短話4 ムラサキさん
三日ぶりの更新です。
夜の十八時、窓の外には闇がじわじわと広がり始めていた。大学構内の街灯がぼんやりとした橙色の光を投げかけ、静かな夜の訪れを告げる。オカルト研究会の部室には古びた蛍光灯の光が灯っていたが、どこか心許ない明るさだった。カーテンの隙間からは外の暗闇が覗き、冷たい夜風が僅かに入り込んでいる。
「ムラサキさんの話、知ってます?」
琢磨はスマホをいじりながら、向かいに座る神崎瞳子に問いかけた。手元の画面にはネット掲示板のスレッドが表示されている。
「なんの話?」
瞳子は長い黒髪を指で弄びながら、静かに首を傾げる。影がかった瞳が琢磨をじっと見つめた。
「ネットで最近話題の都市伝説ですよ」
琢磨はスマホの画面を傾け、瞳子に見せた。青白い光が二人の顔をぼんやりと照らし、部屋の隅に揺らめく影を作り出す。
——ある日、道を歩いていると、遠くに紫の服を着た人が立っていた。近づくと、その人もこちらを見ていた。さらに近づくと、そいつもこっちに近づいてくる。すれ違う瞬間、その人の顔は笑っていた。
——その夜、夢の中にムラサキさんが現れる。目が覚めると、もう二度とムラサキさんを見ることはできない……。
「二度と見ることはできない?」
瞳子は興味深そうに琢磨を見つめた。細い指がカップの縁をなぞる。
「そうなんですよ。見つけることはできない、っていうのが不思議じゃないですか?」
「そうね」
瞳子は静かに呟いた。その表情は僅かに微笑んでいるようにも、何かを考え込んでいるようにも見える。
「見たことがあるの?」
「いや、ないですよ」
琢磨は軽く笑いながら答えた。しかし、その瞬間——
コン、コン……
部室の扉が、ノックされた。二人は顔を見合わせる。
「こんな時間に……?」
琢磨が立ち上がり、扉へと歩み寄る。足音が妙に響く。ドアノブに手をかけた、その時——
すりガラス越しに、何かが立っているのが見えた。
——紫色の人影。
琢磨の動きが止まる。
「……先輩」
瞳子もまた、表情こそ変わらないが、じっと扉を見つめていた。
「開ける?」
「いや……」
琢磨は扉を開けるべきか迷った。理由のわからない寒気が背筋を這い上がる。
「開けたら、あなたの夢の中に出てくるかも」
瞳子の声が静かに響く。
琢磨の手が、ピタリと止まる。
すると——
ふふふ……
扉の向こうから、微かな笑い声が聞こえた。
そのまま、紫の人影はゆっくりと扉の先から消えていった。
琢磨は息を呑む。
「……いましたよね?ムラサキさん」
「ええ」
◆◆◆
――それから数日後。
琢磨は、町の至るところで“紫の服の人”を見かけるようになった。
最初は偶然だと思った。
交差点の向こう、駅のホームの端、公園の木陰。
人混みに紛れているわけでもなく、かといって目立つわけでもない、ただそこにいる。
琢磨は何度も目をこすり、深呼吸をしてみた。
気のせいだと自分に言い聞かせようとした。
けれど——
視線を感じる。
ふとした瞬間、その“紫の服の人”は、じっと琢磨を見ていた。
遠くから、すぐ近くから。
電車の窓の向こう、公園のベンチの端、雑踏の中。
琢磨が気づくと、その人影はゆっくりと視線を逸らし、次の瞬間には消えている。
“紫の服の人”は、人間の形をしているはずなのに、まるで意識を持った影のように、どこからか自分を監視しているようだった。
琢磨は冷や汗をかきながら、スマホを強く握りしめる。
(……瞳子先輩に相談しよう)
そう思い、足早にオカルト研究会の部室へ向かった。
扉を開けると、そこにはいつものように瞳子がいた。
長い黒髪を指で梳きながら、ゆっくりと顔を上げる。
「どうしたの?」
琢磨は彼女の落ち着いた声に、少しだけ安心する。
「ムラサキさん……見かけるようになりました」
自分で言葉にして初めて気づいた。
琢磨の声は、思ったよりも震えていた。
瞳子は静かに目を細めた。
「いつから?」
「部室でムラサキさんの話をした次の日からです」
琢磨はどさりと椅子に腰を落とし、大きくため息をついた。
「最初は偶然かと思ったんですけど……なんか、いつも俺の方を見てるんですよ」
窓の外では風が強く吹き、古いガラスがかすかに震えた。
琢磨の言葉とシンクロするかのように、空気がざわめく。
瞳子はしばらく黙ったまま、琢磨の目をじっと見つめていた。
「夢は見たの?」
「いえ、まだ」
「噂では、夢でムラサキさんを見ると、二度とムラサキさんを見ることはできない。だった?」
「そうです」
「それ、夢を見ない限り、現実でムラサキさんを見続けるわね」
琢磨の背筋に、再び冷たいものが走った。
「じゃあ俺はこのままずっと……?」
瞳子は静かに頷いた。
「解決策はあるわ」
「それは……どうやって?」
「ムラサキさんの夢を見る」
瞳子は、メモ帳を取り出すと、右手に持ったペンを滑らかに動かし、何やら書き込む。そしてそれを琢磨に渡す。
メモには、『ムラサキさん、エラブチャ、ガンヂャグォ』と書いてある。
「怪異の夢に入れるように祝詞を基に言葉を組んだ。このカタカナをそのまま読めばいい」
意味のない羅列のように見えるが……。
「分かりました」
琢磨はごくりと唾を飲み込んだ。
「もしもです、もしもですよ……万が一、戻ってこれなかったら?」
瞳子は、少しだけ微笑んだ。
「その時は、私が起こしてあげる」
その言葉は、不思議と安心感を与えてくれるものだった。
琢磨は彼女をじっと見つめる。
瞳子の表情には、どこか楽しんでいるような雰囲気もあった。
「……あの、先輩、何か楽しんでません?」
「さあ?」
瞳子は小さく首を傾げる。
琢磨は、深く息を吸った。
このまま放置しても、ムラサキさんは消えない。
ならば、やるしかない。
目を閉じ、机の上に置かれた紙をそっと手に取る。
夢に入るための言葉——それを唱えれば、ムラサキさんの世界へと足を踏み入れることになる。
「ムラサキさん、エラブチャ、ガンヂャグォ」
その瞬間——耳元で、微かな笑い声が聞こえた。
ひやりとした空気が頬を撫でる。
――琢磨の意識が、ふっと遠のいていった。
眼を覚ますと、そこは紫色の世界。無人の町。
――そして、遠くに立つ紫色の影。
「……来たか」
琢磨は、一歩足を踏み出した。
ムラサキさんも、ゆっくりとこちらに向かってくる。
琢磨は、恐怖を押し殺しながら、その顔をはっきりと見るために、さらに近づいた。
——そして。
ムラサキさんの顔が、はっきりと見えた。
その瞬間——琢磨の心臓が凍りついた。
そこにいたのは——。
「……え?」
自身の顔だった。
ムラサキさんは、琢磨と同じ顔で——ただ、にたりと笑っていた。
「見つけた」
琢磨の口から、無意識に言葉がこぼれた。
——ムラサキさんが、こちらに向かって手を伸ばす。
視界が開ける。
琢磨は、見覚えのある場所に立っていた。
大学の校舎前。
——しかし、何かが違った。
町の灯りは消え、空にはどこまでも紫の濃霧が広がっている。
大学棟は静かに佇み、聞こえるはずの人の話し声も、一切が聞こえない。
世界は、琢磨と——ムラサキさんだけだった。
目の前に立つムラサキさん。
いや——紫色の服を着た、もう一人の琢磨。
「……なんだよ、これ」
琢磨は震える声で呟いた。
ムラサキさん——いや、“もう一人の自分”は、ゆっくりと口を開いた。
「ようやく、見つけた」
その声は、確かに琢磨自身のものだった。
だが、何かが違う。
歪んだ笑み。わずかに濁った声色。
まるで、自分ではない“何か”が喋っているような違和感。
琢磨は拳を握りしめた。
「お前……何なんだよ」
ムラサキさんは、微笑んだまま、ゆっくりと首を傾げた。
「僕は、お前」
「ふざけるな……!」
琢磨は後ずさった。
しかし、紫の琢磨は逃がさないと言わんばかりに、一歩ずつ、ゆっくりと距離を詰めてくる。
「お前……何が目的なんだ」
「簡単なことさ」
紫の琢磨は笑う。
「僕とお前が入れ替わる」
——入れ替わる?
琢磨は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(……そういうことか!)
ムラサキさんを夢で見た者は、二度とムラサキさんを見ることができない。
それは、ムラサキさんが消えるのではなく——
ムラサキさんが“自分”と入れ替わり、ムラサキさんになった自分はこの世界に閉じ込められるのだ。
ここで逃げてはいけない。
ここで目を逸らしたら——
「俺は、お前にはならない」
琢磨は、強く叫んだ。
ムラサキさんは、一瞬だけ表情を曇らせた。
「そうか」
次の瞬間——
ムラサキさんが、一気に駆け寄ってきた。
琢磨は反射的に拳を振るった。
しかし、その拳は空を切る。
「なっ——」
ムラサキさんは、琢磨の背後に瞬間移動したかのように立っていた。
「やめろよ」
すぐ耳元で囁かれる。
ガシッ——!
琢磨の肩を、冷たい指が掴んだ。
「お前が、ムラサキさんになるんだ」
身体が、沈んでいく。
意識が、紫の霧に溶けていく。
琢磨は必死に抵抗しようとした。
だが、何もできない——。
その時——
ふっと、温かい光が差し込んだ。
「琢磨」
微かに聞こえた、優しく冷静な声。
聞き覚えのある声に琢磨の意識が、引き戻される。
――それは、瞳子の声だった。
◆◆◆
「——っ!」
琢磨は、ビクッと身体を起こした。
荒い息。
額にはびっしょりと汗をかいていた。
部室の天井が見える。
「……夢?」
震える手を握りしめた。
「目が覚めたようね」
静かな声が響いた。
琢磨は、瞳子が隣に座っているのに気がついた。
「……助けてくれたんですか?」
瞳子は、少しだけ微笑んだ。
「さあ?」
「ありがとう……ございます」
——ムラサキさんは、もういない。
夢の中で、彼を見たから。
琢磨は、深く息を吐いた。
「終わった……んですね」
瞳子は、静かに頷いた。
「ええ、」
琢磨は、ぼんやりと天井を見上げた。
その日以降、もう、紫の人影を見ることはなかった。
ご拝読、ありがとうございました。