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読んでくれたらちょっと嬉しい

虎にまたがり、狂気の山脈まで

作者: 阿部千代

 ホテルからそのまま職場に向かうと、なんだか誇らしい気持ちになれる。おれはやったぜ。やってやったんだぜ。いつもは処刑台に登るような駅の階段だって、リズミカルに一段飛ばしで、タンタンタンと。素敵な魔法にかかったみたい。

 ところがそんな魔法は、きっと昼頃までしか持たないから、いっそのことその日は、仕事を休んでしまう方がいい。グッデイには更なるグッドを。機嫌がよろしい日に、なにも嫌なことをやる必要はないじゃない。

 そう。だからもう、休みますなんて連絡もいちいちしない方がいい。だってそれは嫌なことだから。嘘をつかなきゃいけないからね。熱があって、とかさ。頭も痛くて、お腹も痛いんです、なんてね。

 嘘をつくのは、こんなおれだってやっぱり嫌なもんだよ。病院に行けって言われるしね。嫌だよ。なんでなんともないのに病院に行かなきゃならないんだ。医者だって暇じゃないんだよ。ほかの患者さんにも悪いでしょう。


 自転車に乗った男が「ああ、仕事行きたくねえ」そう言いながら通り過ぎた。独り言と叫びの中間くらいの声。思わず喉から漏れ出る絶望した心の声。わかる。わかりすぎるほどわかる。あんたの気持ちがおれにはようくわかるよ。わかりみが深いってやつだよ。なんだよ、わかりみが深いって。すごくわかるとかでいいじゃないか。いや最初に使ったやつはいいと思うよ。言葉遊びの一種だろう。そういう遊び心は大変よくわかります。気に入らないのはそれにフリーライドしていく連中だよ。その言い方おもちろ~い! 逆におしゃれ! おしゃれキャット! なんて言ってはしゃいで、無数のドジョウが次から次へと柳の下に集まって、ばっくばく食いついていく。ばんばん消費され、どんどん陳腐化して、近い将来に死語と化す。死語ってのはな、無数の意地汚いドジョウのうんこだよ。勝手に貪り食って、食えるところが無くなったら、知らん顔でどこかに行ってしまう。その貪欲さと酷薄さに自分自身は気づいているのだろうか。


 仕事をさぼったはいいものの、なにもしたいことはなかった。こんな時間、まだ店だって開いていないし、別に覗きたい店があるわけでもないし、行きたい場所もやりたいこともなにもなかった。かっこつけて酒代もホテル代も全部出したので金もあまり使いたくなかった。退屈だったが、いい退屈だ。自由な退屈だ。最高ですよ。


「いくつなの?」

「35」

「え、まさかのサーティーオーバー? 嘘、年下だと思ってた」

「よく言われる。そういうのって全然嬉しくないよな」

「なんで? いいじゃん、若く見られるなんて、女からしたら夢だよ夢」

「男も女も実際とは逆のことを言われた方が嬉しいんじゃないの。きみだって、おっぱい小さいねって言われた方が嬉しいだろ」

「いやあ、微妙。これが小さいってその世界観やばいでしょ。これ以上大きかったら、おっぱいを通り越したなにか別物でしょ」

 彼女は胸で谷間を作って、見せつけてきた。

「おっぱいを通り越して……狂気の山脈、みたいな」

「え、なにそれ、わけわかんない」

「ラヴクラフト」

「なにそれ」

「いいよ、説明が面倒くさい」

「え~、なにそれ、感じ悪」

「あるだろう、そういうこと。説明したってどうせ興味なんて持たれないですぐに忘れられるんだから、だったら最初から説明しない方がいいってこと」

「わからないじゃん。わたしは興味持つかもしれないよ?」

「いいの。わかっちゃうの、おれには。それよりさ、ホテル行こうよ」

「あれ? おっぱい見てムラッちゃった?」

「うん」


 まったくいいこだった。明るくて、嫌みがなくて。飲みっぷりも乱れっぷりも最高だった。虎のタトゥーもよかったな。本当に好きになりそうだった。いやさっきからずっと、あのこのことを考えている。好きになってしまったのかもしれない。でもおれじゃ無理だよ。一晩だけならなんとか誤魔化せたって、すぐにぼろが出てきてしまう。

 あのこはおれにアクセスしようとしてきた。おれはそれをやんわりと拒否した。あのこのおっぱいのようにやんわりと。でも格別の存在感を持って。あのこのおっぱいのようにな。

 おれはおれで、べつのものにアクセスしないといけない。ありゃいったいなんなんだ。どうにも繋がらないんだ。おれにはノイズが多すぎるのではないか。そんな風に考えることもある。だからと言ってだ。自らおびき寄せたノイズを、消し去ることなどできやしない。なかったことになど、できないんだ。


 虎のタトゥー、よかったな。吠えてた。なぜあんなに強く美しい獣が絶滅しそうにならなきゃならない。そりゃ人間が強欲だからだ。どんな時だって人間は強欲だった。そしておれはそんな強欲な人間の一員だ。生まれた時からな。逃れられない。もちろんのことだ。いくらおれはおれだと吠えても。吠えたとしても。おれは虎にはなれない。もちろんのことだ。絶対にだ。


 タトゥーはただの飾りじゃない。アクセサリではないんだ。おれはそのへんのところをまったく勘違いしていた。タトゥーを彫るということは、霊性をその身に宿すということだ。宿したいと祈ることだ。変わりたいんだ。少しでも。あのこは虎の霊性を身に宿したかった。それは美しい祈りだよ。虎は絶滅しそうなんだ。あんなに強く美しい獣が、その強さと美しさ故に。虎の強さと美しさを羨んだ人間がいた故に。


 タトゥーを入れるのは気持ちのいい経験じゃない。持続する瞬間の痛み。歯を食いしばって耐えるほどではないが、痛みは意識から離れてはくれない。痛みだ。どうしても痛い。痛みの場所に居続けなければいけない。拷問ってわけではないが、もしこれが永遠に続くとしたら、それはやっぱり拷問となり得る。タトゥーマシンが駆動する音。どうしても強張る身体。汗が全身からにじみ出てくるのがわかる。まったく合理的でないし、近代的ではない。でもすごく人間的な行いだ。おれたちは非合理的な行いが必要な生き物なんだ。強欲で非合理的。それが人間という生き物なんだ。多くの場合において醜いけれど、ごくたまに息を呑むほど美しい。


「入れるのだいぶ久しぶりって感じなんすね」

「そうですね。かなり……16、7年ぶりですね、たぶん」

「じゃあだいぶ若い頃に入れたんだ」

「はい、まあなんも考えずに、適当に」

「そんなもんすよ、誰だって最初は。どこで入れたんですか? 全部一緒のところでしょう」

「ああ、知ってるかな……嘉山さんって彫り師ですけど、わかります?」

「え、バロンさんすか?」

「そうです、そうです、バロンさん」

「そっかあ……残念でしたねえ、バロンさん」

「え、なにかあったんですか、バロンさん」

「ああ……つい最近、亡くなっちゃったんですよ、バロンさん」

「え、まじすか」

「まじす」

「ええ……いやあ、そうなんですかあ……まだ若いっちゃ若いですよね」

「そうですねえ。60ちょいくらいだと思いましたよ、早いっちゃ早いですよね」 

「そりゃ知らなかったです」

「お知り合いだったんですか、バロンさんと」

「そうすね、元々はバンド関係でちょっと面倒見てもらってて」

「なるほどなるほど、そうですよね、バロンさんスタジオも構えてなかったですし、あんまり知らない人に彫ったりしなかったから。おれのここのスカル、バロンさんに入れてもらったんですよ。かなり昔ですけど」

「ああ、そうなんすね。まあでもバロンさん、ぶっちゃけあんまり彫るの上手くなかったですよね」

「ハハハ! それだめなやつ! それ絶対に言っちゃだめなやつ!」


 おれは蛸の霊性を身体に宿した。そうなるよう祈った。ぐにゃぐにゃと捉えどころなく。締めるときはきっちり締めて。相手が根をあげるまで。逃げる時は煙幕をはって飛ぶように素早く。そんな風に生きていけるよう祈った。蛸の箇所がずくずく痛む。今夜は熱が出るだろう。明日も仕事を休むことに決めた。知るか。知るもんか。列車に揺られて、うとうとしてきた。あのこのおっぱいを思い出した。そのあと虎のタトゥーを。それからおれは目を閉じた。

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