第5話 いずみちゃんは異世界で立ち回った。
「うんめぇっ!」
自分の声の大きさにびっくりした。慌てて口を押さえてみるが、後の祭り。周囲が驚いた顔でこっちを見ている。
彼氏が広げた弁当箱の中から最初に選んだのは、斜め切りにした九条ねぎとサイコロ状に粗く砕いた豆腐のごま油炒めに辣油をかけたものだった。
フォークですくい取って口に運んだ瞬間、舌の上を転がった辣油の辛味、ブワッと広がるごまの香ばしさが鼻腔をついて、ほろほろほぐれる豆腐に絡まった甘いねぎがあたしの理性を奪ってしまったのだ。
うん、あたしは悪くない。
けれど、クラス中にとどろくような大声で叫んだ事実は消えてくれない。
笑ってごまかそうか。無理。あたしがいるのは学校の教室。
昼休みに入ったばかりの生徒たちが弛緩した時間帯だ。
興味津々であたしたちを遠巻きに見ていた有象無象どもに声をかけるすきを与えてしまった。
ひゅうひゅうと野次が飛び交い、猿どもが群がってきた。貞操の危機にフォークを持ち替えて臨戦態勢に入る。
「弁当箱、でかすぎだろ。二人分かよ」
「一緒に食べてるって、そういう関係?」
「なんでなんで」
「ばか、付き合ってるってことだろ」
「全然わかんなかったよ」
「そんなことより、いつからだよ。いつから付き合ってたんだ?」
「どっちから告ったんだ?」
怒涛のように言葉を浴びせてくるけど、まともな会話になってない。
やはり猿。キィキィうるさいだけだ。一番最初に注目すべきはこのお弁当の真価なのに。マジ猿。
確かに、あたしは男子と一つ机で向かい合わせに座ってお弁当を食べている。
正しくは一つの大きな重箱を二人でつついている。
おそらくは、女子がいきなり男子の机の前にいすを置いて向かい合わせになり弁当を広げて二人で食べ始めたシチュエーションに頭がついてこれず、残念な発言しかできなかったのだろう。
だが、あたしは優しい。
きちんとこのお弁当を見て、食材の味付けや香り、彩りを最大限に生かそうと工夫をこらし、重箱という箱庭をキャンバスに見立てて飾りつけた芸術性を、そこに食べる人に向けられた惜しみない愛情を、感じることができたなら、その作り手の細心の気遣いと大胆な創造性を讃えることができたなら、ともにこの祝福を分かち合ってもよいとさえ思っていた。
しかし、やはりお前らは、さる、サル、猿、モンキー。食事の時間におとなしくできないヤツは死ね。
「彼女の手作り弁当かぁ」
「大原が作ったのか? うまそうだな」
「柿崎いいなぁ。俺も食べたいよ」
遅い、遅すぎる! お前ら猿どもは廊下の草でも食ってろ! お前らにこのお弁当のおこぼれにあずかる資格なしっ!
てか、この猿ども、あんたの友だち?
うちのクラス、こんなに大勢、猿、いたっけ? 友だちにするならヒトにしときなよ。猿じゃなくて。
あたしは彼氏に念を送る。ついでにフォークで威嚇する。
「もういいだろ。邪魔すんなよ」
「まだ話は終わってないから。なあ、教えろよ。柿崎」
ズドン、ガッシャーン
あたしの後ろの机が教室に音を響かせて倒れた。
あたしがひじで後ろの机を打ち付けたのだ。もちろんわざと。
そのまま立ち上がって周りをにらみつける。フォークをちらつかせて。
「しつこいっ!」
これ以上あたしのお昼ご飯を邪魔するなら容赦しない。
あたしは左手を腰にあて、仁王立ちになる。
フォークを固く握りしめ、右足を軽く上げて思い切り床を踏み抜く。
ドゥォォオン
校舎の床が地響きをたてた。
ような気がした。鉄筋コンクリート造り4階建ての校舎の床が。
「怖っ」
「やめろよ」
「いいから」
「行こうぜ」
「悪かったな、柿崎」
猿の軍団が離れていく。
彼氏は苦笑いで散っていく猿どもに軽く手を振り「後でな」と声をかけているが、後で合流する?
そうか、お前が飼主か! なら、しっかりしつけとけ。さる鍋にすっぞ。
フンッと鼻を鳴らす。
「大原、お前怖いよ。何びびらせてんだよ」
「アタシノ、ゴハンノ、ジャマヲシタ」
「頼むから人間に戻ってくれ。目がすわってるぞ」
「ケケケ、アタシノ怒リニ触レタ者ニ死ノ鉄槌ヲ!」
あたしは怒りに任せてフォークで肉巻きの塊を突き刺した。
ぐにゅるるぅん。なんだこれ?
変な感触があたしを正気に戻す。
「それか? 高野豆腐を薄切りの肉で巻いて焼きながらソースと絡めたんだ。焦がさないようにじっくりと火を通すのがコツなんだ」
あたしは突き刺した塊を口に運んだ。
デミグラスソースの旨味が広がる。サクッと噛み切った食感に、肉に高野豆腐が包まれていたことを思い出す。噛み締めた高野豆腐から汁があふれだして、ソースを洗い流す。
口の中が旨味の洪水や。
彦摩呂の声が聞こえた。ような気がする。
「ほほぉおん」
妙な笑いがこぼれるのはしょうがないよね。だっておいしいんだもん。
次はにんじんのグラッセををいただこうか。それとも薄くスライスしてバターで炒めたたけのこか。チンジャオロースは豚肉の代わりに鶏のささみとこんにゃく。ピーマン多めがうれしい。
待て待て。ここはさっぱりと京みず菜を梅肉で味付けして一口サイズに海苔で巻いたものはどうだい? お嬢さん。
いやいや、春キャベツとしめじを煮て柔らかくしたゴマあえも捨てがたいぞ。意表を突いてワカメをまぶして丸く握ったこむすびに手を伸ばすという手もあるな。
だけど、次は。
キミに決めた。
玉子焼きクン。かたわらにそっと添えた大根おろしと散らした刻み絹さやが上品だぜ。
目にも鮮やかな黄色に白と緑をあしらった様、重箱の中央に鎮座する堂々たる風格は、さながらサッカーブラジル代表、カナリヤ軍団。
あたし、これ大好き。嫁の玉子焼きは世界イチィィィッ。はぐはぐ。
食事を終えたあたしを待っていたのは女子たちの好奇の目だった。
様子をうかがっている視線に耐えきれなくなったのか、あるいは行儀の良くない猿をしつけに行ったのか、「器を洗ってくるから」と言って嫁は逃げるようにその場を立ち去った。
彼氏としてまだ半人前の体たらくだ。情けない。
「いずみん、柿崎君と付き合ってるの?」
「ねえ、ねえ、いつから? いつからなの?」
ほらね。あたしの友達はご飯を食べ終わるまでちゃんと待っててくれた。
勝ち誇った笑みで教室から逃げ出す彼氏を見送る。
「昨日。あたしから告った」
仲のいいゴリ美に答える。
本名じゃないよ。あたしが心の中でそう呼んでいるだけ。
名前を覚えてないわけじゃないんだ。ただ、あだ名のほうが親しみを覚えるというか、全体的な特徴をとらえると、そう区別したほうがわかりやすいというか。
……それに、雑な性格してるし。
「いずみん、お弁当作ってくるなんて、やるじゃん」
「へへへ、まあね」
親友といってもいいくらい教室でよく話をするカバ江も興味津々だ。
そりゃそうだろう。昨日までそんなそぶりすら見せなかったもんな、あたしら。
あっ、カバ江というのもあだ名。本名のはずないじゃない。これもあたしが心の中で勝手に付けた。
そう呼んだことは一度だってない。失礼極まりないからね。年頃の女の子に、ねえ。
……名前は確か……ええっと。忘れたわけじゃないよ。今は思い出せないだけ。カバ山だったか、カバ田だったか。カバの字は付いてなかったかもしれない。
でも、雑な性格だから気にしないはず。
「そっとしておいてやんなよ。いずみんにも春が来たんだから」
「そうしてくれると助かるよ」
あたしが答えた相手は……誰ちゃん?
……確か、同じ班の……ケロロ? いやいや、そんな名前のはずないじゃん。だけど、あの侵略者に……待って、待って。
名前を覚えてないわけじゃないんだ。ただ、あまりに似てるから。おかっぱとか、丸いメガネとか。そのインパクトが強すぎてあたしの中でヒトの名前と結びつかないだけ。
……ゴメンナサイ。嘘つきました。覚えてません。
この娘はカエルの国の王女さま。悪い魔法使いに呪いをかけられたの。魔法がとける日がいつかきっとくる。あたしは信じてる。
いつかきっと雑な性格も治るって。
それに大丈夫。たとえ名前を覚えてなかったとしても、会話は成り立つ。
ほら、あたし達はクラスメート、固い絆で結ばれている。
大切だよね、キズナ。種族を越えて二次元を超えて会話ができる。
まあ、あたしは動物は嫌いじゃない。アニメも。
ただ、いくら人語を解するといっても油断は禁物。相手は野性と侵略者。
いつ手のひらを返して汚い言葉を投げつけてくるかわからない。ガンプラを作り始めるかわからない。
ジリジリと後ずさりで教室の出口に向かう。彼氏を半人前と罵れない。あたしも十分情けない。
そうやって異世界から廊下に転移したあたしに、重箱を洗って戻った彼氏がささやくように、ささやかな苦情を言ってきた。
「弁当、みんな、お前が作ったと思ってるぞ。俺が作ったのに」
「そう?」
「お前もしれっと否定しないもんな」
「あんたが重箱を洗いに行った時点で気づくべきだよね。たぶん、弁当は女が作るものと思い込んでる。みんな固定観念に縛られすぎ。その点、うちの嫁は進歩的だわ」
「おい、嫁って言うな。それに弁当を作るのが嫁なら、お前こそ固定観念で凝り固まってるだろ」
「ゴメンネ、ゴメンネェ」
「俺の扱いにはまだまだ言いたいことがあるが、それはもういいよ。今のお前のクラスメートに対する態度見てたら納得いったわ。お前、すがすがしいくらい本当に誰にも関心ないのな」
「そんなことないよ。みんな仲のいい友達だよ」
「嘘つけ。お前、適当にかわしてただろ。自分からは絶対に話題ふらないし。なにより、その目。さっきまで曇ったようなどんよりした目つきしてたぞ。人をそんな目で見るヤツ見たの、お前で二人目だわ。その人も色々めんどくさい人生送ってるけど、お前もそうなるんじゃないかと俺は心配だよ」
「その人、どんなめんどくさい人なのよ?」
「公務員をしてる人なんだけど、一度も結婚したことがないのに、自分に奥さんがいると思いこんでるんだ」
「なに? それ、受けるっ!」
「お前、急にいきいきしてきたな。……まあ、いいか。その人はな、とても優秀な成績で東京の一流大学を卒業して県庁に就職したんだが、独りよがりな性格が災いして人とうまく付き合うことができなかったんだ。仕事ができると自分では思ってるんだけど、実際はそうでもない。自己評価と承認欲求が高すぎたんだな。思いつきで周りを振り回しているうちに誰からも相手にされなくなった。そんな具合だから結構な年になっても結婚してないんだけど、2年くらい前からどういうわけか、自分には奥さんがいて自分のことを思い出せない病気にかかって入院してると思い込むようになったんだ。しかも、痴呆症で特別養護老人ホームに入所している全然関係ない赤の他人の寝たきりのお婆さんを自分の奥さんだと思い込んで、週に一度面会に行ってるんだぜ。どうだ、怖いだろ?」
「それ、本当のこと?」
「ああ、マジだ。しかも、お互いにしてる話が全くかみ合ってない。ボケた婆さんと変な思い込みしたおっさんだからな。会話が成立してないのに本人達だけが納得してる。婆さんはおっさんのことを息子だと言ったり、市役所の担当者だと言って一貫してないし、おっさんは奥さんが自分の顔を見ても誰なのか思い出せないくらい症状が進んでいると思い込んでいる。90歳過ぎた婆さんが42歳に見えてるんだ」
「やばいじゃん。その人」
「俺は、お前がそうなるんじゃないかと言ってるんだぜ。そんなふうに人に無関心でいたらな」
「何言ってんのよ。あたしは関心あるわよ。他人に優しいからね。ついでに地球にも」
「そうか? 地球のことはいいから、お前の友達の名前、一人でいいから挙げてみろよ」
「今は無理。人目があるから。ほら、みんなあたしの一番の友達になりたがってるから」
「わかった、わかった。お前、本当にクラスの一人も名前覚えてないんだな」
「いや、何言ってんの。知ってるよ。柿崎君とか、柿崎さんとか、柿崎ちゃんとか、カッキーとか、柿ピーとかね。人聞きの悪いこと言わないでよ」
「ぜんぶ俺じゃねえか。しかも最後は人じゃねえし」
「他にもいるよ。洋一郎君とか、洋ニ郎君とか、洋三郎クン?」
「だから、それ、俺だから」
ダカラ、それ! ダカラ、おれ! YOイチローとか、YOジローとか! イッサイガッサイ、カンケー、ナーイ! なーでこだYO!
脳内でDJ撫子が韻を踏む。
参った。花澤香菜を味方につけるとは。やるな、柿崎。
「わかった。あたしの降参だ。やれやれ、仕方ないなあ」
「なんだ、その俺が言いがかりをつけたのを我慢して聞いてやってるような言い方は? けど、わかってくれたなら、少しは周りの奴らに関心持てよ。せめて名前くらいは覚えてやれ」
「そうだね。じゃあ、とりあえずあんたから始めることにする」
「俺の名前からかよ」
「ううん。ねえ、あんたのこと教えて。誕生日とか、趣味とか。好きな食べ物や最近観た映画、読んだ本とか」
「……趣味は特にない。最近剣道を始めた。読むのは推理小説。ヴァン・ダインが好きだ。あと、ラノベも少したしなむかな? 好きなアニメはオレイモ。あやせ派だ。オレイモのファンはクロネコ派とキリリン派に分かれるんだけど、俺は第三の勢力」
うげっ、アニヲタでしたか。ちょっと引いた。この話題は封印することにしよう。
気を取り直して次の質問をする。
「好きな食べ物は?」
「何かを食べるということは、生命を奪うということだ。好きとか嫌いとかはおこがましい。人の思い上がりだ」
うざっ。
こいつも十分めんどくさい奴だった。でも、それならなんで料理とかするの?
「あんなに料理が得意なのに?」
「生命をいただく以上はできる限りおいしく仕上げたいというのが、料理をする者の心構えだと俺は思ってるから」
こいつに料理の話題をふるのはタブーだな。テレビの料理のコメントみたいなことをうかつに言ったらやり込められるかも。
お肉が口の中で溶けるぅ。噛む必要ないわぁ。そんなことを言うタレントを心底バカだと思ってる手合いだよ。
「溶ける」は言い過ぎにしても、いいじゃん。お仕事なんだから。あたしだって、お金貰ったら大しておいしくなくても言っちゃうよ。
「イツノマニカ、トケチャッテマシタァ」
だって、味の評価をしない分正直だし、見てる人には嘘だって伝わるでしょ?
ていうか、さっき趣味はないとか言ったけど、こいつの趣味って料理なんじゃないの?
でも、それを言ったら、食は趣味ではない、生きとし生けるものが抱えるどうしようもないサガなんだとか言いそうで怖い。
話題を変えろ、あたし。ここから戦略的撤退をするんだ。
「じゃあ誕生日は?」
「5月22日」
「えっ! 来週の火曜日? じゃんよ」
「なんだよ。その聞くんじゃなかったみたいな顔。別にいいよ。何もしなくても」
……わかるの? あたし顔に出てた? 柿崎洋一郎、恐ろしい子。でも、聞くんじゃなかった。
今日のあたし、地雷を踏みまくりだよ。
だけど、聞いてしまったら仕方ないじゃない。お弁当を作ってもらっておいて何もしないわけにはいかないよ。
なんせ、あんたが生まれてきてくれたからあたしはおいしいご飯をいただけたんだし。
お誕生日くらいお祝いしますとも。感謝の気持ちを精一杯込めてね。
「何言ってるの? あんたにとって絶対忘れられない誕生日にしてあげるから」
あたしはそう断言した。
勢いのままに。何のあてもなく。