第2話 いずみちゃんは深淵を覗いた。
春休みが終わり、あたしは3年生になった。
陸上部には復帰しなかったが、毎日走っている。この練習方法が正しいかどうかなんてわからない。ただ走るだけ。先輩と最後にかわした言葉が今のあたしの道しるべだ。
日課のランニングから帰ると夕食の時間だった。注意深く炭水化物を避けて食事をとる。栄養学の知識はないけど、運動の後の炭水化物は体に良くないと先輩が合宿で言っていたのを思い出したから。
食卓では弟が剣道部に入りたいと駄々をこねていた。
「入部するのに保護者の後援会入会届がいるんだよぉ。サインしてよぉ」
「何よ。これ」
母はすっかり戸惑っている。余計なことかもしれないと思ったが、乗りかかった船だ。弟のために口添えすることにした。
「うちの学校の剣道部は強豪だから顧問の代わりに後援会が部活の監督をしてるの」
3月の見学会で聞いたことをそのまま母に伝える。
「どういうこと?」
「親が後援会に入らないと子供は入部できないの」
「学校の部活なんでしょ。どうして?入部は自由じゃないの?」
知らないの? 剣道部が強い理由は親が全面的に協力してるからなのよという言葉を飲みこむ。
「知らない。でも、うちはお父さんが単身赴任だから、お母さんが後援会に入らないなら啓太の入部は無理ってこと」
「そんなのおかしいじゃない。公立の中学なのに」
「でもそうなの。だからって学校にねじこんだりしないでよね。恥ずかしいから」
「そんなことはしないけど……」
母に弟の部活の協力をする気がないのは明らかだ。かわいそうだけど、啓太も中学生、家庭の事情ってものを理解していい年齢だ。それに、剣道部に入らなくても剣道をしている生徒もいる。それだけは伝えておこう。
「親の都合で剣道部に入ってない子は警察署の道場に行ってる。お母さんが無理ならそっちに通わせれば? ごちそうさま」
後は自分でなんとかしなさい、啓太。そもそも親が後援会に入らなきゃ入部できない部活なんてうさんくさいじゃない。
見学会で後援会の話を聞いたときからあたしの剣道部に対する印象は最悪だ。
うちの中学の室内運動部はどこも冷遇されている。バスケ部やバレーボール部は体育館から追い出され、グランドの片隅にコートを描いて練習しているし、卓球部の居場所は壇上だ。柔道部は警察署の道場に行っているし、走ってばかりいたバドミントン部はこの春とうとう廃部になった。体育館は剣道部が優先的に使っていいことになっているからだ。他の部が体育館を使用できるのは剣道部が遠征でいないときだけ。
陸上部だったあたしは漠然と県大会で好成績を残し続けている剣道部に他の部が遠慮しているのだと思っていた。実は学校側の配慮だと知ったのはつい最近のこと。
学校の運動部への待遇は成績で決まる。だから強豪とまでいわれるようになった剣道部にはいつもある種の敬意が払われていた。
その剣道部の成績を支えているのが親のバックアップだと知って愕然とした。
試合会場への送迎バスの手配、合宿での食事の用意や練習着の洗濯、それらを後援会が率先して部活をサポートしている。当然、部費でまかなえるはずがない。だから、親が後援会に入ってお金を出さないと部活が成り立たないのだ。もちろん労力こみで。
特別待遇はそれだけではない。不審者対策のため、外来者は学校の受付で入校証を受け取らないと校内を歩けない決まりだが、剣道部の後援会の人たちは入会した時点で入校証を貰っているのでいつでも自由に校内を見てまわることができる。
体操部や水泳部を覗いていた不審者にしか見えないオヤジが剣道部の後援会の人だったと初めて知った。
どうりで職員室に通報しても不審者が後を断たないわけだ。先生たちも後援会の人と面識があるらしく、階段の踊場で話しているのをよく見かける。剣道部の顧問でもない先生に何の用があるんだか。
……啓太、あんたにはかわいそうだけど、うちの家庭事情じゃ無理。むしろやめておいたほうがいい。これ以上お母さんに負担をかけても小さいころから剣道やってる子にはかなわないから。
あたしは、ベッドに寝転びながら羽を持たずに生れた自分に弟のことを重ね合わせて哀れんだ。
鳥は飛びたいから飛ぶんじゃない。飛ぶことしかできないから飛ぶんだ。それは夢とか憧れとかではなく、当たり前のこと。当然のように空を目指して羽を広げる、飛べることに疑いなど持たず宙を舞う、ただそれだけのこと。
あたしや弟が夢や憧れを持つのは、羽を持たずに生まれたことを知っているから。なりたい自分になれないことを知っているから。
でもね、啓太。地面を這いずり回ったって道端の花は見えるんだよ。ツバメやスズメのような小鳥には空高く舞う大鳥の志はわからないって昔の人は言ったけど、空高く飛んでいたら見えないものだってあるんじゃない? 走っていたら見えなかったものが、歩いていたから見えてくる。そういうことだってあるんじゃない?
あんたが今望んでいるもの、それは本当にあんたの夢なの? 誰かが語った夢を勘違いして追いかけてない?
これは諦めた者の言い訳なんだろうか。きれいな言葉で自分をごまかしているだけなんだろうか。……あたしは走り続けていいんだろうか。
❏❏❏❏
弟が剣道部に入部したことを教えてくれたのは柿崎だった。柿崎も剣道部に入部したという。
弟に、入部したことをなんであたしに言わなかったのかと問い詰めた。人を見学会にまで連れ出しておいて。
「だって、いずみちゃん、興味ないみたいだったから」
「たとえそうでも、剣道部に入ったことくらい教えるのが当たり前じゃない。家族なんだから。教えてくれた柿崎にびっくりされたわよ」
「やだなぁ。部活なんだから希望すれば誰でも入れるに決まってるじゃん。入部テストとかあるわけじゃないんだし」
「それはお母さんが後援会に入ったってこと?」
「うん、そう」
「なら、あたしにも関係あるじゃない」
「どうして?」
「お母さんが家をあけることが増えるでしょ」
「そうなの?」
きょとんとした顔にむかついた。この野郎、何も考えてないな。あどけなさが通用するのも小学生までなんだからね。そう信じたい。
そういえば、こいつのどこが気に入ったのか、柿崎もこいつの面倒を見ているらしい。その柿崎が啓太がどうした、こうしたと話すたびにいらっとするのはなぜだろうか。
「あんた、何も知らないのね。後援会は月1回夜遅くまで会合があるのよ。つまり、その日は夕食がないってこと」
「そんなぁ」
「になるかもしれない」
「驚かさないでよ」
「でも、本当にそうなったら困るでしょ。あんた、食い意地張ってるから」
それだけ言い捨てて自分の部屋に戻った。
啓太はずるい。あたしが母に言えないことをさらりと言って望みを叶えてもらっている。あたしは新しいランニングシューズを買ってほしいとすら言えなかったのに。
ランニングシューズに穴が空いているのに気づいてくれたのは父だ。
休みの日に洗って玄関に陰干ししておいた。目立つように。母は玄関を掃除していたのに気づかなかった。もしかしたら見なかったふりをしていたのかも。
弟が脱ぎ散らかした靴を片付けていた父が気づいて一緒に買いに行こうと言ってくれなかったら、あたしは多分玄関で泣き出していた。
うちが裕福でないことはよくわかっている。ランニングシューズを買ってとねだるのは相当に勇気のいることなのだ。
穴の空いた靴で部活に出るなんて恥ずかしくてできない。いや、先輩ならできるかも。穴の空いた靴を履いて誰よりも早く走ってみせそうだ。
でもあたしにはできなかった。だからといってそれなりに高額なランニングシューズを親にねだって困った顔を見るのもいやだった。
あたしのそんな小さなわだかまりを弟は軽々と乗り越えていく。家族だから甘えていいと当然のように信じ、両親に全幅の信頼を寄せて自分のほしいものを堂々と主張している。親からの拒絶など微塵も考えていない。
かつてはあたしにもそんな時期があった。親に甘えて無理を平気で言っていた。いつからか、親が無理をしていることに気づき、あたしは親に甘えることができなくなってしまった。
親はあたしとは別の人間なのだと気づいてから、あたしと親との距離は離れていった。親が笑顔の裏で考えている真意を探ることが自然と身についてしまっている。
啓太、あんたはまだ知らない。親が子供に失望して向ける冷たい目を。凍りつくような言葉の刃を。いつかそんな日がきてもあんたは笑っていられる?
❏❏❏❏
学校から帰ると母が出かける準備をしていた。
「いずみ、お母さん、剣道部の連絡会に行ってくるね。カレーを作っておいたから、遅くなったら温めて啓太に食べさせてね」
母はあいかわらず啓太のことばかりだ。この人の目にあたしは映っていないのだろうか。
「啓太は?」
「まだ学校から帰ってこないのよ」
あたしは鷹揚に頷きながら部屋に向かった。
……それにしても、ただの連絡会なのにおめかしが過ぎるんじゃないの?普段見ないようなお化粧してるし。いや、いや、今はそんなこと考えてる場合じゃない。
あたしは雑念を振り払ってトレーニングウェアに着替えた。これから一人きりの練習を始める。
部活をやめてからあたしは4時には家に帰るようになっていた。
着替えたら夕焼けに染まる前の街並みを軽くランで流す。ダッシュを繰り返しながら手首の時計で100メートルのラップを計る。まだ太陽が落ちきっていない茜色に照らされた家々の壁を横目で見ながら風を受けて走る。
トラックを走っているときよりも速く走れているような気がする。長く伸びたあたしの影が一人じゃないって応援してくれている。
6時には家に帰って7時からの塾に備える。つまり、シャワーと夕食の時間。これがあたしの日課だ。ちゃんとした指導を受けていない点では部活のころと変わりがない。これ以外の練習方法を知らないのだ。
『大原、陸上を続けろよ。続けていたらまた会える。いつか、きっと』
他の誰でもない先輩の声があたしの背中を押してくれている。次に会うときは高校の大会、目指すは全国だ。先輩は必ず出てくる。あとはあたしがどこまでできるのか、自分の本気を試すだけ。
夕食を食べ終える時間になっても啓太は帰ってこなかった。きっとまだ剣道部の練習が終わらないのだろう。仰ぎ見た時計は6時40分を指している。あたしにとってはそろそろ塾に向かう時間だ。
カレーを鍋のままコンロにかけたら焦がしちゃうよ。お皿に盛ってレンジで温めること。500ワットで2分。
そう書いたメモを残して家を出た。
だけど、お母さん、ごめんねえ。あんたのかわいい息子はたぶんご飯に冷えたカレーをかけてそのまま食べると思う。そのままおかわりもするかも。でも、啓太がそんなふうに食べるのはあたしのせいじゃないからね。
風を切って走りながらあたしは心のなかで赤い舌を出していた。
塾が終わって家に着いたのは10時過ぎだった。
「ただいま」
リビングから明かりが漏れているのを見て声をかけながら入っていった。
誰もいないリビング。食べ散らかしてほったらかしの食器があたしを出迎えた。こんなサプライズはちっとも嬉しくない。あたしのただいまを返してほしい。
明かりはつけっぱなし。テーブルの上に点々とカレーをこぼした跡。お皿のまわりにも大胆な絵柄をあしらって、まさに芸術の大爆発。なんでスプーンが床に落ちてるの? あれか、前衛芸術なのか? コップに残った飲みかけの水くらい自分で捨てなよ。
アーティスト気取りの犯人の姿が見えないのは、部活で疲れて自分の部屋で寝てしまっているからに違いない。
「あの野郎っ!」
次から次に浮かぶ悪態を、口から漏れるのを抑えながらテーブルの上を片付けていく。こんな有様を母に見られたら何て言われるかわかったもんじゃない。あの人あたしには厳しいから。
だけど、この分じゃ風呂場とか脱衣所もひどいことになってそうだ。見ないで済むように今夜のお風呂は諦めよう。塾の行き帰りでかいた汗は明日の朝流すことにしよう。
そんなことを考えながら、シンクに食器を集め、キッチンペーパーで汚れを拭き取る。洗い桶に水を落としながら洗剤を投入。桶の中で食器を磨くようにスポンジで油を拭い取り、流水で泡を流したらキッチンペーパーで水気を切って食器棚にしまう。母がいつもしていることだ。毎日見ていれば嫌でも覚える。
片付けが終わり、気づけばもう11時。母はまだ帰ってこない。
連絡会がこんな夜遅くまでやってるなんて思いもしなかった。一体、何を話し合ってるんだろう? まあ、あたしには関係のないことだけど。塾の宿題もある。部屋でもうひと頑張りだ。
❏❏❏❏
大人なんだから大丈夫。とはいえ、さすがに日付けが変わった頃には心配になってきた。
犯罪の舞台になったことのないこの町だけど、女性が一人で出歩いている時間じゃない。
窓辺に立って母の姿を探す。
探しに行くなんてことはできないが、せめて窓の明かりが母の帰り道を照らすことを願ってカーテンを開け放った。
❏❏❏❏
あたしは単語帳をめくりながら、暗闇の向こうに母の姿を探していた。
やがて、ふらつきながら歩いてくる二人の姿が見えた。男の人に抱きかかえられているのは、母だ。
間違いない。
男の人に支えられて歩いているが、見ようによっては仲睦まじく寄り添い、今にもしだれかかりそうな痴態をさらしている。
つまり、母は父以外の男の人と腕を組んでいるのだ。
不潔だと思った。
不快感で胃が縮みそうだ。父が単身赴任しているのをいいことに、こんな時間まで一体何をしてきたんだろうか。嫌な想像が浮かぶ。父が知ったらなんて言うだろう。
修羅場の果ての離婚という展開が頭をよぎる。両親が離婚してあたしと啓太にいいことなんて何もない。
でも、母はどうなんだろうか。
家の前に着くと男の人は母に挨拶をして帰っていった。恋人が別れ際に交わすようなキスも抱擁もない。
けれど、男の人が帰っていくのを見送る母の背中はまるで恋する少女のように見えた。
じっとたたずんでいる姿は、先輩をずっと目で追いかけていたあたしだ。
あの切なさを思い出す。母は今恋をしている。あたしと同じ、片思い。
だけど、今夜は剣道部の保護者の集まりだったはず。
すると、あの男の人は部員の誰かの父親じゃないの? お母さん、どういうつもり? 今日が初めての会合だって言ってたじゃない。いくらなんでも恋に落ちるのが早すぎるでしょ。どんだけ尻が軽いのよ、あんた。
自分の家庭も相手の家庭もすべてぶち壊してしまう母の危うさにあたしは初めて触れた。
父が単身赴任してまだ1か月。いや、もう1か月? こんなのってありえない。お父さんが哀れだ。
母が振り向いた。やっと家族がいることを思い出したようだ。それが母にとって大切な記憶であってほしい。切にそう願った。今夜が家族の終わりの始まりでありませんように。
そう、思ったんだけど。
口をあけたまま、よだれを垂らすゾンビがそこにいた。
うげっ。見たくなかったなぁ、あんなお母さん。そんな顔で恋してるとか勘違いしてゴメンナサイ。
口のまわりが汚れているのは、どこか道端で吐いてきた証拠。
あの男の人、よくこんな女と一緒に歩けたよね。告られたら逃げるか殺るか、二者択一のレベル。でもボルト並みのスピードが出たとしても、ゾンビからは逃げ切れる気がしない。やはり殺るしかない。うん、一択デシタ。
あたしは殺意を込めた目で母を迎えいれた。
わざわざ玄関で仁王立ちで待っていたのは、母に罪を自覚させるため。
それにしても汚い顔。
思わず顔をしかめる。気まずい空気が玄関に流れる。
いや、気まずさだけじゃない。一緒に流れていたのは臭気。母の口から公衆トイレのゴミ箱のようなすえた臭いが漂ってくる。
「臭いっ!」
あたしは鼻をつまんで逃げ出した。部屋に飛び込み、異臭が入ってこないようにドアを押さえつける。
……何なの? あの臭い。
「そんなころないらりょお」
呂律の回らない反論がドアの向こうから届いた。
「吐いたでしょ! ゲロの臭いがするっ!」
ドア越しに現実を叩きつけた。
ふざけんな! このバカ母! 鏡を見てから言えっ!