第16話 いずみちゃんは楽園に背を向けた。
一人暮らしにも慣れた4日目。
塾から帰ると、玄関の鍵があいていた。
かけ忘れたのかな、泥棒に入られてたらどうしようと悔やみながらドアを開けると、母の靴が並んでいるのが見えた。
言いようのないうれしさが込み上げてくる。胸が締め付けられる感情に急き立てられ、靴を脱ぎ捨ててリビングへ向かう。
母が振り向いて弱々しく笑った。
「ひどいじゃない」
母の顔を見た途端、非難する言葉が口をついて出た。
本当は、おかえりなさい、お疲れ様、お父さんの様子はどうだったと言うつもりだったのに。
「ごめんね、いずみ」
あたしは唇を噛みしめる。
あたしと母はいつもかみ合わない。あたしが欲しいのは謝罪じゃない。一人で留守を守ったことへの正当な評価とねぎらいなのだ。
特にこの数日間は、母がお金をおいていかなかったせいで大変な思いをした。
結局、あたしの窮地に現金書留を速達で送ってくれたのは父だったし、お昼と夕方の食事をごちそうしてくれたのは柿崎だった。
だけど、二日もあればひもじい女子中学生を飼いならすには十分だ。
あたしはお金が届いた後も柿崎の純粋な好意に自分の都合で背を向けることはできなくなっていた。
そんな行き詰まった状況においてさえ、心のどこかからささやく声が聞こえていた。
柿崎の家庭が壊れたときにお前に向けられる視線は怖くないのかと。
あたしは柿崎を利用している。
母と柿崎の父親の関係を知っているのに、黙ったままご飯にありついた。
それは柿崎の信頼を裏切る行為だ。好意を利用するさもしい生き方だ。
間違っているとわかっていても、やましい気持ちとは裏腹に、あたしは柿崎のお弁当を堪能した。
歪んだ微笑みを浮かべながら。
心の底で柿崎を裏切っていることを恥じながらもお弁当に舌鼓を打ち、その充足感を、深い味わいを裏切りの味として覚えてしまった。
その原因を作ったのはこの母だ。
「おかえり」
一度飲み込んだ言葉を絞り出しながら考える。
母も父を裏切ることに慣れてしまったのだろうか。
裏切りを隠して微笑むことに罪悪感を感じることはないのだろうか。その笑顔の裏側には、大切な人を平気で裏切るよこしまな心を隠し持っているのだろうか。
あたしがそうなってしまったように。
あたしにはもう母の顔を真っ直ぐに見ていることができない。
自分のやましさが鏡として目の前に立っているのだ。これ以上母と一緒にいると、あたしの心のいやらしさを母のせいにして棘のある言葉で責めてしまいそうだ。
あたしは踵を返してリビングを出た。母が呼びかける声は無視した。
❏❏❏❏
あたしは母の同類だった。
そうあるまいと願ってきたけれど、こんなにも簡単に人を裏切ることができる人間だった。なにより自分自身を裏切っている。
それなのに、こうやってへらへら笑っていられる。気持ちがどんよりと落ち込んでいく。
それでも、多分あたしは明日も柿崎と一緒にお弁当を食べる。
拒絶するにはもう遅い。柿崎の優しさにつけ込んだあたしの卑しい行動はなかったことにはできない。
いつの日か、あたしにふさわしい罰を受けるまで、こびを売り、しなを作って誰にでも迎合する自分の無様をさらし続けるのだ。
朝、柿崎が迎えに来ると笑顔で出迎える。
玄関でバッグを預かり、靴をそろえてリビングに通し、かいがいしくコーヒーを淹れてあたしの準備を待ってもらう。
一緒に塾に向かい、着くと柿崎の隣の席に座って講習を受け、休憩時間も一緒に過ごす。
講習が終われば一緒に出口に向かう。柿崎がマックに寄ろうと言ったらそれに従う。
いつも柿崎の右隣か後ろを歩いた。
キスを求められたり、馴れ馴れしく体を触られることはなかったが、もし求められたなら拒める自信はない。
全裸に浴衣は今はまだ無理だけど、想像するだけでぞくぞくするくらいには柿崎に染められている。
詰まるところ、あたしは柿崎の彼女を演じているのだ。柿崎の理想を思い描いて、気に入られるように振る舞っている。
そこに愛とか恋がないとしても。
だから、翌日、柿崎が家に迎えに来たときも笑顔で招き入れた。
柿崎は母がいることに驚いていたが今更だ。この際だから自分の家庭にひびを入れる原因となる女の顔をよく見て覚えておけばいい。
恨むべき相手、憎むべき相手を正しく認識できるように。
そんな意地悪い考えから二人をリビングに残して、あたしは出かける準備をする。
あたしが準備を終えてリビングにもどったときは、すっかり打ち解けて、柿崎はコーヒーのおかわりを片手に担任の先生に似せた口調でものまね芸を披露していた。
母は口元を押さえて笑ってるが、そうしていられるのも今のうちだ。
いずれこいつの糾弾に心を痛める日がくる。
あたしは柿崎に声をかけて、一緒に家を出た。母の目にどう映ろうと構わない。お金がなかったせいで柿崎にしつけられた娘の情けない姿をその目に焼きつければいい。
そう覚悟したはずなのに、母からあたしの体中に向けられた視線は痛かった。
❏❏❏❏
7月27日金曜日、夏期講習の最終日。
あたしは塾からの帰りに柿崎とマックに寄った。もちろん柿崎のおごりで。
「何でこんなことになったんだろうな」
柿崎はコーラを飲みほした後、しんみりと話し始めた。
「俺はお前と友達になりたいと思ったって、前に言ったよな。俺にとってお前は特別な存在で、お前にとって俺がそうでありたいって。覚えてるか?」
「覚えてる。それであんたが色々考えてくれて、あたしを助けようとしてくれた」
「結果は空振り、お前の捨身は不発だったがな」
「それでも助けようとしてくれたことには感謝してるよ」
「だけど、その結果が今の状況だ。これは俺が望んでいた関係じゃない」
あたしは何も言わない。言えるわけがない。
「なぁ、何でだと思う?」
ご飯に釣られてあんたに気に入られようとしたって言うだけで済むのなら話は簡単だ。
笑い話にして、それまでのいきさつを蹴飛ばして、新しい関係を築けるのかもしれない。
そうであったらどんなにか良かっただろう。
だけど、それだけじゃない。
あたし達はそれぞれ加害者の子供で、被害者の子供だ。あたし達の関係は始まる前に終わってしまった。
あたしはそのことを知っているのに、柿崎はそうと知らずにあたしとの関係を作ろうとした。
お互いにイーブンな関係でいたいならあたしは柿崎に告げるべきだった。
そうしなかったのは、完成することのない砂の城を柿崎が作ろうとしているのをただ傍観していたのと同じことだ。
あたしは卑怯だ。
柿崎に辛い現実に知らせないほうがいいと自分勝手に判断し、結果、いいとこ取りをしようとした。
その事実を伝えることができない、柿崎を苦しめたくないという思いは、そのまま、あたしが嫌われたくない身勝手にすり替わる。
柿崎に許しを乞うことさえあたしの自己満足に過ぎない。
多分、正解は、あのとき、夏期講習の始まりの日、柿崎を拒絶することだった。
たとえ空腹を抱えていても、二、三日食べないからといって死にやしないよ、ほら蛇口をひねれば水が出る、この国では水はただで飲めるからね、いい国に生まれてよかったと強がりを言うべきだった。
だから素直な思いだけを伝えたい。
柿崎が明日も笑っていられるように。そうであってほしいから。
「あれからあたしも少しは大人になったんだと思う」
紙コップに残ったウーロン茶をストローで吸い上げてからゆっくりと言葉をつむいでいく。自分に言い聞かせるように。
「ままごとのような恋愛ごっこだったけど、あたしにとってあんたは初めて打ち解けた男友達。恋人とかまだよくわからなくて、距離感がつかめなかったけど。
それでも二人で過ごした時間を思い出すと胸があったかくなる。なかったことになんてしたくない。あたしにとって大切な思い出。
あんたがあたしのことを特別な存在だと言ってくれたこと忘れない。あたしの特別になりたいと言ってくれたこと絶対に忘れない。あんたには色んなあたしを見てもらったこと、一生忘れない。
全部あたしの宝物だ」
紙コップを両手で抱えた。大切な思い出はここにもある。
口を湿らせたかったが、ストローを口にしようとしてやめた。ウーロン茶が残っていないことを思い出したから。
唇は乾いているが、ふたを取って氷をかじるなんてことは恥ずかしくてできない。
「あたし達はまだ幼かったんだ。愛とか恋とか、今もよくわからないけど、もっとわかっていなかった。だから素直なあたしをあんたにぶつけた。そのまま認めてもらいたかったんだ。でも」
鼻がつんとする。涙をこらえようと息を整える。
あたしにとって居心地のいい場所、大切にしたい関係がなくなるのは辛い。
それはただの打算ではなく、朝、おはようと言い、夕方、さよならと言いあえる日々がこれからも続いていくのだろうと信じさせてくれる暖かな繋がりだった。
やっと整った呼吸を頼りにあたしは言葉を結ぶ。
「女の人は誰かに好意を持ってもらいたくてお化粧をするでしょう? 男の人が身だしなみを整えるのもそうでしょう? それが特定の誰かのためじゃなかったとしても。
今のあたしは、あんたに好意を持ってもらいたかった。あんたの好意に応えたかった。これが愛や恋じゃないとしても」
柿崎は長い間黙っていた。
あたしと柿崎の関係はこれで本当に終わる。
それでいいのだと思う。母が柿崎の父親と不倫関係にあった以上、あたしと柿崎の関係に未来はないのだから。
「そうか」
柿崎の声が遠くから聞こえてくるようだった。
あたしと柿崎はそれきり言葉をかわすことなく、迫りくる夕焼けに誘われるように店を出た。
まだ夏の盛りを迎えていないとはいえ、もう7時なのに、夕暮れというにはほど遠い。
あちらこちらに灯り始めた街路灯はオレンジ色に照らされる風景の中で滲んで見えている。
湿った風がゆっくりとあたしと柿崎の間を吹き抜ける。東の空からだんだんと群青に染まっていくのを見上げながら柿崎が言った。
「明日も晴れるといいな」
「そうだね」
それがあたし達がかわした最後の言葉となった。
❏❏❏❏
沈んだ気持ちのまま家にたどり着くと、暗いリビングに明かりをつけてソファに体を放り出した。
明日は晴れてほしい。
せめてそのくらいは柿崎の願いが叶いますように。もうあたしにできることは何もないから。
柿崎の優しさが少しでも報われますように。
ふと、家に誰もいないことに気づいた。
母はまだ帰ってきていないようだ。夕飯の作りおきはない。置き手紙も。
あたしはマックで食べたからいいけど、お母さん、わかってるの? 今日は剣道部の合宿の最終日、啓太が帰ってくるのよ。まさかあたしに作れってことじゃないよね?
「お腹と背中がくっつくぞぉ。なんちゃってぇ、くっつくわけないじゃあん。ばかじゃあん。うそぴょおん。うそぴょおん。うさぎがぁ、おいしいぞぉ。食べないけどぉ。グルメだしぃ」
妙な歌は合宿の成果なのだろうか。
柿崎が聞いたら、うさぎのジビエ料理についてこんこんと説明されそうな歌とともに啓太が帰ってきた。
相当にお腹が空いていることはわかるが、お腹と同様に頭も空っぽのようだ。
こうやって合宿で大量発生した空っぽザムライが解き放たれたことで、今頃はどこのご家庭も大変な思いをしていることだろう。
「お腹すいたよぉう、おう、おう、お母さぁん、あん、あん」
どうやら頭を散々打たれたらしい。
言いたいことはわかるが、会話が成立する気がしない。ここはあれだな。必殺の見なかったふりで、潜伏スキルを発動。
「いずみちゃあん、何か作ってぇ」
あたしはソファに寝転んで息を殺していたのだが、スキル認識力上昇だか、スキル嗅覚上昇だかを使った空っぽザムライに見つかってしまった。
「いずみちゃん、聞いてる? お腹すいたよぉ」
明かりをつけたままだった。スキルなんか使わなくても見つけられて当然だ。
「お母さんが帰ってくるまで待てない?」
「お母さん、帰ってきてるの?」
「あんた、お母さんが帰ってるかわからないのに、お母さんのこと呼んでたの?」
「?」
ちょっと何言ってるかわからないとでも言いたげにあたしを見ているが、あたし、間違ってないよね?
「だめだぁ。無理ぃ、死ぬぅ。腹が減って力が出ないぃぃ……パンケーキ、パンケーキが食べたぁい。いずみちゃんは腹が減ってないのぉ?」
「マックで食べてきた」
「うっそぉ?ずるぅい。いいなぁ。僕も食べたいよぉ。パンケーキ、プァン、クェー! キィイ!」
「パンケーキなんて食べてないよ。てりやきバーガー」
「てりやきぃ? ポテトは? ポ、ティ、トゥは?」
覚えたての発音で誇張しているのは、こいつがあたしの話を聞いていない証拠だ。話がかみあってないし、正直うっとうしい。
あんたは男子の間でノリがいいつもりでいるかもしれないけど、クラスでは確実に浮いてるからね。特に女子から向けられる視線には殺意がこもっているから。
すきを見せたら階段から突き落とされるレベルだよ。机やくつ箱、かばんの中にラブレターが入っていたら間違いなくあんたを地獄へ突き落とすための罠。
指定された待ち合わせ場所には、あんたをあざ笑うことを楽しみにしたクラスのみんなが待ってるから。
だからここはお姉ちゃんが人生の厳しさを教えてあげることにしましょう。
「待ってな。今、野菜だけ炒めを作ってあげるから」
「やったあ、って、野菜だけ?」
「うん。肉を切ると包丁とまな板が汚れるからね」
「お肉、食べたぁい」
「しかもだ。キャベツの芯とかにんじんのへたとか、ピーマンの種付きとか、玉ねぎの一番外側の茶色くなった皮とか、野菜を隅から隅まで余すところなく使うから。野菜くずを出さないエコ料理だから」
「その野菜くずは丸ごと僕の口に入るんだよね?」
「野菜くずって誰が決めたの? 食べられないところじゃないんだよ。それをくずってひどくない?」
「野菜くずって言ったのはいずみちゃんだよね」
「だから出ないようにした。出なければくずじゃないから」
「もういいよ、何でも。食べられれば」
ふうん。まだ頼る気満々なんだ。なら、しょうがない。
「冷蔵庫にキムチがあったね。あれも入れようか」
「やだよぉ。それ野菜炒めじゃないじゃん」
「大丈夫。キムチ炒飯ってあるじゃない。似てるし」
「似てないよぉ」
「隠し味にカレー粉も入れてみようか」
「お願いだよぉ。普通の味にしてよぉ」
「わかってないね。あたしはお母さんじゃないから、あんたのオーダーなんて受けつけない。あたしの、あたしによる、あたしのための野菜だけ炒め、キムチ味カレー風を作るんだ。嫌なら自分で作ったらどう?」
「いずみちゃんも食べるの?」
「何言ってるの? あたしはマックで食べてきたんだよ。あんたが食べたいって言うから作るのに」
「それは実験っていうんじゃない? お願いだよぉ。料理を作ってよぉ」
「それは無理。あんた、食べ散らかすだけで片付けもしないじゃない。そんなやつに……」
「今無理って……」
「大騒ぎだな。どうした?」
二人で言い争っているところに父が帰ってきた。1か月ぶりの帰宅だ。胸に熱い気持ちがこみ上げてきてつぶやいた。
「お父さん」
「おお、ただいま。ご飯、まだなんだろ? 母さんは遅くなるから父さんが何か作ろうか?」
「やったぁ!」
挨拶もしないまま啓太が歓声を上げる。
でも、今の事情を知っているあたしは複雑だ。この状況は本当に大丈夫なの?
「お父さん、お母さんがどこにいるか知ってるの?」
「ああ、さっきまで一緒だった」
不安がよぎり、つい責めるような口ぶりになる。
「どうして一緒に帰ってこなかったの?」
「さあ、母さんには別に用事があるんじゃないのか」
大丈夫じゃなかった。あたしは何も知らないふりをしてたずねる。
「お母さんと喧嘩してるの?」
「いずみと啓太には心配かけるな。父さんと母さんのことで二人の生活にも支障が出てるんだろ?
ただ、家族の問題とはいえ、夫婦のことは父さんと母さんで決めたい。お互いの人生にとってどうするのが一番いいのか、どうしたらみんなが幸せになれるのか。
それに、お前達のことも考えなきゃいけないけど、母さんの人生も一度きりのものだ。
お前達だっていつかは父さん、母さんから独立して自分の家庭をもつようになる。その前に、大学に進学して一人暮らしするのかもな。
だから、母さんにとって、父さんにとって何が大切なのか、これからどう生きていくのが一番いいか、じっくりと考えることが今は必要なんだ。
その結果、家族が今のままでいることはできないかもしれない。でも父さんはお前達の父親だし、母さんがお前達の母親であることはこれからも変わりはない。
だから、親として、これからの生活、特に高校や大学への進学についてお前達に余計な負担をかけないようにするつもりだ。
その上で、父さんと母さんの関係を見直したいんだ。わかってくれるかな?」
「お父さんはもう帰ってこないの?」
「たまには会えるよ。お前達に会うために帰ってくる。それか、父さんに会いに東京に来るか?」
父が弱々しく笑った。
「お父さん、お腹すいたぁ」
こんなときでさえ、啓太は空気を読むことができない。
けれど、不思議と腹は立たなかった。父の揺るぎない決意に、それどころではなかったから。
あたしも啓太も大きな嵐に巻き込まれている。
啓太がそれに気づかなかったとしたら、それはそれで幸せなことなのかもしれない。どうせ、なるようにしかならない。
「啓太、まだ制服のままじゃないか。いずみも外出着だな。二人とも着替えておいで。父さんが何か作っておくから」
「お父さん、料理できるの?」
啓太が目を輝かせている。
「うーん、凝ったものは作れないぞ。とりあえず、冷蔵庫の中を見てからだな」
「野菜炒めがいいな。キャベツの芯みたいな野菜くずが入ってないやつ」
「何だ? それ。普通は入ってないぞ」
「あと、キムチやカレーも入れないで」
「それは……料理、なのか? だとしたらかなりレベルが高いな。母さんはそういうのをお前達に食べさせていたのか?」
「ううん。今、いずみちゃんが作ろうとしてた」
「いずみ?」
あたしが啓太を教育しようとしていたのを、父がとがめるような目で見ている。
その後ろからを舌を出し、目を見開いて笑いながら挑発している啓太が憎たらしい。
父さえいなければ。今、ここに父さえいなければ……。わなわなと足が震える。
結局、あたしの陸上で鍛えた蹴り技とひじ打ちをその空きっ腹に食らわしてやることもできないまま、啓太は自分の部屋へ逃げていった。
あたしはマックで夕飯を済ませたことを告げて自分の部屋に着替えに行く。
父ともっと話がしたかった。落ち着いた状況で父がどうしたいのかを聞きたかった。
あたしが部屋着に着替えていると、玄関から母の声がした。
母のリビングに飛び込む勢いに、あたしは部屋から出られなくなってしまった。
ドアを半開きにしてリビングの様子をうかがう。
「柿崎はどうしたんだ?」
父の突き放すような冷たい声が聞こえた。
「柿崎さんはあなたのことを疑ってたわ。夫だって言わないから」
「疑うって、何を?」
「わたしにつきまとうストーカーじゃないかって心配してくれてるのよ」
どういうこと? 意味がわからない。……お父さん、一体何をしているの?