最終話 いずみちゃんは前へと一歩踏み出した。
あたしと啓太は、わけのわからない事態に直面していた。
夕飯の後、突然、神の啓示を受けたかのごとく、突飛なことを言い始めた母に唖然としている。
何が起こったのか、なんの脈絡もなく、いきなり転校を言い渡されたのだ。
この唐突な発言にあたしも啓太も反応することすらできずにいる。
母は寄生生物にでも取り憑かれたのだろうか。そんなことを思いながら啓太と目を合わせる。
きっと心労がたたったんだね。かわいそうに。
いや、本当にかわいそうなのはこれからのあたし達なんだけど。
それでも、これからはもっと家事を引き受けよう。
お手伝いとか言ってる間はまだ本気じゃない。母が家事をすることが当たり前のように思うのは、母を、家事を見下ろしている証拠だ。
お腹が空いたらご飯を食べる。服が汚れたら着替える。部屋で過ごしたら物が散らかる。
当たり前の生活の中から必要とされる家事が生まれる。起きた後の布団だってそうだ。
やりっぱなし、散らかしっぱなしのままでは生活できない。
できるよって言う人はきっと生活か人生のどちらかが乱れている。
あたし達は母への感謝が足りなかった。
自分達のことは自分で。
違うな。
家族が快適に暮らしていくために、あたしもできることを探して行動することにしよう。
今日からお風呂とトイレと玄関の掃除は任せてほしい。啓太に。
あと、ガスコンロのさかなを焼くトレイも洗うから。啓太が。
それから、それから。啓太が、啓太が。
あたし達がそんなふうに、悲しげな目で母を見ていると、母が目に涙を浮かべながら怒ったような口調で繰り返した。
「みんなにはぁ、今からぁ、ちょっとぉ、転校してもらいますぅ!からねぇ!」
母は、大切なことだから、二度言いましたとでも言いたげにあたし達を睥睨している。
似合わない腕組みで背伸びをする哀れな姿が涙を誘う。
今までごめんなさい、お母さん。
気づいてあげられなくて。
辛かったんだよね。張り詰めてたんだよね。
いいんだよ。あたし達はわかってるから。親子なんだし。
やりきれない思いも、ぶつけることのできない怒りも、全部、全部、あたし達家族が受け止めてあげるから。
明日になって、昨日変なこと言ってごめんねぇ、お母さん、どうかしてたの、疲れてたのかな、てへって言うのを、いいんだよ、お母さん、誰にでもそんな日はあるよ。そんなことより、夕飯はあたしが作るけど、お茶漬けでいいかなって笑って流してあげるから。
「いずみも啓太もよく聞いてね。今、この家は大変なことになってます」
それはお母さんのせいだけどね。
「お父さんはたまにしか帰ってこない。お母さんは家庭のことで手が一杯であんた達のことに手が回らない。あんた達も頼りないなって思ったこともあったでしょう。それをなんとかしたいと思うけど、お父さんがいない状態ではどうしても限界があるって気づいたの」
いや、別に? 頼りないって? うん。そうかもしれないけど。今更だし。
「そこで、お父さんに相談して、昨日、あんた達からお話を聞きました」
えっ? 昨日のあれって、いつもの雑談じゃなかったの?
あたしは啓太を見る。そんな深刻な話をしてたっけ?
啓太もあたしの言いたいことがわかって首を横に振る。
それは、もう、強く。
「その結果をお父さんに報告して相談し、親として決断しました。家族全員で東京に、お父さんのところへ引っ越します」
母の言葉がただの妄言やうわ言じゃなかったことに、あたしの頭は真っ白だ。
正直言って、クラスメイトや志望校に執着があるわけじゃない。だけど、この家はどうするの? ローンだってまだ残ってるんじゃないの? それに、住み慣れた町を離れたくないってお母さんが言ったから、お父さんが単身赴任することになったんじゃないの?
「いずみがこっちの高校に進学したければそれでもいいのよ。4月からこの家に戻って生活してもいいわ。あんたは自分のことは自分でできる子だからね。男の子を連れ込んだりしないって、お母さん、信じてる。でも、しばらくは、中学を卒業するまではお母さん、お父さんと一緒に東京で暮らしてね」
「啓太は中間テストの成績がひどかったわね。特に英語。いい? 中学1年の英語なんて100点を取って当たり前なの。なのに成績が悪いのは単語を覚える時間がないからじゃない? この先、英語の成績が悪いと大学どころか、高校進学だって危ういわ。あんたに今一番必要なのは英単語を覚える時間。剣道を頑張ってきたことはわかっているけど、成績がよくなるまで剣道はやめてちょうだい」
「そんな理由から家族全員で暮らすためにお父さんのところへ引っ越すことにしました。何か質問は?」
とうとうと話して満足げな表情をしているけど、あたしは納得できない。
そもそも引っ越す理由になってない。啓太にしても勉強を頑張ればいいだけのこと。
そんなことで幼い頃からの友達と離れるなんてありえない。
要は、お母さんがお父さんと一緒に暮らしたいってだけじゃないの? あたしや啓太をだしにしないでよ。
あたしは啓太のために怒りにふるえるこぶしを握りしめ、隣りで何も言い返せずにじっと耐えている啓太を見た。
お姉ちゃんは、あんたの味方だからね! 一緒に頑張るよ。
まばゆいばかりの笑顔で目をきらきらさせている愚弟がそこにいた。
あれぇ?
「ねぇ、ねぇ、お母さん、いつ行くの? 東京! やったぁ! ランド? シー? 早く行きたいなぁ」
愚弟よ。そこは東京じゃなくて千葉だ。
勉強が足りないと叱られたばかりなのに、遊べることを喜んでいるような愚か者はもうどうでもいい。考えなきゃいけないのは自分のことだ。
考えろ。考えろ。あたし。今、何をするべきか。どうするのが正解なのか。
でも、この展開って悪くはないよね。
お母さんが柿崎と会う理由がなくなるし、柿崎に新しい彼女ができてからのクラスの同情の目も正直うっとうしいと思っていた。
猿どもはどうでもいいけど、仲のいい愛宕凛美ちゃん、若葉江梨子ちゃん、小ケ口路美ちゃんはあたしがいなくなることを悲しんでくれるかな。
小学校を卒業して会わなくなった仲良しの顔が思い浮かぶ。いつか会えるかなと思っていたけど、東京へ行ったらもう二度と会えないよね。
山武太一くん。ぶーた、ぶーた、ブタなんてあだ名をつけてごめんね。
あたしは心の内だけだったけど、クラスメイトをあだ名で呼んでいたことも謝る。
愛宕凛美ちゃん、ゴリ美なんて呼んでごめんね。
若葉江梨子ちゃん、カバ江なんて呼んでごめんね。
小ケ口路美ちゃん、ケロロなんて呼んでごめんね。
あたし、今まで認識阻害の魔法にかけられていたみたい。
本当にごめん。そして、今まで仲良くしてくれてありがとう。
よし、終わり。
あたしは決断した。
今まで考えてこなかった未来図。望むことさえ許されていなかったヴィジョン。地元の高校ではなく、東京の高校に進学する選択肢。先輩のいる高校。
……でも、そんなこと、本当にいいのかな?
「あたしは……高校生になっても一人ぼっちでこの家で暮らすのはさみしいよ」
ためらいがちに声を出す。
あたしに父の東京赴任が終わるまでの留守番をさせるつもりではありませんようにと願いながら。
「お父さんの会社は3年ごとに転勤する決まりなのよ。だから、あと2年。いずみが地元の高校でなくてもいいのなら、東京の高校に通ってもいいわ。その場合は高校3年生で転校するか、東京に残るか自分で決めてね」
「お母さん、あたし、将来は東京の大学に行きたい。だから、お父さんの東京赴任が終わってもこっちへは戻ってこないつもりでいる」
……お母さん、あたしは東京の高校に行きたいんだ。
先輩のいる高校。
先輩を追いかけたい。陸上も続けたい。
あの日、立ち止まったあたしにもう一度走り出す機会を与えてください。
❏❏❏❏
そうしてあたしは母と渋谷の街を歩いている。新しい制服を買うために。
どうせあと4か月で卒業する、お金がもったいないから今までの制服で通うと言ったのだが、母がどうしてもと言うので付き合っている。
あたしとしては、卒業までの数か月間しか着ることのない制服を新調するなんて無駄としか思えないのだが。
でも、きらびやかな街並みがそんな気持ちをきれいさっぱりに吹き飛ばした。
12月のイルミネーションと薄着の男女の華やいだ振る舞いが、冷たい風に負けじと熱気を放っている。
行き交う人は皆、自由を満喫しているようだ。
小さな町と違って、周りの目など気にする必要はない。
知らない、知られていないことは、それだけで自由なのだと力づくで納得させられる。
誰もが顔を仮面で隠して人波に紛れ、自分だけの孤独を楽しんでいる。
この喧騒がすべて偽りであったとしても構わない。
家に帰れば本当の自分に会えるのだから。本当の自分は家族だけが知っていればいい。見知らぬ他人に自分を明かす必要なんてない。
ましてや望みもしないのに、自分が暴かれるなんて御免こうむりたい。
喧騒の中の平穏。
それだけで都会には価値がある。
見知らぬ誰かと競うように着飾った人達にも、夜の公園を彩るイルミネーションにも意味がある。
この高揚感、解放感のまま、誰かの視線など気にしないでまっすぐ走れそうな気がする。
このセンター街を。
人波に逆らって、人混みをすり抜けて、交差点を突き抜けて。どこまでもまっすぐに駆け抜けたい。
いや、違うな。
誰かにぶつかるかもしれない、転ぶかもしれない、ケガをするかもしれない、取り返しのつかないケガを相手に負わせるかも。
それでも駆け出したいこの思いは、駆け抜けるじゃない。そう、抜け駆けるだ。
はったりをかましても、嘘をついても、たとえ嫌われることになっても、自分を貫きたいのだ。あたしは。
だから、制服なんて関係ない。あたしがあたしでいることのできるこの都会では。
❏❏❏❏
先週、あたしは15歳になった。と同時に家族で東京に引っ越してきた。
転校先の中学校には昨日挨拶に行った。校庭は狭いけれど、踏みしめると柔らかいウレタンで全面塗装されていることには驚いた。
校舎は5階建て。使われていない教室もあった。生徒は全校で200名くらい。1学年2クラス。何もかもがコンパクトでスモールサイズだ。
でも関係ない。戻る道はないのだから。
あたしはここから始める。
何もなし得なかった陸上部の2年間の続きを。
走るのは自分のため。先輩の背中を目標に追いかけ始める。
家族4人で暮らす3LDKの社宅マンションは、前の家と比べるとかなり手狭だが、あたしにはちょうどいい。どうせ日中は学校だ。
東京はあたしの住んでいた町よりも朝日が30分も早く昇ることを知った。その分、太陽が沈むのも早いけど。
ランニングは夕方から朝に変更した。起きたら軽くつまみ食いをして近くの公園で柔軟体操から始める。
田舎と違ってトラックに見立てて走る場所などそうそうない。ちょっと遠いけど、運動公園までのジョギングが準備運動だ。
足元を確認するように、ゆっくりと踏みしめ、フォームの乱れをチェックしながら腕を振る。
帰ったらシャワーを浴びて学校に向かう。受験勉強は順調だ。先輩の進学した高校は十分合格圏内にある。
今夜も母が鼻歌まじりに料理を作っている。
あたしは食卓の上に広げた問題集を解きながら、時折その後ろ姿を眺めている。
母のその姿はかけがえのない大切なものだ。
何より母の心からの笑顔はあたしを奮い立たせてくれる。家族のぬくもりをエネルギーにしてあたしは抜け駆けよう。
秘めた希望だけを道しるべにして。
一 エピローグ 一
今年も女子駅伝の季節がきた。
僕はリビングでテレビ画面を眺めている。
彼女がたすきを受け取って走り始めた。
スタートダッシュで一人、二人と追い抜いていく。三人、四人とごぼう抜きする走りにアナウンサーが叫んでいる。僕は彼女に関心があることを妻に気づかれないよう、みかんをむきながら黙って目で追いかける。
妻と知り合ったのは9年前だ。叔父が付き合ってると勝手に妄想していた寝たきりのおばあさんの孫だった。
うちの両親と彼女の家族は、叔父の常軌を逸した行動に悩まされていた。
困り果てた父は、仕事から離れている間の叔父の行動を制限しようと、剣道部の後援会の仕事を押し付けることにした。
父は剣道部のOBで、叔父が役員になるよう後援会の幹部に根回しをしたのだ。
僕が剣道部に入ったのも叔父を後援会に入れるためだったといっていい。
妻とは、叔父の行動に悩んだ家族同士で相談した際に知り合った。
そのおばあさんも数年前に亡くなった。
葬儀場で泣き叫ぶ叔父の姿に困り果てている彼女の親族と僕の両親を尻目に、僕と彼女はお互いに忍び笑いをして見つめ合っていた。
その日までに僕達は頻繁に連絡を取り合う仲になっていた。
僕はこの町から大学に通い、親の紹介で就職して、彼女と結婚してここで暮らしている。
妻のお腹には子供もいる。
この家が売り出されていることを知ったのは2年前だ。そのときでさえ築20年を越えて、もう何年も売れずに残っていた物件だった。
破格に安い値段で手に入れることができたことを妻は素直に喜んだが、僕は妻に隠し事をしている罪悪感に胸が痛んだ。
この家は中学時代の一時期に付き合っていた女の子が暮らしていた家だ。
特別な思い入れがあった。
僕達が寝室にしている部屋でその子と一緒に勉強したこと、スカートをまくり上げて下着を見せられたことは、今でも鮮明に脳裏に焼きついている。
忘れることなんてできやしない。
ファーストキスはこの部屋だったのだ。
毎夜、この家に帰ってくるたび、あの子のことを思い出してしまう。
走る姿がとてもきれいだった。
偶然つけたテレビの女子駅伝、懐かしい名前に心が震えた。あの子がまだ陸上競技を続けていることを知って嬉しかった。
陸上競技がマスコミで取り上げられるなんてめったにない。その世界で生き残っていても彼女の名前は世間的には無名だ。同級生ですら彼女のことを覚えている者はいない。
けれど彼女は走っている。
僕は画面を通して見ているだけだけど。
僕が見ていることを彼女は知らないけれど。
彼女は走り続ける。
今までそうしてきたように。
これからもそうであるように。
走り続けている。
今、この瞬間も。
きっと明日も。
僕の知らない街で、ただ前だけを見据えて。
一 おわり 一