短話10 記憶の中の友達
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放課後の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。窓から差し込む西日が、長く伸びた影を廊下に落としている。床を踏むたび、靴音が反響し、がらんとした空間に二人の存在だけが浮かび上がるようだった。
その廊下を、山田琢磨と川井崎幽助は並んで歩いていた。幽助はいつも通り、トレードマークの赤いパーカーと赤いリストバンドを付けている。
「なあ琢磨、覚えてるか? 一年の夏に行った廃校」
「覚えてるよ。あれ、マジでヤバかったやつ」
話しかけられた瞬間、胸の奥に鈍い感覚が広がる。忘れかけていた恐怖が、じわりとよみがえる。
「だよな。あの時さ、音声レコーダーが勝手に再生されて……“帰れ”って声、録音されてたじゃん」
「あれ、人の声って感じじゃなかった。何重にも重なっててさ……機械のノイズみたいに歪んでて」
口にするたびに、あの暗く湿った空間が脳裏に浮かぶ。割れた窓ガラス、埃をかぶった机、どこからともなく吹き込む風の音——。
「再生止めてもまた勝手に流れるし。あの時本気で機材ぶん投げようかと思った」
「俺、あれ聴いた日の夜、耳鳴り止まんなかったんだけど……琢磨は大丈夫だったか?」
「いや、俺も。ずっと“ザーーッ”て音が鳴ってて、夜中にトイレ行こうとしたら玄関のほうから足音聞こえてさ……」
思い出すたびに、腕に鳥肌が立つ。あの夜の重苦しさと、得体の知れない“何か”の気配——それは今も忘れられない。
「うわ、それ聞いてなかった。なんで言わなかったんだよ」
「いや、なんか言ったら現実になりそうで……。でも、あの時、瞳子先輩も変だったよな?」
「変だった。部屋に入る時、いきなり立ち止まって“まだここにいる”って言ったじゃん。誰もいないのに」
「しかも、そのあと無言で窓の外ずっと見てたし……」
あの時は、夕日に照らされた先輩の横顔が、どこかこの世のものではないように見えた。言葉にできない不安が、腹の底に渦巻いた。
「先輩、ああいう時、たまに独り言みたいに呟くの怖いよな。“さっきより濃くなってる”とかさ。何が?」
「確かに。でも、先輩ってさ……本当に“見えてる”んだよな。ああいうの」
「見えてるっていうか……なんつーか、“向こう”と繋がってる感あるよな。普通の人じゃないっていうか」
「おい、そんなこと言ったら怒られるぞ」
「いや、褒めてるんだよ。いい意味」
言いながらも、心のどこかで震える。もし本当に、先輩が“向こう側”に近すぎる存在だったら——そんな想像が脳裏をよぎる。
「……でも、あの廃校のこと、今でもたまに夢に出るんだよな。あの、閉じた教室のドアが、勝手に開く音とか」
「わかる……俺なんか、目覚めた瞬間、耳元で“もう一度来て”って囁かれた夢見たことある」
「やめろやめろ、そういうの本当やめろ。今日部室で一人きりになれなくなるから」
そんな冗談混じりの会話で誤魔化しながらも、心の奥に残るざわめきは消えなかった。
二人は、やがて部室の前にたどり着く。夕日が廊下の突き当たりを茜色に染め、静かな校舎に、不穏な気配が漂っていた。
少し緩んだ表情のまま、琢磨がドアノブに手をかける。
——カチリ。
その金属音が、やけに大きく響いた。
中には、神崎瞳子がいた。窓際の席に腰を下ろし、相変わらず分厚い本を読みふけっていた。
琢磨が軽く手を振ると、彼女はふと顔を上げた。
そして、次の瞬間——静かに眉をひそめた。
「……誰?」
「……え?」
琢磨は思わず振り返る。すぐ後ろには幽助がいる。いつもの、赤いパーカーに無精髭、悪戯好きの表情もそのままだ。
「誰って……先輩、幽助ですよ。川井崎幽助。ずっと三人で活動してたじゃないですか」
しかし瞳子は、ほんの少し顔をしかめたまま、微動だにせず言った。
「知らない」
沈黙が落ちる。
冗談かと思い、琢磨は笑って言おうとしたが、先に口を開いたのは幽助だった。
「……ああ、バレちゃったか」
その声には、いつもの軽さがなかった。
「やっぱ、瞳子先輩には通じなかったか。まあ、そりゃそうか。先輩は"特別"だもんな」
瞳子の目が細くなる。
「あなた、何者?」
幽助は肩をすくめ、あっけらかんとした笑みを浮かべる。
「ただの妖怪だよ。正確には……そうだな、人の記憶に『いることにする』のが得意な妖怪」
「……え?」
「琢磨。お前はオカルト研究会に入ってから、俺とずっと三人で活動してるって思ってたろ? でも、それ、俺がそう記憶を作っただけ」
琢磨は頭を抱えて思い出す。夏の心霊巡り、文化祭の準備、幽助とくだらない怪談を話した夜——。全部、幽助がいた。確かにいたはずだ。
だが――
その記憶の隅に、妙な“空白”があることにも気づいた。写真に、姿がない。ノートに名前がない。会話にも、彼は一つも——。
「やめろ」
低く、冷たい声が部室に響いた。瞳子が、立ち上がっていた。
「私の後輩に、手を出すな」
幽助は、一瞬だけ笑みを消した。
「……やっぱ、苦手なんだよな、先輩のこと」
そして、ふと柔らかな目をして、琢磨に向き直る。
「悪かったな。楽しかったよ、ほんとに」
そう言って、彼は静かに、ドアの向こうへと歩き出した。
ノブに手をかける瞬間、幽助は最後に、振り返らずに言った。
「もしまた、寂しくなったら呼んでくれよ。俺、すぐにお前の中に"いること"になるからさ」
そのまま、ドアが閉じる音がした。
琢磨は、その場に立ち尽くしていた。
瞳子がそっと近づいてくる。
「……彼に心を開いていたのね」
「……はい」
「でも、それは偽りの記憶」
「……でも、楽しかったんです」
琢磨の言葉に、瞳子は黙りこみ、それ以上何も言わなかった。
部室の静寂が、ひどく痛かった。
彼の、幽助の笑い声は、まだ琢磨の耳に残っていた。
◆◆◆
あの日以来、川井崎幽助は姿を見せていない。
神崎瞳子は変わらず、淡々とオカルト研究会の活動を続けていた。
山田琢磨も、なるべく日常に集中しようと努力していたが、心のどこかにぽっかりと空いた穴が残っていた。
幽助との日々の些細な会話、些細な笑い、気配のように残る記憶。それはまるで、消えた幽助の幻影が生活に滲んでいるようだった。
放課後の部室。
その日は瞳子が珍しく、部室を整理していた。
「先輩、珍しいですね」
「気配がしたの」
琢磨は手を止める。
「……誰の?」
瞳子は窓の外を見たまま、しばらく黙った。そして、静かに目を伏せた。
——その夜。
琢磨が一人、部室に忘れ物を取りに戻ったときだった。
校舎はしんと静まり返り、誰もいないはずの廊下を歩く自分の足音だけが響く。
鍵を開け、ドアを押す。
ガチャン……。
扉の向こうは、真っ暗だったはずなのに——明かりが、ついていた。
「……?」
部屋には誰もいないはずだ。
だが、椅子に、誰かが腰かけていた。
「……よお」
赤いパーカー、くせ毛の髪、気怠そうな笑み。トレードマークの、腕にはめた赤いリストバンド。
そこには、川井崎幽助がいた。
「来るって思ってたよ。琢磨なら、絶対忘れ物を取りに戻るタイプだからさ」
「……また、俺の記憶に入り込んだのか?」
「いや、今日は違う。完全に“外”から来た。ちゃんとした形で会いに来たんだ」
幽助は立ち上がり、近づいてくる。その足音が妙にリアルで、重い。
「神崎先輩には……?」
「もちろん気づかれてるよ。部室に入った瞬間に“目”で睨まれた」
琢磨は、思わず身構える。
しかし、幽助は笑って首を振った。
「今日はな、別に悪さしに来たわけじゃない。ちゃんと別れを言いに来たんだ」
「……どういうことだ?」
「お前、まだ俺のこと引きずってるだろ。嬉しいけど、危ないんだよ」
幽助の声が、少し寂しげに響いた。
「俺みたいな存在に、情を向け続けると、こっちに引っ張られる。お前みたいな奴は特に」
「……でも、あの時間は本物だった」
「うん。俺も本気で友達だったと思ってる」
静寂が落ちた。
そして幽助は、不意に笑った。
「だから、最後に言いに来たんだよ」
「言いに来た?」
「ありがとな、琢磨」
その瞬間、蛍光灯が一度、チカッと点滅した。
視界が揺れたような気がして、琢磨は目を細めた。
気づけば、そこには誰もいなかった。
ただ、机の上に置かれた赤いリストバンドだけが、風もないのに、ほんの少しだけ揺れていた。
そのとき——。
急に、琢磨の頭の中から、何かが抜け落ちた。
目の前の光景に違和感を覚えるが、それが何に対するものなのか思い出せない。
しばらく呆然としていると、ドアが静かに開き、瞳子が現れた。
「……来たのね」
「え……? 誰が、ですか?」
琢磨は、ぼんやりと彼女を見つめる。
その瞳には、うっすらと戸惑いの色が浮かんでいた。
瞳子は黙って、机の上のリストバンドに目を落とす。
「彼は……あなたのことを友達と思ってた」
琢磨はその言葉の意味が分からず、首をかしげながらも、なぜか胸の奥が温かく、そして寂しくなった。
理由のわからない感情が胸に広がる。
「……なんか、泣きそうです」
「いい記憶だったのね」
瞳子のその言葉に、琢磨は机の引き出しを開け、赤いリストバンドを丁寧にしまった。
もはや誰のものなのかも思い出せない。けれど、大切なものだという確信だけが残っている。
川井崎幽助は、その夜、静かに山田琢磨の記憶から姿を消し去った。
だが、山田琢磨と河井崎幽助は、本当に「友達」だった。
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