水の王
沈み行く海の底が急に眩しくなった。光りが目の中で弾ける感じだ。エリカの細めた瞳には輝く光りが人型をとっていくのが見えた。
「久しいの・・・アーカーシャ」
「ジャラ・・・」
「ほう?まだ名を覚えていたのか?」
ジャラと呼ばれる人物はサイラスと同じ界の者だろう。彼と同じく人では有りえない気を放ちその姿は白い肌に白銀の髪と瞳―――恐ろしく美しかった。
その切れ長の瞳がエリカにチラリと視線を流しただけで、エリカは恐怖で卒倒しそうだった。言葉では表せないが危険だと直感的に感じるのだ。だから卒倒まではしなかったが硬直してしまった。
そんな彼女を抱くサイラスの腕に力が入った。大丈夫だと言ってくれたような気がして止めていた大きく息を吐き出した。
「・・・・それが今の主か?」
ジャラの声に嫉妬のような響きがあった。デールに良く似た感じだったのだ。
サイラスは更に深くエリカを引き寄せるとその白銀の人物に対峙した。
「ジャラ、何故此処にいる?」
「はっ、何故とそなたが聞くのか?我に?勝手に此処へ降り立って阿呆のように人間なんかに囚われて――良い笑いものだ!あれからどれくらい経ったと思う?そなたの顔さえ思い出すのも苦労するぐらいだ」
「会おうと思えば道は通れた筈だ。長くは居られないがな。それなのに何故今、現れる?答えて貰おうか?」
「―――例の件以降、天王の存在は感じるが我らの前からお隠れになられた。後任は当然存在しない。空位のうえ空の王であるそなたは出奔。そんな中、おいそれと我が界から出られるものか!それでも永い間、界は力の均衡を失っても大丈夫だったが最近では支障が出てきた。此方と我らの界の境が弱くなっている。だから我らが少々長居しても弾かれる事が無いのだ。完全では無いがな・・・・」
「なら、さっさと去るがいい」
ジャラは刺すような視線をサイラスに向けたが、呆れた顔をして首を傾げた。そのおどけた様な仕草は意外だった。
「久しぶりに会った友に言う台詞か?相変わらず変わらないな。笑顔で迎えてくれとは言わないがな」
「お前こそ、友ならこの様な荒々しい出迎えは無いだろう?いずれにしてもこの界への干渉は止めてもらおう」
「そなたに命令される謂れは無い。それにこんなに面白い界を独り占めか?それは無いだろう?我はとても気に入っている」
エリカは二人の会話からこの白銀の人物はサイラスの友人でたぶん、なんとか王だろうと思った。しかも嵐を起こしたのはこの人物らしい。
(グレンの言っていた〝海神〟?でも嵐を起こしてめちゃくちゃにしたのよね?守護者なのに?)
エリカはサイラスの腕の中から顔を出すとジャラに向かって言った。
「ねえ、あなたシーウェルの〝海神〟?グレンはあなたの加護があると感謝していたのに何故こんな事をするの?」
「なんだ娘。我に意見するのか?」
「汝はこれに口利く必要は無い」
エリカはむっときてサイラスの腕の中から抜け出た。水の中で宙に浮いている感じで足元が不安定だがなんとか踏ん張ってみた。
「サイラス!その言い方は無いでしょう?この人はお友達なんでしょう?駄目よ!久しぶりに会ったお友達にそんな態度をとったら駄目!ねぇ、ジャラさん」
ジャラは研ぎ澄まされた雰囲気から一転して堪らず笑いだした。あのアーカーシャを頭ごなしに叱り付ける者がいるとは懐かしい昔を思い出す。
(ああ・・・そうなのか・・・アーカーシャ)
ジャラはサイラスを見た。彼女を見る瞳が自分の想像する答えを語っていた。
(憎らしい程、良い顔をする・・・)
さっきまで怯えた様子だったエリカが、今は興味津々でジャラを見て答えを待っている。
「大層豪胆な娘だ。気に入った!はははは、気に入った」
「お前が気に入る必要など全く無い」
「ジャラさん。私の質問に答えてくださらないの?それに私の名前はエリカって言うのよ、娘と言う名じゃないわ」
「クククっ、これは失礼。不義理な旧友を少し驚かせたくてね。手荒な招待をしたが、シーウェルの者達は大丈夫だ。我はシーウェルの王を気に入っている。戯れでもな」
エリカは、ぱあっ、と微笑んだかと思うとジャラに飛びついた。
「ありがとう!ジャラさん」
驚いたのはジャラの方だった。無邪気と云うか無鉄砲と云うのか友の苦労が目に見えるようだった。エリカはもう彼を恐れてはいなかった。サイラスの友人と認識したからだ。後日デールに言わせれば、主であるサイラスと並び称される水の王を〝さん〟呼ばわりした挙句、抱き付いたとは恐ろしくて身が縮みあがるらしい。
抱きつかれたジャラは愉快そうにサイラスを見た。珍しく彼は不愉快そうな顔をしている。実に愉快だ。
「じゃあ、ジャラさんはシーウェル王とはお友達なんですか?契約はしていないんでしょう?」
「契約?ああ、そこの馬鹿とは違ってそんな愚かな事はしない」
エリカはサイラスの事を〝馬鹿〟と言われて、むっ、ときた。
「サイラスは馬鹿じゃないわ!私の先祖が悪いんだもの」
エリカの表情が一瞬のうちに曇った。
それを見たサイラスはジャラを睨んだ。
(ははは・・怖い、怖い)
「そう、そうだな。アーカーシャは悪く無い。シーウェルは退屈していた我を楽しませてくれる。それに彼は・・そう人間界ではこう呼ぶのが相応しいだろう〝魔神の瞳〟を持つ彼をとても気に入っている」
「魔神の瞳!やっぱりシーウェルの王がそれを持っているのね!そうなのね、ジャラさん!みつかったわ、サイラス!ねぇ。良かった!」
エリカははしゃぎながら今度はサイラスに飛びついた。ジャラは何の事なのか話が見えないがサイラスがそれ以上喋るな、と言うように無言の圧力をかけてきた。
「さあ、帰ろう。皆が心配する」
「そうね。宝玉の在り処も分かったし、早くシーウェルに行かなくてはね」
エリカは抱き付いた腕を解いてジャラに向かうとドレスをちょっと持ち上げて挨拶した。
「ジャラさん。ありがとうございました。失礼しますね」
「また会おうエリカ」
「遠慮する」
サイラスはエリカが答える前にそう言うと、さっ、とエリカを抱き上げて消えた。
海上で顔を出した時は、海は嘘のように穏やかだった。そしてジャラが言ったように人的被害は全く無かったのだった。だがエリカの胸には新たな魔神との出逢いが、何を意味するのか考えずにはいられなかった。
―――約一週間後、ようやくシーウェル王国に到着した。
嵐の海で人命の被害は出なかったものの怪我人は多く貴重な食料や水などが流れて損害を受けていたのだった。あと少しで本国に到着とは言っても大変だった。エリカは殆ど水や食料を口にする事なく病人に分け与え、寝る間も惜しんで献身的に看病した。着替えるドレスも無く華奢と云えば聞こえが良いが痩せっぽちの身体が更に貧相になった感じだった。それでも笑みは絶やさなかった。明るく笑い、病人を元気づけていたのだ。
皆が口々に言った。着飾った姫君よりこの姫が一番綺麗だと―――
バイミラー提督は横に立つグレンに言った。
「実に素晴らしい姫君ですな。感服いたしました」
グレンは答えなかった。馬鹿らしい謀り事だったが大きな収穫だと思った。異性の笑い声がこれほど心地良いものだとは思ってもいなかった。何時までも聞いていたい気分だった。ふと、気になる護衛官を見る。彼もそう思っている一人だろう。自分の視線に気付き、その突き刺さるよう視線を返していた。
到着した港でグレンはこの数日を振り返っていたのだ。
船から降りだしたエリカを見た。海水を浴びて湯浴みする事も無かったその姿と、よれよれのドレスは王女とは呼べない見っとも無いものだった。出迎えた民衆は一瞬黙ってしまった。しかし彼女の背筋を伸ばして凛とした姿は王女としての風格を十分に醸し出していて民衆は我に返って暖かく迎えていた。
グレンは急ぎエリカの横に立ち先導し始めた。
歓迎の花々が頭上から降り注いだ。赤に青、紫、黄色、薄紅・・・・見た事無いような花びらが空を舞った。
横でグレンがエリカの方を向き微笑んでいた。
赤に青、紫、黄色、薄紅・・・・
(あっ!)
あの夢と一緒だった。花びらで顔が良く見えないが、空色の瞳だけが花びらの隙間から見え隠れする。やはりグレンの瞳はあの夢と全く一緒だったのだ。どうしてなのかエリカは分からないが最初に見た時よりも瞳の輝きが違っていた。
エリカは全く気付かないがグレンの気持ちが変わってきたから当然だった。涙がまたこぼれそうになり、思わずサイラスの腕にしがみ付いて瞳をきつく閉じた。
すぐさまデールが抗議してエリカを引き剥がそうとすると、エリカはデールの胸に飛び込んだ。驚いたのはデールだった。
「お、おい!何するんだ!」
「煩いわよ!黙って!サイラスにしがみ付いたら怒るんでしょう?ならあなたを貸しなさいよ!」
声が涙声だった。意外な展開にデールは困り果てた。グレンとサイラスからは何とも言え無い視線が向けられるし・・・・
移動の為に乗せられた馬車の中でもエリカはデールから離れず、彼の胸から顔さえ上げなかったのだ。馬に騎乗して先導するグレンからは睨まれ、それは良いとしても、
「我が君。これはその・・・自分のせいではありませんので・・・この馬鹿女が―」
シェリーがそれを聞いてギロリと睨んだ。デールは行き当たりばったりの話をするエリカと違って理路整然と話すシェリーが苦手だった。
デールは無言のサイラスとシェリーに囲まれて無い筈の寿命が縮む思いだった。
結局、王宮の一角にある滞在する居室に案内されるまでエリカはデールから離れなかったのだ。しかも、デール以外全員退室させられてしまった。もちろんサイラスもだ。その場から動こうとしない彼をシェリーが引っ張って行った。
二人だけになった途端、エリカはいきなりデールを押し倒した。か弱い女の力で倒される彼では無いが突然の事で見事に押し倒されてしまったのだ。そのショックに声も出ないデールにエリカが早口に喋った。
「デール教えて!生まれ変わっても身体的に昔と同じに生まれるの?ううん、同じ瞳とかになる?」
「な、なんだよ!いきなり!散々、迷惑をかけた後にそんな質問かよ!」
「答えてよ!あなた詳しいでしょう?」
デールはいきなり意味不明な事を言い出すエリカを払いのけようと思ったが、彼女の必死の様子に観念して起き上がりかけた身体を再び床に投げ出した。
「おい、落ち着けよ。何がどうなって、そう言う事を聞きたいのか順を追って話せよ。全く、女がする事か?男を押し倒してよ」
「ご、ごめんなさい」
エリカはデールの腕を引っ張って起き上がらせて座らせると、その真ん前にちょこんと座った。
「で?何?」
「あのね・・・私何時も夢を見るの――たぶんそれは前世の記憶だと思うのよね。その記憶に顔は分からないけれどそれは見た事も無いような空色の瞳の人がいるのよ」
「空色の瞳?それって」
「そう!グレンと同じ瞳なの。しかも今日はその夢と同じような場面に遭遇して確信してしまったのよ。降り注ぐ花びらの中で見える空色の瞳。ねえ、それって彼は夢の人の生まれ変わりなの?それとも只の偶然と思う?」
空色の瞳。確かにグレンを見た時、自分でも驚いた。あまりにも似ていたから・・・・
しかし、それは―――
しかも、そんな夢を見るエリカとの関係はいったい―――
ジャラさん登場!彼らの名前の裏話を1つ…設定の参考にしたものがあります。古代インドの思想です。自然は、地=ブーミ、火=アグニ、空=アーカーシャ、水=ジャラ、風=ヴァーユという五つの要素で構成されるとありましたので使いました。ですからサイラスは空の王のアーカーシャです。