短話5 赤い月、赤い海
アイデア浮かんだので短話で書いてみました。本編中にすいません。
夜の帳が降りた大学のキャンパス。
湿った空気が肌にまとわりつく。
風は生温かく、木々の葉が重たげにざわめいていた。
遠くで蛙の鳴く声が響き、闇が世界をゆっくりと包み込んでいく。
ほんとうにふと、琢磨は何気なく夜空を見上げた。
「……え?」
足が止まる。
――月が、赤い。
不吉なほどに、血のような赤。
滲み広がる鮮血のような輝きで、月は静かに空に浮かんでいる。
まるで、じっとこちらを見つめているかのように——。
琢磨は無意識にまばたきをした。
(月って……こんな色だったか?)
頭の奥に違和感が広がる。
月は普通、灰色のはずだ。――いや、絶対に灰色だった。
しかし、どれだけ目を凝らしても、そこにあるのは赤い月。
胸の奥がざわつく。
この違和感を振り払うように、琢磨は足早にキャンパスを抜け、オカルト研究会の部室へと向かった。
◆◆◆
「先輩、今日は月が赤いですね」
部室のドアを開けると、神崎瞳子がいた。
長い黒髪を指で梳きながら、琢磨の方へ静かに視線を向ける。
「ええ」
それは、何の疑問も持たない声だった。
「……でも、昨日まで月って普通の色でしたよね?」
琢磨の言葉に、瞳子は不思議そうに首をかしげた。
「何を言っているの?」
琢磨は息を詰まらせる。
「いや……だから、昨日までは普通の灰色だったじゃないですか」
「昔から、月は赤色よ?」
「……は?」
喉の奥がひりつくような感覚。
じわりと冷たい汗が背中を伝った。
「いやいや、そんなわけないでしょ」
「どうして?」
「だって、月は灰色だったんですよ! ずっと!」
「ずっと?」
瞳子は少し考えるように間を置き、静かに口を開く。
「マンデラ現象、知ってる?」
琢磨は思わず言葉を詰まらせた。
「……歴史の記憶が食い違うやつですよね?」
「ええ。例えば、『ある有名人が獄中死した』と記憶している人が多いのに、実際はその後も普通に生きていた——そんな、現実と記憶のズレのこと」
琢磨は瞳子の顔をまじまじと見つめた。
静かな表情。だが、その瞳の奥には、何か言い知れぬ冷たさがあった。
「いや、でも……」
「あなたの記憶では、月は灰色だった。でも、私の記憶では、月はずっと赤かった」
瞳子はふっと窓の外を見る。
そこには、異様なほどに赤く輝く月。
「琢磨、海の色は?」
「え? そりゃ……青ですよ」
「本当に?」
瞳子の言葉に、琢磨の心臓が跳ねた。
「……いや、まさか」
「海の色はずっと、赤色」
琢磨は唾を飲み込む。
「………………嘘だろ」
「見て」
瞳子がスマホを取り出し、画面を琢磨に向ける。
ネットの検索結果が映し出される。
『海の色はなぜ赤いのか』
『昔から続く海の謎』
『海はなぜ赤色なのか』
どれもこれも、まるで当たり前のように「海は赤い」と書かれていた。
「おかしい……昨日まで、青だったんだ……」
琢磨の指が震え、スマホの画面を閉じる。
呼吸が浅くなる。
「あなたの記憶が正しい保証なんて、どこにもない」
瞳子が、琢磨の目をまっすぐ覗き込む。
琢磨は喉の奥が凍りつくような感覚に襲われた。
「……先輩?」
「あなたは、どこから来たの?」
「……え?」
「ここは、月が赤く、海も赤い世界」
「……そんなはず、ない」
「どうして?」
瞳子の声が、どこか遠くから響くように感じた。
部室の空気が重くなる。
琢磨の耳鳴りが強くなり、意識がぐらつく。
「…………俺は、どうすれば?」
「簡単よ」
瞳子は、柔らかく微笑んだ。
「間違った記憶を捨てればいい」
その瞬間、視界が暗転した。
琢磨の意識が、ゆっくりと遠のいていく。
最後に見えたのは——
夜に浮かぶ月のように、赤く光る、瞳子の瞳だった。
◆◆◆
「……琢磨」
誰かの声がする。
柔らかく、それでいて冷たい声。
まぶたを持ち上げると、黒髪の影が揺れていた。
「目、覚めた?」
神崎瞳子が、琢磨の顔を覗き込んでいた。
細い指が肩を揺さぶる感触がまだ残っている。
「先輩……?」
意識がぼんやりとしている。
自分は確か——
赤い月。赤い海。
瞳子が「昔からそうだった」と言っていて——
——どこから来たの?
「ッ!!」
琢磨は跳ね起きた。
「どうしたの?」
「いや……えっと、俺……」
部室の中。
窓からは太陽の光が差し込んでいる。
琢磨はざわつく胸を抑えながら、恐る恐る尋ねた。
「先輩……月の色って、何色ですか?」
瞳子は一瞬きょとんとして、
「灰色よ」
琢磨は無意識に息を吐き出した。
「じゃあ…………海の色は」
「青色」
「……本当に?」
「……? 当たり前でしょ?」
琢磨は肩の力が抜けた。
「よかった……」
(夢だったんだ……)
赤い月も、赤い海も、瞳子のあの目も——全部。
琢磨は額の汗を拭う。
瞳子は静かに琢磨を見つめた。
「おかしな人」
そう言って、彼女は窓の外を見つめた。
そこには、燦々と輝く——
青い太陽が浮かんでいた。
ありがとうございました。