ああ! リアナ様、リアナ様……
「哀れ」
別人のように黙っていたジェラミーが口をひらいた。
口にした言葉とはちがい同情した様子はない。
冷たい目でリアナを見下ろしている。
リアナがワンピースの上から胸を押さえ、土の地面に膝をついたときだった。
(……どうなってるの……)
ジェラミーにききたかったが、息が乱れ、顎が震えて声がでない。
胸がつよく鼓動している。
あばら骨が折れるような痛みを感じる。
ついさっきまで心地よい春の日差しが射すヘイランの森を婚約者のジェラミーと並んで歩いていた。
ジェラミーは魔人王討伐の遠征の際に訪れたシンの街のことを歌うように語っていた。
シンの港では日中に気温があがると対岸に街の建物の蜃気楼が見えるといっていた。
それが夢の中のことのように思える。
「レディ・リアナも心残りだろう」
美しく整った顔のジェラミーがいった。
「何も知らず苦しみ、死んでいくのは心残りだろう」
森の木々の葉の間から射す陽を受けたやわらかな金髪が輝いている。
(……死)
リアナの肌が恐怖で粟だつ。
「このワインにはダチュラの毒が入っている」
ジェラミーが優雅にしゃがみこむ。
「ダルト砂漠にいる大蜘蛛の毒だ」
額から顎に汗が流れ落ちているリアナに皮袋を見せる。
森を散策しながらリアナに飲むようにすすめたシン産のワインが入った皮袋だった。
(このヒト、魔物に憑かれているのだろうか……)
リアナは混乱する頭の片隅で思った。
(……ちがう、嫌な予感があたった。あの目。このヒトはどこか信用がならなかった……)
さらに息苦しくなる。
(……でも、なんで、わたしを……)
ジェラミーが自分を毒殺しようとする理由を考えられなくなる。
「レディ・リアナ、あなたは太陽に近づきすぎた。ジェラミー・ランドルという太陽に。その炎で焼かれるのだ」
ジェラミーはズボンの土を払いながら立ちあがっていった。
証拠を十分に集めた審判官が、罪人に刑を言い渡すように確信をこめて。
「まあ、むりもない。スプリングホルムの女ならわたしに惹かれるのも」
(……あなただろう、わたしに近づいてきたのは)
リアナは貴族令嬢の儀礼をすて、口の奥に指を入れ毒を吐きだそうとした。
だが、胃からはなにもでてこない。
(……いやだ……この男に殺されるのは……)
身体を丸め拳を握り、薄れそうになる意識をつなぎとめようとする。
「ジェラミー様」
不意に頭上で女性の声がした。
見上げると驚いた。
(……ナターシャ……)
「彼女、まだ息はあるのですか?」
宰相の娘は大きな目で長身のジェラミーを見上げ、じれったそうにいった。
今から宮殿の晩餐会にでるような恰好をしている。
森には場違いの宝石のついた髪飾り。首飾り。華やかな紫のドレス。
(……どうして?)
彼女の香水の香りをかぐと、リアナはやはりこれは悪い夢なのではと思う。
「まもなく邪魔者は消えます」
ジェラミーは落ち着いた声をナターシャにかけた。
「レディ・リアナ、わたしはナターシャ様と結婚をする。ナターシャ様とはつよいつながりを感じるのだ。前世から恋人同士であったように」
ジェラミーはリアナに告げた。
「リアナ、残念。計画は失敗」
ナターシャは星の彫刻の指輪をはめた指をおおげさな身振りでリアナに突きつけた。
「あなたのたくらみはわかってる。勇者ジェラミー様の妻となり、社交界で注目を浴びたかったのでしょう」
自分の演技に酔っている女優のように芝居がかった口調でリアナを責める。
「あなたはサロンでぱっとしないとるにたりない女。それで、勇者様の妻となることで自分の価値を高めようとした。その為に策を弄した。純粋なジェラミー様があなたと結婚するように追い込んでいった」
(でたらめ……)
リアナの頭に求婚してきたジェラミーの姿が思い浮かぶ。
(ジェラミーからだ。わたしに結婚を申し込んできたのは……)
王女の婚礼の日の夜。
宮殿の庭園。
ジェラミーはリアナの前に片膝をつき、彼女の腕に花の彫刻のブレスレットをはめた。
「あなたのくだらない見栄でジェラミー様の輝かしい未来をだいなしにはさせません。魔人王討伐の勇者、ジェラミー様はスプリングホルムの宝。あなたがジェラミー様の妻になれば、宝の輝きは失われていきます」
ナターシャは使命感を持った者のよう決然としていた。
「わたしのお父様の後ろ盾があればジェラミー様は出世の道を駆けていくでしょう。駿馬に乗ったように。あなたの父親ではジェラミー様の力にはなれません。ジェラミー様は無様に落馬します。わたしの家とあなたの家では格がちがう」
蔑んだ目でリアナを見下ろす。
「わたしもあなたの死まで願ったわけではありません。しかし、ジェラミー様があなたとの婚約を破棄したとなれば、悪評が流れてしまう。ジェラミー様の出世の足がかりになってしまう」
ナターシャは熱っぽい目をジェラミーに向ける。
「ナターシャ様にも悪評が流れるかもしれない。レディ・リアナからわたしを奪ったと」
ジェラミーはナターシャに顔を向けいった。
「ナターシャ様の名を汚すわけにはいかないのだ」
耳まで赤くしたナターシャの顔に満足そうな笑みが浮かぶ。
ジェラミーは微笑みかえす。
だが、その目は笑っていなかった。
「レディ・リアナ、あなたには犠牲になってもらう」
「お父様がおしゃっていました。多数の平凡な下の者たちが、少数の優れた上の者の犠牲になる。それで、国が栄えていくと。それがこの世の常だと。ジェラミー様の出世はスプリングホルムのためです」
ジェラミーとナターシャは宣告をした。
リアナは喉元をつかまれ、つよい力で締めつけられたような息苦しさに襲われた。
首をかきむしるように押さえ、とっさに側にあるナターシャのスカートをつかむ。
「汚れるじゃない」
顔をしかめたナターシャが、汚い虫がついたようにスカートをひっぱり、リアナの手を払った。
「あの!」
そのとき、リアナ達の背後から声がした。
ジェラミーとナターシャの視線が弾かれたように声のほうに向く。
リアナたちは離れたところから彼女達を見ていた中年の男に気がついていなかった。
トゥニックを着た平民の男は山菜が入った籠を抱えている。
「……勇者様、そちらの女性は大丈夫ですか? なにかあったのですか?」
リアナたちにおずおずと近づいてくる。
(……助かるかも)
リアナは必死の思いで目を開いた。
顔が赤いひげに覆われている男を見る。
「彼女は急にめまいがしたようだ。少し休めばよくなる」
リアナを冷たく見下ろしていたジェラミーが赤ひげの男に微笑んだ。
「左様ですか……」
赤ひげの男はジェラミーにつられ、ぎこちなく微笑んだ。
異変に気がついてるようだった。
こわばった表情のナターシャも赤ひげの男に笑いかける。
「助けて!」
リアナは自分でも驚くような力で地面に手をついた。
「この人達……殺そうとしている! わたしを殺そうとしている!」
顔をあげ力のかぎり叫んだ。
(……だめだ、この機会を逃がしたら……)
「誰か、呼んできて! はやく! お願いします!」
赤ひげの男は呆気にとられている。
助けを求めるリアナを呆然と見ている。
ナターシャの顔から血の気がひく。
ジェラミーが動いた。
赤ひげの男に足音を立てず、静かに近づいていく
男は足に根が生えたように固まっている。
顔から笑みがすっと消えたジェラミーは氷のように冷たい表情になっていた。
歩きながら、宝石が埋め込まれた腰のベルトについた金の鞘から短剣を抜く。
それは、魔人王を討伐した功績としてロッド国王から贈られた短剣だった。
ジェラミーは赤ひげの男の前に立つと、男の首を一文字に切り裂いた。
一瞬の出来事だった。
男は目を見開いたまま手から山菜が入ったか籠を落とし、倒れ、息絶えた。
大きな目を開いたナターシャが、短い悲鳴をあげ、口を手で覆う。
リアナの目にたちまち涙が浮かぶ。
(……ああ)
「ナターシャ様、ひと思いにレディ・リアナも始末しましょう。なに、病気になり役にたたなくなった家畜を始末するようなものです」
ジェラミーは動揺するナターシャに穏やかに声をかけた。
「心配はいりません。ジェラミーとナターシャ様は幸せになります。スプリングホルムの歴史に残る夫婦となります。エリス王とアデル女王のように愛の物語となり、語りつがれます」
ナターシャに近づき、どこか義務的な動作で額に口づけをする。
「……はい。幸福には代償をはらわなければなりません」
ナターシャは甘い痺れに身体を震わせ、頷いた。
「……やっと夢が叶います。わたしは子供の頃から夢見てきました。ジェラミー様のような気高い男性の妻となることを。それが女のなによりの幸せだと思ってきました」
(……なんでこんなことに…………)
リアナの頬に涙がつたった。
土の地面を這って、短剣を手にしたジェラミーから逃れようとする。
だが、手足が痙攣し、悪夢のように動けない。
ジェラミーがリアナに足音をたてずに近づく。
日差しを反射した短剣の刃が光っている。
細く長い指でリアナの頭部を掴み、身体を引き起こす。
(……死にたくない……死にたく……)
ジェラミーはリアナの喉元をためらうことなく切り裂いた。
一瞬にして目の前が真っ暗になった。
リアナは痛みを感じる間もなく死んだ。
「……マハドゥラム……」
遠くで声がする。
「……マハドゥラム……マハドゥラム……マハドゥラム……」
(……誰?……)
声がだんだんはっきりと聞こえる。
そして、消えていたリアナの意識を呼び覚した。
おそるおそる目を開いた。
森の影に覆われていた人物の輪郭がはっきりしていく。
(ノエル……)
見慣れた使用人の姿が目の前にあった。
ノエルは地面に横たわるリアナの胸元に木のステッキの持ち手をかざしている。
「ああ! リアナ様、リアナ様……」
リアナの顔を覗き込こみ、泣き笑いの表情を浮かべている。
(……死んでいない、わたしは……)
リアナはノエルの顔を見て、生きていると感じた。
安堵し、泣いた。