第8話 いずみちゃんはひも子に別れを告げた。
「その目、やめてよっ! あたし達はやましいことなんかしてない! 自分がそうだからって人も同じだと思わないでっ!」
つい母をなじる言葉が出てしまった。母を傷つけたかったわけじゃない。
でも一度噛みついた言葉はなかったことにはならない。母があたしの言葉を忘れることはないだろう。
それでも、あたしにだって言いたいことはある。我慢してきたことなんか山ほどだ。どうしようもない感情が、積もりに積もり、ぐちゃぐちゃになってとぐろを巻いている。
それがとうとう堰を切ってほとばしりはじめた。もう我慢することなんてできない。
「この人はね。あたしとあんたがイケナイことしてると思ってこの部屋に来たの。見て。あの顔。自分は今まで男と会っていたくせに! お父さんがいないのをいいことに浮気していたくせに!」
「なんてこと言うの!」
「図星でしょ。火曜日はいつも12時過ぎまで帰ってこないじゃない!それなのに、今日に限ってなんで早く帰ってきたのよ!」
「いずみ、やめろよ」
彼氏が制止するが、あたしはやめない。
こんな一方的にあたしが悪いことをしたみたいに見られるのは納得いかない。母は間違いなくあたしと彼氏が不純異性交遊をしていたと思っている。自分のことを棚に上げて勝手に娘を貶めている。
「今日は彼の誕生日だから一生懸命考えたのに。なのに、こんなのひどいよ」
悔し涙があふれ出る。下を向く。しずくが床に落ちた。
でも母にはこんな顔は見られたくない。絶対!
沈黙が訪れる。誰もが言葉を失い、鼻をすするあたしの息づかいだけが部屋に響いている。
彼氏もここから離れたいだろうに、何も言えずにいる。そんな沈黙を破ったのは母だった。
「ねえ、柿崎君。夕飯、まだだったら食べていかない?それならいずみもいいでしょ」
何がいいのかわからないが、とりあえずうなずく。
一度爆発した感情は落ち着きを取り戻し、今は穏やかに凪いでいる。正気に戻ったあたしにはこの状況をどうしたらいいのか見当がつかない。
「でも、ご迷惑じゃ……」
他人の家の事情なんか関わりたくないのが当たり前。
あたしにしても彼氏が何を聞かれるのか、どう答えるのか、想像しただけで鳥肌が立つ。
恥もさらしたことだし、もう帰ってほしい。
「いいのよ。夕飯、作りすぎちゃったの。食べてくれると助かるわ。お口に合わないかもしれないけど?」
彼氏は戸惑っている。あたしもだ。
あたしに都合の悪いことをべらべら言うとは思わないが、口は滑るもの。ボロを出す前に帰ってくれないかな。
そもそもこいつはもうお腹一杯食べている。ケーキとか、チキンとか、サラダとか。あと豆腐とか、ケーキとか、チキンとか、チキンとか。
「そんなことは……」
「じゃあ決まりね。テーブルで待ってて。すぐによそうから」
母はさっさとあたしの部屋を後にする。残されたあたし達は顔を見合わせ、仕方がないとリビングに向かう。
母に大人の気配りを感じた。こんなところが母にかなわないと思ってしまう。
そして、案じたとおり、食卓で母の尋問が始まった。
被疑者は柿崎洋一郎。
母の目的はあたしとの関係、じゃなく、彼氏の身辺調査。すべてが母の思い通りに運ばれている。
大人は汚い。
しかも、母が作った夕飯というやつは、カレーライス。
さっき、ケチがついたばかりの食材だ。それをおいしそうに食べるこいつのことが憎たらしい。
さっきは当分の間カレーは見るのも嫌そうな態度だったじゃないか。
この裏切者!
「そうなの。柿崎君も剣道部なんだ。啓太もそうなのよ」
彼氏はすっかり警戒心を解いてペラペラと質問に答えている。
このおしゃべり! あんた、あたしといるときはそんなにしゃべらないじゃない。
しかも、母が聞いているのは、コイツの家族とか、身内とか。
やめてよ。人の家のことを詮索するのは。
隣に座っている彼氏に目で合図を送る。
ヨケイナコトハ、シャベルナ。
それなのに、コイツはあたしの気持ちも知らずにおかわりをしやがった。カレーライスを。
お前、どんだけ食べるんだ?
おかわりするたび、あたしの中ではあんたの評価が低くなっていくんだからな。わかってんのか?
「ごちそうさまでした」
彼氏が玄関から出ていくのを見送っているあたしを見て、母がニヤニヤしていた。
あたしは急に恥ずかしくなり、自分の部屋に飛び込んだ。
ベッドに倒れ込もうとして、彼氏の忘れ物に気づいた。あたしはそれを手に玄関を飛び出す。「いずみ、どこいくの?」と声がかかったけど無視だ。
まだ遠くまで行ってないはず。
暗がりの中、街灯の下を歩く姿を見つけ「待って!」と叫んで走り出す。
「待ってよ」
振り返った彼氏の顔に怯えが浮かんだ。その表情は正しい。
あたしは鍛え上げた脚で追いつくと、忘れ物を彼氏の手のひらに押しつける。
街灯に照らされ、神々しく光り輝く聖遺物。
「忘れ物!」
「おい、さっき言ったろ。俺を変態さんにするつもりか」
あくまで受け取る気はないようだ。仕方がない。あたしは策を練る。
「わかった。じゃあ、これは」
あたしは背伸びをして口づけをした。
1秒、2秒とカウントする。弛緩した彼氏の手からショーツを奪うと、背中に手を回しながらブレザーのポケットに押し込んだ。
13、14、15っと。ゆっくり唇を離す。
「じゃあね」
ミッション終了。あたしは彼氏に背を向けて走り出した。
るんるん、るるる、るん、るん?
その浮き立つ心を粉々に破壊したのは、あたしの部屋で四つん這いになってベッドの下をあさっている母の姿だった。
「ナ、ニ、ヲ、シ、テ、ル、ノ」
怒りで声が震える。
最低だ。彼氏の尋問だけでは飽き足らず、娘の部屋をあさるなんて。
あたし達はいかがわしいことなんて何もしてないのに。
……彼氏にスカートをまくり上げて見せた件はノーカンだ。結局何もなかったんだし。
けれど。
母が手にしているモノに凍りつく。
紐パンだ。
怒りと羞恥で顔が真っ赤に火照る。
知らないと言って通るはずがない。弟を生贄にすることも頭をよぎったが、すぐに嘘だとばれるだろう。それに、お金を払ったのはあたしだ。
「返してよ。それ!」
「だめ!」
「あたしが買ったのに」
「どうやって買ったの? こんなもの」
「……ネットで」
「こういうの買うの、恥ずかしくなかった? あきれたわ、あんたには」
さげすんだものの言い方にカチンとくる。今、悪いことしてるのはどっちなの? 間違ってるのは浮気してるお母さんじゃないの?
しかもベッドの下をあさるなんて、プライバシーの侵害じゃないの?
あたしの禁制品所持なんてささやかな罪じゃない。乙女のかわいいヒミツじゃない。若さゆえの過ちじゃない。
それでも相手は絶大な権力を握る保護者様。どうせバレること。ここは素直に出自を報告しておくことにしよう。
「だって、お母さんの名前で買ったから」
「なぁんですってぇ!」
鬼が現れた。ほぉら、怒りで形相が変わってる。あの優しいお母さんはどこ? 鬼に食べられちゃったの?
普段叱られたことがないだけに、その血相に首をすくめる。
「このばか娘っ!」
「……ゴメンナサイ。どうしてもほしくて」
「何に使うつもりなの。こんなもの。……まさか、あんた、柿崎君とセックスしたの?」
鬼がとんでもないことを言い出した。
セックスなんて家族の中で使っていい言葉じゃないよ。あたしの中では家族が使わない言葉ランキング3位以内に入ってる。
「してないわよっ! 何言ってるの!」
「じゃあ、なんでこんなもの」
下着とセックスを短絡的に結びつける母がいやらしく思えた。
母の女の部分を見せつけられたようで気が滅入る。こんなはしたない女に、同列に思われているのがたまらなく嫌だった。
「今日は彼の誕生日だから、……その、……あたしの……」
これ以上は言えない。無理。
彼氏の恥ずかしい気持ちが今初めてわかった。
言えないよぉ。
履いていたショーツをプレゼントしたって。その紐パンはサポーター候補の一つ。
そして、厳正なる審査の上選ばれたサポーターちゃんを今まさにあたしは履いている。
こんなこと知られたくない。あたしが変態だと思われちゃう。
押し黙ってうつむくしかなかったあたしに母の優しい声が届く。
「わかった。もういいわ。でもこれは没収よ。もう二度と買わないで。あんたはまだ中学生なんだから。いいわね」
判決は下った。
不服などない。あたしのお小遣いで買ったものだけど、正直扱いに困っていた。
使い道はないが、新品を捨てるなんてできない。保護者様が引き取ってくださるというなら厄介払いにちょうどいい。
お小遣いの使い方を叱られて減額されなかっただけラッキーと思うことにしよう。
母は紐パンを握りしめてドアに向かう。あたしはその背中に、母の大きさに安堵した。
さよなら。紐子ちゃん。あんたのことは忘れない。ひとときの夢をありがとう。
ほうっと息が漏れる。それに気づいたのか、母が振り返った。
「ねえ、あんた、今、何履いてるの?」
血が沸騰した。ドドウと全身が一瞬で真っ赤に染め上がる。刹那、スカートを抑えたのは失敗だった。母の手がスカートに伸びる。
嫌だ! 見られたくない!
容赦のない手があたしの手を払いのける。
衝撃でベッドに倒れ込み、スカートがめくれあがった。
母はあ然とした顔であたしを見下していた。視線の先はあたしの下半身。
身をよじってショーツの裂け目を隠そうとするが、そもそも全体がレース。
セクスィー部長級のフェロモンを振りまいて母の視線を独りじめ。
「脱ぎなさい。それも没収」
「えぇっ!」
「だめ。絶対に」
母の鉄槌が下った。
こうしてあたしはせっかく買った武具なのか防具なのか、よくわからないものを失った。
羞恥心とかプライドとか、そのほか諸々の人として大切な何かと一緒に。
数日経ったある日の夜遅く、彼氏から電話があった。
興奮していて何を言ってるかよくわからなかったけど、制服のポケットにショーツが入っていて驚いたとか、大変だとか、そういうことを言っていた、ような気がする。
なんで今頃そんなことを言うのかよくわからなかったし、とにかく眠かった。
何を言ったか覚えてないけど適当に答えて電話を切った。最後に彼氏が言った言葉だけが朝になってもあたしの耳に残っていた。
『そんなこと言ってお前恥ずかしくないの?』
ベッドから起きることもせず、寝ぼけまなこをこすりながらあたしは宙に向かって答える。
彼氏に届かないとはわかっているけれど。
「全然。まったく。モウマンタイ」
ほらね。
あたしはもう羞恥心とか失くしちゃってるから。あのハレンチな下着と一緒に。
❏❏❏❏
彼氏の誕生日から一週間が経った。
因縁の火曜日だ。
母が男と逢引をして夜遅く帰ってくるのがわかっていてそれを父に言わないでいることが、共犯者のようであたしの心を朝から締めつけていた。
母が朝から料理を張り切っているのも今日が火曜日だからだ。
男に会えるうれしさから家族にも優しくなっている。それを思うと、色とりどりのおかずで飾られた食卓が一気に虚しく見えてしまう。
週末は、帰ってきた父への後ろめたさから、試験勉強を理由に部屋に閉じこもってしまった。
できるだけ顔を合わせないようにした。
週に一度わざわざ帰ってきてくれている父にこんな態度を取っていることも罪の意識に拍車をかける。
父が悪いわけじゃないのに。
こんなふうに考えてしまうのは母のせいだ。
その母が食卓で父と仲良く話をするのは見ているだけで気分が悪い。
母が汚らしいものに見えてきて食事がのどを通らない。あたしが箸を置いて食卓を離れるのを父が心配そうに見ているのがもどかしい。
心配しなきゃいけないのは、お母さんだよ、そう言えないことで心が押しつぶされそうだった。
けれど、あたしにも下着事件という父に知られたくない事実がある。
母がそれを父に報告しないのは、自分の浮気をあたしが告げるのを恐れてのこと。
あたしもそうだ。
母の浮気を告げて下着事件が明るみに出るなんて真っ平だ。
母にしてみれば、あたしが不純異性交遊をしたことになっているだろう。何もなかったと言っても、大人に信用してもらえるとは思えない。
彼氏だけじゃない。その家族や学校も巻き込んでしまう。
なにより父にこれ以上余計な心配をかけるわけにはいかない。
あたしは貝のように黙るしかないのだ。
そんな辛い週末が明けた。
赴任先へと戻っていく父を見て、ほっとしたというのがあたしの正直な気持ちだった。
母はどうなのだろうか。
父が赴任先に戻ることにほっとした? それとも寂しい?
せめて罪の意識くらいは感じてほしいと願うのはあたしがまだ子供だからなのだろうか。
朝食をとりながら母の顔をうかがい見る。おかずに手を伸ばす気にはなれない。
けれど、今日は中間試験の最終日、気持ちを切り替えなければ。
試験は午前中で終わる。午後は彼氏を誘ってカラオケにでもくりだそうか。
お茶を一口飲んで大皿に盛られたおかずに手を伸ばす。無理にでもご飯をお腹に詰め込まなければ。
そう、あたしは今この瞬間のためだけに生きてるわけじゃない。
目を閉じて感情をコントロールする。
今まで試験の終わりは部活の始まりを意味していた。でもこれからは違う。
何にも縛られない自由な時間が始まる。
さあ、試験なんかさっさと蹴散らすぞ。
開放感てやつを心ゆくまで味わい尽くすっ!