第18話 いずみちゃんは軍師の呪縛に足を取られた。
とんとんとんとん
朝から慌ただしい音がしている。
あたしはまだ眠り足りないというのに、世間様はせわしいことだ。時計を見ると午前5時を回ったばかり。
二度寝するには中途半端な時間だ。あたしは覚悟を決めて布団から起き出す。
苦情の一つも言っておかねばなるまい。
食卓では父がお茶を飲みながら書類をめくっていた。
そのそばで母がご飯や味噌汁を並べて朝ごはんの用意をしている。
それは、いつか見た光景。もう二度と訪れることはないと諦めてしまっていた夢のつづき。
あたしは「おはよう」と声をかけながら夢の輪に加わって、母が調理した料理を食卓に並べていく。
「あら、起きたのね。いずみはどうする?今食べちゃう?」
「うん」
「じゃ、ちょっと待っててね。お父さん、始発の新幹線で東京に戻るのよ。どうしても休めないんだって」
その言葉に眠気が吹き飛び、記憶がよみがえってきた。
❏❏❏❏
昨夜、両親は連れだって帰ってきた。
ごめんなさい、ごめんなさいと泣きじゃくる母を父が抱きかかえているのを見て、出迎えようとしていたあたしは、思わず部屋に戻ってドアをかたく閉ざしてしまった。なんとなく見てはいけないような気がしたから。
そのまま自分達の部屋へ向かう両親にかける言葉があたし達にあろうはずがない。
両親にしても子供達に声をかける余裕はないだろう。
その結果、空腹を抱えたあたしと啓太は、母が帰ってきたら一緒に食べようとしていたシチューごと虚空に放り出され、もどかしい夜を過ごすことになったのだ。
深夜、空腹に耐えきれずキッチンに行くと、食べ物を探しているモスラの幼虫に出くわした。
いや、闇の中をもそもそと動いて冷蔵庫をあさる姿はまさに深海から這い寄る大王グソクムシ。
違うな。
やつらは数年間何も食べないでも生きていけるはず。
さては、超ロングダウンコートですっぽりと全身をまとったはらぺこあおむしの啓太だね。
お姉ちゃんの目はごまかせないよ!
あたしは口の前で人差し指を立てて、静かにするように合図を送り、啓太とあたし用にグラタン皿にシチューをよそってレンジで温めなおす。
音が鳴る10秒前で取り出してトレイに乗せて啓太に渡す。スプーンと一緒にロールパンも2個付けてウインクする。
クラスのみんなには、じゃなくて、お母さんには内緒だよ。
おそらく両親は優しく触れあいながら仲直りの儀式をしている最中だ。
邪魔をしないように気配を消して啓太もあたしもその場から離れる。
❏❏❏❏
そうして迎えた朝だった。
父と母がどんな形でお互いの気持ちを納得させたのかはわからないし、打算や妥協も、心の隙間を体で埋めるすべも、今はまだ知りたくもない。
だけど、家族の一人一人があるべき場所に収まっている形には心が落ち着く。
誰かが欠けた日常に慣れることはあっても、ぽっかりと空いた空間は埋まることなくいつまでもそこにあるのだ。虚無として。
当面の危機は避けられたようだが、残り火はいつまでもくすぶり続けるだろう。
母は身を慎むだろうが、相手はどうだろうか。父だって疑惑が再燃しないとも限らない。
状況は何も変わってないのだから。
家族がそろって暮らすのが一番だが、父の単身赴任はどうすることもできない。
転職なんて簡単にできるわけがないし、そもそもこんな田舎町では仕事を探すのが難しい。
高校を卒業したら、大学に進学するにせよ、就職するにせよ、みんなこの町から離れていく。そんなことを担任の先生が言っていたことを思い出した。
両親はどうするつもりだろうか。
母の浮気を父が許したとしても、このまま離れて暮らすなんてありえない。
母がついて行くのか、父が会社に頼んでどうにかしてもらうか。
その選択はあたしと啓太の今後の生活、いや、人生に大きく関わってくることだけは容易に想像できた。
❏❏❏❏
その夜、夕飯を終えた後、母があたしの部屋に来て座りこんだ。
深刻な話は苦手なんだよなと思いながらも身構えて聞く。
「ねえ、いずみ」
「何?」
「柿崎くんとのことなんだけど……」
柿崎? お母さんのあれのこと?
あっ、あっちか。うん、あれのことだね。
「中学生らしいお付き合いはできないかな。つまりセックスなしで」
あたしは遠い目で天井の一点を見つめる。
思い出すのは、かつてあたしにアダルト作戦を授けてくれた軍師サマ。
一筆申し上げます。
秋も一段と深まり、ひだまりの恋しい季節となりました。
心の病をわずらい、休養という名でクビにした軍師サマ。
その後いかがお過ごしでしょうか。
その節は大変お世話になりました。また、貴重なご助言をいただいたことは感謝の念に堪えません。
あなたの仕掛けたアダルト作戦、今頃になってようやく、うちの母の心にも届いたようです。
このような状況になってなおあのときどうすればよかったのか、どうするべきだったのか自問自答を繰り返している有様に我ながらあきれるばかりです。
街並みも冬支度が始まる時期を迎え、寒さもますます厳しくなることでしょう。
どうか、寒風吹きすさぶ中、全裸で町を駆け回り、風邪をこじらせて地獄へ召されますことを切に願ってやみません。
かしこ。
チックショオー!
ていうか、何なの?
何が起きてるの? お母さんの言いたいことがわからないよ。セックス? 冗談じゃないよ。本当はそんな関係じゃないし。
お母さん、いくら最近仲良くしてるからって踏み込み過ぎなんじゃない?
そもそも柿崎のことは我が家ではタブーのはずでしょ?
だけど、お母さんが柿崎の父親と不倫なんかしたから付き合うのをやめたなんて言ったら傷つくよね。
どうする?
今更あれは嘘でしたなんて言えないよね。
うっそぴょーんとか。無理だよね。啓太じゃあるまいし。
ここはごまかして話を切り上げるのが一番。かるーく、軽く、やだなあ、もう別れちゃったよって。
ごほんと咳払いを一つ。
母から目をそらしてゆっくりと話を作る。
「柿崎とはもう終わったよ、お母さん」
「えっ、どうして? あんた、まさか」
「あっ、いや、うん。あたしから振った」
「そう、気づいてたのね」
「違うよ。違う。なんのこと言ってるかわからないけど、あたし、ほかに好きな人ができちゃって……」
母を傷つけまいとして、なんか変なことを口走ってしまった。
何言ってるの? あたしっ!
「柿崎くん、礼儀正しくていい子だったのに」
いやいや、違うから。
本当のあいつは痛い妄想で女性を辱める変態だから。
並の女じゃ到底たちうちできない筋金入りのプロの変態だから。それはもう、ザ・プロフェッショナルで取り上げられていいレベル。
いや、掘り下げるんだったね。密着して徹底的に。あっ、未成年だから、黒い目線は忘れずに。
「ごめん。お母さん、彼とはもう終わったことだから」
「新しい彼氏とはどうなの? その、あんたのことを大切にしてくれてるの?」
大切? まあ、エア彼氏だからね。
でも、好きな人ができたって言っただけなのに、彼氏ができたことにされてる。
大人の世界ではそれが当たり前なの? お付き合いするって、そんな簡単なことなの? 相手の気持ちだってあるでしょうに。
「だけど、柿崎くんとは同じクラスなんでしょ。気まずくないの? あんたのこと、なんか変な噂とかされてない。イジメとか大丈夫?」
うん。心配してくれているのはわかる。
でも、思うんだ。それって、お母さん、自分のことを言ってるの?
「あたしは大丈夫だけど……」
「そう。よかった。そうすると、あと心配しなきゃいけないのは、新しい彼氏と柿崎くんの関係よね。そっちはどうなの?」
はあ?
「なんでそんなの心配しなきゃいけないの?」
「だって、あんたが原因で暴力事件にでもなったら大変でしょ? それとも柿崎くんはあんたと別れたことに納得してるの?」
それはお母さんのことだよね? 大丈夫なのって、それはこっちのセリフだよ。
お母さんが柿崎の父親と別れたことはなんとなくわかる。お父さんが離婚しないと決めたことも。
そこは大人の事情でお互い無理矢理にでも納得したんじゃないの? 吐き出したい感情や語り尽くせない感情を押し殺したんじゃないの?
それにね、お母さん。
なかったことにはできないんだよ。
あたしは知ってるんだ。お母さんが柿崎の父親に会える日を楽しみにして生き生きと輝いていた日があったことを。
お父さんへの罪悪感で悩んだ日があったことを。
お父さんにばれて辛い思いをした日、どちらを選ぶのか苦悩した日、そんな黒いけど燃えるような情熱を抱えて過ごした日々を忘れていいの?
それはお母さんだけの秘密の大切な思い出だとあたしは思うんだ。
心の奥底の宝箱に隠した大切な記憶。
いつかは笑って振り返られるかもしれない。辛い夜、そっと取り出して慰めにすることもあるかもしれない。
今はやけどの痛さから目をそむけたくても、傷が癒えたときにはその甘酸っぱさをそっと愛でる日だってくるかもしれないでしょ。
だって、お母さんもあたしも啓太も、そしてお父さんだって真剣だった。
楽しいばかりが思い出じゃない。
心が揺れてばかりだったあたしだって、お父さんのために悔しく思った日、お母さんの幸せを願った日があったんだ。
そのどちらもがあたしを強くしてくれた。
そんな日々を。
「なかったことになんてできないよ」
思わずつぶやいた言葉に母が目を見開いて「でも、忘れなきゃ」とあたしをさとす。
「無理に気持ちを押し殺すことが正しいとはあたしは思わない」
「無理にでも押し殺さなきゃならないことだってあるのよ」
「だって、楽しさも辛さも苦しさもひっくるめて全部、大切な思い出なんだよ?」
「人は後ろを振り返っちゃいけないの。振り返った分だけ誰かに辛い顔をさせるってわからないの?」
「今は辛くても、いつか笑って思い出にできる日がくるって思わない?」
「まだ子供なのね。いい? そんな日は絶対にこないの」
「そんな生き方さみしいよ。あたしはいやだ」
「あんただって大人になればわかるわ」
「辛いこともあったけど、だからといって楽しかったことも忘れるなんて無理だよ」
「あんたの考えもわかるけど、ここは大人になってちょうだい」
「なかったことになんてできないよ」と最後に繰り返したあたしに母は、「そう」とつぶやいた。
❏❏❏❏❏
翌日の夕方、学校から帰ったあたしは日課のランニングを止められ、リビングで母と向き合っていた。
母の前にはお茶。これは長い話になりそうだ。なら、あたしにもお茶をプリーズ。
「お父さんとも相談したんだけどね」
あたしにお茶を用意する様子もなく、ソファの向こう側で勝手に話を進めていく。
「もうすぐ受験よね。あんたが勉強を頑張ってるのは知ってる。志望高校の判定だって悪くない。お母さんもできることなら、あんたの希望を叶えてあげたい。でもね」
ずっ、とお茶をすする母。どうやらあたしにお茶をすすめるつもりはないらしい。
それとも、自分で用意しろってことかな? あたしだって上げ膳下げ膳を期待してるわけじゃない。お茶くらい自分でいれますとも。このお話が終わったらね。
「今は大切な時期だってわかるわね。彼氏とのお付き合いは受験が終わるまでやめてちょうだい」
へっ?
「あんたは好きになったら何も見えなくなるところがあるわ」
はぁ?
「柿崎くんとの関係もそう。これはお母さんにも責任があると思ってる。あんたのことをきちんと見てあげてなかった。だから、まだ中学生なのにセックスをしてしまった。
そういうことは、もっと相手のことを知って、将来を見すえてからでも遅くない。ううん、相手に自分の将来を重ねて生きる決心ができてからしてほしかった。
いい? セックスって子供を作ることなの。興味本位でしていいことじゃない。お母さんの言ってることわかるわよね」
いいえ、全く。お母さんには言われたくないし。
「わかってくれたならいいのよ。幸い、新しい彼氏とはまだなんでしょ? 男の人はね、一度そういうことを覚えると後が大変なの。お母さん、あんたが学校に行ってる間、気が気じゃなかったわ。こうしてるときも彼氏に迫られたりしてるんじゃないかって。
柿崎くんだって安心できない。自分の女だって言いながらあんたに迫るかもしれないし、そういうことが学校や周りに知られたら、勉強を頑張って合格しても高校が入学を許してくれないかもしれない。お母さんはそれを心配してるのよ」
ずずっ。
あたしもお茶がほしい。母が見当違いなことを言い出した理由を探すが思い当たることがない。急になんでこんなことを言い出したのだろうか。
「そうそう、あなたが柿崎くんとセックスしたことはお父さんには言ってないわよ。心配のあまり柿崎くんの家に怒鳴り込むなんて嫌でしょ?」
嫌なのはお母さんじゃないのという言葉を飲み込む。
お父さんにはその資格がある。同じく柿崎のお母さんにも。
だけど、その場合、傷つくのは子供達、事情を知らない啓太と柿崎だ。
その上にあたしの狂言が加わるなんて、どんな地獄絵図だよ。
お父さん、離婚を通り越して寝込んじゃうかも。
「それもこれもあんたのためなのよ」
出ました。大人が子供を丸め込もうとするときに使う言葉の第一位。
「お母さんだって本当はこんなこと言いたくないのよ。でも、あんたと昨日話したとき、新しい彼氏とお付き合いしながら、柿崎くんとも友達でいたいって……」
えっ?
「柿崎くんとのこと、大切な思い出だって、楽しかったことを忘れるなんて無理だって、なかったことにはできないって、そんなことを言うから……」
あれっ? お母さんのことだよね。お母さんの気持ちを大事にしてほしいって、あたし、言ったんだよね。それがなんで?
「だから、お父さんと相談して決めたことがあるの」
ごくりとのどが鳴る。
「詳しくは夕飯の後でね」
まるで、CMでも始まるかのような幕引きであたしは母から解放された。
そうして、夕飯の後、母はあたしと啓太を前に宣言した。
「みんなには、今からちょっと、転校をしてもらいます」
……バトル・ロワイアルかよっ!