短話6 視えない女
短話です。
「……最近、ずっと体調が悪くて」
秤木陽介は青白い顔で、額の汗を拭いながらそう言った。
その声はかすれ、どこか焦燥感が滲んでいる。
オカルト研究会の部室。
夜の帳が降り、窓の外には冷たい闇が広がっていた。
遠くでカラスが低く鳴く声が聞こえる。
部室の蛍光灯は古びていて、鈍い光が机に置かれた湯呑みの縁をぼんやりと照らしていた。
壁際の書棚には、都市伝説や心霊現象に関する書籍が並んでいる。
その背後に広がる闇は、いつもより深く感じられた。
「病院には?」
神崎瞳子は、机の向こう側の秤木に淡々と問いかける。
「……ええ。でも、特に異常はないって……」
秤木は疲れた表情で首を振る。
目の下には濃い隈ができ、頬はこけている。
長くまともに眠れていないのだろう。
「それで、オカルト研究会に?」
琢磨が口を挟む。
「はい。もし、何か……霊的なものが原因なら、と思って」
秤木はちらりと瞳子を見た。
彼の瞳には、何かに怯えているような、縋るような色が宿っていた。
「何か、分かりますか?」
瞳子は少しの間、秤木の顔をじっと見つめた。
瞬きもせず、ただ静かに。
「……色々と聞かせてもらえる?」
秤木の話を聞く限り、彼の生活には特別変わったことはなかった。
夜更かしもしていないし、変な場所に行った記憶もない。
それなのに、日に日に体調は悪化し、悪夢にうなされるようになっているという。
「うーん……」
琢磨は腕を組み、天井を見上げる。
蛍光灯の冷たい光が、秤木の影をぼんやりと浮かび上がらせている。
窓の外から吹く風は、カーテンをわずかに揺らした。
「何かに憑かれてるとか、そういう可能性は?」
「……そうね」
瞳子は静かに目を伏せた。
まつげの影が、頬に淡い影を落とす。
「私には何も視えない」
「え?」
秤木は僅かに目を見開いた。
「つまり、霊的な問題ではない……と?」
「……ええ」
瞳子の言葉は、あまりにもそっけなかった。
「そっか……」
秤木は少し安心したような表情を浮かべるが、その顔にはまだ不安の色が残っている。
指先をそわそわと動かし、落ち着かない様子だった。
「なら、気のせいってことですか……?」
「かもね」
瞳子は淡々と答える。
「それと私はこれから出掛けるから」
「あ、はい……すみません、お邪魔しました」
秤木は立ち上がり、軽く頭を下げて部室を出て行った。
彼の足取りはぎこちなく、どこか落ち着きがなかった。
バタン、と扉が閉まる。
琢磨は違和感を覚えた。
瞳子の態度が、いつもと違う。
「先輩、いつもと違いません?」
「……なに?」
「いや、今日はあっさり帰したなって」
瞳子は沈黙する。
そして、ゆっくりと琢磨の方へ顔を向けた。
「琢磨」
「はい?」
「……あの人の後ろに、いた」
「…………え?」
琢磨は息を呑んだ。
瞳子は窓の外を眺めながら、ぽつりと呟く。
「血まみれの、髪の長い女の人」
琢磨の背筋が一気に冷たさを感じる。
部室の空気が、急に重く感じる。
「……え、でも、先輩は『何も視えない』って……」
「ええ、そう言った」
「じゃあ……」
瞳子はゆっくりと振り返る。
瞳の奥に、どこか冷ややかな光が宿っていた。
「一つは『霊的な問題じゃない』ってこと」
琢磨の心臓が、不快な鼓動を打つ。
「……それって……」
「殺したのは、彼」
琢磨は言葉を失った。
「つまり、それは幽霊じゃなくて……」
「彼が作り出した妄執」
指先が冷たくなっていく。
「あのまま放っておいたら、そのうち彼は壊れる」
琢磨は喉が渇くのを感じた。
「……先輩」
「なに?」
「もし、あの人がまた来たらーー」
コン、コン——
琢磨は息を呑んだ。
廊下の向こうから微かに冷気が流れ込んでくる。外はすでに深い夜の気配に包まれ、窓の外に映る大学の校舎は、不気味に静まり返っていた。
ついさっき帰ったばかりの秤木が、また戻ってきた。
胸の奥がざわつく。
琢磨は喉の渇きを感じながら、隣にいる瞳子をちらりと見る。
彼女は表情を変えず、すっと立ち上がる。長い黒髪がさらりと揺れた。
彼女の指先が、一瞬だけ戸の縁を強く握るのを、琢磨は見逃さなかった。
静かに、扉が開く。
「どうしたの?」
扉の向こうに立っていたのは、先ほどと同じ様子の秤木——いや、どこか違う。
頬はよりこけ、額の汗が異様なほどに光り、目の焦点は定まらず、まるで何かに取り憑かれたように、落ち着きなく動いている。
廊下の薄暗い光の下、彼の影がぎこちなく揺れた。
「……すみません、やっぱりもう一度、話を聞いてもらえませんか?」
秤木の声は震えていた。
琢磨は無意識のうちに唾を飲み込む。
「やっぱり、僕……おかしいんです。何かがおかしい……」
瞳子はじっと秤木を見つめる。まるで観察するような、慎重な眼差しだった。
「なにが?」
「分からない……でも、頭の中で声がするんです。何かが……ずっと僕を見ている気がして……」
秤木は額を押さえ、肩を震わせた。
——ずっと見ている?
彼が言う「何か」は、本当にそこにあるのか。それとも、彼の罪悪感が生み出した幻影なのか——
「……でも、病院では異常なしだったんですよね?」
琢磨は自分の声が、妙に乾いて聞こえた。
「そうなんですが……」
秤木は苦しげに俯く。
彼の肩がかすかに震えていた。
まるで、何かが背後にいるかのように——
「本当に……霊的な問題じゃないんでしょうか?」
瞳子は、少しの間、秤木を見つめる。
彼女は、静かに口を開いた。
「……分からない」
秤木の肩がぴくりと動く。
「……分からない、ですか?」
「ええ。さっきも言ったけど、私には何も視えない」
瞳子の声は冷静だった。けれど、その冷静さが、逆に琢磨を不安にさせる。
——本当に、それだけか?
瞳子の目は、何かを見透かしているようにも思えた。
秤木は、ふらふらと立ち上がる。
「……分かりました。すみませんでした」
彼は扉の方へ向かう。
その背中が、どこか脆く、不安定に見えた。
バタン——
再び扉が閉まる音が、妙に重く響く。
部室の静寂が、耳鳴りのように痛かった。
琢磨は、じっと瞳子を見る。
「先輩……彼は……」
「ええ」
瞳子は、窓の外に視線を向けた。
闇の奥で、遠くの街灯がぼんやりと揺れている。
「……彼のポケットには、刃物が入っていた」
琢磨の背筋が凍りつく。
「……え?」
「彼がここに来た理由……おそらく、本当に『何か』に怯えていたのは間違いない。でも、それだけじゃない」
瞳子はゆっくりと振り返る。
「もし、私や琢磨が彼の殺人に気づいていたら——」
琢磨の喉がカラカラに渇く。
「……でも、何で? 俺らは別に警察でもないし……」
「罪を知っている者がいるだけで、彼は脅威を感じていたのよ」
瞳子はゆっくりと目を閉じる。
「だから……『分からない』と答えた」
琢磨はごくりと唾を飲み込んだ。
「……じゃあ、これで終わり、なんですか?」
「……どうかしら」
瞳子は再び窓の外を見た。
どこか遠くで、パトカーのサイレンが響いている。
冷たい夜の空気が、まるで何かの前触れのように感じられた。
◆◆◆
翌日——
日も沈もうという時間なのに、大学の構内は、どこか落ち着かない空気に包まれていた。
学生たちがざわざわと騒いでいる。
「……なんか、事件らしいぞ」
「警察が来てたよな」
「え、まじで? どこで?」
「駅前の公園だって」
琢磨は足を止める。
背中に嫌な汗が滲むのを感じながら、騒ぎの中心にいる学生たちの会話に耳を澄ませた。
「公園のトイレで……血まみれの学生がいたって……」
琢磨の心臓が跳ねる。
「……死んだのか?」
「いや、まだ息はあったらしい。自分で警察に通報したみたいで……」
「え、つまり……自殺未遂?」
「……そうらしい」
琢磨の手が、無意識に震える。
「……先輩」
振り返ると、瞳子がいた。
静かな瞳でこちらを見つめている。
「……聞いた?」
「ええ」
瞳子は淡々と頷いた。
「……どうします?」
「……行きましょう」
◆◆◆
駅前の公園は、立ち入り禁止のテープで囲まれていた。
数人の警察官が現場検証を行っており、通行人たちが遠巻きに様子を窺っている。
琢磨と瞳子は、少し離れた場所で、その光景を眺めていた。
「……先輩」
「何?」
「……あの人、本当に自殺しようとしたんですかね?」
瞳子は、静かに瞳を細める。
「……どうかしら」
「……」
琢磨は、警察官の後ろに運び出される担架を見た。
毛布の下に隠された秤木の姿——
「……罪を、背負いきれなかったのね」
瞳子の言葉は、夜の空気のように冷たく響いた。
「それとも彼を、『見ていた何か』が……」
琢磨は背筋が凍るのを感じた。
あの時、瞳子が見たという『全身血まみれの女』——
それがもし、本当に彼の罪悪感が生み出した幻影ではなく、"何か" だったとしたら——
琢磨はふと、瞳子の隣を見る。
彼女は静かに目を閉じていた。
「……終わりましたかね」
「……それは、彼にしか分からない」
瞳子は静かに呟く。
「でも、少なくとも——」
彼女は、言葉を続ける。
「——私たちは、"視えない" ままでいられた」
琢磨は、何とも言えない表情で彼女の横顔を見つめた。
ありがとうございました。