第3話 いずみちゃんはご飯に釣られた。
長かった4月が終わろうとしている。
新しいクラス、新しい担任、新しい友人、慣れてきた新しい生活。そして疎遠になった2年のときの友人と陸上部の仲間。廊下ですれ違っても目で追いかけることすら自然としなくなった。関心が希薄になってきている。
あたしは冷たい人間なんだろうか。
そうじゃないと思いたい。上辺だけの関係を築くことに価値はないとあらためて気づいただけ。
だって本当にほしいものはここにはない。それが何なのか、まだ見えてこないけど、少なくとも仮りそめの友人関係なんかじゃない。
大切にしなきゃいけない何かを見つけるためにもあたしは走り続けたい。見据えるのはただ真っ直ぐに前。そして未来。
じりじりとした夏の訪れを肌に感じながら、あたしは運動公園の外周をランで軽く流す。
公園の側道は直線になっていて、200メートル先まで見渡せる。先行者がいないときはダッシュを繰り返している。
あたしには短距離走の才能がない。
どんなに速く腕を振っても、どんなにストライドを広く伸ばし、強く地面を蹴ろうとも、身長の差でどうしても敵わない相手がいるのだ。
もうすぐ15歳、成長期もそろそろ頭打ちだろう。
走り続けるためには、あたしが戦える距離を見つけることから始めなければならない。そのための試行錯誤を繰り返していた。
幸いにして今は公園利用者の姿はない。腕時計のモードをストップウオッチに変え、押すと同時に走り出す。
勝負だ。
ストライドを長く伸ばして体重を前にかける。90度に曲げたひじを前後に大きく振り抜いてトップスピードに乗る。
視線を正面に固定して風を切る。今のあたしの最速を極め、見えない敵に挑む。
カーブの始まりを目印に全力疾走からギアを落とし、ストップウオッチを止める。そのままランを続けながら数字を確認した。以前よりもタイムが縮んでいることに満足して足を家に向けた。
歩行者にぶつからないようクールダウンを兼ねた緩いジョギングで舗道を一歩一歩踏みしめ、走る楽しさを全身で堪能する。
広がる街並み、光と影のコントラストと日差しの照り返し、アスファルトの路上を渡る風、流れ落ちる汗すら心地よい。
正面の交差点は赤信号。青に変わるのを待つ車を追い越し、信号が変わるタイミングで横断歩道に差しかかる。
チカチカ、チカチカ
追い越した車の左折ウインカーに気を取られてつい目を向けた。
えっ?
助手席に母が乗っていた。
横断歩道の途中で立ち止まり、体を向けたときにはもう車は走り出していた。
運転していたのは見知らぬ男性。車はあっという間に遠くなっていく。
嫌な予感がした。
母はあたしに気づかなかったのだろうか。だけど。
もし一緒にいたのが浮気相手だったならあたしに見られたいとは思わないはず。
でも、だからこそあたしは確認しなければならない。
スピードを上げて家に向かう。糾弾したいわけじゃない。見間違いじゃないことを確認したいだけ。母が車から降りるのをこの目で。
あたしが浮気を疑っていることを知れば、逢い引きをやめる程度の冷静さは取り戻すんじゃないかな?
先週の水曜日、深夜に酔いつぶれて帰ってきた母は浮気をしたようには見えなかった。それで杞憂だったと自分を納得させた。けれど、こうやって昼間会っていたのだとしたら? 疑惑で感情が揺さぶられる。
今日、あたしが学校から帰ったとき母は家にいなかった。
今夜は父が帰ってくる日だ。てっきり単身赴任の父にふるまう料理の食材を買いに出かけたものだとばかり思っていた。まさか男の人と会っていたなんて。
家の前に車はなかった。
玄関に飛びこんで母の姿を探す。母は台所で料理に取りかかっていた。肩で息をするあたしの剣幕に驚いている。
「あら、もうそんな時間? ごめんね。晩ご飯これから作るの。今日、美術館に行って遅くなったから」
「お母さん、さっき車に乗って……」
「うん? 美術館のチケット貰ったのよ。剣道部の後援会の人なんだけど、美術館に勤めていて、チケット余ってるからどうぞって。で、美術館なんか行くことってないでしょ? 珍しくて閉館までいたら、その人が車で送ってくれたの。ラッキーだったわ。ちょっと待っててね。すぐに作るから」
啓太じゃあるまいし、ご飯くらいで慌てたりしないわよと言いたいのを我慢して「そうなんだ」と返す。
母の様子には家族への後ろめたさは感じられない。だけど、疑念は解消しておきたい。
「お母さん、絵に興味とかあったっけ?」
「ない、ない。でも、チケット貰ったのに行かないなんて失礼でしょ?」
「どんなことやってた?」
恐る恐るたずねる。
「サカタカズオ。知ってる?」
「ううん。どうだった?」
「ちょっと難しかったかな?」
「そうなんだ。夕飯できたら教えて。それまで勉強してるから」
「頑張ってね」
いつになく上機嫌な母の声を背に部屋にもどり、早速スマホで検索した。
県立美術館のサイトに出てきたのは坂田一男展。
母の言葉に嘘はないようだが、いくら知り合いでも、結婚している女性が夫以外の男性の車に乗るものなのだろうか。
それだけで浮気と決めつけることはできないが、母に親しい男の友人がいる、その事実があたしを不安にさせる。
その夜、食卓を囲んだ父の前で母が美術館の話をすることはなかった。
ゴールデンウィークが終わり、日常が戻ってきた。
父が家にいる間はおとなしくしていた母も、父が赴任先に戻るとすぐに怪しげな行動をとるようになった。
5月8日火曜日、あたしが練習から帰ってくると母はいなかった。
出かけてくると書いたメモが食卓に残されていた。夕飯の用意は終わっていた。レンジで温めればいいように。
でも用意されている量はあたしと弟の二人分。母の分は?
塾から帰ったときには母は戻っていた。外食してきたのだろうか。いや、一人で外食に行くような人ではないから、誰かと一緒だったのでは? そんな疑いが頭をよぎる。
誰と? なんて怖くて聞けない。家族が壊れていく音が聞こえていた。
5月10日木曜日、リビングのごみ箱に郷土資料館のパンフレットが丸めて放りこんであった。
昨日まではなかった。弟が捨てたなんてことはありえない。部屋をごみ箱にしてる奴なんだから。
ということは誰かが郷土資料館に行ったってこと? 母が? まさかね。
ここ数週間で母は見違えるようにきれいになった。
お父さん、油断してるとお母さんを誰かに取られちゃうよ。ていうか、そろそろ気づかないとまずいんじゃない?
週に一度しか帰ってこないのにお母さんの変化に気づかないなんて呑気すぎない?
5月11日金曜日、母の怪しげな行動に悩まされた一週間がやっと終わる。
父が帰ってくる日くらいは母も行動をつつしんでくれるようだ。夜になり、父が帰ってきたのをあたしは初めて喜んで迎えた。
家族の崩壊はもう時間の問題だ。
母の行動は危なっかしく、どんなに取りつくろおうとしてもいずれは父に知られるだろう。
こんな綱渡りの生活を母はどう思っているのだろうか。最後は家族を捨てて恋に生きる覚悟? それともほどよいところで恋人と別れて生活を守る? いやいや、あの母のことだ。何も考えていないに違いない。
父にばれたらどうなる? 赦すなんてありえない。離婚になったらあたしはどうなる? 啓太は? ただ、明日と明後日は父がいるから母が家を空けることはない。
つかの間の安らぎが訪れる。
穏やかな時間を過ごすはずだった土曜日、あたしは県立体育館にいた。
近隣の中学の剣道部が集まった対抗戦、柿崎に誘われて会場に来ている。
剣道に興味はないし、弟が出場しているわけでもない。ましてや柿崎と一緒に来たかったわけでもない。
それでもあたしが来ることにした理由はたった一つ。後援会で母と親しくしている男の人のことを知りたかったからだ。
柿崎が本心ではどういうつもりであたしを誘ったのかわからない。
でも、当初の目的から離れてあたしの心は弾んでいた。母もこんな気持ちになったのかもしれないと思うと複雑だが。
そう、こいつとの会話は嫌じゃなかったんだ。
「明日、剣道部の対抗戦があるんだけど、一緒に行かないか」
「どうしてあたしが? なんであんたと?」
「ただの応援だ。俺は剣道部に入ったから行かなきゃいけないんだけど、一人で行っても面白くないから」
「それはあんたの事情でしょ。行ってもあたしには面白いことなんてなさそうなんだけど」
「まあ、そうだな。実は俺も面倒くさい」
「……なんで剣道部に入ったの?」
「……部活をやめた大原には言いにくいんだが、卒業アルバムってあるだろ? あれに部活の集合写真が載るんだ。3年生の春のときのが。そこに写っていれば卒業した後で誰かに部活のことを聞かれたら、3年間剣道してたって言えるだろ? 証拠になる」
「せこいよ。カ・キ・ザ・キ・クン?」
「恥ずかしいから誰にも言うなよ」
「無理。今日にでも誰かに言っちゃいそう。面白いし」
「明日のお昼、おごるよ。それで手を打たないか?」
明日のお昼? 土曜日なんですが? ということは……
「ねえ、それってデートの誘い?」
「そう思ってくれてもいい。どうかな?」
「うーん。どうしよかな。……まさかマックとか言わないよね?」
「それこそまさかだよ。何食べたい?」
「悩むなぁ。あたしはまだアスリートしてるからなぁ。脂肪がつくのは困るなぁ」
「じゃあさ、俺の手作り弁当はどう?」
「あんたが作るの?」
「俺は弁当をいつも自分で作ってるぞ。おふくろは作ってくれないからな」
「ソレハ、ソレハ、タイヘンダネエ」
正直なところ、自己満足という調味料でがっつり味付けされた男子メシなんて食べたくない。
そんなもので女の子を釣れるとでも思ってるの? そもそも料理の前に手を洗っているかすら怪しい。あたしが知ってる男子中学生なんてトイレから出てきたときでさえ手を洗わない。
見かねた母がいつも注意している。いつ交換したのかわからない壁のタオルで手を拭かないのはさすがの衛生観念だが、ズボンで手を拭くことには躊躇しない。
それがあたしが一番よく知る男子中学生だ。先輩のことじゃないよ? 先輩は排泄なんてしないから。
「だから一緒に行ってくれないか?」
「へっ?」
「県立体育館、イベントは剣道部対抗戦」
「それはデートじゃない!」
「なぁ、一緒に行ってくれよぉ」
「あんた、最初からそのつもりで?」
「頼むよぉ。一人じゃ心細いんだよぉ」
「なんか、すごいガッカリなんだけど」
「どんなふうに思われてもいい。ぼっちは嫌だ」
柿崎はそう言って崩れ落ちた。
そんなふうに言われたらどうしようもない。あたしだってぼっちは嫌だ。正確にはぼっちだと思われるのが嫌だ。その気持ちは痛いほどわかる。
こいつに豪華な弁当が用意できるのならほだされてみてもいい。
どうせ予定はないし、帰るのは弁当の中身を見てからでも遅くない。
それに、剣道部の大会なら、後援会の人も来るはず。もしかしたら、あの夜、酔っ払った母を送り届けた男の人を見ることができるかもしれない。
ここは考え方を変えてみてはどうだろうか。母に浮気をやめさせるのではなく、相手の男にやめさせるよう働きかけるのだ。
相手にも家庭はあるはず。剣道部員の保護者なんだもの。素性さえわかればこっちのもの。やり方なんかいくらでもありそうだ。勝手に妄想が走りだす。
さあて、個人情報を掴んだら、どうしてくれようか。まな板の上の鯉ってやつ? いや、タイだよね? 鯉は食べるものじゃないよ? まあ、食の好みはそれぞれだけど。
とりあえず、まな板の上のタイ。
3枚におろして、煮て食らうか、焼いて食らうか、腕によりをかけて骨の髄まで美味しく召し上がれるよう調理してくれる。
くっくっく。料理だけにクック、クック。
にやり。くっくっく。
「おい、今何考えた? 悪い顔してるぞ」
「あたしは3時には帰るけどそれでもいい?」
「一緒に行ってくれるならそれでいいよ」
「それから、弁当のリクエストだけど」
「お、おう。そっちはまかせとけ」
「じゃあ、お言葉に甘えて……まず卵焼きはマストね。味付けは出汁で。砂糖はNG。漬物やカレーは臭いが移るから論外。パスタや焼そばもなし。炭水化物はご飯だけにしてるの。好きなのは肉よりも野菜ね。でもセロリやパセリよりレタスやきゅうりがいいな。ブロッコリーやカリフラワーはゆでたのが冷めると変な匂いがするからやめて。プチトマトをそのまま入れるのは芸がない。あれでスペース埋めるとか手抜きだから。玉ねぎはサラダも炒めたのも大好き。でも、マヨネーズで味をごまかすのは許さない。塩と胡椒は控えめに。ガーリックとか言語道断だし、油はグレープシードオイルかごま油にして」
「うおっ。めっちゃ注文つけたな」
「そう? アスリートの常識だけど?」
けして無理を言ったつもりはない。むしろかなり控えめな注文だったはず。
ほら、なんといっても作るのが男子中学生なんだし。でも、せっかく作ってくれるのなら美味しくいただきたいじゃない?
だから、妥協できるぎりぎりまでレベルを下げてあげたのだが、柿崎は難しい顔をしている。
「この程度で尻込みしてるようじゃお弁当で女の子を誘うなんて早いんじゃない?」
「いや、色々と工夫がいると思ってな。だけどオールオッケー」
「ほんとに?」
「心配するな。大丈夫。じゃあ、明日は9時に駅の改札前で」
「集合場所のこと? 説明下手すぎ。だけど、部員はバスで応援に行くんでしょ? あんた、単独行動していいの?」
「よく知ってるな。啓太から聞いたのか? 別にいいんじゃないか? 行きさえすれば。俺は選手じゃないし」
というわけであたしはここ県立体育館に来ている。
柿崎の弁当に釣られたわけじゃないよ。あたしの目的はたった一つ。それは、母の恋人、間違えた、母が親しくしている男性の身元を探ること。ホントだよ。
ヤロウの顔は覚えてる。さて、どこにいるのかな? クックック……