先が、盆の縁で俺の親指と――


触れた。


 


焼けた鉄に触れたみたいな熱が、同時に俺たちの手を走り抜けた。反射で弾かれる。盆が傾き、茶碗が転がって、床に叩きつけられる高い音。


「っ……!」


「ごめん、俺が――」


言いかけて、息が詰まる。痛みは瞬きほどの短さなのに、皮膚の奥に鈍い余韻を残していく。見れば、俺の親指の付け根に小さな紅い痣が咲いていた。ユナの手にも、同じ場所に。


また、増えた。


紅印――触れるたびに増えていく、呪いの印。


 


「大丈夫」


ユナはそう言って、台布巾を取りに立ち上がる。その距離の取り方は、この百日で覚えたものだ。俺と彼女のあいだには、目に見えない境界が敷かれている。越えなければ痛まずに済む境界。越えたら、罰のように灼かれる境界。


「……手袋、つけておくね」


彼女は薄灰の手袋をはめた。俺は頷く。頷くしかない。


 


婚礼の日、王の使いが読み上げた婚姻令は、広間の空気を変えた。


近衛槍士レオン、王命により書庫司書ユナと婚す――。


その瞬間、彼女は俺を見なかった。俺も、彼女の真意を確かめる言葉を持たなかった。王命の前には、誰の胸の内も飾り物みたいに置き去りにされる。祝詞が響き、指輪――誓環が交わされ、拍手が起きた。


その夜、互いに手を伸ばした手が触れた瞬間、火花が散った。


以後、俺たちは学んだ。触れなければ、痛まない。触れれば、焼ける。


呪いの名は知らない。人はそれをささやき声で「触禁の契」と呼ぶらしいが、噂話と本当の痛みは、いつだって別のものだ。


 


割れた茶碗の破片を、ユナは器用に箒に集めた。俺は距離を保ったまま、床の水たまりに布巾を落とす。二人で同じ場所を見るのに、二人の影が決して重ならない。


窓の外で、雨脚が少し強くなった。


「……新しい茶、淹れる」


「いや、いい。ぬるくても、飲める」


「ぬるいのは嫌いでしょう」


「好きになった」


冗談のつもりで言ったのに、ユナは笑わない。笑わせられない自分が、情けなかった。


 


朝食は、静かに終わった。椅子の脚が床を引く音、食器が重なる音、雨の音。音だけでできた家。


ユナは仕事に出る支度をする。書庫の鍵、記録用の羽根ペン、手帳。肩にかけた鞄の紐がねじれているのに気づいて、俺は条件反射のように一歩、近づいた。


「待って」


彼女の声が、刃の背で軽く皮を押すみたいに優しいのに、俺の足を止める力があった。


「……ごめん」


「ううん。ありがとう。自分で、できるから」


彼女は指先だけで紐を直した。俺のするはずだった、なんでもない動作が、彼女だけのものになっていく。


 


扉が閉まると、雨の音がさらに大きくなった気がした。


俺は、居間の椅子の背にもたれて目を閉じる。掌の紅印が、脈に合わせて微かに疼く。


触れたい。簡単な言葉だ。けれど、この百日で、それは何より難しい願いになった。


 


訓練場なら、合図ひとつで隊は止まり、進む。笛の短い音、槍の柄で石を叩く三回のリズム。足と息が揃えば、どんな敵にも崩れない壁になる。


家庭に合図はないのか――そんなことを考える自分がおかしくて、ふっと笑いが漏れた。笑うしかない場所に、いつのまにか立っている。


俺は棚から布袋を取り出した。昨夜、衛兵詰所の古物市で手に入れた古い紙片が入っている。破れやすい羊皮紙。読めるところは少ないが、文字は確かに昔の祈りの形式だ。


〈……問ひ、待ち、退く……〉


たったそれだけの欠片。けれど、その三つの言葉は、槍の合図みたいに頭に残った。


問う。待つ。退く。


それだけで、この痛みが消えるはずもない。だけど、何もしないまま百日目をまたいで、百一日目も百二日目も同じだなんて、そんなのは嫌だ。


 


夕方、ユナが帰る前に、台所の床を磨いた。窓枠の歪みを直し、雨の音が少し柔らかくなった。狭い家にできることは、少ししかない。だからこそ、少しだけでも変えておきたかった。


扉が開く気配。湿った外気とともに、ユナの髪の匂いが入ってくる。俺は距離を測るように、半歩だけ下がった。


「おかえり」


「ただいま」


その二言のあいだに、細い綱みたいな沈黙が張る。切れば落ちる。渡れば揺れる。


俺は深く息を吸って、胸の中で言葉を整えた。槍を構える前に、握りを確かめるみたいに。


「……明日、話をしてもいい?」


ユナが瞬きをした。まつげに小さな雫が残って、灯りで光った。


「話?」


「うん。触れる、触れないのこと。どうして痛むのか、俺は知らない。君も、きっと同じだ。でも……たとえば、まず、俺が“近づいてもいい?”って問う。君が頷いたら近づく。君が嫌なら、俺は退く。そういうふうに――試してみたい」


喉が乾く。言いながら、馬鹿みたいだと思う。こんな簡単なこと、百日前に言えればよかったのに。


ユナは目を伏せて、濡れた髪を片耳にかけた。手袋越しに耳朶へ触れそうになって、途中で止める。その仕草すら、俺には美しく見えた。


「……こわいの」


かすかな声。雨の音に溶けてしまいそうな。


「痛いのが、じゃない。あなたを傷つけるのが、こわいの。わたしが、合図を無視してしまったら……」


「無視したら、退く。俺が退く。そこで、止まる。そこから、また考える」


「できる?」


「できる」


即答した。訓練場で隊長に叱られるときみたいな声になっていた。


ユナは少しだけ笑った。ほんの少し。けれど、それは百日ぶりに見た笑みだった。


「……じゃあ、明日。話そう」


「明日」


言葉が渡され、受け取られた。盆の縁じゃない。熱も火花も走らない距離で。


 


その夜は、いつもより雨が静かに聞こえた。寝室の扉の向こうで、ユナの寝息が一定の波を描く。俺は隣の部屋で目を閉じ、掌の紅印にそっと息を吹きかける。


触れたくて、触れられない。痛い静けさの中でも――


それでも、妻としたい。


抱くだけじゃない。暮らしを。水を汲み、床を磨き、明日の話をして、眠ることを。


それらを、もう一度、君としたい。


百一日目は、違う朝にする。そう決めて、俺はゆっくりと眠りに沈んだ。

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