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第6話 いずみちゃんは非日常をポチッとした。

 今日、彼氏の誕生日が来週の火曜日だと知った。


 プレゼントをどうしようか。


 学校からの帰り道、左右を見ながら商店街を通りすぎるが、中3男子が喜びそうな物が思いつかない。


 家にたどり着いたときには、ぐったりした気分だった。あんな啖呵たんか切らなきゃよかったよ。


 台所では母が早すぎる夕飯の準備をしていた。


 もう何も言う気がおきない。男と会っていることに子供が気づいてないと思っている。


 まあ、弟は本当に何も気づいてないんだけど。


 でも、今は彼氏に何をプレゼントするかで頭が一杯だ。


 トレーニングウェアに着替えながらあたしは考え続ける。誕生日まであと一週間、間に合うだろうか。


「行ってきます」


 走っていてもプレゼントのことが頭から離れない。集中できていないから今日はダッシュはなしだ。怪我は怖いもんね。


 歩道にも軽装の人が増えている。5月半ばともなると、みんな薄着だ。


 特に今日は晴れていたから、ノースリーブのシャツにミニスカートのお姉さんもちらほら見かける。仕事帰りだろうか。上着を片手に持って。暑かったんだね。お疲れさま。


 おっさんたちはネクタイをほどいて額の汗を手の甲でぬぐっている。汚いなぁ。ハンカチくらい持って出かけなよ。


 そうだ。プレゼントにハンカチなんかどうかな。


 いやいや、あんな啖呵たんか切っておいてそれはどうなの? 安易すぎない? ネクタイはどうよ。あなたに首ったけ、みたいな感じで。でもあたしのキャラじゃないしな。


 ゆっくり流していると、突風が吹いて砂を巻き上げた。


 あたしは目に埃が入らないよう顔をそむける。その視線の先でスカートがめくれ上がった。


 そして、目に焼きついたのは純白のショーツ。


 天啓が告げられた。


 そうだよ。あれだ。ショーツだよ。あれが嫌いな男子はいないはず。


 女の子の秘密にゾクゾクする彼氏の姿が目に浮かぶ。


 遠く離れた異国、トウキョウでは、淑女からプレゼントされたショーツをポケットチーフとして背広の胸ポケットに飾るのが、おしゃれ上級者、ちょいワル紳士のたしなみだと聞いたことがある。


 それに一手間加えて、あたしが一度履いたものをあげたらインパクト強いよね。実用性もあるはず。


 絶対に忘れられない誕生日になるのは間違いない。


 神様ありがとう。


 そうと決まれば下調べだ。まだお店が閉まる時間じゃない。どんなショーツにしようかな。どうせならおしゃれなのがいいよね。


 あたしは、商店街を流して下着を売ってる店を覗くが、若い女性向きの下着屋なんてこの田舎にあるはずがない。


 せっかくの神様からのアドバイスだけど、無駄になりそうだ。足取りも重くなる。


 現実を突きつけられ、打ちのめされた気分でシャワーを浴びた。部屋着になってベッドに横になる。


 いいアイデアだと思ったんだけどな。


 何気なくローテーブルの上に置いていたスマホに手を伸ばす。そのとき、ひらめいた。


 ネットがあるじゃん。


 あたしは飛び起きてスマホで女性下着を検索する。


 えっ。


 あたしの前に現れたのは想像を遥かに飛び越えるブツだった。画面に顔を近づけて食い入るように見る。


 お父さん、お母さん、ごめんなさい。あたし、世の中のことを何も知りませんでした。こんなハレンチなものが堂々と売られていたなんて。


 誰が履くの? こんな恥ずかしいもの。紐? 紐だよね。これが下着? 下着の役目を果たしてないんだけど。ていうか、下着の役目ってなんだっけ?


 常識だと信じていたことが音を立てて崩れていく。


 下着って、肌の露出を隠すためのものだよね? 違った? 違うの?


 誰にも聞けない。だから、とりあえず、ポチッ。


 あたしの常識の方が間違ってるかもしれないしね。


 画面をスクロールする。次々とキテレツな布きれが映し出される。


 こっちなんか、前が開いてるんですけどぉ? なんで? 履いたまま用を足す? ありえないんだけど。しかもレースだから透けてるし。これって丸見えなんじゃない? 大人ってみんなこんなの履いてるの?


 無理、無理、無理。あたし、無理だよぉ。こんなの、持ってるだけで逮捕されちゃうんじゃない? 履いたのを彼氏に渡す?


 冗談じゃない。残りの人生をプレゼントするようなもんだよ。ショーツに痴女の名札を付けて。


 待って、待って。待つんだ、あたし。


 よぉく考えて。こんなの、お母さんが持ってるの見たことないでしょ。大丈夫。あたしは間違ってない。


 けれど、散々悩んだあげく、ポチッとした。とりあえず、かごに入れた。


 ううん、違うの。あたしは思ったの。第2案としてキープしておけばいいんじゃないかなって。何か他のものが見つかるまでの間だけ。


 悪くないんじゃない? あたしの中の悪魔がささやいた。


 これ以上のインパクトは絶対にないよ?


 すかさずあたしの良識が反論する。


 こんなものをプレゼントするなんてとんでもないよ。


 でも、売ってるってことは、それなりに持ってる人もいるってこと。オトナのタシナミとしてオヒトツどうよ。嫌ならプレゼントしなきゃいいだけでしょ。


 悪魔のささやきにあたしは答える。


 ……そうだね。プレゼントは白いショーツにしよう。初めからそのつもりだったんだし。


 純白のショーツをポチッとした。


 うん、これでもインパクトは十分だ。さっきまでのあたしはどうかしてた。あんな刺激的なモノ、あたしにはまだ早い。


 まだ早いけど、いずれはあたしも大人になる。いつかのために一つくらい……


 一つや二つくらい、乙女のたしなみとして必要だよね?


 通販サイトが名前を聞いてきた。


 おおはら、さとみっと。母の名前を書き込む。


 年は42歳? 32、いや25歳にしておこう。このくらいは親孝行ということで。


 支払方法は代引きを選ぶ。下着3着で4350円は安いんじゃない? 布地の面積が少ないからかな? 受取日は明日の夜を指定した。


 お母さんはいないはずだよね? ここのところ毎夜出かけているから。


 むふふ。明日の夜が楽しみだ。


 ❏❏❏❏


 翌日の夕方、あたしが軽い足取りでランニングから戻ると、母はまだ家にいた。


 あれれ、出かけないのかな。品物が届くのにいられるとまずいんだけど。


 母が逢引に出かけないのはいいことなのに、あたしは、予定と違う状況に焦っている。自分の都合を優先している。そのことに驚いた。あたしにとって家族って何なんだろう。


「いずみ、お母さん、出かけてくるから」

「こんな時間から?」


 時計は8時を指していた。


「後援会の人の家でお掃除してあげるの。ほらっ、すぐに帰ってくるから」


 あたしに掃除道具が入った紙袋を見せつけてくる。まるで疑われるようなことはしていないとでも言うかのように。


 でも、それならなんでお化粧してるの? 掃除するのに、きちんとした外出着を着るのは変じゃない? どうしてこんな時間に出かけるの?


 もう何を言っても無駄なのかもしれない。手遅れなのかもしれない。だったらせめて父には知られないようにしてほしい。


「啓太が帰ってきたらご飯食べさせてあげてね。お願いね」


 そう言って出かけるのを、あたしは見送るしかできない。


 宅配便が届いたのはそれからすぐのことだった。


 けれども、すぐに帰ると言った母は午前零時になっても帰ってこなかった。


 ❏❏❏❏


 夜が明けた。


 あたしはうつらうつらとベッドの中でまどろみながら朝を迎えた。


 カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。のどが乾いてヒリヒリと痛む。あたしは寝ぼけまなこのまま水を求めてリビングに向かった。


 朝の5時。


 時計を見てため息をつく。母はまだ帰ってきていない。


「外泊とか、ありえないし」


 ひとりごとが口をついて出た。


 母の身に何かあった? 不安と一緒に水をのどに流し込む。陽光がリビングの白い壁をほのかに照らしていた。


 それでもまだ薄暗いリビングは、あるじのいないうつろな空間のようで、母の存在の重さを全身で感じる。


 あたしはこんなにも母のことが大切なのだ。


 あと1時間だけ待とう。


 そう決めて自分の部屋に戻った。


 何事もなく無事に帰ってきたら、母がどういうつもりなのか問い詰めてやる。


 どこで誰と何をしていたのかを。


 やがて玄関のドアが開く音がした。


 無事に帰ってきたことに安堵する思いと家族が壊れる不安があたしの中でぐるぐる回って、どんな言葉を母に投げつけたらいいか思いつかない。


 母親の不貞を糾弾するなんて、人生のこんな早くに知ることじゃないでしょ。あたしの言葉がひきがねになって母が家を出ていくことだってありうる。


 あたしは真実を知りたいんじゃない。家族を壊したくないだけなのだ。


 やがて母が朝食を用意する音が聞こえてきた。


 その音に心がなごんでいく。物心ついた頃からずっと聞いてきた音なのに、なぜか懐かしい。


 やっぱり言えない。


 母を問い詰めるなんて、あたしにそんな権利はない。


 浮気をしてきたのだろうが、それを非難し、糾弾できるのは父だけだ。


 娘だからといって簡単に口を出していいことじゃない。


 そう割り切って食卓についたのに、母のどこか遠慮がちな、おどおどした態度にきつい目を向けてしまう。


 母からは怯えるような雰囲気が伝わってくる。後ろめたさからなのか、顔色がよくない。


 テレビから流れてくるコマーシャルの雑音がうっとおしい。調子っぱずれの音程で頭のおかしい歌が始まった。


 誰か、あの狂った歌手を止めてほしい。もう我慢の限界だ。


「スープぐわプァンうぉ食いちぎるぅ、たどぅりちゅくのはおれぃのぉいぶくろぅ、ふんふふん」


 啓太のヤロウだった。


 弟が流れた曲に合わせたつもりで、適当な替歌を吐いていた。


 気分は最悪だ。わざとなのか、マジなのか、ご機嫌なチョウになって花畑を飛んでやがる。


 あたしの怒りにも気づきやしない。


 スープにひたしたパンをパクリと咥えてやっと静かになった。


 ジョン・ケージだってこんな経験してたら4分33秒なんて曲は作らなかったはず。自由って何をしてもいいってことじゃないんだぜ、オトートよ。


 でも母には違う景色が見えているようだ。弟を見つめて微笑む顔は限りなく優しい。


 そんな母を見ているだけで、あたしの抱えていた怒りも次第に消えていく。


 そう。かけがえのない穏やかな日常を今日も送れているのは、両親のおかげなのだ。


 母の献身的な世話なくしてあたしたちの生活は成り立たない。


 そんな母が一時の気の迷いで羽目を外したからといって、あたしには責められない。


 仮に父と離婚したとしてもあたしの母親であることに変わりはないのだから。


 やがて、部活の朝練があるからと言って弟は早めに家を出た。


 迷いに迷ったあたしだけど、これだけは言っておかなければならない。弟がいない今この場だからこそ。


「お母さん、ゆうべのこと、お父さんに知られたくないでしょ? あたしも親が離婚するなんて嫌だから」


「いずみ……お母さんはやましいことはしてないわ」


「だから、お父さんには黙っておくから。でも、これは貸しだから。覚えておいて」


 それだけ言うとあたしはきびすを返して家を出た。


 あたしの言葉にあ然としている母の顔をこれ以上見ていたくなかった。


 母はあたしの言葉に傷ついただろう。でもあたしも傷ついている。母にあんなひどいことなんか言いたくなかった。


 涙がこみ上げてきた。かばんを胸に抱いて駆け出した。


 早く学校に行って彼氏に会いたい。今はそれだけがあたしの慰めだった。


 ❏❏❏❏


 その夜、父が赴任先から帰ってきた。


 あたしは何も言わない。母も何も言わない。もちろん父は何も知らない。


 一週間ぶりに家族で囲む食卓では秘密を覆い隠してなごやかな会話が流れている。


 この家族が破綻しかけていることを父は知らない。


 その張本人である母は父に笑いかけている。お茶をいれたり、肩を揉んだり、上辺を取り繕う母に嫌悪感を覚える。


 けれど、あたしだって上辺を取り繕っているのだ。


 父に真実を告げない点では母と同罪だ。


 家族の破綻を防ぐための努力ではなく、秘密を隠す手助けをしている。


 母が男と密会を続けながらも家族の安定を求めているように、あたしも父が事実を知って家族の安定が壊れるのを恐れている。


 最低だ。母も、あたしも。


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