脱走
この世界において、太古の昔から存在する様々な「怪異」は、人々にとって半ば自然災害のようなものと認識されている。突然現れては人間社会に害をなす――台風などのように予測がつかない分、彼ら「怪異」は更に厄介なものと言えた。
モニターには、戦闘員たちが「怪異」を相手に苦戦している様子が映し出されている。
粘性を持つ流動体の如き「怪異」は、見る度に形を変えながら、その巨体で周囲の建物を薙ぎ倒しつつ移動していた。
この「怪異」は、ヤクモが編み出した「バリア」に似たものをまとっていて、戦闘員たちが使用している自動小銃では、なかなか有効打が与えられていないようだ。
「花蜜さんたち、大丈夫かな……」
対怪異戦闘部隊の殉職率が高いと言われているのを思い出し、陸は心配になった。
「あの程度の相手に手こずるとは。我なら、負ける気はせぬが」
はらはらしながらモニターに見入っている陸をよそに、ヤクモはフンと鼻を鳴らして呟くと、身体の奥に引っ込んでしまった。
「ちょっと! 何で引っ込んじゃうんだよ?」
突然、ヤクモと入れ替わる形になった陸は慌てて言った。
「あの冷泉とかいう小娘はいなくなったし、『テスト』は中断であろう? それなら、我の用事も終わりという訳である」
「待てよ、君なら、あの『怪異』にも負ける気がしないんだろう? だったら、俺の身体を使っていいから、花蜜さんたちを助けて欲しい」
「は?」
陸の言葉に、ヤクモは心底意味が分からないと言いたげな声を漏らした。
「何ゆえに、我が人間たちを助けねばならぬのだ? たしかに我は人間である貴様の身体に間借りしているかもしれぬが、それとこれとは別だ。そもそも、大事な器である、この身体を危険に晒す訳なかろう」
「花蜜さんは、俺たちを庇ってくれたじゃないか! そうでなくとも、俺は人間だから人間を助けたい! それに、君が気になると言っていた店は、あの現場の近くにあるんだぞ。放っておいたら、店が破壊されて買い物どころじゃなくなるかもしれない」
「あなや……それは困るのだ……あの店の激辛カレーとやらを食してみたいのだ……」
「俺、辛いの苦手なんだけど……それはともかく、君にも無関係じゃないだろう?」
陸は、逡巡しているヤクモに、必死で揺さぶりをかけた。
「……是非に及ばずなのである」
ヤクモが言うと同時に、陸は再び自分の意識が身体の深い部分に沈み込むのを感じた。
幸いにも、実験室に残った職員たちは、事件現場を映すモニターに気を取られている。
隙を見て、ヤクモは実験室の扉から廊下に出た。
「あとは、どうやって現場に行くかだな……」
「バイクを盗んで走り出すのか? ネットで見たのである」
陸の言葉に、ヤクモが研究施設の廊下を素早く移動しながら答えた。
「それは犯罪だから駄目だよ!」
「なに、もっと効率のいい方法がある」
屋外へ通じる扉を見付け、ヤクモは外に出た。
そこは、建物同士の隙間にあたる場所で壁に囲まれており、人目につく可能性は低そうだ。
「しばし待つがよい」
ヤクモは、やや前屈みになり背中に意識を集中させた。
「うわ……何か気持ち悪……!」
背中の皮膚の下に、灼熱感を伴った何かが蠢くのを感じ、陸は思わず声を漏らした。
次の瞬間、彼は、背中の皮膚と、更に着ていた衣服を突き破り、何かが生えてくるのを感じた。
はたはたと動くそれは、自分の目で見なくとも「翼」であることが、陸にも分かった。
軽く地面を蹴り、ヤクモが背中の翼を羽ばたかせたかと思うと、その身体は上空へと舞い上がる。
「これなら、直線で移動できるゆえ、時間の短縮になるだろう。現場とやらの場所を教えるがいい」
「な、何でもありなのか……ここからなら、あの高いタワーのある方向に向かえば着く筈だ」
「承知した」
ヤクモは疾風の如く空を切り裂きながら、目標のタワーへ向かって飛んだ。