第17話 いずみちゃんは小春日和にまどろんだ。
「柿崎さんとは本当に何もないのよ」
そう何度も弁明する母に、父は「信用できない」と拒絶する。
さっきからその繰り返しだ。父は証拠をつかんでないし、母にとっては悪魔の証明だ。
だけど、あたしは知っている。
母があたしに一緒にアフターピルを飲もうと言ったこと。
それはまぎれもなく不倫の証拠だ。たとえ娘の妊娠を心配する気持ちから出た言葉だとしても。
「あなたが最初から夫ですって名乗ってればこんな誤解なんて起きなかったのに」
「どうだかな。偽名を使って柿崎に近づいたから、真相にたどり着くことができたんじゃないのか」
「だから、何度も言ってるじゃない。変な人がわたしに馴れ馴れしい態度で近づいてきたから、柿崎さんが寄せつけないようにしてくれたんだって」
「その変な人は俺だけどな。そもそも柿崎と君が何もないのなら、でしゃばる必要がどこにある?」
「でしゃばるとかじゃなくて、ああいう居酒屋で、変な人にからまれたら、知り合いなら普通かばおうとするでしょ」
「違うな。柿崎が割り込んできたのは、君と俺が顔見知りだってわかってからだ。俺の女に手を出すなとでも言いたげな態度だったぞ。あれは」
「あなたが大島ですって名乗って、さとみ、久しぶりだな、今夜は旦那はいないのか? 一人寝は寂しいだろ? 俺が温めてやろうか、なんて下品なことを言ったからでしょ。
あんなこと人前で言われたら、誰だって知り合いが侮辱されたと思って頭にくるわよ。わたしだってこの人は夫ですなんて言えなくなっちゃったじゃない。
その上、あなた、大島って偽名で後援会の人と顔見知りになって居酒屋のあちこちで挨拶して回ってたらしいわね。
夫だってことがばれたら、あなただけじゃなく、わたしも変な目で見られるから何も言わなかったけど、こんなことになるのなら正体をばらして恥をかかせればよかったわよ」
「おかげで、思っていた以上に君と柿崎の情報が集まったから、俺としては偽名を使った狙いが当たったよ。君には悪いけど」
「あんな酔っぱらいの情報なんてあてにならないわよ。いいかげんな人達ばかりなんだから」
「だから柿崎を挑発したんじゃないか。君が余計な口をはさまなければ、浮気相手が得意満面で君との関係を自白してたはずなんだ」
「自白じゃないわよ。ただの売り言葉に買い言葉! もうっ! 全部誤解なのに。あなたが夫だって知らないから、柿崎さん、ますますあなたと張り合って……」
「あのまま柿崎が張り合ってくれていたら、柿崎の口から俺の女だって言葉が出たかもしれないのにな」
「仮にそんなことを言ったとしても、嘘に決まってるじゃない。あなたがわたしと体の関係があるような言い方をするから、柿崎さんが失礼だって怒って」
「あれは惜しかったな。もう少しで柿崎が君とラブホテルに行ったと言い出しそうだったのに。残念だ」
「何が、残念よっ! 柿崎さんは、単身赴任しているあなたのかわりにわたしを守ろうとしてくれただけなのよっ! 変な人からねっ!」
「じゃあ、後援会の連中が言ってたことはどうなんだ。君と柿崎が付き合ってるのは後援会の誰もが知ってる有名な話らしいぞ」
「それは、多分、連絡会の前日に二人で打ち合わせをしてるのを見られたから。……それで誤解されたのよ」
「寿司屋とか、和食レストラン、ステーキハウスに焼肉屋、そしてワインバー。ずいぶんとにぎやかな場所で楽しく打ち合わせをしていたようだな。後援会の連中、目撃情報を面白いように教えてくれたよ。その中に君と柿崎がラブホテルから出てくるのを見たって言う人がいた」
「そんなの嘘よ」
「だけど、毎週会ってたことは認めるんだろ? なら、ラブホテルの件だってあながちでたらめでもないんじゃないか」
「狭い町なんだからラブホテルの前を通ることだってあるわよ」
「二人並んで? ないだろ」
「だったら、絶対に見間違いよ。そんなことはしてないんだから」
「だとしても、打ち合わせはこれからもするんだろ? 不倫してるって噂されてるのにな。それほど柿崎とのデートは楽しかったのか?」
「デートじゃないわ。あなたの気にさわるのならもう会わない」
「君も柿崎も後援会の役員をしてるから、会わずに済ますなんてできないよ。隠れて会っていても俺にはわからないし。だけど、噂の真偽はともかく、君と柿崎が噂になっているのはまぎれもない事実だ。俺からすれば、それだけで腹立たしい。だけど君が離婚しないというなら仕方がない。当面は現状維持だ。離婚する気になってくれるまで待つよ」
「そんなこと言わないでよ」
「君にとっても悪くない提案だろ? 夫公認の愛人だ。これからは後援会を隠れ蓑にしないで堂々と会えばいい。誰かに何か言われたら、夫とは離婚を前提に別居してます、柿崎さんと付き合ってることも知ってますって言えばいいんだから」
あたしは少しだけドアを開けて顔を覗かせた。母はこんなところを子供に見られたくないだろうが、あたし達にも関係することだ。子供達がいることも意識してほしい。
「お母さん、お腹が空いたよぉ」
2階から空気を読まない声がした。
「ごめんなさい。今作るから」
母がキッチンに向かった。父も黙り込む。
啓太が声をかけたのをきっかけに、両親の口論は終わった。その夜、両親の間でどんな話し合いがあったのかはわからない。
けれど、深夜、両親の部屋から廊下に漏れてくる女の押し殺したような、すすり泣きにも聞こえるあえぎ声に、男と女のどうしようもないサガを見たような気がした。
翌日の土曜日、休日が始まったばかりだというのに、朝食を済ませた父は赴任先へと帰っていった。
母は父をいつまでも目で追いかけていたが、父が母と目を合わせることはついになく、そして、夏休みの間に父が帰ってくることは一度もなかった。
❏❏❏❏
新学期になった。
あたしと柿崎の関係はきれいさっぱりなかったことになっている。
柿崎があたしを見ることはないし、あたしが話しかけることもない。二人の間には何もなかったかのように日常は過ぎていく。
この夏休みの間、あたしは受験勉強に専念したが、柿崎はどうだったのだろうか。噂では浴衣姿の女子と夏祭りに一緒にいたのを見た人がいるらしい。
わざわざ教えてくれたクラスメイトには悪いが、始まらなかった恋に拘泥するつもりはない。
あたしの心は平然とその事実を受け止めている。
傷ついてはいないようだ。痛みを感じないのは麻痺しているからだろうか。まさか、死んでしまったからではないと思いたい。
夏期講習に通っていた頃、志望高校のオープンキャンパスに一緒に行こうと柿崎に約束させられたが、結局、あたしは一人で行った。柿崎とは違う高校に進学したいと思うようになっていたから、約束を守らないことに抵抗はなかった。志望高校の文化祭にも一人で行くことになるだろう。
あたしの生活はすっかり元通りだ。
学校から帰ったらランニング。シャワーを浴びて夕飯を食べたら勉強して眠る。それだけのシンプルな生活。
誰かとカラオケに行くこともなく、学校帰りにマックに寄ることもなく、そしてその誰かに心が揺れることもなく。
母の様子は更に変わった。
8月以降は家に閉じこもることが多くなった。
剣道部の後援会をだしに出かけることがなくなったのは7月と同じだったが、家事への意欲は取り戻したらしい。
友人と長電話する姿を見ることはなくなった。柿崎の父親との噂が人間関係にも影響を与えているのかもしれない。
もっとも、学校であたしがそんな噂を耳にしたことはないのだが。
時間があると、あたしや啓太に学校での様子を詳しく聞いてくる。帰ってこない父の分まで親の務めを果たそうとするかのように。
啓太は煩わしそうにしているが、あたしはそれが母の支えになっているのなら、娘として応えたいと思う。
❏❏❏❏
10月、進路希望調査票を学校に提出した。
進学について相談することで母との会話が増えた。かつての対立するような感情はもう消え失せている。料理を教えてほしいと素直に言えた。やっと正常な母と娘に戻れたような気がする。
あたしも母もこの半年の間に感情を大きく揺さぶられる経験をしたのだ。
大切なものを手にした。そう思った。
だけど、それは手にしてはいけないものだった。
今でも手の平には大きなやけどの痕が残っている。取り返しのつかない過ちとして深く刻みこまれている。
二人でそのことを話したり、聞いたりすることはこれから先もないだろう。
母は人目を忍ぶ恋に終わりを告げたことを隠しているし、あたしは恋愛ごっこの果てに大切な友人を失ったことを隠している。
けれど、お互いの傷に触れない思いやりを感じることがあるのだ。
そう、たとえば、母娘で買い物に行った帰りに寄ったカフェで他愛のないおしゃべりをしたとき、キッチンで並んで一緒に料理を作っているとき、雨の日曜日の昼下りに窓から外を眺める二人きりのコーヒータイムのときに。
こんなふうに傷を舐めあうような、ぬるま湯でまどろむような関係も悪くないと思うようになった。
なんと言ってもあたしはこの母親の娘なのだから。
こんなふうに甘える季節があったっていいじゃないか。
❏❏❏❏
啓太は新人戦のレギュラーには選ばれなかった。
公式戦の選手は1年生のときに新人戦で活躍した選手で占められている。新人戦でレギュラーに選ばれなかったということは、この先、公式戦に出る機会がないことを意味する。
ただでさえ上級生のほうが体格に恵まれているのだ。公式戦に3年生以外が出場することすら稀で、新人戦のレギュラーに選ばれた選手でさえ、3年生になるまで公式戦に出られないのもめずらしいことではないそうだ。
それでも、いつかは公式戦に出ることを夢見て竹刀を振り続けられる新人戦のレギュラーはまだいい。
選ばれなかった1年生に突きつけられた現実は、これからの2年間の部活動を、レギュラーの練習相手を務めるために過ごさなければならないということ。
強豪校であり続けようとするなら、それも大切な存在だということを部員達はわかっている。夏の合宿で先輩達の姿を見て学んできたのだから。
そんな境遇に置かれた啓太が剣道への情熱を失ったとしても責めることはできない。
まだ中学1年生なのだ。理屈ではわかっていても、噛ませ犬のような待遇に、やるせない気持ちが先に立ってもしかたのないことだと思う。それでも健気に部活に出ている。
存在を否定された辛さなど少しも見せないで。
❏❏❏❏
父は10月になっても帰ってこなかった。
けれど二度と会えないという不安はない。
『父さんはお前達の父親だ。それはこれからも変わりはない。お前達に余計な負担をかけない。たまには帰ってくる』
父はそう言ったのだから。それに会いたければ東京に行けばいい。父はきっと喜んで迎えてくれるだろう。
父も母もそれぞれの場所でしっかりと生きている。あたしはその後ろ姿を見ながら自分のいる場所で頑張ればいい。一日一日を大切にして。前だけを見て。
❏❏❏❏
そんな日常に変化が訪れたのは11月に入ってすぐのことだった。
その日は朝から冷たい風が吹いていた。
制服だけではむきだしの脚に痛みを強いる寒さに、大急ぎでクローゼットから引っ張り出したコートで身を包んで学校に向かう。
啓太が白い吐息を両手に吹きかけながら隣を歩いている。その吐息を楽しんでいるようなほほえましい姿を見ていて気がついた。
並んで歩く啓太の肩があたしと同じ高さになっている。
いつまでもあたしの背中を追いかけてくる小さな弟ではないのだ。変な歌もしばらく聞いていない。もうすぐあたしの背を追い越していくのだろう。
高さで、速さで、強さで、軽々と。
夕方のランニングでは、自分より背の高い影と一緒に走るようになっている。冷たい風が頬に刺さるのを感じながら。
陸上部はこの季節はトラックのランを午後4時で終了している。
太陽が沈む時間が早くなっただけじゃない。漆黒のマントを広げるように、夕闇が驚くような速さで広がって街を包みこむのだ。
これからは闇が支配する時間とばかりに、隠れていた眷族達が明かりをぽつりぽつりと灯して、闇の世界の訪れに呼応する。昼の住人よ、とく立ち去れと。
すっかり日が暮れた中、あたしがランニングから戻ると、母が外出する準備をしていた。
クリスマスの星を型どった夜空をイメージした毛糸のワンピースを着ている。お化粧をして着飾った母を見るのは久しぶりだ。
一瞬、不安が胸をよぎる。
「いずみ、今日、お父さんが帰ってくるのよ。お母さん、迎えに行ってくるから、夕飯お願いできるかな」
こんなに浮かれた母を見るのはいつ以来だろうか。
その華やいだ姿にあたしもつられて微笑んでしまう。父の思惑はいまだ知れないというのに。
世の中がそうそううまくいかないことはわかっている。
それでも、母の喜ぶ姿に水を差したくない。幻想が打ち砕かれる未来を予想して、あたしは今夜の献立をクリームシチューと決めた。
父に拒絶され、肩を落として帰る母をキッチンに立たせるわけにはいかない。
はずんだ気持ちで出かける母を「行ってらっしゃい」と見送ると、さっそく料理に取りかかる。
鍋に水を入れて火をつけた。ピーラーで皮むきしたメークインとにんじんを乱切りにし、串切りにした玉ねぎと一緒にレンジで加熱する。ぶつ切りの鶏肉に塩胡椒で下味をつけてフライパンで炒める。レンジがチンと鳴ってあたしを呼ぶ。フライパンの鶏肉を鍋に放り込み、メークインとにんじんをレンジから冷凍庫に移す。玉ねぎは鶏肉の油がついたままのフライパンに入れて炒める。焦げつかないように弱火にしてヘラでゆっくりとかきまぜる。
ことことと鍋蓋が踊って沸騰したことをあたしに知らせてくる。
弱火にしてアクを取り除いた後、冷凍庫から取り出したにんじんを浮かんだ鶏肉の間に沈めていく。続いて飴色になった玉ねぎをフライパンからヘラでこそいで鍋に落としていく。蓋をして再び弱火で煮込む。
まな板、包丁、ピーラー、フライパンを手早く洗ってキッチンペーパーでふいてかたづけ、野菜くずをごみ箱に移す。
もう一度アクを取り、火を止めてクリームシチューのルウを入れてヘラでゆっくりとかき回す。ルウが溶けきってとろみが出るのを待ち、仕上げにミルクを入れて弱火でなじませる。ふつふつと泡立ってきたらコンロからおろして冷凍庫のメークインを入れて自然に味がしみこむのを待つ。
母が帰ってきたら温め直して完成だ。
あたしが作ったクリームシチューで打ちのめされた母の体をほっこり温めたい。辛い気持ちをゆっくり、くつくつと優しく溶かしてあげられるといいな。