第15話 いずみちゃんは恥辱の溝に沈黙した。
辛い夜が明けた。
7月19日木曜日。一学期は明日で終了する。今日は午前授業だ。
柿崎が何か言いたそうにあたしのほうを見ていたが無視した。
母の不倫相手が柿崎の父親だとわかった以上、近づいてはいけないと心が警報を鳴らしている。
こんなことにこいつを巻き込んではいけない。中学生には重すぎる現実だ。
母と柿崎の父親の関係はいずれこいつの知るところとなるだろう。でもそれはずっと先のほうがいい。
できれば何も知らないままでいてほしい。
教室には7月の暑い日ざしが差し込んでいる。
朝から冷房が入っているとさっき担任の先生が言っていたのに、冷気を全く感じない。こんなことなら窓を開け放したほうがよほど涼しいに決まっている。
けれど、冷房を入れた建前からか、窓を閉め切ったまま汗だくの生徒を引き連れて授業は進んでいく。
だけど、あたしの額に浮かぶこの汗は暑さのせいだけじゃない。
この教室にはあたしの母のせいで家庭がおかしくなる被害者がいる。
その緊張感に心が堪えられないのだ。この汗は体を冷やそうと流れたのではない。罪の意識から吹き出した恥辱のたまり水なのだと、揺るぎない現実があたしに告げている。
柿崎はあたしが下校するまで目で追いかけてきた。
それを無視し続けるのは辛かった。柿崎が悪いわけではないのだから。
だけど、あたしに何ができる? せめて離れていくことで、柿崎が寄せてくれた好意に誠意で返したい。
柿崎と過ごしたあの頃が遥か昔のようだ。
教室のわずか数メートルの距離が越えられない溝のように感じる。
柿崎との関係は、本当に、何も始まることのないまま完全に終わってしまったことをあたしは頭の芯から理解した。
❏❏❏❏
学校から帰ると、母が落ち着かない様子でリビングのソファに座っていた。
誰かとの電話を切ったばかりなのか、電話を待っているのか、テーブルの上のスマホをそわそわと見ている。
母が夜外出することはなくなったが、昼に会っている疑いがぬぐいきれない。
助手席に乗った母の笑顔が目に浮かぶ。
あたしと啓太は今まで昼間は学校に行っていた。それが明後日からの夏休みで一日中家にいることになる。
もっとも、あたしは塾の夏期講習、啓太は剣道部の合宿で家にいない時間も多いのだが、母としては、夏休みが始まる前に、離婚するかどうかも含めて、柿崎の父親に会っておきたいのだろう。
テーブルの上のスマホは、母と柿崎の父親を赤い糸でつないでいるように見えた。
あたしは母に何も告げずに自分の部屋に入った。
お腹は空いているけど、今の母と顔を合わせるのはごめんだ。男からの電話を心待ちにしている母の顔なんて見たくない。
かばんを放り投げてベッドに横になる。
スカートにしわがつくのが気になったが、一学期は明日で終わる。どうせクリーニングに出すなら着替えるのも億劫だ。
見上げた白い天井がまぶしくて両手で顔を覆った。
閉じた目から涙があふれてきた。今はこの部屋があたしを現実から守る壁になってくれている。ここだけがあたしの居場所だ。
ただいまと啓太が帰ってきた声がした。母がおかえりなさいと返している。お腹すいたでしょうと優しく。
けれど、あたしの部屋に声がかけられることはなかった。
❏❏❏❏
終業式の日を迎えた。
通知書をもらい、教室の掃除をして帰り支度を始める。
柿崎が何か言いたげに近づいてくるのに気づくたびに身をかわして近くの人に話しかける。
この際選り好みはしていられない。ゴリでも、カバでも侵略者でもかまわない。
あたしには柿崎と向き合う勇気がない。逃げの一手しか道はないのだ。
猿との会話も甘受する。
ズボンに付いたアクセントの染みやシャツの胸元を彩るケチャップは、見ようによってはダメージおしゃれの上級者。
てかてかと輝く洗髪していない脂ぎった髪は、些細なことにはこだわらないゆとりの自然体。
なだらかなカーブはおしゃれじゃないとあえて噛んでギザギザにした爪。
今朝ひとっ走りしてきてシャワーの時間がなかったんだと言い訳しそうな汗の異臭を漂わせるスポーツマン。
笑った口元は、今朝のご飯だろうか、海苔を貼り付けたタトゥシールで鼻ピアスなど古いとあざける。
なんとなく臭う口から放たれた言葉は意味不明。
やはり猿だった。
つばを飛ばしながら、身振り手振りで自分の失敗を自慢げに伝えようとする。オレは危ない奴なんだぜ。地元じゃ負け知らず。悪そなヤツはだいたい友達。仲良くヤローぜ。
……こいつの半生、一体何があった?
悪いのは友達じゃなく、生活態度とアタマだと思うが、猿ども、通知書を見せ合って自分のほうがいかに成績が悪いのかを競い始めた。
挙げ句、机の中からくしゃくしゃになったテストを取り出して低い点数を争う始末。
そして突然ほうきを持って歌い始めた猿。
木の棒を見ると握るのは猿の習性。あちらこちらでチャンバラごっこが始まり、出遅れた猿は木の棒を振り回す猿にぞうきんを投げつける。それを打ち返したら、今度はぞうきんの奪い合いだ。ぞうきんを勝ち取った猿が投げつけ、木の棒を振り回す猿が空振りする。やんややんやとはやしたてる猿。
机は倒されてバリケードと化し、並べてあった椅子はあちらこちらに散らばり転がされている。
掃除したばかりの教室が戦場と化した。
専守防衛を国是とする平和国家に育ったあたしとしては戦場から撤退するのみ。
かばんを抱えて教室を出る。最後にちらりと振り向いたら、猿に混じって柿崎も木の棒を振り回していた。
女子達が呼んだのか、騒ぎを聞きつけたのか、担任の先生が廊下を走ってくるのが見えた。
巻き添えをきらったあたしは背を向けて反対の階段に向かう。
教室のほうからこの世のものとは思えない怒号がした。ような気がした。
異世界の最強生物の咆哮を背中で聞き流してあたしは学校を後にする。
柿崎があたしに話しかけようとした理由が気になるが、もしそれが柿崎の父親の浮気に関することだとしたら、聞くのは堪えられそうにない。
柿崎にとってあたしは家族を壊す女の娘だ。あたしが悩んでいたことを知っていても、苦情の一つくらい言いたい気持ちは理解できる。
柿崎のことはきらいじゃない。
少なくとも猿どもと一緒にいても区別して認識できるし、清潔感という点では唯一の人類とさえいえる。
野性の中にその身を置いても、同化することなく、人類の文化史をひとり体現するロビンソン・クルーソー。
もしくはジャングルの王者ターザン。いや、属性を考えると、ターちゃんか? うん、ジャングルの王者ターちゃん柿崎。ふふっ。
柿崎への意識を横道にそらしながらほくほくと家に帰ると、食卓で母の置き手紙が待っていた。
嫌な予感がして頭が凍りつく。とうとう男の元へ走ったのか?
手紙には、たった一言。
『お父さんのところに行く。あとはお願い』
はっ?
体が固まる。二度、三度とくり返して読む。あまりに短い文章に状況が飲み込めない。
お願いって、誰に? まさか啓太のはずはないだろうから、あたし? あたしなんだろうなぁ。
薄々思ってはいたが、母は考えの浅い、けれど思い切りのいい女なのだ。今更驚くようなことじゃないと自分に言い聞かせる。
でも、こんなときに? 東京での修羅場が目に浮かぶ。
離婚はしないと言っていた母だったが、考えが変わった、事情が変わったということもありうる。
離婚するとなったら親権者、養育費、財産分与、慰謝料と話し合うことは盛りだくさんだ。しばらくは戻ってこないだろう。
思い立ったらすぐ行動に移す母にあきれてしまう。あたしは本当にあの母の娘なんだろうか? こんなことはできないよ。あたしには。
ショーツの件?
はぁ? 何のこと? 変なこと言うと通報しますよ。
長い夏休みが始まろうとしている。
両親の決断であたしと啓太の生活は一変する。
あたしと啓太が全く知らないところで、ともに生活する親、暮らす場所、生活費が、つまり子供達のこれからの生活や人生に関わるすべてが決められるのだ。
心には夏の空と同じように入道雲がふつふつと湧き上がっている。
けれど、浮き立つような、心が弾むはずの夏の日々が訪れることは期待できない。来るのは夏につきものの台風。
そう、あたしと啓太を巻き込んですべてが嵐の中、暴風雨で真っ黒に染まろうとしていた。
❏❏❏❏
夏休みの初日から剣道部の夏合宿が始まる。
啓太はあたしの作った朝食を食べると着替えを持って一週間の合宿に出かけていった。
あたしはしばらくの間、一人で暮らすことになる。状況を考えると、母がいつ帰ってくるのか全く見当がつかない。
それならお金くらい置いて行ってよっ!
あたしは冷蔵庫を確認する。
母がいつ帰るかわからない以上、食料は節約しなければならない。
こんなことなら柿崎に料理の一つでも習っておくんだった。……違う。母に習っておくんだったと言うべきだった。間違えた。
でも、まあ、いい。
どうせこの一週間、弟は帰ってこない。
母が帰ってくるまでパンと米さえあれば何とかなる。……って、ないじゃん、米。パンもさっき食べたのが最後なの? ひどいよ。
あとはお願いって書いてあったけど、どうすればいいの? 何もないじゃん、食べるもの。
お小遣いはいくら残ってる?
財布には千円札が1枚。そしてコインが数枚。
あんなショーツ、買わなきゃよかったよぉ。しかも3枚もっ!
バカじゃないのぉっ!
途方に暮れるあたしの目の前で時間は非情に流れていく。あたしが明日の生活にどんなに困っていようと。
つまり、時計は夏期講習に出かける時間を指しているのだ。
あたしは手提げバッグに勉強道具を詰め込みながら考える。
明日からの、いや、たちまち今夜からの食事をどうしよう。
とりあえず、お昼は抜くとして。
生活への不安が歩みに伝わる。
重い足取りで一歩一歩前へ進む。塾までの道のりがいつもより遠く感じる。ただ歩くだけなのに、もうへこたれてしまいそうだ。
だけど、うつむいて立ち止まることだけはあたしの中のアスリートの矜持が許さない。
前のめりに体重を乗せて、徐々に速く足を動かそうと試みる。
朝だというのに、夏の日差しはまぶしく、照りつけた路面に濃い影を映している。
あたしの影は死人のようだ。生きている気配が感じられない。ただのろのろと這いつくばっているように見える。実際、そうなのかもしれないが。
「よぉ」
誰かが声をかけてきた。いや、誰かではない。あたしはこの声を知っている。
「奇遇だな。俺もここで夏期講習なんだ」
後ろから軽やかに追いついてきたのは柿崎だった。
「何か用?」
あたしはきちんと喋れているだろうか。
冷たく、素っ気なく。そんな他人行儀な声音を出せているだろうか。
「この間から何か変だぞ。俺、なんかしたか?」
「あんたには関係ない」
「そうか。……せっかく弁当作ってきたんだが。しょうがないな。川瀬にでも食べさせてやるか」
お腹がぐぅと鳴った。
こんなときなのに、あたしの体はあたしを裏切る。しかも、こんな最悪に恥ずかしい形で。
……今朝の分は食べたじゃない。
確かにロールパンにハム、レタスを1枚はさんだもの1個きりだったけど。
足りない分はコーヒーでお腹を膨らませたのに。
こいつの前でかっこつけることもできないなんて。せめてこんなときくらい我慢してよぉ! それともこいつの顔を見ると条件反射でお腹が空くようになっちゃったの?
自分の体なのに思い通りにならないことがもどかしい。
しずまれ! あたしのお腹っ! あたしの中の獣が暴れだすぅ。
ぐぅ~とお腹が返事をした。頬が火照る。
「嘘だよ。昼になったら一緒に食べよう。それとも今食べるか?」
あたしが恥ずかしさからうつむいて何も言えないことをいいことに、弁当を一緒に食べることを一方的に告げて柿崎は前を歩いていく。あたしはその後ろに続く。
まるで柿崎の彼女のように。
……違うな。秘書とか、召使いとか。あるいは親に付き従う子供のように。もしかすると、しっぽを振って付いていく小犬のように。
でも、柿崎、あたしはあんたの母親の敵の娘だよ。
あんたが知らないだけで。
その後ろめたさからあんたと距離を置こうとしたんだけど、結局、あたしはあんたの好意を利用しようとしている。まるで父を裏切ったまま結婚生活を守ろうとする母のように、あたしはあんたを裏切るんだ。ご飯のために。
そんなすさんだ気持ちでいたけれど、柿崎が作ってきたお弁当の味は涙が出るほど心に染みた。
お金の無心を電話ですればいいことに気づいたのは、お弁当をきれいに平らげ、柿崎がおごってくれた缶茶を飲みほした後のことだった。