私はエリカ
明日が帰国となる前夜、エリカは一人庭に出た。振り返れば外に並んだ篝火が大理石で出来た王宮を照らし出して幽玄で美しかった。空には輝く星空がまるで光の雫が降り注いでいるようだった。オルセンより空が近く感じた。エリカは先へ先へと進んで行った。そして広く開けた場所に到着すると、ふわりと振り向いて手を差し伸べた。
「サイラス。踊らない?」
エリカの行く所には影の様に必ず彼はいる。月光が降り注ぐ中にエリカはいた。誘うように首を傾げながらドレスの裾を広げている。サイラスは追憶した。
『アーカーシャ。踊らない?私達だけの舞踏会よ。ほら、星が歌っているわ』
ローザも月明かりの下で彼を誘った事があった。まるでその時のようだった。
サイラスは近寄り、差し出された手を取ってエリカを抱き寄せると踊りだした。滑るように軽やかに二人は寄り添いながら踊った。
「本当は今回の舞踏会楽しみにしていたのよ。でも良いわ。サイラスと踊れたから。豪華なドレスも音楽も要らないわ。私達だけの舞踏会よ。星が歌っているわ・・・」
サイラスは足を止めた。それはいきなり時間が止まったかのようだった。
―――アーカーシャ。踊らない?私達だけの舞踏会よ。ほら、星が歌っているわ―――
(ローザ・・・)
そして時が戻りサイラスはエリカを強く引き寄せ抱きしめると、エリカに口づけをした。突然の出来事にエリカは驚き瞳を見開いたがサイラスの深く甘い口づけは、次第に陶酔へと変わっていった。その名を聞くまでは―――
サイラスは激しく甘美な口づけの後、呟いたのだ〝ローザ〟と!
エリカは彼の胸を押して後ろへ離れながら首を横に振っていた。
「ち、違う!私はローザじゃ無い!エリカ。私エリカよ!ローザじゃ無いわ――っ今此処にいるのは私よ。エリカよ!だから私を見て!私の名を呼んで・・・」
サイラスは目覚めてから一度もエリカの名前を呼んだ事が無い。エリカは最近その事に気が付いたのだ。彼の口数が少ないからだとかそういう理由などでは無いとエリカは思った。彼の心の中は見えない―――昔もそうだった。だからいつも不安だった。ローザの記憶が戻っていると言いたく無かった。今は昔のローザでは無いのだ。でもそれを彼に今の自分を認めて貰うにはどうすればいいのかエリカは分からなかった。
「私はエリカ・・・私は・・・」
それ以上続けられなかった。悲しみが胸に広がり、もっと酷い事を言いそうになった。もう自分の為に彼を傷つけたく無かった。しかしサイラスの瞳は自分の中のローザだけを見つめているのだ。自分であって自分では無いローザに嫉妬さえ覚えてしまう。エリカはぐっと溢れ出る感情を呑み込んで、無理矢理ぎこちなく微笑んだ。
「・・・・ごめんなさい。もう休ませてもらうわ」
エリカはそう言い残すと走りたくなる気持ちを押さえ込みながら、真っ直ぐと頭をあげて元来た道を戻って行った。
サイラスは追いかけなかった。エリカの残した言葉が心に深く突き刺さるようだった。永遠のような時を待った人だと強く感じる・・・あと記憶の扉さえ開けば彼女は蘇るだろう。
記憶さえ戻れば―――しかしもう一人の自分は違うと否定していた。今回はその姿も声も性格も何から何までローザそのものになのに、何処か違う者を見ている感じがするのだ。今まで魂は同じでも育つ環境によって本質は変わらないだろうが性格や雰囲気は異なっていた。しかし今回は今までとは全く違っていたのだ。ローザとエリカ同じで同じじゃない存在。エリカにはローザよりも強い心を感じるのだ。輝くような強い心を―――
同じ薄紅の瞳の中に宿る眩しいまでのその光はサイラスを魅了していた。微睡の中ローザでは無い彼女の声を聞いていた。日を追うごとに不安そうだったローザの面影は無かった。そうだった。記憶の中のローザは何故か悲しそうだった。再び廻りあった時はその悲しみの理由も聞きたかった。今は記憶が無いからその笑顔に曇りが無い。それだけが救いだった。しかし記憶が蘇った時、今の彼女は何処へ行くのだろうか?〝今の彼女〟とは変な表現だが・・・・サイラスは考えた事が無かったのだ。
『私はエリカよ!私を見て!私の名を呼んで』
と、彼女は言った。昔ローザも同じような事を言ったのを思い出した。
『私を見て!アーカーシャ。私のこと本当に好き?』
その時、自分は何と答えたのか覚えていないが何も答えなかった気がする。何故そんな事を今更聞くのか分からなかったのは覚えている。
「答えを間違ったのか?」
サイラスは夜空を見上げ呟いた。答えはすぐ其処にあるようで無い―――星が愚かな自分を嗤っているようだった。
翌朝、エリカは帰国するのをためらっていた。それは昨晩のせいかもしれない。サイラスは悪く無いのに彼を責めた自分が情けなかった。でもまだ心が騒いでいるのだ。エリカは溜息と共に左手にはめた腕輪を見た。
(・・・・たぶんこれが探していた魔神の瞳・・・)
魔神の本当の瞳の色は違うとエリカは知ったのだ。サイラスの今の瞳は黄金色。しかし昔の瞳は腕にしたこの宝玉のような青い空の色だった――何故今この宝石がこの色なのか分からないが予測出来た。それは国に帰ってこの件を父親に確認をすればいいだろう。もしそうならエリカには考えがあった。
(彼をオルセン王家から解き放つ方法・・・)
それが叶えばサイラスは自由だった。昔のように何者にもとらわれない空の王の名に相応しい自由な大空のようになるのだ。その時、自分がローザであってローザではない〝エリカ〟になったと告げようと思った。そして初めから始めるのだ。蝶をつかまえてくれたあの日でもなく、封印の間で見つけたあの日でもない。呪縛を解いた時から始めよう。ローザだったエリカ。今はそれが本当の自分だから―――それが一晩考えた答えだった。
(そうよ!一度は振向かせたのだから頑張るしかないじゃない!)
行きと違って魔神の力を隠す必要が無いので国には直ぐに帰れる予定だった。だからせめてもう一日だけ、心の準備が欲しいと思ったのだ。
早々に帰国の準備を整えたシェリーとデールは中庭に出ていた。そして見送るグレンの姿もそこにあった。エリカは後から直ぐ行くと言って、シェリーを先に行かせてその様子を部屋の窓から見ていた。そして溜息をつくと部屋を後にした。肩越しに、ちらりと後ろを見ればサイラスが何処からともなく現れて付いて来た。中庭に彼の姿が見えなかったから自分が出て行くのを、何時ものように待っていたのだろうなとエリカは思った。
(やっぱり夜のことは何とも思わなかったのかな?)
昨晩サイラスは珍しく、後を追って来なかった。しかしそれ以外本当に何時もと変わらない様子だった。そして何も言わない―――やはりローザでないと彼の心を揺さぶる事が出来ないのかもしれない、と気弱になってしまう。
(やっぱり帰るのは明日にしよう!気分を切り替えないとね!)
エリカは走って皆がいる場所へと向った。
「お前!遅い!何やっていたんだ!」
エリカを見るなりデールが文句を言った。
「ごめんなさい!それにもう一つ、ごめんなさい!帰るのは明日にする!」
「はあ――?お前、何言ってんの!」
デールが呆れて怒鳴った。
「だって、私、考えたらこの国の観光、まったくしてなかったのよね。せっかく来たのにもったいないじゃない?」
「か、観光だと――っ!お前、何しにここへ来たのか忘れたのかよ!」
「もちろん覚えているわよ。舞踏会に来たのよ。でも中止になったじゃない?だから楽しみが無くなったから観光して帰るの。それに〝魔神の瞳〟の行方は見当がついたしね」
デールは開いた口が塞がらなかった。だいたいエリカは破天荒な性格だが相変わらず予想が出来ない。
二人のやり取りを初め唖然と聞いていたグレンだったが、くすくす笑いだした。
「エリカ、そんなに舞踏会が楽しみだったのなら開こうか?」
「え?本当!う~ん、でももういいわ。お金持ちのシーウェルだったら豪華だろうなぁ~と思っていただけだから」
「けっ、お前の楽しみは食べ物だけだろう?」
「デェェ――ル!余計なこと言わないの!」
エリカはデールを追い回して叩いた。そしてあっとする。グレンが笑ってその様子を見ていたからだ。エリカは振り上げていた拳を下ろして、こほんと咳払いをした。
「えっと・・・だから、ちょっと観光したいのでこの国で一番きれいな場所を教えてくれる?グレン?」
「教えるのでは無く、案内するよ」
「ええっ~忙しいのに悪いわ」
「大丈夫、大丈夫」
グレンはさあ、と言ってエリカの手を引いて行った。シェリーはまたかと言うような顔をして荷物をまとめると部屋へ戻って行った。そしてデールは面白くなさそうにエリカ達を見ていた。
「だいたい何だよ、あの男は!いつもエリカにベタベタしやがって!」
デールはブツブツ文句を言いながらも二人の後に付いて行くようだった。もちろんサイラスも何も言わず表情も変えずに後を追っている。
そしてグレンが案内したのは波が穏やかな入り江だった。そこからの景色はもちろん素晴らしいが、透き通るような海中にはそれこそ宝石のような色とりどりの魚が泳いでいた。
「うわぁ~きれい!」
エリカは岩場から身を乗り出すように覗いた。
「すごい!グレン、とても素敵ね!こんなの見た事ないわ」
「はははっ、それは良かった。喜んでもらって。ここは王家直轄の地域で自然のままに管理されているから極秘の名所だよ」
「へぇ~そうなんだ。あっ!グレン、あれは何て言う魚?」
エリカとグレンが岩場に陣取って楽しそうにしているのを離れて見ていたデールが、面白くなさそうにぼやいた。
「我が君、本当にあれ、ローザ様に似ているんですか?オレ、信じられません。オレの知っているローザ様は溜息がでるほどお綺麗で、歌うように言葉を紡がれるでしょう?もう我が君のお隣に立たれていると夢を見るようで。さすが次期至高天王と云う感じでした。なのにあんなに騒がしく、ガチャガチャしているのから想像出来ません!」
サイラスは視線をエリカに残したまま、デールの言葉にふと微笑んだ。そして彼が答える前に彼らの後ろからその答えがきた。
「そなたは誕生して日が浅いから知らぬだけ。昔のローザはあんな感じで、アーカーシャが何故あのような彼女に落ちたのか我は千年ほど考えてしまったな」
ジャラのいきなりの出現にデールは飛び上がった。
「げっ!水の王!」
「げっ、は無いであろう?アーカーシャ、どういう教育をしている?」
「お前に敬意を払う必要など無いだろう。何しに来た」
「はっ、相変わらずつれない男だ。ここは我の昼寝の場所で、そなた達の方が侵入者であろう」
白銀のジャラは切れ長の瞳を意地悪く細めるとそう言った。しかしサイラスは、ちらりと見ただけで無視した。
「本当にそなたも昔から変わらぬな。そなたこそ一度死んで生まれ変わった方が良いのではないか?彼女などもっと魅力的になったであろう?我は昔よりずっと好ましいと思うが、そなたはそう思わぬか?」
「・・・・・・・・・」
サイラスは答えなかった。それは昨晩から感じていた気がつきたくないものだ。ローザでは無いもの―――しかしそれは望んで無いものだ。
目の前にいるローザになる予定の娘は、まだ彼女では無いから平静でいられると何時も思っていた。何時の時代もそうだった。だが今はまだローザでない彼女に好意を持つグレンに嫉妬を覚える。今も平気な顔をしているのがやっとだった。彼女があの男に楽しいそうに笑いかけて話しかける度に、胸の奥で炎が燻っている感じだ。今にも燃え盛りそうなものを何とか抑えている。彼女がこのまま目覚めなければ人としての一生を送るだろう。
(そして私はまた孤独の中に置き去りにされる・・・)
ローザにならなかった者達は、それぞれ伴侶を得て子を産んで・・・・サイラスから見れば短い一生を終えていた。
(ローザにならなければ同じく彼女も今横にいる男と結ばれるのか?)
今までのローザにならなかった薄紅色の瞳の者達を攫っていった男達に、サイラスは嫉妬を覚えたことは無かった。しかし今は違っている。彼女がローザに違い無いと思っているからだろう。でももう一つの心ではあれはローザでは無いと言っている。
「水の王、本当にあれでローザ様にそっくりなのですか?」
デールの声にサイラスは想いの淵から戻った。ジャラが愉快そうに答えている。
「ああ、そうだな。まさしく姿もそっくりだ。私は実際、昔から彼女を知っているからな。もう少しすれば硬い蕾が花開くようにか、もしくはさなぎから蝶が孵るようにそなたの知るローザの姿になるだろう」
「うげぇ~女は化け物だ!まぁ~あのお綺麗なローザ様なら我が君と恋人同士になったのも分かる気がするけど」
ジャラが急に笑いだした。
「違う、違うぞ。アーカーシャは今のエリカの時ぐらいから既に恋人同士だったよ」
「ええっ―――」
「だから言ったであろう?我は千年考えたと。本当に不思議であった・・・本当に・・・」
誰もが不思議がった。既にその力もその容姿も並ぶものなどいないと云われた空の王アーカーシャと、見栄えのしないローザの組み合わせは恐ろしく不釣合いだったのだ。顔無し王のブーミとの方がよっぽど似合っていると陰口を言うものもいたぐらいだ。
「それじゃ、どうして?」
デールは主の知らない話に興味津々だった。
「ふっふっ、今の彼女を見れば分かるだろう?こやつ相手に怒涛の攻撃をかけてきた」
「こ、攻撃!」
「そう――」
「ジャラ!」
余計な事まで言いそうなジャラをサイラスは睨んだ。
「いいじゃないか、アーカーシャ。楽しい昔話じゃないか。我にとってはそなたを盗られたつらい話としてもな」
「・・・・・・・」
ジャラは愉快そうに無言のサイラスの顎をすくったが、その手をサイラスは、ぎろっと睨んで払った。
「ふふふっ、怖い怖い」
サイラスは回想した。ローザは本当に走っても転ぶような幼い頃から彼にまとわりついていた。気まぐれに蝶をつかまえてやった時から―――
ここで一番好きな場面はローザとアーカーシャの出逢いです!小さな女の子が大人の男性に恋をするパターンはとても好きです。そしてやっぱりデールは準主役確定ですね(笑) 盲愛する主の大事な人だというプレッシャーがあるので、彼のエリカに対する気持ちはそんなに強く無いけれど、その微妙な感じが私的に好きだったりします。
星空の下で踊るシーンはこの物語の中で私が一番好きな場面です。サイラスがローザであるはずのエリカとローザとの違いに揺れ、エリカは自分がローザでありローザでは無い自分に揺れている。この心の葛藤が二人の微妙なすれ違いを生んでいます。やっぱりこれが無いと盛り上がりませんよね?




